「南京大虐殺」の実相1――蒋介石の始めた第二次上海事変が南京事件を生んだ?

2010年11月13日 (土)

南京大虐殺論争は、今日まで「虐殺派」「中間派」「まぼろし派」が相拮抗して論争を続けてきました。しかし、この間の議論を通じて、この事件の実相を見極めるための一次資料もほぼ出尽くし、主要な論点も整理されてきましたので、そろそろ、その実態について、日本人の共通認識をもつことが出来るようになったのではないかと思います。

 一次資料としては、次のようなものが挙げられます。
1,南京国際委員会がまとめた『南京安全地帯の記録』
2,『南京事件の日々』ヴォートリン
3,『南京の真実』ラーベ
4,『南京事件資料集1アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会
5,『南京事件資料集2中国関係資料編』第一編、第二編 南京事件調査研究会
6,『日中戦争史資料9』(「戦争とは何か」(ティンパーリ)、「南京地区における戦争被害」(スマイス)含む)
7,南京戦史
8,南京戦史資料集1
9,南京戦史資料集2
10,各地区「連隊史」他

 以上の一次資料に記された南京事件に関する個別データは、日本南京学会の冨沢繁信氏によってデーターベース化され、事件の種類や様相ごとに分類・集計・分析がなされていますので、それによって事件の全体像をつかむことが出来ます。もちろん、一次資料本文や他の資料を参考にすることで、個々のデータの意味を、読み取っていくことが必要です。

 以下、これらの虚実入り交じった南京大虐殺事件関係資料の中から、南京事件の核となる事実関係を取り出し、出来るだけ簡潔にその実相を描出して見たいと思います。あわせて、これらの事件がなぜ起こったかについても、考えて見たいと思います。

◎ 南京事件を引き起こした上海事変はどのようにして起こったか。

*以下の文章は、健介さんとの対話で紹介したものですが、南京事件を考える上での最重要ポイントですので再掲させていただきます。なお、これは『ケンブリッジ(ハーバード大学)中華民国史』ロイド・イーストマン著(アメリカ学会の中華民国近代史研究の第一人者)からの引用で、『新・南京大虐殺のまぼろし』の著者鈴木明氏が、現在中国でも市販されている図書として紹介しているものです。鈴木氏自身による要約文です。) 

「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。

 南京にいた国民党戦略家から見ると、上海派中国軍にとって後方からの補給が容易であり、攻撃を受けた日本軍は華北のほかに、上海にも兵を割かなければならない。そしてもし上海を堅守出来れば、1932年のときのように、中国民衆の世論は政府に有利に働くであろう。

 その上、上海での作戦は外国人居留区と目と鼻のところで行われるので、このことは西側勢力の関心と同情を呼ぶことが出来るし、ことによればその介入もあり得るかも知れない。

 現在でも一部の国民党よりの学者たちは、この時蒋介石が行った大きなギャンブルは””空間を時間にかえた」大きな勝利であったと思っているが、実際にその作りだした結果は、最初に蒋介石が予想した最悪の状況よりも、遙かに悲惨な結果であった――」

 なお、蒋介石は、「上海を中日の戦いの主戦場」とするにあたって、昭和9年頃より軍の近代化(兵員の訓練・装備の近代化)と、上海・南京間の陣地構築を急ピッチで進めていました。これを指導していたのがドイツ軍事顧問団で、この関係は、日本がドイツと日独防共協定を締結した1936年11月25日以降も2年間にわたって続きました。(『日中戦争はドイツが仕組んだ』阿羅健一参照)

 つまり、日本軍は、上海事変においては、ドイツ軍事顧問団の指導によって上海周辺のクリーク地帯に幾重にも張り回らされたトーチカ群に拠り、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けた中国軍と戦っていたのです。ただし、この時点は、中国が1936年に着手した、ドイツ式の近代装備を持つ60個師団を編成する三ヵ年計画の途上にあり、蒋介石は対日戦がいずれ不可避だとしても、もう少し先に延ばしたいと判断していました。(『南京事件』秦郁彦P58)

 この第二次上海事変に投入された兵力は、日本側は海軍陸戦隊約4,500名(増派後の数字)、8月23日呉淞(ウースン)および川沙口に上陸した第三師団(名古屋)、第十一師団(四国善通寺)、さらに、9月22日から10月1日にかけて上海に上陸した第九(金沢)、第十三(仙台)、第百一師団(東京)、野戦重砲兵第五旅団など(ただし、第十三、第百一の両師団は予後備兵からなる特設師団)で、総兵力は19万に達していました。9月19日からは、渡洋爆撃に続き上海の陸上航空基地(公大飛行場)からの南京爆撃が開始されました。

 一方、中国軍は、まず(8月13日以降)、訓練された蒋介石の親衛部隊である三十六師、八十八師、八十七師の三つの部隊約3万が、上海の日本海軍陸戦隊に攻撃をかけました。しかし攻め落とすことができないまま、8月23日には日本の増援軍が上海に上陸、そこで、蒋介石は直系軍の指揮下に第一五、第八集団軍などを次々に投入し、この頃の総兵力は30万(『南京事件』秦郁彦)に達しました。

 中国軍の総兵力は、上海戦末期には最大八十三ヶ師60万(wiki)に達しました。しかし、ドイツより購入した近接戦闘兵器における火力は日本軍をしのぐものがあったものの、日本軍の持つ戦車、飛行機、軍艦などの近代兵器に乏しく、上海戦における戦死傷者は日本軍約4万1千より遙かに多い15~20万(wiki)に達しました。

 その後、日本軍は、上海への兵力増強を拒む石原莞爾少将を9月27日に更迭。代わった下村定少将は、第十軍〈(第六(熊本)、第十八(特設、北部九州)、第百十四師団(特設、宇都宮)、国崎支隊(福山、久留米)〉総兵力約6万(?)を編成し、11月5日杭州湾に上陸させました。また、重藤支隊を台湾から、第十六師団(京都)を北支から抽出して11月13日白茆江に上陸させ、第十軍の作戦に策応させました。日本軍の最終兵力は約25万(wiki)に達しました。

 それに先だって、上海方面の戦局は急速に動き始めていました。10月26日、大場鎮が落ちると中国軍の防衛体制は崩れ落ち、さらに中国軍統帥部は、第十軍の杭州湾上陸・北上を知ると、側背から包囲されるのを恐れて西方への全面退却を下令しました。すでに浮き足立っていた中国軍は、上海西方地区での包囲殲滅はなんとか免れましたが、組織的な防御態勢をとる暇なく敗走を重ねることとなり、日本軍の南京追撃を招くこととなりました。