昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(10)

2011年5月21日 (土)

 そろそろ、まとめたいと思います。

 前回は、近衛の時局に対する見方が、満州事変勃発の頃より急速に森恪らの主張に近づいて行き、西園寺を始めとする重臣等との意見に疎隔を生じるようになったことを述べました。こうした近衛の意識の変化は、実は、国民の意識の変化とパラレルの関係にあって、なぜ、あれだけ政党政治や議会政治を擁護した近衛が、満州事変以降、軍を支持するに至ったのかを理解すれば、それは同時に、当時の国民の思想を理解することにもなるのです。

 私は、前回「もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思う」ということを述べました。

 このことは、アメリカの排日移民法の成立を見ても判ることで――これを契機に日本人の反米感情が高まり、ひいてはワシントン体制そのものがアメリカの対日封じ込め政策であるかのように理解されるようになった――こうした「持てる国」=英米の横暴に対抗するという意味からも、資源を「持てる国」ではあるが、近代化に遅れたために「奪われる国」になった中国と連携する必要があったのです。

 いうまでもなく、日本はアジアにおいて唯一の近代化に成功した国です。そのためのノウハウも持っている。当然、中国の近代化を支援することもできたわけですし、もし、両国間に平等・互恵の関係を構築できれば、日本が抱える人口問題や資源問題や商品市場の問題も解決できたはずです。

 おそらく、幣原外交のポイントはここに置かれていたと思います。よく、幣原外交の失敗例として、1025年の支那の特別関税会議で列国の協調を破って支那の関税自主権を承認したこととか、1927年の南京事件や漢口事件に際して、英国等との共同出兵に応じなかったことなどが指摘されます。これは幣原が、対支協調外交の方により傾斜していた事を示すもので、国際協調外交や対支不干渉外交という言葉より、幣原外交の本質を表していると思います。

 特に、後者の事件(昭和2年の南京事件)を始末する際に幣原がとった処置について述べると、英米などが蒋介石に対し、最後通牒を突きつけ軍事行動を起こすべく日本に共同行動を求めたのに対し、幣原は、彼らに対して次のように反論し日本の立場を述べています。

 「これに對してあなた方の本国政府がどういう態度をとるか、私はそれに干渉するわけではありませんが、日本政府に関する限り、その態度をハッキリあなた方に諒解して貰いたいのです。この最後通牒を、蒋介石はどうするか。方法は二つしかない。承諾するか、拒絶するかである。もし最後通牒を鵜呑みにして承諾するとすれば、彼は中国民衆から腰抜けだ国辱的な譲歩をしたといって攻撃される。蒋介石の立場は当時まだ国内で安定していないから、若い連中から一斉に攻撃されるようになると、蒋介石自身の政権が潰れるかも知れない。

 蒋介石の政権が潰れたら、どういう結果になるかといえば、国内は混乱に陥る。それでもあなた方には大したことではあるまい。それは多くの居留民がいるわけじゃないから、逃げれば逃げられるだらう。しかし日本は十数万もの居留民がいるから、これを全部早く安全の場所に移すわけには行かない。直ぐに出兵するとしても多少暇がかかる。そのうちには多くの者が恐らく危害略奪を免れまい。これに反して、蒋介石が列国の最後通帳を断乎拒絶したとしたとしたらどうなるか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する外に方法はないであらう。がこれは大いに考えなければならん。

 どこの国でも、人間と同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だとその一つを叩き潰せば、それで全国は麻痺状態に陥るものです。・・・しかし支那という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰してもほかの心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって、、支那を武力で征服するという手段を取るとすると、いつになったら目的を達するか、予測し得られない。またそういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、支那に大きな利害間係を持つている日本としては、そんな冒険的な事に加はり度くない。

 だから日本は、この最後通牒の連名には加わりません。これは私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からも夫々本国政府へお伝えを願いたいのであります。」(『外交五十年』)

 なんだか、日中戦争の結末を予言しているかのような言葉ですが、結果的には、日本が参加を拒否したことによって、この最後通牒の話は立ち消えとなりました。しかし、その後、支那側の攻撃が英国に向けられるようになると、欧米各国は漢口、九江、天津などの租界を返還するなど対支融和策に転じました。ところが、こうした列強間の足並みの乱れに支那側が乗じ各個撃破戦術を採るようになると、在支英米人がさかんに幣原外交を列強の対支協調を破壊したものとして非難するようになりました。それが国内にも伝えられて、幣原外交を打倒すべしとの声がにわかに高まることになるのです。

 その急先鋒に立ったのが政友会の森恪であったことはいうまでもありませんが、幣原がこの問題について全く無策であったかというとそうではなく、蒋介石に対して次のような忠告を行ったと彼自身は言っています。

 「私は蒋介石に対して人を介して・・・早く列国と相談して、思い切って損害の賠償すべきものは賠償し、謝罪すべきものは謝罪して紛争の原因を一掃してはいかかであろうかとといわせた。私の趣旨がのみ込めたものと見えて蒋介石はその通りにやった。」(上掲書)

 もちろん、この事件の背後には国民党内部の共産主義分子がいて、漢口のボロジンの指示によって、蒋介石を窮地に陥れるため故意に外国人を襲撃したのでした。幣原はこのことを知っていて、あえて蒋介石に列強の攻撃が向かわないようにしたのです。蒋介石もこうした共産党の意図を察し、上海では先手を打って、一斉蜂起を計画していた共産党を弾圧して上海が共産党の手に落ちることを阻止し、さらに南京の第六軍を粛清して、南京事件等の関係者を死刑に処し、当該国への賠償も行いました。

 その後、蒋介石は、幣原が「無数の心臓を持っている」と形容した中国の混乱した政情を全国統一に持って行くべく「北伐」を開始しました。これに対して、居留民の現地保護を名目に、その統一事業を阻止するかのような行動に出たのが、何度も申しますが、政友会田中内閣における森恪でした。おそらく、それは当初は、倒閣のための党略に過ぎなかったのかもしれません。しかし、その時、彼と連携した青年将校等は、幣原外交に対して、ワシントン会議で軍縮を推し進めた元凶として、激しい敵意を抱いていたのです。

 この両者の、いわば「私的な思惑」が重なり、それが山東出兵という、中国における日本人居留民の保護あるいは権益擁護のための出兵となり、それが済南事件を経て、日本は、そのためには、中国の統一を妨害する事も辞さない国だと見なされるようになったのです。さらに張作霖爆殺事件を経て、日本軍の暴力体質・隠蔽体質が明らかとなり、張学良は易幟を行って国民党に合流、全満州に青天白日旗が翻ることになりました。その結果、、国民党の外交部長王正廷による革命外交が、満州においても推進されるようになったのです。

 こうなると、今度は、こうした国民党による国際法を無視した国権回復運動が、日本のナショナリズムを刺激するようになる。満蒙における日本の特殊権益は、日露戦争における日本軍将兵10万の血の犠牲によって贖われたものだ。にもかかわらず中国は、満蒙における日本の条約上の合法的権益さえ踏みにじって、日本を満蒙から追い出そうとしている。

 そもそも、匪賊の跳梁する地であった満蒙を、今日の如く、3,000万人口が安心して暮らせる土地に変えたのは誰だ。日本人ではないか。その日本は、移民問題や食糧問題、さらには世界恐慌下で進行しつつある欧米各国による経済のブロック化によって、資源の調達や商品の販路を閉ざされようとしている。故に、満蒙は日本にとって「生命線」であり、その権益を放棄するわけにはいかない。

 これは、日本という国が生存していくための当然の権利=国益である。これを、中国の不当な侵害から守るのは当然であり、必要なら武力行使も辞すべきでない、といった考え方です。そして、近衛自身も、こうした考え方をとるようになった。同様に、大多数の国民も近衛と同じような思考経過を経て、満州事変を熱狂的に支持するようになったのです。

 では、こうした考え方はどこで間違ったのか。

 順を追って言えば、まず第一に、南京事件をめぐる政友会の森恪を中心とする幣原外交攻撃のやり方が、全く事実に基づかない政略的プロパガンダであり、そのため、幣原外交に対する国民の信頼が大きく損なわれた、ということ。それと同時に、日本人の支那人に対する警戒心と敵愾心が一気に高まった。

 第二に、山東出兵それに引き続く済南事件(これも意図的な誇大報道によって点火された)によって、支那人の、日本に対するイメージが決定的に悪化した。日本は、その領土的野心を満足させるためには、中国の政治的統一を武力で阻害し、必要とあらば一国の元首を爆殺することも平気でやる国だと。

 第三に、張作霖爆殺事件の処理において、日本政府が事件をもみ消し、その首謀者を軽微な行政処分で済ませたことは、国内政治における法的秩序が決定的に損うことになった。また、こうした処置は、満州の継承者である張学良に消しがたい屈辱感と恨みを残すこととなり、彼をして排日運動へと駆り立てることになった。

 こうして、日本人と中国人の間に、ほとんど修復不可能な、恐るべき認識ギャップが生じることになったのです。これを運命と考えるか、それとも、外交的失敗によってもたらされたものと考えるか。私は、後者の視点を重視しているわけですが、とりわけ、その中でも、日本外交において、対支協調外交を重視した幣原外交が、なぜ当時の日本人に「忌避」されるようになったか、ということに関心を寄せているのです。

 繰り返しになりますが、日本にとっては、昭和初期の国内及び国際社会における困難な経済環境の中で、その生存を確保していくためには、中国との連携協力は不可欠でした。それは、日本についてだけ言えることではなく、中国にとって歓迎すべき事だった。にもかかわらず、なぜ、上述したような、ほとんど回復不能な仇敵関係に陥ってしまったのか、ということです。

 そこで、私が、この問題を解くための一つのモデルと考えたのが、近衛の思想、その「持てる国、持たざる国」論なのです。近衛はこの論理によって、森恪を時代の先覚者として称揚し、満州事変を引き起こした軍の行動を支持し、政党政治の堕落を悲憤慷慨しテロに走った青年将校等に同情を寄せました。そして国民もまた、こうした近衛の考え方を熱狂的に支持しました。

 では、この近衛の「持てる国、持たざる国」論の特徴は何でしょうか。その第一の特徴は、その思想の根底に、国際社会秩序形成における一種の道徳主義的人道主義と平等主義があるということです。第二に、ここから、こうした道徳主義的理念が未成熟の段階にある国際社会においては、「持たざる国」が「持てる国」に挑戦するのは当然、とする考え方が生まれた。第三に、こうした考え方は国内政治にも反映し、動機が純粋であれば何をしても許される、といった法的秩序を軽視する考え方につながった、ということです。

 この近衛の論理は、もともとは、第一次大戦後にできた国際連盟を批判する論理として考案されたものですが、では、この論理は中国に対してどのように適用されたか。中国は確かに資源的には「持てる国」である。しかし、近代化に立ち後れたために、「持てる国」ではあるが「奪われる国」になってしまった。一方、日本は「持たざる国」であるが近代化に成功し「奪う国」となった。それ故に、中国にとっては最も警戒すべき国になった、ということです。

 つまり、ここにおいて、近衛の「持てる国、持たざる国」論は、「持たざる国」であると同時に「奪う国」となった日本が、「持てる国」ではあるが「奪われる国」に止まっている中国から「奪う」ことを、正当化する論理になっているのです。確かにこの論理は、「持てる国」であると同時に「奪う国」である英米に対しては一定の説得力を持ちます。しかし、中国に対しては、それは帝国主義的論理として機能することになる。

 ここに、日本人が日中戦争に対して持ったイメージと、対米英戦争に対して持ったイメージが決定的に異なることになった根本原因があります。もちろん日本国民は、この近衛の思想を日本の伝統思想にそって理解しました。つまり、近衛の思想の根底にあった道徳主義的人道主義・平等主義思想を、日本の伝統思想である家族主義的国家観に基づく一君万民・平等思想として理解したのです。

 というより、こうした近衛の思想こそ、日本の伝統思想を無意識的に反映するものであったと言うべきかも知れません。従って、先に指摘したような近衛の思想の欠陥は、そのまま日本の伝統思想の欠陥であった、ということもできます。何よりもそれは家族主義的国家観に基づくものであり、それを国内政治だけでなく国際社会にも拡大したところに、国内における法秩序の破壊に止まらず、国際社会の法秩序をも破壊することになってしまった、ということです。

 もちろん、近衛は、政党政治や議会政治を否定したわけではなく、また、統帥権を盾に取って独断専行的行動を繰り返す軍を支持したわけでもありません。しかし、軍がそうした行動を取るに至った動機には理解を示していました。つまり、政治がそうした時代の変化を先取りし先手を打たない限り、彼らがそうした行動に出るのはやむを得ないと考えたのです。このため、近衛が首相になってまず第一にしようとしたことは、三月事件以降、二・二六事件に至までの政治犯を恩赦することでした。

 「我が国軍内部におけるかくの如き対立相克と、非合法手段による国家改造の思想とを解消せしむる(ためには)・・・他なし、内乱及び叛乱の罪につき大赦を奏請し、これら犯罪に関する一切の責任を赦免して、彼らをして天恩の真に広大なるに感激せしむるとともに、過去を凡て水に流して恩讐を忘れしめ、以て相克の原因を除去すること是なり。しかして為政者たる者は、一面において彼らの志を汲み、今後益々鋭意して庶政の刷新と国威の宣揚とに向かって邁進するを要す。」

 ここには、法治主義による秩序の回復ではなく、極めて日本的な温情主義的問題解決法が説かれています。実は、近衛の思想は、京大在学中にオスカー・ワイルドの「社会主義の下における人間の魂」を訳したように、社会主義的人道主義・平等主義から出発しています。ところが、こうした彼の人道主義・平等主義は、次第に日本民族の伝統精神に基礎を置くようになりました。このことは、昭和7年に長男の文隆を米国留学させる時、平泉潔を招いて日本精神を講義させたことにも現れています。

 こうして、西洋の社会主義思想から、日本民族の伝統精神である一君万民平等思想に基礎を置くようになった近衛の思想から、満州事変を見るとどうなるか。

 「今や欧米の輿論は、世界平和の名に於て、日本の満蒙に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振り翳し、或は不戦条約を楯として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさえある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは日本に非ずして寧ろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。」

 日本は真の世界平和を希望するが、経済交通の自由と移民の自由の二大原則が、到底近い将来に実現され得ないので、「止むを得ず今日を生きんがための唯一の途として、満蒙への進展を選んだのである。欧米の識者は宜しく反省一番して、日本が生きんがために選んだこの行動を、徒らに非難攻撃するを止め、彼等自身こそ正義人道の立場に立帰って、真の世界平和を実現すべき方策を、速かに講ずべきである」(「世界の現状を改造せよ」昭和8年2月)

 ここでは、先に述べたような、「持たざる国」である日本が、「持てる国」である中国から「奪う」、という行為について、それを、今日の世界では、経済交通の自由と移民の自由という二大原則が損なわれていることを理由に正当化しています。しかし、この二大原則を損なっているのは欧米各国であって、中国の場合は先ほど述べたように、「持てる国」ではあるが「奪われる国」であって、日本としては、その中国の近代化を助けて、「奪われない国」にすべきだった。そうすれば、相互に互助互恵の関係が構築できて、経済交通の自由や移民の自由を確保することもできたはずでした。

 それをできなくした責任は、もちろん、当時の中国の、行き過ぎた革命外交の推進にも一半の責任はあります。しかし、そもそも、そうした革命外交を満州の地に引き入れたのは、幣原外交を虚偽のプロパガンダで放逐し、日支間の外交関係を修復不能な仇敵関係に変えた、政友会田中内閣の対支積極外交の失敗にあったのです。ところが近衛の論理からは、この責任を追及する視点が全く欠けている。これはまたどうしたことでしょうか。

 端的に言えば、ここでは中国は、主権国家として扱われておらず、ただ「奪われる」だけの「持てる国」として扱われているということです。つまり、この近衛の論理は、植民地主義を正当化するための論理になっており、中国の主権国家としての地位を踏みにじるものになっている。それゆえに、田中内閣時代の対支積極外交の失敗ということも、全く問題とされていないのです。

 こうした近衛の論理は、軍にとっては大変都合がよかった。ここでは、田中内閣時代以降の軍の独断行動やテロ行為、さらにはクーデター計画さえ責任を問われることはない。それだけでなく、その後の類似の軍の行動も是認されることになるのですから・・・。といっても、近衛は議会政治や政党政治を否定したわけではなく、先に紹介した恩赦を実施することによって、それまでに蓄積されてきた国内政治や軍内における対立相克を解消できる、それによって政治のリーダーシップを回復できると考えていたのです。

 一説では、こうした近衛の恩赦についての考え方は、二・二六事件を契機に軍内で主導権を握るに至った統制派に対して、皇道派の復活を図ったものだ、ともいわれます。事実、統制派はこのことを警戒してこの恩赦に強硬に反対しました。また、西園寺を始めとする重臣たちは、こうした措置は、国内の法秩序を崩壊させるものだとして、こちらも強硬に反対しました。西園寺は「そんなことをしたら、憲法も要らなければ,国家の秩序も社会の規律も何もなくなってしまう」といっています。

 これに対して近衛は、「社会悪というものがある。資本家の弊悪、権力者の弊害など。それに対して二・二六や五・一五のようなことが起こる。犯人は国家や社会のためを思う純な気持ちなので,社会悪を除こうとの考えからだ。だから、陛下としても大局からご覧になって,公平にその動機を汲んでやるだけの心持がないと、公正が保たれぬ」というようことを言っています。極めて伝統的というか、山本七平が言うところの、日本人特有の「情況倫理」そのものの考え方ですね。

 この「状況倫理」というのは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方です。この考え方の問題点は、そうした社会の「情況の創出には自分もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠落している」ことであり、これは自己の意思の否定であり、従って自己の行為への責任の否定になる、ということです。(『空気の研究』p121)

 といっても、こうした「日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範といえども、その視点に固定倫理がなければ,規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に,情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。・・・そして、それを権威としそれに従うことを,一つの規範とせざるを得ない。」(前掲書p136)

 こうして、象徴的権威を持つ一君を中心とする世界ができあがるのです。しかし、この世界は情況倫理を当然とする社会なので、その批判を避けるためには、この一君のもとに万民が平等に扱われる社会の形成へと向かわざるを得ない。これが社会主義乃至共産主義の社会イメージと親和性を持つのは当然です。ただし、この思想は天皇制とは相容れないから日本では受け入れられず、こうして多くの知識人が、社会主義的平等主義から天皇中心の一君万民平等主義へと転向していったのです。

 実は、近衛も、その転向者の一人だったのですね。ところが、彼は首相になった。他の知識人と同じように評論家の位置に止まっていれば責任を問われることはないが、首相は国政を動かさなければならない。そうなると、どうしてもこの情況倫理の世界では、自分が一君にならない限り安定しない。しかし、日本ではこの一君は天皇である。従って、それを輔弼する形で内閣を組織しているのだが、この天皇に直属する軍が内閣とは別にあって、これが統帥権論争を経て、首相といえどもアンタッチャブルな存在になっている。

 その上、この情況倫理の世界は、動機が純であればテロ行為も上官の命令に反した独断的行為も許されるということになるから、軍の統制も乱れる。近衛が首相になって一月程後に支那事変が勃発したが、政府は不拡大方針を採っているのに戦線は拡大する一方である。

 こうした現実に際会して、近衛はその手記に、「軍に最初から遠大な計画があって、作戦上これを秘密にするのなら,政府としては迷惑な話だがまだしも諒とすべきところがあるけれども、実際には何ら確固たる大計画もあるのでないことは,松井、杉山の問答の通りで、形勢の進展に押されて,段々に伸びていったものに過ぎず、ここに支那事変のやっかいな性格があった」と書いています。

 これでは、到底責任が持てないとして、近衛は辞意を漏らすようになります。しかし、「軍を事実上動かせる分子――それが青年将校であれ、現地軍であれ――が、これによって反省し,事態を収拾する方向に行動せしならんと考え得らるるや。却って傀儡政府を立てて、事態を日本として誤りたる方向に益々導く可能性なかりしや。余はあくまで軍を激成することを避けながら、極力他の凡ゆる手段によりこれを制御することを以て、余の使命なりと感じてその努力をなせり」ということで首相の座に止まることになりました。

 要するに、近衛の「持てる国、持たざる国」思想や「情況倫理」思想では、軍の統制を回復することもできなければ、政府のリーダーシップを確立することもできなかった・・・。というより、むしろそうした思想が、軍の統制の破壊や政府のリーダーシップの不能の原因となった、と見るべきですね。その原因を一言で言えば、国家統治あるいは国際社会の秩序形成における「法の支配」の意味を、近衛は十分理解していなかった、ということになります。

 結局、彼の思想は、日本に伝統的な尊皇思想に基づく「一君万民平等思想」の枠内にあった、ということであって、それ故に、その全体的統制を回復するためには、次のように、天皇に対して統治大権を直接行使する一君としての「天皇親政」を求める事になりました。

 「日本憲法というものは天皇親政の建前で、英国の憲法とは根本において相違があるのである。事に統帥権の問題は、政府には全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただお一人である。

 しかるに、陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には,障碍が起こりうる場合なしとしない。英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないことを、このどの日米交渉(昭和16年)において痛感した」 

これを読まれた天皇は「どうも近衛は自分に都合のよいことだけいっているね」と不興気だったといいます。というのは、そうした憲法解釈は近衛の思想によるのであって、天皇や西園寺を中心とする重臣達は、天皇を憲法下に置かれた制限君主として解釈していたからです。まして、近衛のいう統帥権の問題は、少なくともロンドン会議までは、軍の編成大権も政府の国務の内に含まれるとの解釈が一般的だったのです。それを統帥権という軍の「魔法の杖」に変えたのは、明治憲法によるのではなくて、政友会の党略の結果に過ぎなかったのです。

 以上、近衛の思想について見てきました。一見ハイカラな西洋近代思想を超克するモダンな政治思想に見えたものが、意外なことに、尊皇思想に基づく天皇親政という家族主義的国家観に由来する一君万民平等思想であったことが明らかになりました。そして、このことが判れば、昭和における日本の失敗の原因は何だったかということも、自ずと判ってきます。それは法治主義という近代民主政治を支える基本思想の理解を誤ったということであり、そのために、ようやく日本に根付きつつあった政党政治や議会政治を放擲してしまったのです。

 また、こうした近衛の過ちと同じ過ちを、日本国民もまた犯したのであって、その意味では、昭和の悲劇を一部軍国主義者の責任にするのは間違いなのです。というのは、当時国民は、普通選挙権を持っていたのであって、真に反省すべきは、その軍を民主的にコントロールできなかった自らの思想的非力を自覚するということなのです。

 おわりに、後年の近衛の述懐を紹介しておきます。

 「西園寺公は強い人であった。実に所信に忠実な人であった。そして徹底した自由主義、議会主義であった。自分は思想的に色々遍歴をした。社会主義にも、国粋主義にも、ファッショにも惹かれた。各種の思想、党派の人々とも交友を持った。しかし老公は徹底していた。終始一貫して自由主義、政党主義であった。自分はナチ化はあくまで防いだが、大政翼賛会という訳の判らないものまで作ってしまった。が矢張り老公の政党政治がよかったのである。これ以外によい政治方式はないのかも知れない。識見といい勇気といい矢張り老公は偉い人であった。云々」

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