昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(9)

2011年5月12日 (木)

 森恪と近衛文麿の思想の変化を時系列的に見ておきたいと思います。

大正7年末、森恪、中日実業取締役を辞し支那を引き揚げる。この秋政友会に入党する。

大正8年5月、慶應義塾にて「支那解放論」の演題で講演、次はその内容

 「世界に於ける、帝国の立場よりみて、極東の平和を保持することが必要なる以上、支那の領土を保全せざるべからざることは問題として考察するの余地なく、従って支那の領土を保全し、支那を統一されたる形に改善することは、日支両国にとりて共通の利益なり。支那の領土を保全するとは何を意味するや?また如何にして保全し得べきや?

 支那大陸に住し、また住せんとする者、即ち支那を天地とする者にとりて、統治せられ支配されるが如き形に保全することを、領土保全と称す。支那のみの占有する領土として保全するに非ず。又た一国、一民族によりて支配さるゝが如き形にて保全されることを意味せす、門戸解放されたる富源は国籍の如何を問はず、支那人と外人とを問はず、苟(いやしく)も支那大陸を己れの天地とするものに一様に分布されざるべからず。この意味に於て機会均等ならざるべからず。機会均等は啻(ただ)に支那に来らんとする列強人に對してのみ用ひらるべき言にあらずして、支那人自身にも適用せらるべきものなり。

 支那の領土を保全するには、天賦の富源を公開拓発して国利民福を増進せざるべからず。富源の開発利用は現在支那大陸に占住せる支那人のみ依頼し居りては目的を達し得る見込みなく、勢い支那人以上の文明国人の富力と知識を利用するにあらざれば不可能なり。是等文明人の富力と知識を利用せんと欲すれば、支那の門戸を解放せざるべからず。支那人自身の生存の為に必要にして支那を天地とする人類の几てにとりて欠くべからざる方針なり。

 知るべし、領土保全を以て国是とする以上、機会均等、門戸解放は緊要方針なることを、故に曰く、帝国は支那の領土保全を目前の国是とし、この国是を実行する手段として門戸解放、機会均等の二大方針を声明し、支那をしてこれを巌守せしめ、苟もこの二大方針に適応せるものは助け脊馳するものは破る事を以て對支政策とすべし。

 帝国の對支外交の無為無策、多く機会を逸し去るのみならす、徒に失敗を重ぬるが如き観あるは、畢竟到達すべき主義方針の一定せざるが故なり。拠るべき主義と方針決定すれば、問題如何に複雑するも、局面如何に展開するも執るべき道は自ら定まるべし。豈に右顧左眄するの要あらんや。若し支那をとる考へなく如上の方針をとるとすれば、如上問題に先ず先立ちて先決問題あり。曰く、秩序の恢復なり。」(『森恪』p450)

 この時期、森恪は日本の大陸政策は、幣原と同様に、ワシントン条約で主唱された中国の領土保全・門戸開放・機会均等主義でも日本は十分やっていける、むしろ中国の排外主義こそが問題なのだ、と言う認識を示していたわけです。

大正9年5月、森恪、神奈川県より立候補し、初めて衆議院議員に当選

大正10年春、森は近衛文麿(貴族院議員)等と憲法研究会を開く。

 この研究会では貴族院改革が論ぜられていますが、その主旨は、「特権貴族が政治の根幹を握っていて、・・・国民を基礎とする政党内閣が如何に強力でも貴族院の牙城には一指もふれ得ないという政治的バリケードを打ち破らなければ、国民政治の進路はない」というものでした。この時、近衛も、京都帝大を出て間もない理想に燃える青年貴族であって革新的気概が強く、貴族院改革をめぐって森と共鳴し、憲法研究会で貴族院改革のための同士的研究を開始したのです。

 なお、この年の5月には森もワシントン会議に參加しています。そのワシントン会議についての当時の森の考え方は次の通りです。

 「(上略)又我々は国力の実際と国際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ国策を議するは頗る危険であります。世には国力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるが如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓会議を以て我現下の国力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政会の諸君は大なる失敗なり、米国の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。

 諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三国干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ国力足らざる結果であります。仮に憲政会の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。

 我々は米国を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本国民の堪ゆべからざる處であります。我国の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米国に買われるのであります。米国と国際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬圓の生糸は売る場所がなくなります。

 この結果は我が農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我国の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米国より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績が大部分休業するに至ったらば如何なる結果が国民生活に来るでありませうか。国家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。

 幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友会の力を率いて能く国論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく、内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(関東大震災)に遭遇し、国家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく国威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。

 是れをしても外政上の大成功といはずして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、国力の実際に無理解なりし国民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まって国民が当時の国力の実際と国際開係を理解するに及び、この講和條約が能く国家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」(前掲書p458)

 この辺りの森恪の外交についての考え方は立派なものです。これは、ワシントン会議当時の内閣は政友会の原敬内閣であり、森恪は政友会に属していたからだ、と見ることもできます。これに対して、当時野党だった憲政会はこの会議に反対しているわけで、党利党略の弊が出ているわけです。

 なお、同じ頃の、近衛の日本軍の参謀本部のあり方についての考え方は次のようなものでした。

 「日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これではとうてい議会政治、責任内閣の発達を遂げることは出来ない。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の非難を免れる為には、是非ともこの参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何より急務であると信ずる」(大正10年10月「国際連盟の精神について」と題する講演)(『近衛文麿』p104)

 また、近衛は、大正11年10月、近衛は、イタリーでムッソリーニのローマ進軍が行われれ、ファッシズムの台頭が世界の関心を惹くに至った頃、大正12年1月の東京毎夕新聞で「代議制度の本義」を論じ、ファッシズムの流行に対して、次のように反対意見を述べています。

 近年、代議制に対する反対が、保守反動主義の側からも過激な革命主義の側からも、益々強大となりつつある世界情勢にある。しかし、ファッシズムはこの反動主義の表現であり、わが国の貴族院や枢密院や大学教授の一部にもこれに通ずる思想が見られるようになっている。しかし、これらは「眼前に展開する代議制度の弊害のみを知って、専制政治官僚政治の如何に恐るべき制度であったかを忘却した誤れる考え」である。

 そもそも、近時代議制に対する不信が増大した原因はいろいろあって、一は政治の職務が拡大するのに議会の働きがこれに伴わぬことであり、二は国民の文化的向上に比し議員の品位が下落したことであり、三は政党政治の弊害が意外に甚大なことなどである。しかし、結局、他のいかなる制度もそれ以上の弊害があり、政党政治の弊が喧しく言われるのも、弊害の分量が多いというより、ただより多く世間に暴露されるからで、「隠微の間に流弊その極に達した官僚政治に比べれば」、決して憂うるほどのことはない。

 そうであれば、結局は、平凡ながら現在の代議制に伴う欠陥を是正し、実質の改善を企図しつつ進むほかないわけで、そのことについては英国人の「平凡の偉大」「常識の偉大」を学ぶべきだである。それによってのみ立憲政治は有終の美を済し得るので、その意味で、「現代の日本青年が徒らに奇を好み、空理空論に走り、然もこの間に煽動的文字を羅列したる雑誌の跳梁することを、慨嘆せざるをえない」(前掲書p111)

大正13年、森恪、衆議院選挙落選

大正14年3月、森、栃木より衆議院議員当選

 大正14年5月、北一輝が「朴烈事件」(朴烈及びその内縁の妻金子文子にかかる大逆事件)にまつわる怪写真(収監中の二人の馴れ合う姿を写したもの)を政友会の森恪(筆頭幹事)に持ち込み、若槻内閣の倒閣のため、これを政治問題化するよう持ちかけた。森は看守に働きかけるなど裏工作を行い、こうして「朴烈事件」は一大政治問題と化したが、翌年1月、三党首(若槻、田中、床次)間で「新帝新政の初めに当たって政争はやめる」ということで妥協が成立、森恪の党略は不首尾に終わった。

 これは、要するに、大逆罪(冤罪)で収監中の犯人の待遇が過剰だとして、政友会が政権党(若槻内閣)を攻撃したもので、典型的な党略宣伝行為です。これを、森恪はこれを北一輝と結んで行っていたのです。

 大正14年11月、近衛は、彼の主張する貴族院改革論に対する批判に答えるため、「我が国貴族院の採るべき態度」と題して次のように述べています。

 「貴族院は自ら節制して、いかなる政党の勢力をも利用せず、叉これに利用せられず、常に衆議院に対する批判牽制の位置を保つと同時に、一面民衆の世論を指導し是正するの機能を有することに甘んじ、大体に於て衆議院に於ける時の多数党と、よし積極的に強調しないまでも、これに頑強に反対してその志を阻むようなことがあってはならない」

 要するに、貴族院は直接民意を反映しているわけではないから、衆議院の判断を尊重すべきだ、といっているのです。今日の参議院のあり方にも通ずる問題提起ですね。

 昭和元年の2月、森恪は、山本条太郎、松岡洋右等と共に政友会代表として武漢政府視察に行きました。次は、同年4月1日に行った支那視察についての講演内容です(この旅行で陸軍の鈴木貞一と知り合い交流が始まっている)。なお、*部分は筆者の感想というか留意点です。

 「私は多数の支那南北の要人や、今同の事件に重大なる開係ある露国人にも面会致しましたが、その人々のいふ處は皆大同小異で一のテキスト・ブツクの様であります。即ち次の如く申して居ります。

第一
日本は今や経済上全く行詰り、国を挙げてこれが転回策に没頭し、支那を苦しめんとするも、日本の実力が之を許さん状態にある。その上戦争を開始すれば日本の海外貿易の六割は支那貿易であるから経済上一国の死命を制するに至る故、一部の者が帝国主義に出んとするのは大いなる誤りである。実に日本活殺の鍵は支那が握っているのである。

第二
満洲問題に就ては、日本が大いに神経過敏である。これ何故かと云へば、日本の経済問題、食糧問題、人口問題に開係あるが為で、我々が若し満洲に於ける日本の要求を容るれば宜しいのである。而して我々は基礎的事業か出来た時、之を始末すれば宜しいのであって、今は余り必要が無いからいゝ加減なことを云ふで居れば宜しい。

第三
南方支那人は、我々東洋人は被圧迫民族である。その被圧迫に反抗した運動の第一の革命者は日本人で、即ち明治維新の革命運動がそれである。然るに日本は我々の革命運動に一向同情せん。

 大体以上の三つの誤解が非常に強いのであります。 

*誤解と言うより、正直かつ穏当な見方というべきですね。特に、満州についての考え方は興味深い。

 要するに、我々は支那現今の写真を撮りに行ったのでありますが、これに對して我々も一座反駁致しました。第一の経済問題について云ふと、日本は支那が考へたる程貧弱に非ず、支那がその大胆不敵なる態度を改めぬと両国間に大なる不幸が起ると思ふ。日本の支那貿易は僅かに我が貿易総額五十億余円の二割か二割五分に過ぎん、国民党顧問ボロヂシ氏の如きは、我々にこの点を指摘されて大いに狼狽致しました。

*日本は支那に対して、貿易上の依存関係はそれほど大きくはないので、帝国主義に出ることもあるいは可能とでも言いたいのでしょうか?

 第二の満州問題に就ては、支那よりも却って日本に発言権があると思ふ。露国の圧迫に依り、馬山をすら取られんとした支那が、露国の南下政策を十分防がざる間は、日本は断じて満洲を渡さん。日本は支那が完全に露国の南下を防ぐ事が出来れば、明日でも満洲を引渡すのである。斯く我が国に重大なる関係を有する満州問題を、支那が簡単に片附けんとすれば、そこに大なる誤解が出来ると思ひます。

*支那に露国の満州南下を防ぐことができれば、日本は明日にでも満州を中国に引き渡す。つまり、満州は日本の安全保障上重要だ、と言っているわけですが、それなら、支那と喧嘩をしないで連携する道を模索すべきです。また、支那は、当面は経済問題、食糧問題、人口問題では当面日本の要求を容れると言っているのですから、これに、あえて反駁を加える必要はありません。

 第三、我が国維新の革命は開国運動でありましたが、支那の被圧迫運動は反って閉鎖運動であります。先づ以て内を整へずして如何に立派な事を云ふても誰も承知せんと云うてやりました。皆さんは如何思はるゝか知らんが、我々は大体以上の様な弁駁を致しました處、何事に依らず事々に反對したがる支那人も、誰一人として之に對して何とも云ひませんので、我々は相当反響かあったものと考へます。

*昭和維新も、閉鎖運動ではなく開国運動であるべきでしたね。

 尚一つ見逃がすべからざる事は、支那に最近外的関係が加はっている事で、私一個の考より見れば極めて重大であると思ひます。私は支那を支那自身に治めさす時は、今よりは善くも悪くもならんと思ふが、最近の支那には、支那プラスXの力が加はって居ります。即ち露国のインターナショナルと云ふXの力が過去約四ヶ年間加はって大なる支那動乱となったのであります。馮玉祥軍にも露国の力が加はって居ります。

 最近漢ロに於ける動乱にも、その背後には露国の力があります。私が議会に於てボロヂンの事を外務当局に質した處、外務当局は、南方と露人との関係は知って居るが、露国の力を認めんと申しました。私はウーフーが南方に占領されて三日目に其處に参りましたが、市民大会で一番長い演説を致したのは露国人であって、その意味は世界的革命を謳歌したものでありました。

*この頃の中国における動乱の背後に露国があるとの指摘は、幣原も認識していて、ただ彼の場合、外交上軽々な非難は出来ない、と言っているに過ぎません。実際、蒋介石は南京事件の後幣原の忠告を受けて、上海事件等の責任者を処刑し、さらに上海クーデターを起こして、国民党からソ連共産党の影響を排除しています。

 尚二つ申上げておき度い事は、最近二十年来揚子江沿岸に、日本人の扶植せる勢力が根底から滅ぼされつゝあって、在留日本人は今や生活して行くことが出来ないと思ふことであります。之れは労賃の問題ではなく、経済的政治的革命に、ある一部の支那人が計画的に努力して、日本人を亡ぼさんとして居る為であります故に、今日の支那は日本人が進むか退くか、その一を選ばなければならない状態に遭遇し、大なる苦境に陥って居ります。

(中略)

 然るにこの治まらざる支那に投資し、人を遣るのは大なる誤りで、我が当局者の矛盾も実に甚だしいと思ふ。政府は多少の不利は隠忍すべしと云はれますが、現実に苦しんでいる人を、何時までと云はず隠忍しろとは、実に無惨な事で、これ亦深甚に皆さんのお考へを煩はし度いのであります。

*だから、居留民の「現地保護」の為に日本は出兵すべし、と言いたいのでしょうか。先の三国干渉や日露講和における政府の「協調」姿勢は、支那に対しては必要なし、といっているのでしょうか。

 先程申上げた支那プラスXの問題は、日本が之れに對し何時までも傍観的態度を持って居ると、数年の中に支那は秩序を為し、一つの形に統一されます。このXが日本であるとしても支那を統一出来ます。日本と露国と提携したとしても、叉欧洲諸国の中であったとしても、亦支那を統一出来るのであります。支那単独では何んでも無いがXの為めに大いに変化を来たします。兎に角現実に我々の前に投げ出されたる問題に就いて、大いに考えなければならないと思います。」

*要するに支那の統一のためには、他の先進国の支援が必要であり、日本がそのX国になるべきだと言っているのです。この辺りの森の議論には論理的な一貫性に欠けるものがありますが、この段階では、一応、支那の主権は認める姿勢は持っていたようです。

 ところで、この間の昭和元年3月24日、「第二次南京事件」が発生しています。また、同じ頃、片岡蔵相の失言から金融恐慌となり、全国に取り付け騒ぎが発生しました。その主要因は、大戦景気で急膨張した鈴木商店が戦後恐慌で経営悪化し、その破綻を震災手形で繰り延べしていたため、その手形の最大所持銀行であった台湾銀行の経営が悪化し、その救済のため、政府は緊急勅令案と財政上の緊急処分案を枢密院に提出しました。しかし、枢密院は、4月17日、若槻内閣の外交、特に幣原外交が軟弱であり国威を損じたことを論難し政府案を否決しました。このため内閣は総辞職、代わって政友会の田中義一が内閣を組織しました。 

 この時の枢密院に行動は、全く筋違いであって越権行為と言うほかないものでしたが、若槻はあえてこれと戦う事をしませんでした。それは、南京事件の刺激を受けて、政友会の森恪が中心となり幣原外交を「軟弱外交、屈辱外交」と批判するキャンペーンを張り、マスコミも虚実ない交ぜのセンセーショナルな報道を行ったため、幣原外交に対する国民間のごうごうたる非難が巻き起こりました。そのため若槻首相は「人心既に内閣を去った」と感得し、政府案が枢府で否決され日に総辞職を決意したと言います。

 こうして、森恪による幣原外交の精算、支那の革命外交の否認、対支武力解決と在留邦人の現地保護の外交方針が、田中内閣のもとで推進される事になりました。これが、昭和2年5月の第一次山東出兵(北伐が中止されたため9月に撤兵)、7月の東方会議(後の「田中上奏文」という偽書を生む事になった)、昭和3年4月の第二次山東出兵と済南事件(蒋介石の全国統一を日本が妨害するものと受け取られた)、それに引き続く第三次山東出兵、そして6月の張作霖爆殺事件の発生を見ることになったのです。

 この約2年間の田中内閣の対支積極外交――その内実は、森恪が軍と共謀して推進したものだった――の失敗によって、日本外交は政府と軍の間で分裂するようになり、後の中国との間の泥沼の戦争を運命づけられる事になりました。その発端となった南京事件の処理について、当時、政友会が行った幣原外交非難が妥当であったか否かについて、昭和3年5月5日、民政党の永井柳太郎が衆議院で田中首相に対して質問をし、それに田中は次のように答えています。

永井 南京事件に於て、政友会は在野時代頻りに、流言を放ち宣伝を試みていたが、右事件の調査は既に出来ていると思う。今なお流言を信ずるや。

田中 南京事件に就いては段々調査すると、嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があると言う事が判った。一例を挙ぐれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありませぬ。叉帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙を吞んで抵抗しなかったのである。

 当時、森恪がどのような流言を放ち、マスコミや国民がそれにどれ程踊らされたかはあえて述べませんが、その結果、幣原外交が国民に忌避され、これに代わって採用された田中対支積極外交が推進されることになったのです。しかし、これは惨憺たる失敗となり、この結果、中国との外交的信頼関係は全く失われてしまいました。

 それだけでなく、森は、張作霖事件の裏にあった「計画」を温存するため、軍と協力してこの事件の”もみけし”を図りました。続いて、石原完爾等が企図する国家改造計画にも荷担することになります。その端緒となったものが、ロンドン海軍軍縮条約締結時の統帥権干犯問題の政治問題化です。これが浜口雄幸首相に対するテロや三月事件さらには満州事変、十月事件へとつながっていったのです。

 今日でもそうですが、当時も、この満州問題を論じる時の最大の問題点は、昭和2年以降昭和4年までの2年間の、森恪によって主導された「対支積極外交の失敗」という政治プロセスが、完全に抜けていると言うことです。この事実を抜きにして、この時代の中国の革命外交の不当性を一方的に非難したり、日本の満州権益の合法性を主張したりするのは妥当とは言えない、と私は思うのです。そして、近衛もまたこのことに注意を払うことなく、次第に森恪の主張に引きずられていきました。

 「昭和6年5月頃、久しぶりに森とゴルフ場で会うと、彼はこう言った。『世の中は大変なことになりつつある。時代の底流は非常に強い。政党だの貴族院だのと小さいことを考えている時ではない。お互い時代と共に進まなければ、とんだことになる。』それまでの森君は、思想上はともかくとして、有り様は政党主義を基準とする政治家であったので(おそらく貴族院改革の主張を根拠としているのだろう=筆者)、所謂ファッショ的傾向への急転回に驚いた位である。

 しかし、森君からヒントを得て以来、時代の潮流に深い関心を持ち出した。一時は貴族院対政友会の問題などで往来が途切れがちになっていたが(森は近衛を憲政会よりと見て離れていた=筆者)それ以来叉屡々会うようになった。森君は軍人では誰がいいかと訊くと小畑敏四郎・・・鈴木貞一、白鳥敏夫等も連れてきてくれた。その当時から私は、軍部の人々とも会うようになった。そうこうしていると、満州問題の切迫、軍部勢力の台頭、社会不安等、成程世の中の潮流が甚だ急であることが判ってきた。」

 その結果、「昭和6年秋満州事変勃発の頃より、余は西園寺項初め重臣達と、時局に対する考え方につき、相当距離のあることを感ずるようになった。・・・余は西園寺公に随いて巴里に行きし当時より、英米を中心とする国際連盟を謳歌することは出来なかった(「英米本位の平和主義を排す」)。・・・故に余は当時元老重臣を始め、政府当局が動(やや)もすれば英国に追随する傾向ありしに対しては不満であって、時々西園寺公にもお話ししたが、公は長いものには巻かれろという諺を引いて、反駁せられたことを覚えている

 この十年間に於ける日本外交の誠実なる犠牲的国際協調も、支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた。今その事例を一々挙げないが、外交史に明らかである。昭和六年には満州に関する未解決の外交案件だけでも、三百余件を数えるに至った。かくして満州事変は、同年九月十八日ついに柳条溝において勃発したのである。

 満州事変を契機として、我が外交は一大転換をなさざるを得なくなった。・・・(その)実際の推進力は軍部事に少壮軍人であって、これを取り巻く民間右派団体の人々の力も、無視できなくなって来た。反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義(国内では議会制等万能主義)への鬱憤を一時に爆発させて元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、という風に排撃の火の手を挙げ、其結果が五・一五となり二・二六となった。

 かくの如き一大反動の起こるべきことを、最も早くから見通して居たものは、政党政治かの中では恐らく森恪一人であったろう。余は満州事変勃発後から病を得て、静養の身となったが、余の病室には森恪君や鎌倉の友人志賀直方君等の紹介で、少壮軍人や右翼の人々が次第に訪問するようになった。余がこれら人々を近づけたことを、元老重臣諸公が不快の念を持ってみたであろうことは、想像に余りある。

 余はこれらの人々を近づけはしたが、彼らの言説や行動に対しては、元老重臣の人々が疑った如く決して無条件に賛意を表していたのではない。彼らの言説はあまりにも独善粗朴幼穉(ようち)であり、彼らの行動は余りに無軌道激越であって、健全なる常識を以てしては、到底全部を容認し得ないことは言を俟たないことである。・・・(しかし)少壮軍人等の個々の言説を捉えて来れば、我々の容認出来ぬ事は多々あるが、これらの人々が満州事変以来推進し来たった方向は、これは日本人としてたどるべき必然の運命であるということである。

 何を以て必然の運命なりとなすか。思うに満州事変の有無に拘わらず、日本の周辺には列国の経済封鎖の態勢が既に動きつつあったのである。英国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖乃至反封鎖の状態にならんとしていた。・・・これを此儘にして行けば、日本は単に海外市場に対する販路を失うて輸出産業を窒息せしむるのみならず、せっかく育てた産業に対する原料を獲得する道もなくなる。・・これは国家経済の根本が立つか立たぬかの問題である。

 かく列国の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽わんとしつつある時に、此暗雲を貫く稲妻の如く起こったのが満州事変である。仮令満州事変があの時あの形で起こらなくとも、晩かれ早かれ此暗雲を払いのけて、日本の運命の道を切り拓かんとする何らかの企ては、必ず試みられたに違いない。満州事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿っていたのである。

 西園寺公はよくこう言われた。「今日少壮軍人等は熱に浮かされている。此の熱のある間はなるべく彼らを刺激しない様にして、冷えるのを待つに限る。冷静に復したら外交も軌道に乗り、幣原時代の協調主義に戻るだろう」云々・・・

 これに反して余は、軍人の熱の冷えるのを待つと言われるが、政治家にして此国民の運命に対する認識を欠ける以上、軍人の熱は決して冷めない。そして軍人が推進力となって、益々此の運命の方向に突進するに違いない。しかし軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家が此の運命の道を認識し、軍人に先手を打って、此の運命を打開するに必要なる諸種の革新を実行する外はない。此の運命の道を見逃してただ軍部の横暴を抑えることばかり考えて居ても、永遠に政治家の手に政治は戻って来ますまい。」(近衛手記「元老重臣と余」より)

 ここでは、近衛は「日本の必然の運命」について、その原因を「列国の経済封鎖」だけを挙げています。おそらく、ここで近衛の言う「ここ十年間」とは、1922年のワシントン会議以降、満州事変の発生する1931年までの十年間の、所謂幣原外交の時代のことだろうと思います。では、ここで近衛の言う、この間の、日本が「支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた」というのは、一体、この他にどのようなことを指していたのでしょうか。

 この点については、私は、渡部昇一氏が『日本史から見た日本人・昭和史』で指摘したように、アメリカによる「排日移民法」(1924年)をその第一原因とするのが最も妥当なのではないかと思います。日本人にとってこの法案が、当時の日本人にどれ程差別的かつ侮辱的なものと感じられたか。それまでは日本人はアメリカが大変好きだった。しかし、アメリカが日本民族を嫌悪していることを知って、日本人はアメリカに対して激しい反発と不信感そして警戒心を持つようになった。

 それが米国との協調を基本とする幣原外交への日本国民の信頼を失わせ、その一方で、「アメリカがだめなら満州があるさ」ということで、強硬な大陸政策を求める意見への同調を生むことになった。こうなると、中国に対する内政不干渉・協調外交を押し進めてきた幣原外交に対する世論の風当たりは益々強くなる。その結果、幣原の国際協調外交を推し進めるための、国内における政治的基盤が全く失われることになった、と言うのです。

 しかも、中国では国家統一期のナショナリズムが高まる中で、ソ連の影響を受けた反植民地主義運動・反帝国主義運動が繰り広げられ、それが先述したような南京事件や漢口事件を生み、日本人の対支世論を硬化させた。一方、大戦時好況の反動としての戦後不況の発生、関東大震災、金融恐慌、そして世界恐慌の発生、それに追い打ちをかけた浜口内閣の金解禁不況、東北地方の大凶作、そんな危機的状況の中での世界経済のブロック化、さらに満州における排日運動、国権回復運動の高まり等々・・・。

 これらの、日本を取り巻く国内・国際環境の連鎖的悪化が、次第に米英主導の自由主義・資本主義体制に対する懐疑を生むようになり、代わって、マルクス主義が多くの知識人の共感を生むようになりました。また、自由主義に基礎を置く複数政党による議会主義民主主義に対しても、現実に対応した立法迅速に行うためには問題があると考えられるようになり、こうして日本でも、一国一党制を求める国家改造が唱えられるようになったのです。

 こう見てくると、小林秀雄の大東亜戦争「悲劇論」を思い出さざるを得なくなりますね。これは、小林秀雄の戦後の第一声と言われるもので、当時、知識人間にも多くの冷笑や罵倒を生んだそうですが・・・。

 「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無知と野心とから起こったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」

 山本七平は小林秀雄のこの言葉の意味について、もし、人が思索するつもりなら、「一身両頭人間」でなければだめだ。つまり、右の頭は戦時中の常識につかっていて、左の頭は戦後的常識につかっていて、それを時代の変化に合わせて使い分けるような反省ではだめだ。大切なことは、その間、自分が一身であることを忘れないことだ。つまり、戦争中自分はなぜその時代の常識を自らの常識としたかについて、それを安易に後悔などというおめでたい手段でごまかさないこと。そう決心することで、初めて自分という本体に出会うことが出来る、という風に解釈しています。(『小林秀雄の流儀』山本七平p18)

 端的に言えば、戦前昭和の日本の歩みは、まさに運命的=「悲劇的」というしかないものだった、という事でしょう。しかし、それを認めるとしても、私は、もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思うのです。そうすれば、世界恐慌の時代を無事に乗り切ることが出来たのではないかと・・・。

 そのことを、当時の政治家は、国民に対して辛抱強く訴えるべきだった。それと、もう一つは、軍縮の時代の軍に対する対応をもう少し考えるべきだった。というのは、この時代の日本が抱えていた問題点は、以上述べたような日本を取り巻く国際環境の厳しさということだけではなくて、日本軍に関する固有の問題が、これとは別にあったということなのです。それは端的に言えば、この時代、日本は軍の処遇を誤ったということ。これは、実は戦後についても言えることなのですが、これについては、次回、論ずることにしたいと思います。

最終校正5/13 14;48