昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(8)

2011年5月 6日 (金)

 前回、森格が、日本の立憲君主制下の政党政治を、軍と連携して一国一党の国家主義体制に作りかえようとしていたことを紹介しました。この点について森恪伝では次のように説明しています。

 「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。日本の国家主義運動、普通には、一概に、右翼運動といわれるところの運動は、思想的には、欧州戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開していった潮流に対する反動として、また、外交政策としてはワシントン条約以来の屈辱に対する反抗として、更に、国内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。(前掲書p673)

 それが大陸政策の形で、現実政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内の政治運動として勢力を広げ始めたのはロンドン条約の問題(=統帥権干犯問題)からである。

 森によって、或いは森の政治活動を機縁にして、政治の現実の足取りを取り始めた日本の大陸政策と国家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森格に発しているといってもあえて過言ではあるまい。」

 この本が書かれた昭和14年頃は、満州事変以降の日本の大陸政策や、日本思想の国家主義化は当然視されていて、それを基礎付け発展させたのが森挌だといっているのです。そして、その仕上げとなったものが統帥権干犯問題であり、それを政治問題化することで国際協調・平和外交を推し進める民政党からの政権奪還を図ったのが、森恪だと言っているのです。 

この辺りの事情について『太平洋戦争への道』では次のように説明しています。

 「森格の伝記によれば、森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行ったと記されている。

 (また)岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』と答えていた。」(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家であったということです。そして、その首謀者が、当時政友会幹事長だった森恪であり、政友会総裁だった犬養も、彼が構想した党略に乗ることになったわけです。このことについて、当時の新聞は次のように批判しています。

 「ロンドン軍縮会議について、政友会が軍令部の帷幄上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如きは、・・・・いやしくも政党政治と責任内閣を主張すべき立場にある政党としては不可解の態度といわなければならぬ。しかもそれが政党政治確立のために軍閥と戦ってきた過去をもつ犬養老と、政友会の将来を指導すべき鳩山君の口より聞くにいたっては、その奇怪の念を二重にしなければならないのである。」(昭和5年4月26日東京朝日新聞社説)

 ではなぜ、犬養がこのような「二重に奇怪な」政治行動をとることになったか、ということですが、一つは、二大政党がせめぎ合う中での党利党略ということもあったでしょうが、もう一つは、犬養が政友会総裁になれたのは森恪の政治力のおかげだった、ということもあったと思います。しかし、より本質的には、そうした森の党略の背後にある秘密の「計画」を、犬養が見抜けなかった、ということではないかと思います。

 というのは、犬養には、海軍軍縮問題についての彼自身の考え方があり、その本音は「日本のような貧乏世帯でもって、いつまでも、軍艦競争をやられてはたまらない」ということであり、軍縮会議には賛成していたのです。結果的には、統帥権干犯問題は、先述したような森の必死の裏工作の甲斐なく、昭和5年10月1日には、枢密院が次のような統帥権干犯問題についての審査報告を行い、また天皇の批准もなされて、政治問題としては収束しました。(『話せばわかる 犬養毅とその時代』p60)

 「本条約調印の際、内閣の執った回訓決定手続きに関し、海軍部内に紛議、世間に物議を醸したのは遺憾であるが・・・軍令部長にも異議がなかったとの政府答弁、海軍大臣より海相・軍令部長官の意見一致とのこともあり・・・いわゆる統帥権問題は討究する必要がなくなった・・・。是、本官等のすこぶる欣幸とするところである・・・。」

 しかし、それを再び政治問題化したのは、またもや森恪でした。

 これは、昭和6年2月2日の衆議院予算総会において、当時一年生議員だった政友会の中島知久平が、統帥権干犯問題を蒸し返して幣原首相代理・外相に質問したのに対して、幣原が「この前の議会に浜口首相も私も、このロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものではないという意味は申しました。現にロンドン条約はご批准になっております。ご批准になっているということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないことは、明らかであります」と答弁したことに端を発しています。

 このやりとりについて、ほとんどの議員は、”またまた、蒸し返しの論議をしている”という具合にしか受け取らなかったようですが、傍聴に来ていた森恪は、右手を挙げて幣原を指さし、「幣原っ!取り消せ!取り消せ!」と絶叫しました。これで眠りかぶっていた政友会議員はようやく森のことばの意味を理解し、総立ちになって幣原にこの答弁の取り消しを求めました。(『犬養毅と青年将校』p188)

 その理屈は、「天皇が批准したから国防上問題がないという言い方は、陛下に対して輔弼の責任を負うべき内閣の責任を、天皇に負わせるものだ」というものでした。確かに、幣原の言い方も不用意だったわけですが、その言葉の前段では、内閣の判断であると断っており、後段で、すでに天皇の批准も得ていることを付随的に述べたに過ぎません。しかし、森はこれを「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」と食い下がり総辞職を迫り、これを重大政治問題化しました。いわゆる「天皇の政治利用」ってやつですね。

 これで衆議院の議事は一切停止してしまい、「恥を知れ!売国奴」といった怒号が飛び交い、果ては乱闘となり、双方に負傷者を出て、警察官も導入されるなど、議会の大乱闘事件に発展しました。この間の森の思惑について、例の森恪伝では次のような説明がなされています。

 この「きっかけを作った者はかねてから、幣原外交の大修正を志し、対支積極政策、満州問題の解決を計画していた森恪であった。」「森はこのチャンスを逃さず一挙に倒閣を敢行しようと腹中に知謀を蓄え、外面には専ら実力派の代表として党内の世論を倒閣一方に導くに努めた。」

 さらに次のようなことも述べています。

 「森の腹にはもう一つの秘密が蔵されていたと推断すべき理由がある。当時既に陸軍の一角には幣原外交に対する満々たる不満が蔵されており、森と志を同じうして満州問題解決を急務とする人々は、ある一種の決意を蔵しておった。議会がこの所謂醜態が長く続く時には、院外の諸勢力が議会を包囲するかも知れぬ。(三月事件が示唆されている)而してその勢いを以て幣原退嬰外交を精算すれば外交の大転換を来たし、政治勢力の一大変革が期待される。」そういう狙いを森は持っていたのではないかというのです。

 それにしても、三月事件というのは、第五十九議会の開催中の3月20日、大川周明がデモ隊を以て議会を包囲する一方、右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃し、軍が治安維持のため出動し、軍代表が議場に入り、内閣に総辞職を強要、元老の西園寺公望に使者を立てて、宇垣一成陸相のもとに大命を降下させ軍部革新政権樹立するというクーデター計画(未遂)でした。こともあろうに、それを、政友会幹事長の森が誘引しようとして、あえて議会を混乱に陥れたのではないか、というのですから、贔屓の引き倒しというべきか、あり得ないことではないだけに、まさに肌に泡する思いがします。

 では、こうした森の計画に対して犬養はどう対応したか。森恪伝には次のように書かれています。

 「犬養政友会総裁は、森ほど深く倒閣の情熱を持っていなかったし、叉、総裁本来の主張から云っても、議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は心中苦々しきことと考えている。政府が頭を地にすりつけて謝罪してくれば許してやってもいいという腹があった。」結局、幣原が「過日中島君の質問に対し答えましたる私の答弁は失言であります。全部これを取り消します」と言うことで、政友会の主張は貫徹されたと見なし、犬養首相がイニシアチブをとって天下り的な妥協がなされた・・・。

 こうして、森恪が策した「計画」は再び不発に終わったわけですが、しかし、この間、森が火をつけた統帥権干犯問題は、自由主義や政党政治に反対し国家主義を唱える軍や右翼を一層勢いづかせることになり、浜口雄幸首相が右翼のテロに遭って重傷を負う(後死亡)という悲劇を生むことになりました。その実行犯である佐郷屋留雄が所持していた斬奸状には、統帥権干犯の元凶として浜口と幣原の名が記されていました。

 そして犬養自身も、犬養内閣を組閣後、関東軍の一部将校が独断専行的に引き起こした満州事変の収拾策を繞って、森恪や軍と対立し、昭和7年5月15日、海軍将校のテロに遭い、こめかみに銃弾を撃ち込まれることになりました。この時の犬養が蔵していた満州事変の解決策とはどのようなものであったか。一つは、当時、若手将校に声望のあった荒木貞夫を陸相に据えることで、陸軍の独断専行を抑止しようとしたこと。もう一つは陸軍の長老の上原勇作に次のような書簡を送り、軍の統制回復に協力を求めたことです。

 「陸軍近来の情勢に関し、憂慮に堪えざるは、上官の、下僚に徹底せず、一例をあげれば満州における行動の如き、左官級の連合勢力が、上官をして、自然に黙従せしめたるが如き有様にて、世間もまた斯く視て、密かに憂慮を抱きおり候。そのいまだ蔓延拡大せざる今日において、軍の長老において、救済の方法を講ぜられんことを冀う一事に他ならず。右の根底より発したる前内閣(若槻内閣)時代の所謂クーデター事件(三月、十月事件)もその一現象に過ぎず。

 ・・・満州事変の終局も近くなれど、現在の趨勢をもって、独占国家の形成(陸軍の目指す満州国独立)を進めば、必ずや九カ国条約との正面衝突を喚起すべく、故に形式は分立たるに止め、事実の上で我が目的を達したく、専ら苦心致し居り候。この機会をもって支那との関係を改善致したき理想に候」(『犬養毅と青年将校』p299)

 また、犬養は、芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らし芳沢に制止されました。また、犬養は満州事変の処理については次のような考え方をしており、政権の座に就くとすぐに萱野長知を使者に立て極秘に交渉を進めました。

 「関東軍を中心にした陸軍は、満州を独立させ、そこに反国民政府(蒋介石政権)的な、日本陸軍の傀儡政権を作る・・・としているが、これであっては日中間は全面的に対立に陥り、恒久的に平和、友好の関係は崩壊する。したがって、満州の政治的主権(宗主権)は国民政府に委ね、経済目的を中心にした日中合弁の政権を満州につくる」

 この犬養構想に対して中国側は、当初は、犬養に軍を抑える力があるかどうか危ぶみましたが、上海事変勃発後、ようやく、この構想をもとに、第一に停戦(上海事変)、第二に日本側の撤兵を取り決め、同時に犬養構想について具体案を作成し協定する、という線で合意しました。萱野は早速この内容を犬養首相宛の書簡で伝え返事を求めました。ところが、これを森(書記官長)が、”これでは陸軍の目指している満州国独立がご破算になる”として、握りつぶしたため犬養には伝わりませんでした。そのため、萱野は待ちぼうけを食わされ、この話は流れてしまいました。

 実際の所、もうこの段階では、犬養が目指したような満州事変の収拾策をとることは、日本側では不可能だったのではないかと思います。しかし、犬養自身の大陸政策は、森恪が「計画」していたものとは異なり、至極常識的なものだったということは判ります。また、五・一五事件でテロに遭った際、逃げようともせず、押し入った海軍将校を落ち着かせて話を聞こうとしたことは、日本における立憲政治の確立を目指して奮闘してきた政党政治家としての面目躍如たるものがあると思います。

 以上、紹介した森恪という政治家――明治維新以来の自由民権運動の積み重ねの中でようやく確立しつつあった日本の立憲政治、政党政治を、軍や右翼と結託して内部から崩壊させ、それを軍主導の一国一党制の全体主義体制へと強引しようとし、この間、日本の立憲政治確立のために尽くしてきた政治家をテロの標的とした、この、まさに日本の近代政治史上最強の疫病神ともいうべき人物――の存在を抜きにして、私は犬養毅を非難する気にはなれません。

 だが、それにしても、なぜこの森恪という人物に、田中義一や犬養毅、さらには本稿の主題である近衛文麿という、キャリアも人格も見識も人並み優れた人物が振り回され、利用され、裏切られ、破滅させられることになったのか。おそらく、この不思議を解明するためには、日本における政治力行使が、どのようになされるのかを見極める必要があると思いますが・・・。

 この点、森恪は、こうした政治力行使のノウハウを、三井物産勤務時代や中日実業時代の対支経済交渉を通じて身につけたのでしょう。金の作り方も知っていたし、目先も利き、交渉力も決断力もあった。しかし最大の問題点は、その主な交渉相手が支那人であったためか、日本の支那通と言われた軍人達と同様、支那を対等な交渉相手と見ることができず、いわば「切り取り勝手次第」の太閤記秀吉流冒険主義に陥ってしまいました。

 そのやり方で、彼は、第一次世界大戦後ようやく確立したワシントン体制をぶちこわし、東亜の国際政治空間を、かっての暴力的植民地主義時代に逆戻りさせてしまったのです。そうした彼の政治手法に、日本の立憲主義政治家は対抗できなかった。一方、軍は、西洋流の近代思想を超克する思想として、日本の一君万民平等主義的家族的国家観をもつ尊皇思想を手に入れた。それはアナクロではあるけれども、伝統文化に基づくものであるだけに、世論の圧倒的な支持を得ることができた・・・。

 それが、戦後の平和主義外交を先取りしたかのような幣原外交を挫折せしめ、一方、人道主義・平等主義的国際秩序建設を訴えた近衛文麿をその罠にはまることになってしまった。では、ここで問われていることは何か。それは、借り物の思想ではだめだということ。それを、自国の伝統文化の延長上にしっかり根付かせることができなければ、本当の力を持ち得ないということではないでしょうか。

 昭和の悲劇とは、その意味で、明治以降に日本が欧米より導入した近代思想と、日本の伝統思想とがミスマッチを起こした結果、もたらされたものと言えるのではないでしょうか。その間隙を突いて、森恪の太閤記秀吉流冒険主義や、北一輝の国家社会主義的改造論、石原完爾の最終戦争論など、まさに魑魅魍魎ともいうべき思想が入り込み、収拾がつかなくなった。その結果、満州問題の処理を誤り、さらに軍縮へと向かう世界の潮流を読み誤った。それが泥沼の日中戦争そして太平洋戦争という悲劇につながっていったのではないでしょうか。

 次回は、論述が後先になりますが、森恪と近衛文麿の思想的な交錯関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。それが、この時代の日本に発生した「転向問題」(一部知識人だけではなく、マスコミや国民を含め一種の社会現象となった)を解明する手がかりを与えてくれることになると思いますので。

最終校正(5/7 12:19)