昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(7)
前回は、南京占領後のトラウトマン和平工作の取り扱いを巡って、政府と参謀本部が意見対立し、政府がその打ち切りを主張したのに対して、参謀本部が継続を主張したことについての私見を申し上げました。 これについては、一般的に、政府が交渉打ち切りを主張したことを慨嘆する意見が多く、これをもって、日中戦争が泥沼化したことについて、軍部より政府(=近衛首相)の責任を追求する意見が大半を占めるようになっています。しかし、私は、それは軍内部の意見が割れたためであって、かつ、多田等は少数派に過ぎず、軍内の多数派は交渉打ち切りを主張していたこと。従って、もしこの時、多田等が本当に和平交渉を継続することによって日中戦争の拡大を阻止したかったのなら、まずやるべきことは、北支那方面軍等が推し進めている華北の新政権樹立をなんとしてでも阻止することだったのです。 従って、この件をもって、統帥権のオールマイティーを否定する論拠とすることはできない。司馬遼太郎は「軍部がうまく統帥権を使い、国家の中にも一つの暴力的国家を作った。それによって日本は滅びた」と言ったのですが、この認識は間違ってはいない。問題は、統帥権自体にそんな力があったわけではなくて、大正時代でも、前回紹介した近衛の参謀本部論に見るように、それは政治のコントロール下に置かれるべきものとされていた。それがなぜ、昭和になって統帥権が拡大解釈され、手のつけられないものになったか、その真因を探ることが大切なのです。 そこで、その真因についてですが、半藤氏は前回紹介した立花隆ゼミの学生との対談の中で次のように言っています。 「ところが昭和になって、北一輝という右翼思想家が統帥権の魔力に気がつき、軍隊は政治の外側に独立するもので政治が文句を言う筋合いはないんじゃないか、と言い始めた。」さらに「北は、統帥権についてまず軍をたきつけ、陸軍は野党の政友会を利用した。ロンドン軍縮会議の時に鳩山由紀夫さんのおじいさんの鳩山一郎や犬養毅らが、議会で『統帥権干犯』と騒ぎ出した。政治が海軍の兵力を削減するのは、天皇の統帥権を侵すものというんだね。つまり、今でいう『政局』に利用したんです。この時から、『統帥権』が、ものすごい力を持つ政治的な道具になってしまった。軍部の政治進出のキッカケとなった。」 これも一般的に言われていることであって間違いではありませんが、では、鳩山一郎や犬養毅という政治家が「統帥権を手がつけられないもの」にした元凶かというとそうとは言えないと思います。実は、この統帥権干犯問題には伏線がありました。その伏線を敷いたのは政友会田中義一内閣で外務次官(田中首相が外務大臣を兼任したので実質的には外務大臣)を務めた森格で、彼は、この田中内閣にあって、それまでの対中不干渉主義を基軸とした幣原外交に対するアンチテーゼとしての大陸積極政策を、田中を強いる形で押し進めました。 まず、昭和2年5月、蒋介石の第一次北伐に際して、山東の日本人居留民を現地保護すると称して第一次山東出兵(約4000人)を行いました。この時は、北伐が途中で中止されたためで9月に撤兵しました。しかし、この間、森格は大陸積極政策を日本の統一政策とするため、「軍部との提携に努め、また、官界、財界の各方面に人材を求めて、それを糾合、網羅」することに努めました。 この間の事情を、当時参謀本部作戦課にいた鈴木貞一は次のように語っています。 東方会議の前に、森が会いたいというので会った。どういうことかと聞くと、森は政治家と軍が本当に一体にならなければ、この大陸問題の解決は難しい。自分は東方会議を開いて積極的大陸政策を日本の統一政策とするつもりだが、あなたの意見を聞かせてくれという。そこで、私は、「日本の現在の状態は、一遍○○○○なければ大陸問題の解決は困難だ。」そのために私は軍内の歩調を固めるため、参謀本部、陸軍省の若い連中(石原完爾や河本大作など)と会い、次のような方針を得ている。(○部分は伏字だが、おそらくその後の軍による政治クーデターにつながる内容のものだろう) それは、「満州を支那本土から切り離して、そうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。・・・これがつまり日本のなすべき一切の、内地、外交、軍備、その他庶政総ての政策の中心とならなければならない」というもの。しかし、これを急にやろうとしてもなかなか難しい、というと森は直ちにこれに同意しそれで行こうということになった。その後森は、奉天総領事の吉田茂やアメリカ大使の斉藤博と相談し、この計画を、元老や重臣、内閣や政界が承諾しやすいものとするため、これをオブラートに包む方策として東方会議を開催することになった、と。 結果的に東方会議では、満蒙における日本の特殊利益を尊重し、同地方の政情安定に努める親日的な指導者はこれを支持するとか、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れて、満蒙の我が特殊の地位や権益の侵害の恐れがある場合には、その脅威がどの方向から来るかは問わずこれを防護する、などの比較的穏当な「対支政策要綱」を提示するに止まりました。しかし、森等の真のねらいは、この後者の防護策において、武力を用いた積極的大陸政策を推進することに公認をとりつけることでした。その結果、三次にわたる山東出兵や済南事件、さらには張作霖爆殺事件を引き起こされることになったのです。 とりわけ、この済南事件における日本軍による済南城攻撃は、居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものでした。こうした軍の行動の背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え(注1)、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのです。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、張作霖軍を武装解除するなどして下野に追い込もうと、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。 (注1)済南事件当時、陸軍側の軍事参議官会議が開かれており、その会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。 「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」 こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったか。このことは、田中首相の「不決断」で「計画」が水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。この時、関東軍斉藤参謀長は日記に「現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」と書き、「村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示」し、これを察知した河本が「張抹殺は私が全責任を負ってやります」と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させた、といいます。(『昭和史の謎を追う(上)』「張作霖爆殺事件」秦郁彦) 言うまでもなく、この張作霖爆殺事件は、こうした軍の大陸政策にかける思いが関東軍の青年将校たちにいかに強烈だったかを物語るものです。河本は張作霖爆殺後、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛部隊と交戦しようとしましたが、参謀長斉藤恒が(連絡不足から)これに阻止命令を出したため、この事件は不発に終わりました。河本は、もしこの時「緊急集合が出ていたら満州事変はあのとき起きていただろう」と語ったとされます(田中隆吉証言)。それにしても、なぜ、時の首相の方針を無視したこんな暴虐な行動が一参謀に執れたのでしょうか。それは、先の東方会議における森の秘密「計画」なしには考えられません。 ここで確認しておくべきことは、この森と、首相であった田中義一との関係ですが、一般的には、幣原外交が不干渉主義であったのに対して、田中外交は実力行使の積極主義外交と理解されています。しかし、この田中外交は、森と軍の青年将校とが組んだ新体制運動と、張作霖支援を基本とする田中の満州開発論とに分裂していました。この思想的混乱を是正できなかったことが、張作霖爆殺事件を生み、さらにその隠蔽工作となり、そして張学良を後継者とし、その挙げ句の果てに、張学良による中国国民党への易幟へとつながることになったのです。まさに森は、田中にとって「獅子身中の虫」というべき存在でした。 本稿では、森格資料として『東亜新体制の先駆 森格』を重用しています。この本は、昭和14年に出版されたもので、日本の満州事変以降の大陸政策を形作ったものは森格であるということを論証し、それでもって昭和7年12月に病死した森格の事績を称揚するために書かれたものです。従って、森格の行動の真意を知る上では格好の参考資料となっているわけですが、この本の中では、田中首相と森との葛藤関係は次のように説明されています。 「田中男は東方会議の当初、『おら決心したから、世界戦争もあえて怖れない』と断固たる決心と態度を示した。その東方会議で決定した政策を、愈々、実行に移す瀬戸際に立つと、卒然として『一時中止』の裁断を下して些かも矛盾を感じなかった。その結果大陸政策の遂行上、千載の好機を逸したことになった。 田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は、華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。 我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋に於ける二大国が血みどろになって相克抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」 こうした森等の考え方は、いうまでもなく、当時の、国際社会秩序であるワシントン体制を破壊しようとするものであり、国内的には、そのワシントン体制を支持する政党政治を転覆させ、政治家と軍が一体となって、独裁的「新体制」を確立しようとするものでした。しかし、こうしたもくろみは、張作霖爆殺事件の不発によって挫折しました。しかし、森格等は、この事件の真相を隠蔽することで、その背後にあった「計画」を温存し、田中内閣崩壊後の浜口内閣では、「統帥権干犯問題」を持ち出して倒閣を画策する一方、その背後で、例の「計画」のクーデター的実行を予定していたのです。 いうまでもなく、それが満州事変だったわけですが、これについて、森は、それは中国が「日本との間に存する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」国だからであり、「こういう暴力団を相手に協調外交、譲歩外交、フロックコートを着て馬賊に対するような国際正義外交を日本が一方的にやってみたところで何の効果もない。所謂外交では今や全く絶望状態なのである」といい、あたかも、日中間の条約や国際条約を無視したのは中国であるとの欺瞞的宣伝を国民に対して行ったのです。 また、この満蒙問題を解決することが世界史的にどれだけ重要な文明史的意義を秘めているかを次のように宣伝しました。 「満蒙は世界的にいかなる地位を占めているか。即ち欧亜大陸の東の関門である。西反面に爛熟せる欧亜の文化は東反面の新たなる力によって、刷新復興さるべき運命を担っている。この新興勢力の通過する道が満蒙である。」これに対し「積極的態度を持し断固としてこれに臨めば、世界平和の発祥地となり、世界文化増進の関門となるべき運命を有している。」 その一方で次のような本音も漏らしています。 「満蒙に於ける事端はその何れを捉えても日本の生存権と密着し、離すべからざる因果関係を有しているのである。古往今来、何れの国を問わず自己生存権のためにする努力は絶対的のものであって、外来の圧迫、環境の如何、条約の拘束もこれを左右することは不可能である。死ぬか生きるかの境に立ったものの叫びは真実であり絶対である。 このことを判然と認識しなければならない。これを解せぬ腰の弱いハイカラ一点張りの軟弱外交は、日本の存立権を自ら犯すものであって、危険千万といわねばならぬ。」(『森格』p709~710) このあたり、近衛文麿の「持たざる国論」との接点も見えてきますね。これが、近衛文麿の満州事変に対する肯定的評価にもつながっていくわけですが、こうした森格の言説はまさに黒を白と言いくるめるもので、どうも近衛にはそれが見えていなかったようです。というのも、森の「日本との間に存する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」という中国に対する批判は、実は、彼の山東出兵以来の軍と一体となった秘密の「計画」行動がもたらしたものだったからです。 で、この森格の草稿は次のような結論で結ばれています。 「さて結論に於いて、私は先日政友会に報告した通り、支那の排日指導方針の下に悪化せる満蒙支那の解決のためには、国力発動以外の道がないと断ぜざるを得ないのである。 国民個々の統一なく連絡なき努力では如何とも効果の奏しようがないからである。ただ国力の発動とは、具体的に何を指すか、私個人としては勿論案を有しているが、今日はまだ公表し実行しうる時期に到達していないから、諸君の解釈に一任しておくより仕方ないのである。」 この草稿は、満州事変勃発直前の昭和6年9月6日に執筆されたもので、昭和6年10月号の「経済往来」に掲載されたものです。これで、森格が、石原完爾等の引き起こした満州事変というクーデター計画にどれほど深く関与していたかが判りますね。森格はそうした関東軍一部将校による行動を、文明論的に、また日本の生存権に関わる問題としていかに正当化するか、その宣伝工作に邁進していたのです。 そして、この宣伝に日本国民は見事にだまされたわけで、以後、日本人は満州事変に於ける日本軍の行動を「報償」(国際的不法行為の中止や救済を求めるための強力行為と定義される)と理解し、それを強く支持するようになりました。 最近は、これと同じ理屈で満州事変を正当化する人たちが出てきていますが、幣原外交から田中内閣における森格の行動をつぶさに観察してみれば、これが誤魔化しであることは一目瞭然です。私は、やはり、幣原外交の方が正しかったと思うし、これが継続されていれば、国際社会における日本の信用は保持され、その後の中国の革命外交と称するものが、当時の国際社会において容認されることもなかったと思います。さらに、満州における国権回復運動もそれが行き過ぎれば、当然それに対する「報償」的軍事行動も、幣原外交の元で選択されたと思います。 以上、田中内閣のもとで森格が何をやったかということを紹介してきましたが、彼は、例の「計画」に基づく行動を、犬養毅が政友会総裁となった時にも行ったのですね。それが、本稿の冒頭で紹介した、犬養毅と鳩山一郎を「統帥権干犯問題」追求の矢面に立たせた行動に現れているのです。この時、犬養も鳩山も思想的には議会政治を否定するような気持ちは毛頭なかった。ただし、政友会vs民政党という二大政党制の中で、森格に慫慂され党利党略的な行動をとった、というのが事の真相だと思います。 *この二大政党制下の党利党略という問題は、現在の民主党政権下でも露骨に現れています。 こうして森は、「統帥権干犯問題」を議会政治に持ち込み政争の具とすることによって、田中首相に続き浜口雄幸という政党政治家をテロの標的としました。さらに、犬養が政友会総裁であった時には幹事長として、また、犬養内閣の時は書記官長として、例の「計画」を裏で推進し、ついに、満州事変の処理を巡って、またもや犬養という政党政治家を海軍軍人によるテロの標的にさらすことになりました。 この日本の政党政治にとってまさに元凶というべき政治家森格の評価について、今日もそれが極めて曖昧なままに放置されていることについて、私は大きな疑問を持っています。 ところで、この森格も、ワシントン会議当時は、これについてまともな論評を下していたことを、本稿(5)で紹介しました。また、満州問題の処理についても――長くなるのでその紹介は次回に回しますが――割と常識的な考え方をしていたのです。同様のことは近衛についても言えますね。ではなぜ、森が、以上紹介したような、日本の政党政治を自滅の道に追い込むような役割を演じることになったか。また、あれだけ正論を吐いた近衛が、なぜ森の思想を認めることになったか。この辺りの事情を、次回はさらに詳しく探ってみたいと思います。 |