昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(6)
今月号(5月号)の文芸春秋の記事に「東大立花隆ゼミが半藤さんに聞いた昭和の歴史――戦争を知らない平成世代は過去から何を学ぶのか」が載っています。興味を持って読んだのですが、その中に近衛文麿に関する次のようなやりとりがなされていました。 学生 日中戦争が拡大し、泥沼の戦争になるきっかけとなった近衛文麿首相の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を、近衛が「後から直せばいいと思っていた」ということにも驚きました。 半藤 あれは、昭和史の大失言中の大失言ですね。これも統帥権が魔法の杖ではない、という一つの論拠として本の中で紹介しましたが、あのとき陸軍の参謀本部は日中戦争の拡大にむしろ反対だったんです。多田駿参謀次長は拡大派の広田弘毅外相や杉山元陸相と大ゲンカになり、最後は大元帥への「帷幄上奏」権まで使って、拡大を阻止しようとしますが、結局間に合わず近衛さんが「国民政府を対手とせず」とやっちゃうんだね。だから陸軍だけを悪役にすることは出来ないと思いますよ。 半藤氏はここで、南京陥落後、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張したのは近衛首相をはじめとする政府であり、これに対して参謀本部は交渉継続を主張した。しかし、この時参謀本部は統帥権を「魔法の杖」のように使えず、その主張を押し通すことができなかった。もしそれができていれば和平交渉は継続され日中戦争の拡大は防げたかもしれない・・・。このことを考えると、司馬遼太郎が言うように「統帥権を魔法の杖のように振り回した軍部」によって日本が滅ぼされたとは言えない。日中戦争拡大の責任はむしろ政府にあったのではないか、と言っているのです。 こうなると、この時の首相であった近衛の戦争責任は、統帥権を振り回した軍部より重いと言うことになります。確かに「国民政府を対手とせず」声明が余計だったことは近衛自身も認めています。しかし、これは近衛自身の発想というより、南京占領直後の12月14日に北平に発足した中華民国臨時政府の王克敏の要請に基づくものだったのです。ということは、それは、華北に親日的な政権を打ち立てることで蒋介石の国民党政府を否認しようとした軍の大方の意思を反映するものだった、ということです。 こうした軍の北支新政権樹立の構想を時系列的に示すと次のようになります。 「まず北支那方面軍特務部は10月28日付『北支政権樹立に関する研究』で、『北方に樹立すべき新政権は北支地方政権とすることなく、南京政府に代わるべき中央政府とし、日本軍の勢力範囲に属する全地域にその政令を普及せしむること』を提唱した。」 「陸軍省の軍務課も特務部の華北政権の中央政府化案と同様の意見を持っていた。『北支政権を拡大強化し、更正新支那政府たらしむるごとく指導し、あわせてこの地域における産業の開発、貿易の促進、治安の回復・安定をはかり、以て支那の更正を北支より全市に及ぼすごとく施策す』(10月13日)」 「参謀本部・支那課の見解もまた軍務課とほぼ同様であった。同課の11月18日付の『北支新政権樹立研究案』の結論も、『この際、自然発生の気運にある防共親日政権を方針とする北支新中央政権の結成を速やかに援助するを適当とする』とあり、新政権は『支那の真正中央政権』とし、政体は大統領制を適当とすると判断していた。」 「関東軍はもとより新政権樹立には賛成であり、11月29日付の関東軍東条参謀の上申にも『すみやかに蒋政権と交渉を絶ち、各地樹立の政権を培養し、所在にまずこれと提携し新中央政権の成立の気運を促進し、その成熟するや、機をみて日満を以てまずこれを承認し』とあった。」(以上引用『太平洋戦争への道4』p131) つまり、このような「華北政権樹立・新中央政府・国民政府との絶縁というコース」は、北支那方面軍、陸軍省軍務課、参謀本部支那課、関東軍の間で一致していた見解だったのです。では、トラウトマン和平工作において蒋介石との交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀は、こうした陸軍の華北親日政権樹立の構想についてどう考えていたのでしょうか。 確かに、多田参謀次長は、上海事変が拡大し日中戦争が長期持久戦となることを恐れて戦線を上海地区だけに止めようとしました。しかし、現地軍の要望に押される形で、南京へと潰走する中国軍に対する追撃を許可しました。ただし、11月7日には蘇州―嘉興線、11月24日には無錫―湖州線と二度に渡って進出限界線を設定しました。しかしながら、このいずれも現地軍の要望を受け入れる形で撤回し、11月28日には南京攻略を許可しました。 また、参謀本部戦争指導班の堀場少佐は、石原イズムの観念的信奉者で、上海制圧後は松井石上海派遣軍司令官と同様南京攻略を唱道しました。ただし、「攻略はせず兵を城下に止め、蒋介石との直接会談によって蒋を和戦究極の決定に導く」という「按兵不動策」を提唱しました。しかし、これは部内の反対でつぶれ、結果的には、堀場の意図したところとは全く違って、いわゆる「南京事件」につながる悲劇的な南京占領をもたらすことになったのです。 その後、多田と堀場は、南京占領後のトラウトマン和平工作の展開における第二次和平条件の策定において、陸軍内の強硬派の主張――典型的には、北支における「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」の設置――を、講和が成立するまでの保障条項として押し込めることに成功しました。これによって、堀場は「蒋介石に日本の真意(日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に相提携すること)を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできる」と判断していたのです。 だが、蒋介石はこれを信じませんでした。というのは、満州を武力で奪われた上に、北支にはすでに「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」であるところの、王克敏を行政委員長とする日本の傀儡政権=中華民国臨時政府が北支派遣軍により樹立されている。そして、これが解消されるためには、まず日本が提示した11条からなる「半植民地的」講和条件を呑まなければならない。また、それを呑んだとしても保障事項は講和後もそのまま残り、中国が日本の理想実現に真に協力的だと日本が認めた時に初めて解除される、という代物だったからです。 そもそも、蒋介石が抗日戦争を決意したのは、済南事件以降の日本との交渉を通して、(とりわけ満州事変以降)日本が政府と軍部との間で二重権力状態に陥り、かつ日本政府が軍を制御できなくなっていると見たからでした。軍は、武力を背景に既成事実を積み上げることで日中間の領土・経済問題を解決できると考えている。また、そうした軍の行動を支えているのは、自分勝手な東洋王道文明思想であり、それに基づいて日満支一体の政治・経済・文化圏構想を抱いている。それが、満州事変以降の日本軍の行動となって現れ、今日、それは、華北分離からさらに進んで、華北新政権を樹立しそれを中央政権化しようとしている。 蒋介石はそう考えていたのですから、仮に多田や堀場の主張が通って蒋介石との和平交渉が継続されていたとしても、蒋介石がそれに応ずることはなかったと思います。その結果、北支に成立した中華民国臨時政府を日本政府が承認し、蒋介石政権を否認するという同じ結果になったに違いありません。ということは、多田や堀場がこの局面において、日中戦争を泥沼化しないために取るべき措置は何だったかというと、それは、まず軍の統制を回復し、北支に日本の傀儡政権を樹立するようなことは絶対に阻止する、ということだったのです。 半藤氏は、以上述べたようなトラウトマン和平交渉の経過について、参謀本部が統帥権を行使できず、政府の交渉打ち切り方針に従った点を捉えて、軍の統帥権が絶対なものでなかったことの根拠としています。しかし、それは軍の意見が、多田や堀場等一部参謀本部員と、その他の軍人(=参謀本部支那課、陸軍省、出先軍、関東軍)との間で分裂し、かつ、多数派は交渉打ち切りを支持しており、多田や堀場の主張は、軍内では少数派に過ぎなかったことの結果にほかなりません。 一方、近衛や広田はなぜ、日中戦争を泥沼の持久戦争に陥れかねない、中華民国臨時政府の承認と、その必然的結果である蒋介石政権の否認という、軍の華北分離工作を追認するかのような施策をとったのでしょうか。彼らは、蒋介石が和平交渉に応ずる絶対条件が「(国民党による)華北の行政権が徹底的に維持されること」だったことを知っていたはずです。だから、盧溝橋事件が起こった時、戦争拡大を防止するため、この事変を「第二の満州事変たらしめないこと」「北支にロボット政権を作らないこと」を軍に約束させていたのです。 それがどうして、このようなことになったか。いうまでもなく、広田も近衛も戦争拡大には反対だった。しかし、軍は自らを統制できないまま南京を占領し、その既成事実の上に講和条件を加重して蒋介石を屈服させようとした。しかし、蒋介石にそれを受け入れる意思がないことが明らかになった後も、多田は自ら講和条件の加重に荷担しておきながら交渉を継続すべきと主張した。広田や近衛はこの参謀本部の主張の”おかしさ”について、あるいは独逸のヒトラーとの間に密約でもあるのではないかと疑った。そのため、1月11日の御前会議ですでに決定されていた通り、蒋介石との交渉打ち切りを選択した。その結果として、政府も軍が華北に樹立した新政権を容認することになり、さらに、その延長で蒋介石政権を否認する声明を出すことになってしまった・・・そんなところではないかと思います。 このあたり、広田も近衛も先に紹介したような蒋介石の決然たる抗日意思――抗日戦争を不可避と見て、これに勝利するためには持久戦争に持ち込むほかないと考えていたこと――を読み違えていたと思います。というより広田の場合は、その頃既に日本外交を壟断する軍部に対する消極的な抵抗しかできなくなっていましたし(軍のやったことは軍が自ら責任を負うべきだ、といった考え)、近衛の場合は、軍の先手を取ることで軍を思想的に掌握しそれを善導できると考えていたが、実際には、軍に担がれ利用されるだけで、その焦慮感から、世論に対して迎合的な態度を取ることになったのだと思います。 こうした近衛の失敗は、評論家的な批評はできても、それだけでは現実政治を動かす力とはなりえないことを示していると思います。もちろん、この時、近衛は首相の職に在ったのですから、その政治責任は免れないと思います。しかし、政治の実権を実質的に軍が掌握している現実の中で、軍の意思が二つに分裂し、多田等少数派の主張が容れられなかったことについて、その責任を近衛や広田に帰すのは無理があると思います。先述した通り、多田や堀場の主張が蒋介石に受け入れられるはずはなかったわけで、それは、彼らが軍の統制に失敗した結果であり、所詮身から出たさびというほかないからです。 なお、先に「近衛の失敗は、評論家的な批評はできても・・・」と言うことを申しましたが、ここで、近衛の「軍のあり方」に関する考え方を、彼の講演記録の中に見てみたいと思います。 近衛に対する一般的なイメージとしては、北支事変の際の「派兵の決定や、当初の不拡大方針を事実上転換した「暴支膺懲声明」、トラウトマン和平工作で国民政府との交渉を閉ざしたこと(第一次近衛声明「国民政府を対手とせず」)などの重大局面で判断を誤ったことが指摘されます。(『検証戦争責任Ⅱ』p212)要するに、軍のお先棒担ぎで、軍に利用され担がれただけの意志薄弱かつ無責任な人物、という人物評が通り相場になっているのです。 確かに、こうした評価は、政治家としてはやむを得ないと思いますが、しかし、彼の本来の軍に対する考え方は、決して半端ななものではなく、その主意は、いかにして軍を政治のコントロール下に置くか、そのためにはどのような政治勢力の結集が必要か、ということだったのです。ただ、お公家さんであって、それだけの政治力の結集や胆力の発揮ができなかった、ということなのですが・・・。 次に、近衛が、第一次世界大戦後の日本及び参謀本部の有り様を論じた「参謀本部排撃論」と題する大正10年の講演内容を紹介しておきます。(『近衛文麿』矢部貞治p104~105) 近衛の「参謀本部排撃論」 近衛は大正十年十月国際連盟協会の理事として、亀井陸朗、加藤恒忠らとともに愛媛県に遊説。十一日夜松山市の公会堂で風邪を押して演壇に立ち、「国際連盟の精神について」一場の講演をした。 彼は歴史的な連盟規約の調印式を親しく見て来たことから説き起し、パリに集まった列国は依然として国家的利己心を脱却せず、「痩犬が餌を漁るような醜態を暴露して、肝腎の国際連盟は誠に骨抜同様のものと化し」たとして、現実の連盟が不完全であり、「或は無効となる日があるかも知れない」というが、しかしこの連盟の生れた精神は、国際関係を律するに「暴力を以てせずして正義を以てせんとする」ことで、これは永久にわれらが深く了得すべきことだと論じている。これらの論旨は既に前に出したことと大差ないからここでは省くが、そこから近衛はわが国の軍国主義を非難するのである。 彼によれば、日本人は十九世紀から二十世紀にかけて、列国のアジアにおける帝国主義侵略主義を経験して、「人を見れば泥棒と思え」という警戒心を植えつけられたが、日露戦争に勝ってからは、「今度は人が泥棒したのだから、己が泥棒をして宜い」という方針になったとし、そのため「日本の軍国主義、侵略主義は、日露戦争後二十年間極東の舞台を事実上支配して、その結果は今日の如き八方塞がり、世界的孤立の状態を誘致するに至った」というのである。 彼はこの孤立がパリの平和会議の時如実に現われたのだとし、「当時彼地に居った我々は実に四面敵の重囲に陥って、楚歌を聞くの感があった」と言い、これを「光栄ある孤立」などと言った者もあるが、当時のごうごうたる悪声怒罵の中で、「日本は決して侵略主義の国に非ず、支那人のプロパガンダの如きは、全然事実を謡うる甚しきものである」と、キッパリ断言し得る者は一人もなかったとし、誤解や誇張もあったけれども、「我々の如き従来わが軍閥の支那西比利亜に対する所謂ブンナグリ、ヒッタクリの方針に対し眉をひそめつつあった者は、かかる批難攻撃に対して、実は心中甚だ忸怩たらざるを得なかった」と告白している。 そこで日本が今後国際舞台で局面を展開するには、列国をしてわが国を批難攻撃せしめるような原因を除くことが根本だが、その一つとして近衛は参謀本部制度を指摘している。 要するに我国の参謀本部というものは、独乙を学んだものであって、独乙軍閥亡びて後の今日は、世界に於て唯一無二の制度であります。故に我国を目して軍国主義侵略主義の国であるとし、第二の独乙であるとする人々に取って、此の参謀本部の制度というものは、有力なる例証を提供しつつあるのであります。 一体我が参謀本部は、国防及用兵の事を掌り、其の職能は軍令事項の範囲に限られて居るべき筈であるにも拘らず、参謀総長は往々軍政事項にも干渉する。そこで参謀総長と陸軍大臣とが衝突するという様な例も、最近に起ったのでありますが、参謀本部は更に外交上にも干渉して、外務省と衝突する。所謂軍人外交、軍国主義の批難は、主として参謀本部が外務省に掌肘を加える処から生ずるのであります。陸軍大臣の方は、一方に於て帷幄上奏という如き甚だ非立憲的な行動を許されて居るけれども、他面に於ては閣議によって拘束せられるし、又議会からも糾弾せられるのであります。然るに参謀総長に至っては、議会に対しても閣議に対しても何等責任を負う所がなく、又之を負わせる道が絶対にないのであります。 そこで日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これでは到底議会政治、責任内閣の発達を遂げる事は出来ぬのであります。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の批難を免れる為には、是非とも此の参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何よりの急務であると信ずるのであります。と頗る激烈である。 近衛は、根本問題は、日本国民全体が国際関係に対し、もっと進歩的な自覚を持つことだし、日本の教育が一旦緩急の場合、一身を国に捧げるというようなことを重んじて、「平和的なインターナショナル・シティズン」の養成を忘れていると非難し、支那や加州での排日を憤る前に、先ず自ら深く反省の要があるとし、「私は国民の国際関係に対する思想が今日の如き状態であるに乗じ、狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する様な場合を想像して見ますと、誠に慄然たらざるを得ぬ」といい、それだから国際連盟の精神を、広く一般人に理解体得せしめることが、極めて大切なのだと説いているのである。 近衛のこの講演は、聴衆に多大の感銘を与えたようである。同地の新聞が皆感激の調子で報じているが、一新聞(海南新聞)は、「真率にして偽らず、直言して諱まず・・・公が軍閥の弊を決剔し、軍政の陋習を指摘すること峻烈にして、毫も仮借する所なかりしは近来の快事」と評している。又一般に近衛が華族特権階級の子弟でありながら、旧慣を打破し因襲より脱却して、社会的に有為の活躍をしていることを取上げて、讃辞を呈している。 この点は地方新聞のみならず中央でも同じで、大正十年三月二十六日の東京朝日新聞など、「公卿華族の社会的特権を奉還して、一平民となりたい希望を漏らした華冑界の新人近衛文麿公」と書いているし、どこでも近衛は、「華冑界の新人」とか、「新人公爵」とか、「華冑界の新思想家」などともてはやされ、一躍時代の寵児となった感があった。(『近衛文麿』矢部貞治p104~106) これは、その後の軍の統帥権問題の発生と、その結果日本が陥ることになった二重政府状態の危険性を、その10年前に予言したものと言うことができます。そして、こうした日本の参謀本部の有り様が、国際社会をして日本を「軍国主義・侵略主義」と見なす根拠になっていると指摘しています。あわせて、そうした国際社会の批判に乗ずる形で、日本において「狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する」状況が生まれていることに対し、鋭い警鐘を鳴らしています。 当時、これだけの言論を展開し得た人物は政治家にはいなかったわけで、その彼がどうして、彼が危惧した通りの現実に際会する中で、その透徹した見識と決然たる意思を示すことができなかったのか、次回はこの謎を森格との関わり合いの中で探ってみたいと思います。 (最終校正4/19) |