昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(5)

2011年4月 4日 (月)

 前回の本エントリーで、「大正期における日本外交の最大の失敗とされる『対華二十一箇条要求』問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていた」と述べました。といっても、これがワシントン会議の中心議題であったわけではなくて、一つは、第一次世界大戦後の軍縮問題、もう一つは、極東及び太平洋地域における国際関係の調整及び安全保障体制の再構築という問題でした。
                            
 もともとは、ワシントン会議が海軍軍縮会議と言われるように、海軍軍縮問題がその中心議題だったわけですが、それに付随して日英同盟の存続(1921年更新)が新たに問題となりました。なぜかというと、第一次世界大戦中、日本は日英同盟に基づき対独参戦し、膠州湾及び山東のドイツ軍を攻撃・占領し、次いで中国に二十一箇条要求を突きつけ、さらに赤道以北のドイツ領諸島を占領したことに対して、アメリカが警戒心を持つようになったからです。

 アメリカは、将来これらの地域において日本との対立が生じるようになった場合に、日英同盟がアメリカに不利に働くことを警戒したのでした。ただ、正面から日英同盟破棄を主張することはできないので、軍縮会議のために招待する日・英・仏・伊の他に、支那と極東に関係のあるベルギー、オランダー、ポルトガルを加えて九カ国を招き、極東及び太平洋問題を議題とする会議を開くことにしたのでした。

 これに対して日本は、軍縮問題はいいとしても、極東及び太平洋問題で何を議題とするか判らないので参加保留としました。日本としては、二十一箇条問題を中国との直接交渉で何とか解決しようとしていたのですが、中国はこの問題を国際社会に訴えることで廃棄に持ち込もうとしていたのです。そこで幣原(駐米大使)は、ヒューズ(アメリカ国務長官)にこの問題についてアメリカが公平不偏の態度を取ることを求め、ヒューズはこれに応じたので、幣原は日本政府に会議參加を進言しました。

この会議における日支交渉の経過については前回紹介しましたので、ここでは、極東問題(=支那問題)の具体的解決策となった九カ国条約と、日英同盟に代わる安全保障枠組みとなった四カ国条約について述べたいと思います。 

 まず九カ国条約ですが、その基本的性格はその第一条にほぼ尽くされています。

第一条 支那国以外の締約国は左の通り約定す
(1)支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2)支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3)支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4)友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること

 これをわかりやすく言うと、(1)は、支那の主権を尊重し、内政干渉しない。(2)は、支那に安定した統一政府が樹立されるよう協力する。(3)は、支那における商業・工業上の機会均等に努める。(4)は、支那の情勢を利用して自国の排他的・特権的利益を求めない、となります。

 ワシントン会議において、このように、支那をめぐる列国間の外交的原則が確立されたことについて、後年日本ではこの会議を「失権会議」と呼び、これを推進した幣原外交を「軟弱外交」として非難する声が高まりました。

 曰く、この会議の結果「日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定がアメリカのルート四原則によって破壊された。支那に対する九カ国条約、四カ国条約によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果となり、日英同盟は破棄された。また、海軍軍縮会議では日米英間に五・五・三の屈辱的条約が結ばれる等、日本の「失権会議」に終わった。せっかく伸びかけた日本の芽は摘まれた」と。

 しかし、このワシントン会議が開催された当時の日本外交が直面していた課題は、第一次世界大戦以降、欧州各国の間に軍国主義打破の気運がみなぎる中で、日本を第二のドイツ、東洋における軍国主義国なりとする疑念を、いかに払拭するかということにあったのです。とりわけアメリカの対日警戒心をいかに和らげるかが、日本外交の中心課題となっていました。

 そのため、日本政府の「華盛頓会議帝国全権委員に対する訓令」の一般方針の重要事項には、次のようなことが述べられていました。

(一)世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進は帝国外交の要諦であるから、この目的達成のため努力すると共に、我が国に対する従来の誤解誤謬を釋(と)くよう努力すること。

(二)今回の会議は先づ軍備制限問題を討議し次いで太平洋及び極東問題の討議に移るよう主張すべし、もし会議の情勢上右主張貫徹し難き場合は両問題を平行討議するよう措置すること。

(三)太平洋極東における恒久平和の確立を主眼とする日英米三国協商案を提唱するに便なる形勢を誘致するに努力すること。

(四)日米英三国協商と関連して日英同盟存続の問題考量せらるるにおいては日本はこれを猶存続せしむるも妨げなし(後略)

(五)米国をして国際連盟に参加せしむるよう努力すること。

  そして、太平洋及び極東方面における一般平和を確保するために、太平洋方面における列国領土の相互尊重、列国領土に商業及び産業上の機会均等主義を適用すること。支那問題については、一、中国の政情安定を図りかつ将来の福祉の増進のため文化及び経済両方面よりその平和的進歩の助成をはかること。二、中国の領土保全、門戸開放、機会均等主義を尊重すること等が必要であるとしていました。

 こうした訓令を受けて、日本はワシントン会議に臨んだわけですが、この会議に先立ち、幣原は、アメリカのカレント・ヒストリーという月刊雑誌の求めに応じて、この会議に臨む日本側の立場と政策を次のように説明し、アメリカ人の対日警戒心の払拭に努めました。

 「先きごろの世界大戦は、米國の地位を金城鐵壁にした。どの國民も國家的自滅の危険をおかす勇気なしに、米國に向って戦争しかけることが、出来るものではない。欧羅巴は二千五百哩はなれた米國に何等の威嚇を與へてをらぬ。欧羅巴諸國は、この恐るべき疲痺の際に、緊急に必要とする救援を、米國に待望しているといふ事実を片時も忘れるものではない。國家的な力は拡大した軍備の力に存するのてはなくて、産業組織の完成と進歩の中に存する。米國こそはその事実の巌然たる生きた標本である。

 然らば日本はどうか。その人口を養なふのには余りに國土が狭く、いまや工業國へ転換の過渡期に直面していて、その市場も、原料の供給も外國に依存している。だが米國大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか。

 然し取り越し苦労性の人間はまたその先きを考へている。日本は比律賓の攻撃ができるのではないかといふのだ。が日本は少しも比律賓を望まない。香港、佛領印度支那、その他西洋諸國の領有してゐる東洋各地に對しても同様である。然り、日本はそれらを望まない。只もしそれか敵の手に落ちるならば日本に對する威嚇として考へるであらうが、然しそれらの國が、日本に對する攻撃計画を立てぬといふ保障を輿へてくれるなら、それで満足する。

 然かるに反日的批許家はまた、日本が支那を廣大なる黄禍計画の中に織りこむ意図があるといって攻撃する。「黄禍」といふ悪意に充ちた造語は米國人士の記憶にも新たなる通り、独逸のウイルヘルム二世の発明にかかり、吾々の間を反目させ、米國の目を彼の戦争から外らせようと企てて失敗したものである。もしそんな考へが未だに米國に残っているなら、それは日本が、そんな野望は達成が不可能てあることを明白に認めているのに、米國ではそのことを認識していないことを証明する。

 第一、それを達成しようと企てるなら、すでに極東に大きな権益を持つ全ての諸國民と、日本は正面衝突せねばならぬ。第二に、中國を組織し直し、訓練するばかりか、政治的にも統治するなどといふことは、到底手に合うものでない。それが不可能である事は、幾代の歴史が証明している。支那はたびたび侵略され、また征服せられた。然し乍ら何日でも、さうした冒険の終局は、征服者の方が中國の大衆の中に同化させられてしまっているのである。さうでないにしても、征服された國民が戦争の利得の一部をなす筈は決してない。日本が欲しているのは平和と友愛である。戦争と敵ではない。

 支那が安定し、繁栄して生産がゆたかになり、購買力が旺盛になることは、日本にとって大きな恵福となるであらう。支那の門戸開放や機會均等は、日本にとってたとへ現実の救ひとならぬとしても、経済的意味がある。支那資源の開発に注がれる何百萬のドルもポソド、スターリングも、フランも、直接に同量の円の節約になる。それは支那にとっては購買力生産力が増加する繁栄を意味し、日本にとっては出費の減ることを意味する。つまり日本にとってもグッド・ビズネスである。

 支那に於ける日本の目的 然し支那を助けるための機會均等、そしてそのやうにして吾々自身を助ける道には、日本も參加を拒否せらるべきではないのである。吾々は豊富な資源を持つ米國のやうに、自立は出来ない。又吾々は世界中に足場を持つ英國のやうに、自由に自分の要求を充たし得る帝國でもない。日本の廣さは米國のモソタナ州とほぼ同じで、そこに六千萬の人口を擁している。英國と同じく食糧を海外に求め、生産物は外國市場に売り捌かねばならぬ。支那の市場と資源は他の國々にとっては、ただ貿易を増やすといふ意味を持つだけだが、日本に取っては死活に関する必要である。

 日本も、我々の生存を確保するためには工業化せねばならぬ発達段階に達した。亜細亜大陸は、我等の貿易のための材料に富んでいる。我等はそこに機會均等の権利を要求し、他國との競争に於いては地理的地位以上に何の特権をも必要とせぬことを保証する。我等は関係諸國みんなに「生活し、そして生活せしめる」といふ方針の採用を望むだけのことである。

 非難者の言に従へば、日本は支那の資源と市場の開発に於いてその國有の諸権利を支那から剥奪するといふ事になる。が、実際はその正反對である、日本であらうと叉英國や米國であらうと、その企画と投資の結果、開発さへされるなら利得する者は支那なのである。正直にいふと、どこの海外貿易者にもあり勝ちなのだが、支那貿易の従事者の間には実に手のつけられぬ無法者がいる。不正直の競争者はどこの國にでも多いので、ひとり日本の独占ではない。無組織の後進國は自國の叉他國から渡来したこれらの人物の犠牲とされる。然し亜細亜大陸は、外國人によって可能ならしめられる農工業によって、多くの恵福を受けることが第一である。

 たとへば南満鍼道線に就いていふと、そこは日本があの鍼道を支配する以前は、あの辺りの住民は匪賊の被害で困りぬいたものである。今やそれが支那から一掃され、秩序と法の制度が生命と財産を安定させる状態になったので、支那人はこの新らしい繁昌地に、きそって集りつつある。荒涼たる蒙古の大砂漠の一角をなして、人が住みつかうとしても死滅の脅威にさらされていた地方にも、今や農業が繁栄して、収獲の季節になると、農業労働者がなだれを打って集る状態である。そして数十萬の支那人が毎年山東と直隷を越えて、収穫期が過ぎると南方の家郷に冬を楽しく暮すため、その賃金を持って帰って行く。

 開発の計画されるところ、その結果は必ず全世界を利する。現在米國は支那との多くの仕事を、屡々日本と共にしている。支那の國土と天然資源はそれらを容れて余る程厖大である。支那に於いては米國は英國向けの維貨品貿易のある部分を失ったかかも知れない。その代り紡織機械の仕事を獲得した。(『幣原喜重郎』幣原平和財団p239~241)
(以下、山東問題に移るが、この部分は前エントリーで紹介したので省く)

 これを見れば、ワシントン会議当時、日本に向けられた国際社会の猜疑の目がいかに厳しいものであったかがわかるでしょう。日本は山東問題で中国と対立し、シベリア問題も撤兵はしたもののソ連との関係は険悪であり、アメリカからはその軍事力増強(八八艦隊の建造計画など)を警戒され、日英同盟は効力を失いつつあって、華盛頓会議では日本のみが被告席に立たされるのではないかと危惧されていたのです。

 こうした国際社会の猜疑を招いた従来の日本の外交方針を「世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進」という方向に転換しようとしたのは、実は、日本初めての政党内閣首相となった原敬でした。彼は、日本の外交政策に対しては、従来往々「誤解誤謬」があるので、この機会に帝国の真意を闡明にし、国際間の信望を増進することに努めること。特に米国との親善円満なる関係を保持することは帝国の特に重きを置くところであり、ワシントン会議においてもその関係をますます強固にするよう力を尽くすことを日本全権団に求めていたのです。(『本懐・宰相原敬』参照)

 こうして日本は、軍縮条約に調印すると同時に、九カ国条約によって、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等を約束し、山東問題については中国に大いに譲歩し、二十一箇条問題に関しては第五号案の留保を放棄したのみならず、多年東洋平和の主柱とされた日英同盟条約の廃棄に同意しました。ただし、これに代わって成立した四カ国条約には、軍事的な相互援助の規定は何も設けられていませんでした。(このことに関する批判については別の論じる)

 従って、これを批判的に見ると、いかにも米国に都合の良い極東新秩序の押しつけに屈したかに見えます。しかし、これによって日本は、従来の世界的な孤立状態から脱却し、世界の平和秩序の維持に責任を有する世界五大国の一つに列せられることになったのです。また、一見日本が譲歩したかに見える事柄についても、山東や満州における日本の条約上の権益はしっかり確保されており、その上で中国における日本の資本的発展と商品市場の獲得が保証されれば、地理的・経済的・技術的条件からいって日本が不利になるはずはない、と考えられていたのです。

 従って、こうしたワシントン会議の結果については、確かに、国内的には部分的に種々なる批判はありましたが、国家としてはもちろん、多数の有識者も何ら不満を感じなかったのみならず、また外国専門家の批評においても、寧ろ日本は多大の成果を収めたという意見に一致していたのでした。こうしてワシントン体制は、その後暫くの間、世界の平和維持機構の中核となったのです。

 幣原は、1922年2月4日の第6回国際連盟総会で次のようにこの会議に臨んだ日本の態度を闡明しています。

 「日本は條理と公正と名誉とに抵触せざる限り、出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思はない。日本はその提供した犠牲が國際的友情及好意の大義に照して、無益になるまいといふ考への下に欣んでいるのである。日本は支那に急速なる和平統一が行はれ、且その廣大なる天然資源の経済的開発に對し、緊切なる利盆を持つものである。

 日本が主として原料を求め叉製造品に對する市場を求めねばならないのは実に亜細亜である。其の原料も市場も支那に善良安定の政府が樹立され、秩序と幸福と繁栄とが光被するに非らざれば得られない。日本は支那に数十萬の在留民を有ち巨額の資本を投下し、然も日本の國民的生存は支那の國民的生存に依存すること大なる開係上、他の遠隔の地に在る諸國よりも遥かに大なる利害関係を支那に有つことは当然である。

 日本が支那に特殊利盆を有つといふことは単に明なる現実の事実を陳ぶるに過ぎない。それは支那若くはその他の如何なる國に對しても有害な要求または主張を仄めかすものではない。日本は支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図にも動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。どうして日本は公正且正直に行はるる限り、支那市場に於いて外國の競争を恐れるのか。日本の貿易業者及実業家は地理上の位置に恵まれ、叉支那人の実際要求に付ては相当の知識を有って居る。従って彼等は別に優先的若くは排他的福利を有たずとも、支那に於ける商工業及金融的活動に於いて十分やって行けるのである。

 日本は支那に領土を求めない。併し日本は門戸開放と機會均等主義の下に日本のみならず、支那にも利害ある経済的活動の分野は之を求める。日本は國際関係の将来に對し、全幅の信頼を抱いて華盛頓に来た。然して今やその信念を再確保して華盛頓を去らんとしている。日本はこの会議が善い結果を齎らすと思ふた。然して賓際よい結果を齎らした。

 今や國民的福祉を破滅し、国際平和に有害なる海軍軍備の競争は過去のこととなった。海軍軍備の制限、野蛮な戦争方法の禁止、支那問題に関する政策の確定を規定する諸協定の成立のよって緊張は解けた。本會議は亦太平洋の委任統治に関する困難なる問題並に更に困難なる山東問題を解決する機會を与へた。」(上掲書p254)

 これを、先の幣原のカレント・ヒストリーに載せた主張とも合わせてみると、この時代の日本の要路における外交的知見がいかに格調高いものであったか判ります。これを、当時の国際政治あるいは支那の現実を無視した理想論だったと批判することは簡単です。しかし、当時の世界が、帝国主義的な国際関係から外交交渉に基づく平和的な国際関係へと転換を図ろうとし、日本もそれに全面的に協力しようとしたことを軽視すべきではありません。

 この点は、本論の主題である近衛文麿についても同様です。彼は当時、憲法研究会なるものを少壮議員と共に組織し、政党政派を超えて時事問題を研究しており、太平洋問題については次のような見解を表明していました。

 「太平洋問題について会合したところ、色々な議論が出たが、我我は今度の太平洋会議は、列国の我に対する誤解を解き、信用を恢復して、国際的の関係に一新生命を開く絶好の機会であると思っている。そこで我政府に希望するのだが、この機会に日本の公明な立場を宣明して貰いたい。シベリア出兵とか、山東省に於ける軍事的施設とか、幾分なりとも列国から疑いの目で見られている障碍があるなら、会議に先だって之を除いて貰いたい。列國の我を中傷する原因あらば、之を悉く除いて会議に臨んで貰いたい。

 かくて我が自由と公正とを列国に明瞭にせねばならぬ。このほかこの機を利用して、対内的にも国民の国際関係に対する進歩せる自覚を起させることが肝要である。桃太郎主義に就ても、他国を侵略し自分独りお山の大将になるというような国民性が我にありはしないか、若しありとせばかかる国民性では、今後の国際政局に立って行く事が出来ぬという教訓を与える絶好の機会である。又縷々聞く軍人政治とか、軍閥政治とかの批評に対しても、深く自ら反省する要がありはしまいか。若しかかる疑いの目を以て見らるる制度ありとせば、速に改革すべきである。

  我々の希望としては、米国、濠洲、印度、支那その他各方面に対して、門戸を開放せんことを望むものであるが、これは一朝にして達する事は困難であろう。されど支那に対しては絶対的の機会均等、門戸開放を望むものである。或論者は、米国が今日の如き態度を取っている以上、無条件で支那の門戸開放に応ずることは出来ぬというが、我々は飽迄も機会均等で、特殊の利権に膠着するのは宜しくないと思う。近時の形勢を見るに支那に対しては漸次共同管理の傾向が見えるが、我国としてはあくまで支那の主権を尊重し、列国と力を合せて支那の開発に努むべきものである。」(『近衛文麿』矢部禎吉p99~100)

 また、驚くべきことに、後年、幣原外交を「軟弱外交」と批判して若槻内閣を退陣に追い込み、山東出兵を強行して蒋介石の中国統一を妨害し、さらに、張作霖事件を引き起こして日中間の外交的基盤を崩壊させ、他方で東方会議を主催して日本の大陸政策を軍事的強行路線に引き戻した政友会代議士森格も、大正12年頃には、ワシントン会議の結果について次のような評価を下していたのです。

 「(上略)又我々は國力の実際と國際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ國策を議するは頗る危険であります。世には國力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるか如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓會議を以て我現下の國力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政會の諸君は大なる失敗なり、米國の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。

 諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三國干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ國力足らざる結果であります。仮に憲政會の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。

 我々は米國を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本國民の堪ゆベからざる處であります・我國の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米國に買われるのであります。米國と國際的に對抗する時はこの生糸が買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬梱の生糸は売る場所がなくなります。

 この結果は我が農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我國の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米國より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績か大部分休業するに至ったらば如何なる結果が國民生活に来るでありませうか。國家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。

 幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友會の力を率いて能く國論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく、内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(闘東大震災)に遭遇し、國家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らず、幸に外憂の心配なく國威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。

 是れをしても外政上の大成功といはずして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、國力の賓際に無理解なりし國民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まっで国民が当時の國力の実際と國際開係を理解するに及び、この講和條約が能く國家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」(『森格』前掲書p458)

 ああ、森格がその後党利党略に走ることなく、この常識を維持し、近衛が、彼の影響を受けることなくその人道主義的見識を維持していたならば、幣原がかって一笑に付したような愚かな選択――日本と米国大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか――が現実のものとなることはなかったろうに・・・。

 ではなぜ、このような「常識の恐るべき転換」が日本国民に起こったのか、次回はこの点について考えてみたいと思います。