昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(4)

2011年3月 4日 (金)

 前回は、近衛文麿の思想を、大正7年に彼が書いた「英米本位の平和主義を排す」によって見てみました。この論文は、第一次世界大戦が終結する直前、彼が27歳の時に書かれたもので、多分に、この時代に流行し始めた社会主義的理想主義の影響を受けていました。それだけに、帝国主義批判の口吻も強かったわけですが、ベルサイユ講和会議に参加した後に書かれた「欧米見聞録」の中では、より客観的かつ重要な指摘がなされています。

 第一は、国際連盟について、それがともかくも実現を見るに至ったことを前向きに評価し、また、アメリカのウイルソン大統領が果たした役割を積極的に評価しています。特に、ウイルソン大統領が提案した「十四箇条の平和原則」に、植民地問題の公正解決のための「民族自決主義」が掲げられ、それが一部採択されたことについて、これを「多年圧制に苦しみたりし幾多の弱小民族に新たなる希望と光明とを資した」ものとして高く評価しています。

 この十四箇条には、第1条:秘密外交の廃止(列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱したもの)、第2条:海洋の自由、第3条:経済障壁の撤廃、第4条:軍備の縮小、第5条:植民地問題の公正解決(「民族自決」の一部承認)、・・・第14条:国際平和機構の設立などが掲げられていました。

 この、第1条:秘密外交の廃止については、「今日秘密外交の時代全く去れりと即断するのは軽率のそしりを免れないが、・・・今日の如く万機公論に決するの世となりては、・・・外交もまた自然と公開的性質を帯び来たらざるを得ず。しかしてプロパガンダは実にこの時代の必要に応じて生まれ出でたる外交上の新武器に他ならざるあり」として、外交におけるプロパガンダの重要性を指摘しています。

 また、これに応じて外交官制度を刷新する必要のあること、そのためには、外交官への人材登用の門戸を開放すべきことを提案しています。さらに、「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達した」のであるから、これからは「日本人の心胸を今いっそう世界的に開拓する」必要があることを力説しています。

なお、注目すべきは、近衛が「米国の排日」について言及している点です。近衛はこれに関して、日本が第一次世界大戦でドイツより中国の山東半島の利権を奪い取ったこと(対支二十一箇条要求による)が、米国において、「日本は第二のドイツにして支那を併呑する野心を有す」「山東は支那の咽喉にしてこの地を日本に与うるはこれ東洋の平和ひいては世界の秩序を乱す所以なり」との批判が盛んになされていることを指摘しています

 そして、これが米国における排日的気分の源流になっていることを指摘しています。確かにここには種々の原因が考えられ、人種的偏見や日本の成功に対する嫉視、さらには日本人自身の問題としてその「非同化性」も考えられる。しかし、最近の最も有力なる動機は、日本をもって軍国主義の国なりとなす支那側のプロパガンダが米国の知識階級を動かしたことにある、といっています。

 そして、これらの支那側のプロパガンダは、従来の我が国の対外政策を針小棒大に言いふたした結果ではあるけれども、「元々火の無き所には煙の昂る道理なし。この点に就きても、我が国民は一歩退きて深く自ら戒むるところなかるべからず」。といっても、これは決して軟弱外交を賛美するものではないが、「今日の世の中において戦国策そのままを実行せむとするが如き軍閥一味の人々に対しては、余は疾呼してその不謹慎を鳴らさざるを得ず」と警告を発しています。

 問題は、ここで近衛が「不謹慎」をいっているのは軍閥一味のどのような行動を指すのか、ということですが、一方では「抑も面積狭くして人口の溢れつつある我が国が外に向ひて膨張するは誠に自然の勢いにして、我が国民たる者は宜しく正々堂々と自己の生存のためにその発展の地を要求すれば可なり。然して我が国のこの立場を米国人その他に篤と了解せしむるためにプロパガンダの必要起り来る」というようなことを言っています。

 ここに、前回指摘した近衛の主張における矛盾が露呈しているのですね。ここでは、前回示した「平等主義」「人道主義」の理想に加えて、「民族自決主義」も出てきています。これらの理想と、日本が「自己の生存のためにその発展の地を中国に求める」こととはどのように整合するのか。これが後に近衛の「持てる国」「持たざる国」論に発展していくわけですが、ここでは中国は「持てる国」に組み入れられてしまっているかのようです。

 さて、ここで、前回示した第一の問題点――近衛が主張しまたは称揚した国際政治における「平等主義」「人道主義」「民族自決主義」「機会均等主義」がワシントン会議においてどのように処理されたかということ――について見てみたいと思います。

 次の記述は、幣原が、ワシントン会議において「二十一箇条要求」問題、九カ国条約及び山東問題の処理をどのように行ったかについて、大東亜戦争中に清澤洌に口述筆記させ、自ら校正して書き残したものです。

 「華盛頓(ワシントン)会議の議題は大別して二つあった。一つは五ケ国の軍縮問題の討議であり、他は中国に開する九ヶ国条約である。この外に太平洋方面に於ける島嶼たる属地及領地に関する四ケ国条約があるが、これは会議の招請状には書いていない。また山東会議に就いても、これを会議の中に含めるのならば会議参加そのものを御免蒙るというのが、日本の建前であった。

 太平洋及極東問題委員会で一番の問題は、大正四年の日支条約(二十一ヶ条要求と俗称せらるるもの)が出るであろうということであった。支那はこの会議を利用して、該条約を廃棄せんと準備怠りない。既に彼等は本問題を委員会に提出した。当時、私は病床に引籠り中で会議に出席することが出来ず、日本代表部は意見を留保したまま討議を延期していた。米国側ではこの討議は、過去の経過に顧みても日支間の反感を激発し、その影響するところ会議そのものが駄目になる危険があると心配していた。

 私はこの問題はこの際明確にして置いた方がいいいと考えたから、進んで第三十回委員会(二月二日)に出席した。そして日本の立場に就いて三つの点を力説した。第一に支那委員は巌に存している条約をこの会議に出だし、これを無効に帰そうとしているようだが、これは無理不当である。支那は如何なる論拠を以てこれを破棄せんとするのであるか。所謂二十一ヶ条要求の中には既に消滅しているものもあるし、また現存しているものの多くは任意に承認したものである。

 元来、条約は批准によって効力を生ずるのである。この批准に対し、日本は果して圧迫したことがあるか。第二に、若しこうした会議に於いて古い問題をとらへ、古疵を洗いたてて、これを無効に帰せしめる先例が開かれることがあれば、それほど危険なことはない。どこの国にも古疵はある。そうした弊を起す先例が開かれると、国際間の安定感はなくなるので、この会議の崇高なる目的とは一致しない。私は先づこう理論を述べて置いて、第三点として次のような大局論を説いた。

 当時、日本が最後通牒を発したのは、遷延に遷延を重ねた交渉を速やかに結了するための方法であって、多くの条項はその前に既に支那委員が実質上同意したものなのだ。然しその後の事情の変化によっていま茲に三つの声明をする。

 第一に日本は南満洲及東部内蒙古に於ける借款の優先権を、最近組織された国際借款団の共同事業に提供する。

 第二に日本は南満州に於ける政治、財政、軍事、警察等に付日本人顧問を傭聘する旨の日支取極があるが、この優先権を放棄する。

 第三は所謂二十一箇条要求の中で保留して居った第五項は改めてこれを撤回する。

 こういう点を明らかにしたが、これ等は要するに日本が南満洲において独占権を振りまわす意思のないことを示したものに外ならなかった。それ等は実際問題として何れも高閣に束ねて実行していなかったものであり、この場合日本の誠意を示すに必要だと考えられたものであるからだ。

 私の陳述が終ると、その日の委員会はそのまま閉会になったが、米国全権の一人であり、米国法曹界の先達であるエリヒユ・ルート氏が会議後、「一寸来てくれ。」といって私を隣室に連れて行って非常に喜んだ。「実は自分は日本の立場に身を置いて、どんな風に説明したらよいかといろいろ考えてみた。ところが今日の御説明を聞くと、自分がこういう風に説明したらと思ったことをその通りにいわれて、非常に満足をした次第だ。日本の立場がああしたものであれば、この問題に就いて米国代表部に関する限り貴方に迷惑はかけぬつもりだ」といった。

 翌日の会議で支那の全権王寵恵氏が、予の意見に対し長々しい意見書を発表したが、誰も聞く風もなく如何にも退屈に見えた。後にヒューズ氏が起って米国の立場を述べたが、これを裏から見れば、私のいったところを承認したものであった。たとえば「満州に於ける居住、旅行、商租権、農業の合弁の権利等に就いては米国はこの権利に均霑する」というのである。

 ヒューズ氏がそれ等の権利に米国人も均霑するということは、条約の有効を承諾しての結果であって、こういわれてみると、支那側は何とも云えなくなってしまったのである。ルート氏が云ったように、内部で纏めてくれたことがこれで明らかになった。右のような事情で所謂二十一ヶ条問題は、心配したが意外に早く終結したのである。支那問題として残る厄介なのは山東問題だが、これは華府会議の外で、日支の直接交渉として解決することとなった。」(『幣原喜重郎』幣原平和財団p222~224)

 このことについて、この書では次のような解説がなされています。

 「幣原が陳述した前記論文の中には相当重大なる意味が含まれている。即ち対支二十一ヶ条の中に、「他日を期して交渉を進むべし。」として保留してあった希望条項(問題の第五項として内政干渉の非難をこうむったもの)を自発的に撤回し、同時に又満蒙に於ける投資優先権も放棄する旨を声明している。その結果、「満蒙に於ける特殊利益」を認めた一九一七年の石井ランシング協定は自然に廃棄されることとなったのである。(条文で廃棄がきまったのは一九二二年四月十七日)

 それから租借地の還付問題は膠州湾の租借地を返したが、これは世界最初の例だといって、当時評判になったものである。而してこれに倣って英国は威海衛を、佛国は廣州湾(これは主義として)を、それぞれ返すことを承諾する旨、華盛頓会議で声明した。尤も同じ租借地でも、英国は香港の防衛上、九龍を手離すことを肯んぜず、日本もまた旅順、大連の両港を有する関東州は断じて返すことが出来ないと声明したのである。斯くて残る問題は九ヶ国条約のみとなった。これに関する幣原の陳述は次の通りである。」

 「華盛頓会議の委員会で出来た九ヶ国条約の中には誰も知るように門戸開放、または機会均等に関する規定がある。これに就いて世には、この規定は日本の対支経済活動を掣肘するために、英米が発案したものであるように説くものがあるが、それは事実ではない。機会均等主義の製造元は寧ろ日本なのである。元来日本は日英同盟以来、支那に於ける門戸開放又は機会均等主義を以て支那の対外開係を律する重要原則として、一貫してこれを主張して来ている。支那に関して日本と列国との間に締結した条約でこれを謳っていないものは殆んどないのである。

 華盛頓会議が開催される前に私はヒューズ氏に会ってこれに関する我が立場を明らかにして置いたことがある。私の考えによれば「我国は支那に於いて独占権を主張する必要はない。支那の自然の発達に委せて差支えない。否、それどころか、機会均等ならざることが却って日本の発展を阻碍するのだ。例えば日本品に対してボイコットをやって、英米に許すところの商業を日本に対し妨害する。これは機会均等ではない。或はまた日本の悪口を計画的、組織的にいって邪魔をする。これも機会均等主義の違反だ。

 日本の支那に於ける経済的発達が、もし優先権や独占権のおかげならば、それは温室育ちの植木と同じで駄目である。私は日本の商業は、そんなに弱いものであるとは信じない。従って外部的の擁護は要らない。公明正大な立場で正々堂々と取組んで充分だ。」そんな意味のことを、私はヒューズ氏にいった。彼は、「そういうことなら米国としては少しも嫉妬する必要はありません。御希望通りにおやりになって少しも差支えない。」といった。

 そういう訳で第六回総会(二月四日)の演説でこのことを主張したのである。だから九ヶ国条約はこちらから希望したものであって、押えつけられてやったものでも何でもないのである。

元来私は門戸開放と機会均等との関係を研究(略)した結果、機会均等主義で困るのは日本ではなくて、寧ろ欧米だと考えていたのであるが、この主義のことは九ヶ国条約第三条に規定された。同条第一項には支那の一定地域に於ける商工業又は経済的発展に付、福利の概括的優越の地位(General Superiority of Right)を設定する取極を禁ずると共に、第二項には特定の商工業又は金融事業を遂行する必要なる財産又は権利の取得は妨げなき旨の規定かある。

 右条文を解釈するときは、例えば特定の鉱業、鉄道、農業、金融等の事業に開する財産又は利権の如きは門戸開放、機会均等の主義に反することなくして取得し得らるるのであるから、支那の資源開発を目的とする本邦人の活動が妨げらるるものではない。現に本主義の下に外国人も斯かる利権を取得し経営する実例が多いのである。そんな関係で九ケ国条約にこの規定を設けたのは、実は日本がイニシアチブをとったからである。

 (三)門戸開放、機会均等主義は商業的であるに對し所謂二十一ケ条要求は政治的であるといっていいであろう。所謂二十一ケ条要求はそれまで溜まっていた数百件の日支間の案件を、欧洲戦争の勃発したのを機会に一挙に解決してしまおうとしたのが、その狙いであったであろう。その中には空論に動かされ挿入したものもあったかも知れぬ。たとえば佛教を布教する権利なぞは全くそれだ。

 次に西比利亜(シベリア)出兵問題も、会議では余り問題にならなかった。その頃は会議も大分長く続いて、もう打切りたい気持ちになっていた。私はヒューズ氏のところへ行って、自分の方から進んで態度を明らかにしたいというと、ヒューズ氏もこの問題を厄介な問題とする意志はないといった。そこで私が声明書を読みあげ、その後にヒューズ氏がステートメントを読んで、それでお仕舞いになってしまったのである。(略)それは所謂二十一ケ条要求問題の直後のことであるが、その時加奈陀(カナダ)全権サー・ロバート・ボーデンは私にそっと呟いて、「うまくやっているね。」といったものである。」(上掲書p224~226)

 なお、以上の九カ国条約に関する会議とは別に行われた山東問題の処理については次の通りです。

まず、会議に先立ち幣原は、カレント・ヒストリーというアメリカの月刊雑誌から「ワシントン会議にのぞむ日本の立場」を説明すべく寄稿を依頼されました。次は、その中における山東問題に関する幣原の記述。

 「山東に就いて
日本は、山東を支那から剥ぎとったという非難をうけている。この真相はどうなのか。大戦中、日本は極東に於ける連合軍の利益を守る義務を負うたので、青島に於ける独逸軍基地の脅威を取り除く必要があった。日本は英国の分遣隊と共に、必要な軍事的努力をして、そこを占領したのである。つまり日本は青島と青島最難関の鉄道など、もと独逸が九十九ヶ年租借していたものを占領して、その焦点から敵の勢力が盛り返して来るのを防遏(ぼうあつ)しようとしたのである。この膠州の租借地は廣さが二百平方哩あり、山東省はそれより二百倍大きい。そして独逸人と貿易するため、そこに集っていた者は五、六萬人で、それらは留まっていまは日本と貿易している。

 日本はもとの独逸の租借地を継承しようという積りは毛頭ない。戦争以来、それは支那に返すといい最初からの申出を繰り返し、もとの租借地は各国民が均等の条件で貿易の出来る自由港にするということも、又独逸鉄道部の仕事は日支合弁にするということも、言っているのである。支那は此の取計いを拒絶し、もとの独逸の権利は、参戦してその布告をした時に、自然に支那に返っているものだと論ずるのである。然しこの宣戦布告は、支那が日本との借款を取り極め、その約束の支払金を受け、もとの独逸鉄道の合弁計書の原則を承認してから満一年以上もたって、発せられたものである。

 日本は、鉄道を警備するため、山東の沿線に軍隊を駐屯させている。青島にいるのは派建軍に臨時分遣隊を合はせて、将卒約二萬である。北京の領事館を守護するため、又海岸からその首都までの鉄道を警備するため駐屯している各国軍隊は、その二倍にも及び、この中には米国軍隊も加わっている。且又鉄道延長のため資本を提供する際の独逸の優先権は、もし日本が主唱して賛成さえ得るなら、現在米国、白耳希(ベルギー)、英国、仏国、日本の銀行団が、その政府の支持を受けている国際財政借款団に継承させることも出来る。

 だから日本が山東を侵略するという非難を裏付けるべき事実は、実際には存しないことが明かである。今やこれら総ては海軍軍備縮少と共に片が付くに違いない。なぜなれば、もし会議參加国民の間に、何等重大なる利害衝突がなく、それ故に軍事侵略の脅威もなくなれば、解決はただ程度の問題となるのである。」

 この山東問題についての会議は、先の幣原とヒューズ国務長官との話し合いで、日支両国全権のみで討議を行い、英国と米国はオブザーバーを出すということになりましたが、幣原(全権)が病気で会議を欠席するようになるとたちまち暗礁に乗り上げてしまいました。というのも、中国はこの問題で日本を列国環視の中で窮地に追い込む腹づもりであったが、その当てが外れたので、山東問題で妥結するつもりはなく、会議を決裂させてしまう底意だったのです。

 そこで幣原は病気をおして会議に参加し中国との交渉に臨みました。それからの事情について幣原は次のように書き残しています。

 「私が山東会議に出てみると果たして会議の空気は極端に悪化していた。私が一言二言何か言うと、支那全権はかみつくように、私に激論を挑むという有様だ。丁度、それは第九回会議で、それまで埴原全権が意見を留保し、いよいよ山東鉄道の処分問題に話が進む順序になっていた。私は彼等の言には頓着せず、私の論拠を展開した。私は支那全権は誤解してはいないかと反問した。

 支那側では、何か、日本が山東鉄道を無条件に泥棒でもしてしまうようにいうが、日本はこの代価を巴里講和会議でちゃんときめて支払うことになっているのだ。それを無条件で中国に譲り渡してしまうことになると、日本はそれだけ損失する事になるのだというような点を指摘し、日本はただ正当な支払いを得んとするに過ぎない旨をもいった。こんな議論が英米側にはよく響いたらしい。

 その日の会議が散会になると英国オブザアヴァのサー・ジョン・ジョルダンは私の手を握り会議の形勢は幾分見直したようだと悦んでくれた。前にもいったように当時私は病気であって、八時間もぶっ通して会議を続けることは隨分苦痛だった。先方は二人であるから四時間づつ喋ればいいのに、こちらは一人だから八時間も話し続けなくてはならぬ。それでも会議が、好転したといわれて、出席の甲斐があったと喜んだ次第であった。

 こうして山東会議は会合を重ねること三十六回に及んだ。その外に私と支那全権王寵恵氏と数回に亘って条約起草委員会を開いた。その頃迄支那側ではずっと英米オブザアヴァの好意を得る為に努力したようであったが、オブザヴヴァは一向に支那側の肩を持たない。それどころか第二十四回の会合の頃から、英国のサー・ジョン・ジョルダンは却って支那全権顧維鈞の陳述に口を挿んで、自分は今まで支那にいたが、顧維鈞氏のいうことは事実と相違していると反駁をするという有様だった。

 ジョルダン氏はその少し前まで支那の公使をしていたのである。それからその次の会合には米国のオブザアヴァたるマクマレー氏も発言して、自分は国務長官の命令によって声明するのであるが、仮に支那の要求を日本が容れても、米国のその方面に於ける権利は、それによって毫も動かないと陳述した。米国としては青島に於いて市政参政権などを有しているから、それ等は日本が譲歩しても依然として有効だという意味だ。これを聞いて私は最初ヒューズ氏が日支繋争に就いて公平不偏の態度をとるといったのを思い出し、彼の言偽らずと思った次第だった。

 こうなると中国も英米を利用することが出来ない覚ったらしい。会議の空気は漸次緩和して最後の数回の会合には一潟千里に進行し、ここに日支山東交渉は纏ったのであった。私はこの時程、米国各方面から感謝の辞を浴びたことはなかった。山東条約なるものは、日本に取ってはそれ程の問題ではなかったが、米国の人たちが非常に関心をもち、このために戦争が起るのじゃないかという予感も、民衆の中にはあったから、この条約は世論から非常な歓迎を受けた。私の努力ぱ実価以上に報いられたのである。(『外交五十年』)

 この交渉の結果、支那側の幣原に対する信頼感が非常に濃厚となり、彼自身予期しなかったほど打ち解けた親善関係が、支那側全権代表団との間に結ばれたそうです。支那側全権団がワシントンを引き上げる時、見送りに来た幣原を王全権は見つけて、人波をかき分けるようにしてそばに寄ってきて「よく来て下すった。ほんとに有り難い」と握手して涙ぐみ、「実は私は日本をひどく誤解していました。今度の会議で日本を理解し得たのは私の大きな所得です。今後全力を挙げて両国国交の改善のために尽くす決心です。孰れ又日本をお尋ねしますから、どうか元気でいて下さい。」と誠実を顔一面にこめて言ったといいます。(上掲書p241~246)

 大正期における日本外交の最大の失敗とされる「対支二十一箇条要求」問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていたのです。

 では、こうした幣原の外交処理について、近衛や森格あるいは軍部、さらには日本のマスコミはどのように評価したのでしょうか。その後、こうした幣原の対支融和外交、国際協調外交は、日本において激しい批判を蒙るようになりますが、それはなぜなのか。次回はこの点について考えてみたいと思います。