昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2)

2011年2月4日 (金)

 本エントリーは、1月7日の「昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(1)」の続きです。この記事の冒頭でも紹介しましたが、近衛文麿の戦争責任を指摘する意見が大半であり、それはほぼ定説に近いと思います。これらの意見を総まとめにしたような意見が、次の、読売新聞社が行った『検証 戦争責任Ⅱ』の記述です。(*各パラグラフ冒頭の番号は、論理の整理上私が付したものです)

「近衛、軍部独走許す

① 昭和戦争は、主に中国とアメリカという二つの大国を相手にした戦争だった。とくに日米戦争は、日中戦争のもとで進行した日本国家の変質なしには考えられなかった。それは、国際秩序への挑戦であり、立憲体制の崩壊だった。さらには、軍官僚主導による国策決定であり、国家総動員体制の確立だったのである。これらに深く関与した政治家が近衛文麿だった。

② 近衛の政治思想は、一九一八年(大正七年)に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」にうかがうことができる。植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破することは正当だ」という論旨だった。

③ 近衛は満州事変で積極的に軍部を支持した。欧米が、国際連盟規約や不戦条約を根拠に、日本を非難する資格はない、とする近衛の強硬論は、軍部を勢いづかせ、国民的人気も高まった。近衛は、これらに後押しされる形で三七年(昭和十二年)六月、首相になる。

④ 第一次近衛内閣発足後間もなく、盧溝橋事件に直面した近衛は、揺れに揺れながら、陸軍の要求に屈して派兵を認めた。終戦のチャンスだったトラウトマン和平工作も打ち切って、「国民政府を対手とせず」とまで言い切る。近衛は当時、軍部官僚に引っ張られ続ける自分は「何も知らされていないマネキンガールだ」と、天皇に自嘲気味に話していた。

⑤ 近衛は、軍官僚をコントロールできないだけではなかった。軍が目指してきた国家総力戦体制づくりに法的な根拠を与えてしまった。三八年四月に公布された国家総動員法であり、[戦時]または「戦争に準ずべき事変」など非常時の際、政府に国民統制面でフリーハンドを与える内容だった。

⑥ 三九年(昭和十四年)一月、近衛は、外交、内政ともになす術なく内閣総辞職する。後見役の西園寺公望は、「近衛が総理になってから何を政治しておったんだか、自分にもちっとも判らない」と漏らした。

⑦ 四〇年七月発足した第二次近衛内閣の課題は、引き続き日中戦争の解決にあった。松岡洋右を外相にし、日独伊三国同盟をステップに、ソ連も加えた「四国協商」を構築して、米国を交渉のテーブルにつかせる計算だった。しかし、この構想は独ソ戦の開始で破綻した。

⑧ 南部仏印進駐でも、近衛は米国が石油の禁輸で応じるなどとは考えていなかった。近衛は、松岡を更迭して第三次内閣をつくり、ルーズベルト米大統領との直接交渉で妥結をめざした。だが、中国での駐兵継続を譲らぬ東条陸相との対立が解けず、四一年十月、万事休した。

⑨ 木戸幸一内大臣は「(開戦決意の)九月六日の御前会議決定を成立させたのは貴下(近衛)ではないか。あの決定をそのままにして辞めるのは、無責任である」と忠告していたが、近衛はまたも政権を投げ出した。

⑩ 近衛は、軍部や官僚組織を抑え、これに対抗できる政治力結集を思いついたこともあった。近衛を党首とする「一国一党」の新党組織で、モデルはナチスだった。これは、大政翼賛会として結実するが、天皇の立場を乗っ取る「幕府」の復活だとする批判や、近衛暗殺の噂が飛び交うと、たじろいだ。

⑪ こうして近衛の試みが挫折するたび、日本は対米戦へと着実に歩を進めていったのである。」

 ここでは、①が全体の結論部分で、以下、氏の事績を時系列的に説明しています。つまり、この結論部分で、”日米戦争は、近衛が首相の時に始まった日中戦争のもとで、日本が、国際秩序に挑戦する軍官僚主導の総動員体制を取る国家に変質したためであり、その変質に深く関与したのが政治家近衛文麿だった”と氏の戦争責任を追求しているのです。

 私は、この結論部分には多くの間違いが含まれていると思います。第一に、日本が国際秩序に挑戦する国家に変質し始めたのは、日中戦争になってからではなくて、これはワシントン会議以来のこと。満州事変ですでに国際秩序に挑戦すべく「ルビコン川」を渡っています。また、日中戦争が始まったのも近衛の責任とは言えず、その後軍官僚主導の国家体制となったのも近衛の責任ではない。また、総動員体制を取ったのも総力戦下ではやむを得ないことで・・・ということになると、これではとても近衛の戦争責任は問えない、ということになります。

 では次ぎに、②以下の記述について、順次、その妥当性を点検して見ましょう。結論部分がおかしいですから、ここにも多くの間違いが含まれているに違いありません。

 ②は、近衛の最初の論文「英米本位の平和主義を排す」(大正7年)についての記述です。この論文の主旨は、植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破しようとするのは正当だ」というものでした。

 この近衛の論文は、ベルサイユ会議当時ミラード・レビューという英字紙に訳出され、「かかる反英米、反国際連盟の論をなす者が、この平和会議への全権の随員中にいるのは、甚だけしからぬ」という非難を受けました。しかし、その論旨は、植民地を持つ国にとっては確かに不都合だったでしょうが、日本やドイツにとっては必ずしも不当といえるものものではありませんでした。

 実は、ここに表明された近衛の思想が、その後の彼の行動を基本的に支えたものだったのです。そして、こうした近衛の思想が、軍部にとって大変都合の良いものであったために、彼は、満州事変以降軍部の支持を受けることになり、日中戦争直前に首相に就任して以降日米戦争に至るその直前まで、三度、内閣を組織することになったのです。

 では、その近衛の思想とは一体どのようなものだったのでしょうか。軍部がこれを支持したということを申しましたが、近衛を支持したのはなにも軍部だけではありませんでした。戦前において、国民一般、マスコミ、政治家、官僚、元老までを通して、一貫した支持を集めた政治家は、彼を置いて他にいなかったのです。

 それだけに人気を博した彼が、戦後の評においては、泥沼の日中戦争から無謀極まる日米戦争までの道を用意した、無気力、無定見、無責任な政治家の典型とされているのです。

 では、こうした悪評紛々の彼の政治家としての行動をもたらした彼の思想とはどのようなものだったか。それを彼が大正7年に書いた「英米本位の平和主義を排す」に見てみたいと思います。(『近衛文麿』矢部貞治著p84~87)

 「近衛はこの中で、戦後の世界に民主主義、人道主義の思想が旺盛となるのを予想し、これらの思想は要するに人間の平等感から出るもので、自由民権や、各国民平等の生存権や、政治上の特権と経済上の独占の排除や、機会均等などの主張の基礎をなし、このような平等感は人間道徳の永遠普遍な根本原理であって、古今に通じて謬らず中外に施して悖(もと)らぬものであるとし、

 従ってこれをわが国体に反する如く考えるのは、固陋偏狭の徒に過ぎず、むしろこれらの思潮を善導して発達せしめることは、わが国のため最も希望すべきことだとしているが、「唯茲(ただここ)に吾人の遺憾に思うは、我国民がとかく英米人の言説に呑まるる傾ありて、彼等の言う民主主義、人道主義の如きをも、その儘割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是なり」というのである。

 彼はバーナードーショーがその『運命と人』の中で、ナポレオンの口を籍りて英国人を批評させている、「英国人は、自己の欲望を表すに当たり、道徳的宗教的感情を以てすることに妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は、何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗略奪を敢えてしながら、いかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断しつつあり」という一句を引き、

 この言やや奇矯に過ぎるけれども、少くとも半面の真理を穿っているとし、近頃の日本の論壇が、英米政治家の華々しい言葉に魅了されて、「彼等の所謂民主主義、人道主義の背後に潜める、多くの自覚せざる、又は自覚せる、利己主義を洞察し得ず」に、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件無批判に英米本位の国際連盟を謳歌し、それを正義人道に合すると考えるのを「甚だ陋態」だと慨嘆、「吾人は日本人本位に考えざるべからず」というのである。

 しかし近衛によれば、日本人本位というのは、「日本人さえよければ他国はどうでもかまわぬという利己主義Lのことではない。このような利己主義は誠に人道の敵であって、新世界に通用しない旧思想である。日本人本位に考えるとは、「日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」ということである。即ち人道と平和とは必ずしも同じことではなく、人道のためには時に平和を捨てなければならぬこともあるというのである。

 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和のことであって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は口を開けば、「世界の平和を撹乱したるものは、独逸の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為にこれを膺懲せざるべからず、即ち今次の戦争は、専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なり」という調子で論ずる。

 もとより第一次大戦の主動原因がドイツにあったことや、戦争中のドイツの行動に正義人道を無視した暴虐残忍の振舞いの多かったことは、近衛も認めて「深甚の憎悪」を表明しているが、しかし彼は、英米人が「平和の攪乱者を直ちに正義人道の敵なりとなす狡猾なる論法」には断じて承服しない。なぜなら平和の攪乱が直ぐ人道の敵だというには、「戦前の状態が、正義人道より見て最善の状態なりしことを前提として、初めて言い得る」ことだからだという。そして「知らず欧洲戦前の状態が最善の状態にして、この状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは、何人の定めたることなりや」と論ずるのである。

 近衛から見れば、第一次大戦は現状維持国と現状打破国との争いであった。正義人道に合するか否かは、平和主義か軍国主義かにあるよりも、むしろこの現状の正体にかかっている。この現状が正義人道に合する最善の状態であったのなら、これを打破しようとした者はなるほど正義人道の敵であろうが、現状がそうでなかったなら、これを打破しようとした者が必ずしも正義人道の敵ではないし、そのような現状を維持Lようとした平和主義の国とて、必ずしも正義人道の味方として誇る資格はない。

 而して欧洲戦前の現状は、英米から見れば或は最善であったかも知れないが、公平な第三者として正義人道に照らして見れば、決して最善の状態とは認められない。英仏等が逸早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占して憚らなかったからこそ、「独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態にありしなり。

 かくの如き状態は、実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすものにして、正義人道に背反するの甚しきものなり」と言わねばならぬ。だからドイツが、このような状態を打破しようとしたのは、誠に正当の要求であって、そのやり方は非難すべきであったとしても、事ここに至らざるを得なかった環境に対しては、特に日本人として深厚の同情なきを得ないというのである。

 彼は、要するに英米の平和主義は、「現状維持を便利とするものの唱う事勿れ主義」で、正義人道とは関係がないとする。然るに国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべき筈の日本人が、英米人の美辞に酔うて英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来の福音の如く渇仰する態度は、「実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきもの」だという。

 しかし彼も妄りに連盟に反対するのではなく、もしそれが真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、「人類の幸福の為にも、国家の為にも、双手を挙げてその成立を祝するに」吝(やぶさ)かなるものではないが、しかし連盟は、「動もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れがないとは言えない。そうなれば日本の立場からも正義人道の立場からも、誠に忍ぶべからざることだというのである。

 そこで彼は、「来るべき講和会議に於て、国際平和連盟に加入するに当りい少くとも日本として主張せざるべからざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは、独り軍国主義のみに限らず、・・・国民平等の生存権を脅やかすもの、何ぞ一に武力のみならんや」と喝破する。彼によれば、黄金富力を以てする侵略と征服もあるのであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じく、当然否認されねばならぬ。

 然るに正にこの経済的帝国主義の鋒ぼうを露わして来る恐れのある英米を、立役者として開かれる講和会議で、どこまでこの経済的帝国主義を排除できるかに、彼は多大の疑懼を抱いている。しかしそれを排除できないなら、この戦争で最も多くを利した英米は、一躍して「経済的世界統一者」となり、国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになり、他の国々は、「恰もかの柔順なる羊群の如く、喘々焉として英米の後に随う」のほかないことになろうと憂うるのである。

 彼は英国などが早くも既に自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じていることを指摘し、もしそんなことになれば、領土狭く原料に乏しい日本などは、どうして国家の安全な生存を保ち得ようかと心配し、「かかる場合には、我国も亦自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らむ」やも図り難いとし、これは日本のみならず、同じく貧しい国々の等しく陥れられる運命であるから、経済的帝国主義の排斥と各国殖民地の開放ということは、これこそむしろ正義人道に基く各国民の平等生存権の確立のため、絶対に必要だと論ずる。

 彼は又特に日本人の立場から、黄白人の差別待遇の撤廃を主張すべきことを強調し、米国、濠洲、カナダその他が黄色人種を排斥し、あらゆる差別待遇を設けつつあることを指摘し、これは「人道上由由しき問題にして、仮令黄色人ならずとも、苟も正義の士の黙視すべからざる所」とし、一切の差別待遇の廃止を、正義人道の上から主張しなければならぬというのである。

 かくて最後に、「想うに来るべき講和会議は、人類が正義人道に本づく世界改造の事実に堪うるや否やの一大試錬なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を体して、その主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として、人類史上永久にその光栄を謳われむ」と結んでいる。

 以上は、『近衛文麿』の著者矢部貞治の要約ですが、この近衛の論文について、次のような評を下しています。

 「近衛はこの論文のことを、後にハウス大佐の「国際ニューディール」論に応答するときプリントにするに際し、『思想も極めて未熟且措辞も甚だ当を得ざるものあるも、当時を追憶して今昔の感に堪えず』と述べているが、とにかく第一次大戦でドイツが完敗し、その軍国主義、帝国主義が世界的に痛烈な非難を浴びていた当時の情勢の中で、これだけの論陣を張り得たということは、その論旨に対する賛否は別とし、彼が既に一介の凡庸な貴族でなかったことを示すものであろう。

 少くとも大学卒業後一年で既に、学生時代の文学青年からは遙かに脱皮している。しかもこの中で、講和会議檜舞台で日本として堂々提唱すべき方策を論じているのは、彼が既に一家の信念と経綸を持つ政治家の資質を現わしているとも言えるであろう。後に国際連盟の果した役割については、彼の憂慮が決して根拠のないものでなかったことを、示していると言ってもよかろう。」

 近衛と言えば、上記の③以下の記述に見たように、③満州事変で軍を積極的に支持し、国際連盟を批判し、そのため軍の支持を受けて首相となり、④日中戦争においては軍部官僚に引きずられて戦争を拡大し、⑤「国家総動員法」を可決、⑥昭和14年1月には行き詰まり辞任、⑦第二次近衛内閣では、日独伊三国同盟にソ連を加えて「四国協商」とし、米国と有利に交渉しようとしたが独ソ開戦で挫折、⑧第三次近衛内閣では、軍の南部仏印進駐を認めたためアメリカの石油全面禁輸を招き、対米交渉で中国からの撤兵を要求され、これを陸軍に拒否され、再び内閣を投げ出した、と言う具合で、無気力、無定見、無責任な首相の典型のように見られています。

 しかし、ここに紹介したような近衛の思想を見る限り、とても、彼が、「無気力、無定見、無責任」な人物であったとは思われません。では、なぜ、その彼が、上記③から⑧に述べられたような批判を受けることになったか、それは、その思想に欠陥があったと言うことなのか。思想は正しかったが行動に適切を欠いたということなのか。軍部に利用されただけなのか・・・等々、次回はこのナゾについて考えて見たいと思います。

つづく