石原莞爾の「最終戦争論」と華北分離工作(4)

2014年10月13日 (月)

 前稿で、「こうした(当時流行した国家社会主義思想に基づく)長期戦略の元に、満州占領や華北分離が行われた」といいましたが、このシナリオを書いた人物は誰か、というと、言うまでもなく石原完爾です。では、この石原莞爾の書いた長期戦略とはどういうものだったかというと、彼が昭和15年に京都で行った講演をまとめた本『最終戦争論』には、彼が目指した「昭和維新」について、次のような説明がなされています。

「第四章 昭 和 維 新
フランス革命は持久戦争から決戦戦争、横隊戦術から散兵戦術に変わる大きな変革でありました。日本では、ちょうど明治維新時代がそれであります。第一次欧州大戦によって決戦戦争から持久戦争、散兵戦術から戦闘群の戦術に変化し、今日はフランス革命以後最大の革新時代に入り、現に革新が進行中であります。即ち昭和維新であります。第二次欧州大戦で新しい時代が来たように考える人が多いのですが、私は第一次欧州大戦によって展開された自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展と見るのであります。

 昭和維新は日本だけの問題ではありません。本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備を完了するのであります。明治維新の眼目が王政復古にあったが如く、廃藩置県にあった如く、昭和維新の政治的眼目は東亜連盟の結成にある。満州事変によってその原則は発見され、今日ようやく国家の方針となろうとしています。

 東亜連盟の結成を中心問題とする昭和維新のためには二つのことが大事であります(三九頁の図参照―略)。第一は東洋民族の新しい道徳の創造であります。ちょうど、われわれが明治維新で藩侯に対する忠誠から天皇に対する忠誠に立ち返った如く、東亜連盟を結成するためには民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならないのであります。その中核の問題は満州建国の精神である民族協和の実現にあります。この精神、この気持が最も大切であります。

 第二に、われわれの相手になるものに劣らぬ物質力を作り上げなければならないのです。この立ち後れた東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない。以上の見地からすれば、現代の国策は東亜連盟の結成と生産力大拡充という二つが重要な問題をなしております。科学文明の後進者であるわれわれが、この偉大な生産力の大拡充を強行するためには普通の通り一辺の方式ではダメです。何とかして西洋人の及ばぬ大きな産業能力を発揮しなければならないのであります。」

 つまりここでは、時代が「自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展」へと流れていること。その「昭和維新は日本だけの問題」ではなく、「本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をしなければならないこと。この原則は「満州事変によって発見」され、「今日ようやく国家の方針となろうとしている」こと。そしてこれを実現していくためには、「東亜連盟を結成」して「民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならない」ということが述べられています。

 ここでは、満州事変が日中戦争の第一原因となったことについての自覚はまるでなくて、逆に、「本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をするためには「東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行く」ことの必要性が、満州事変によって発見された、といっています。

 つまり、満州事変も、そして華北分離も、こうした理論というか思い込みによって正当化されているわけで、従って、そうした思い込みで事を進めたことが必然的に日中戦争を招いたとは少しも考えていないのです。それどころか、「西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をするためには、「東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない」。そのためには「東亜連盟」を結成し「東亜の諸国家の本当の結合」を実現しなければならないとの持論を繰り返しています。

 しかし、現実には満州事変の延長として華北分離工作がなされるようになると、日中関係は全面戦争に向けて一触触発の緊張をはらむようになりました。この危険性にようやく気づいた石原完爾は、あわてて華北分離工作をやめ、満州経営に専念するよう軍の方針を転換し、外務省も船津工作によって、華北分離工作以来積み上げてきた日本の権益を全て放棄することで事態を収拾しようとしました。しかし、時すでに遅く、日中全面戦争の火ぶたが切って落とされたのです。

 この時に近衛首相が行った 1937年8月15日「暴支膺懲」の声明は次のようなものでした。

「帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。

近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。

更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。

而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。」

要するに、「日本は、東亜の永遠の平和を祈念し、日支両国の親善提携に力を尽くしてきたが、南京政府は赤化勢力と手を結んで排日侮日をこととし、それが我が居留民の声明財産を危殆に陥るに至っては、我が国の隠忍自重も限度に達した。よって支那軍の暴戻を懲らしめるため断固たる措置を取らざるを得ない」といっているのです。

このような軍の「独りよがり」の声明を、なぜ近衛首相が発したかということですが、実は、この原稿は軍が近衛首相に提出したもので、近衛首相はそれをそのまま読んだそうです。これは、近衛首相が軍の方針に先手を打つことでリーダーシップを発揮しようとしていたためといいますが、この声明の意味するところは、先の石原莞爾の「最終戦争論」の理屈をあてはめることで理解できます。

そこで問題は、こうした石原の「最終戦総論」の理屈と、石原が盧溝橋事件に始まる日支紛争の不拡大に努めた事実と、こうした石原(参謀本部第一部長)の意向に反して紛争を拡大した、いわゆる「一撃派」との関係はどうなっていたのか、ということです。

石原が満州事変を引き起こした当時の氏の考え方は、「満蒙問題の解決は、日本が東洋文明の代表としての国防的地位を確立することと、日本の人口・食糧・資源問題等を解決するために必須であり、日本が実力を持ってその決意を示すことが、支那に日本の指導的地位を認めさせるためにも、また、東洋平和のためにも必要である」というものでした。

なぜなら、「支那人が近代国家を作り得るかすこぶる疑問で、むしろ我が国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期した方が彼らの取って幸福」だからで、そのためには、満蒙を「我が領土とする以外は絶対に途なし」であり、具体的には、日本が満州の軍閥官僚を打破して満蒙を統治すれば、支那本土の統一にも資することになるからである。

しかし、これに対しては「嫉妬心の強い米英の反対が予測されるので、これを撃破する覚悟なくして満蒙問題を解決することはできない」。経済上より戦争を悲観するものもいるが、「この戦争は戦費を戦場に求め得るので財政的には心配ない」。必要があれば、本国及び占領地に計画経済を断行し苦境を打開して初めて日本は先進工業国の水準に達する。

では、何時事を起こすかというと、もし国家がこうした満蒙問題の解決を決断しない場合は、軍部が団結し戦争計画の大綱を樹立し「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず、もしまた好機来たるにおいては関東軍の主導的行動により回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し」としていました。(『満蒙問題私見』s6.5)

こうして満州事変が引き起こされたのですが、しかし、こうした満蒙領有計画は「中央の顧みるところとならず」到底これを行うことはできないと知ったので、将来の領土化を期しつつも、やむなく「我が国の支持を受け東北四省及び蒙古を領域とせる宣統帝を党首とする支那政権を樹立し在満蒙各民族の楽土たらしむ」こととしたのです。

ところが、その後石原は、「中国人自身による中国の革新政治は可能である」との見方に変わったとして、「満州人の衷心からの要望である新国家の建設によって、まず満州の地に日本人、中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張」するようになりました。

さらに、『満蒙経略に関する私見』(s7.8.23)では、こうした日本人、中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土を建設するため、満州における漢民族と日本人との公正な競争の下における、職務や処遇の平等取り扱いを説きました。さらに、満州における日本の政治機関を縮小するため、満鉄付属地の行政権の返還や関東州の贈与による関東長官の廃止、治外法権の撤廃を主張しました。

また、世界文化統一のため日米間の最後的決戦に備えるとともに、露国の極東攻勢を断念させるためには、満蒙の確保とその富源の開発は、我が国現下の行き詰まりを打開するために相当効果があるが、さらに対米決戦に備えるためには、山西の石炭、河北の鉄、河南山東以南の棉を必要とするのみならず、東亜諸国民を率いてこの大事業に参加せしむる必要がある」としました。

また、新国家たる満州のあるべき政治体制については、日本が補佐する溥儀の専制による王道政治はダメ、議会専制による自由主義政治も満州に適さざるは論なしとし、結局、「満州国内に堅実なる唯一政治団体(=満州国協和会)を結成して民衆の支持を獲得し、これにより国家の根本政策を決定せしむるをもっとも適切なりと信ず」としました。

しかし、こうした石原の最終戦総論に基づく満州独立構想に対して、当時、参謀本部第二部長であった永田鉄山は反対しました。永田は対ソ軍備ということを重視していて、満州問題というものはもっぱら主として対ソ戦略体制を整備する考えから起こったもので、満州を整備することがソ連との戦争を抑止するという考えでした。(『永田鉄山』「鈴木貞一の証言」)

また支那に対する考え方については、永田や鈴木貞一は、日本の軍備は、前述した通り対ソ作戦に向けてのもので、中国に対しては絶対に使ってはいけないという考えでした。従って、支那本土に手を出すことには絶対反対でした。これに対して石原は、兵を使うことには反対だが、北支那の資源、鉄鋼と石炭は、先述した理由から必要なので軍事的圧力は必要との考えでした。

ここに石原の思想の危険性が潜んでいるのであって、満州事変の場合は、満州を日本が領有することが「正義」であって、手段を選ぶ必要はなく、国家がそれをやらなければ謀略によってでも国家を強引する、という考えでした。また、満州国における漢民族と日本人の攻勢かつ平等取り扱いを主張しつつも、「それが期待すべき政治的効果を収め得ざるときは日本は断固として満蒙を我が領土とし総督府を置く」(『為小畑少将』s7.4.22)としていました。

同様に、華北分離工作についても、石原は、「満蒙経略に続いて来たるべき情勢に対する国策の決定及び準備に全力を傾注せざるべからず」として、「2支那本部特に先つ北支那の開発を実現する方策」や「3対米戦争計画」をあげていました。そして、もしこうした計画が「日満協和の理想」によって達成できないときは、「満蒙を併合する」か「威力に依り支那大衆を搾取する欧州風の植民政策を強行し物質的利益を追求するに満足す」(『満蒙経略に関する私見』s7.8.23)と述べていました。

こうした自説を「正義」とする独りよがりな考え方が、「満州事変」が結果オーライで認められ、その実行者達が破額の報償を受けたことで、関東軍さらには軍全体に蔓延することになったのです。先に紹介した鈴木貞一は、石原完爾のことを「奇道の人」と呼んでいますが、まさにこうした「奇道」が、満州問題の処理を誤らせただけでなく、「華北分離工作」というあからさまな「侵略」を結果せしめたのです。

そこで、この華北分離工作を実際に主導したのは誰かということですが、一般的には関東軍や支那駐屯軍の暴走が指摘されますが、石原理論の信奉者であった支那駐屯軍司令官の多田駿が発した昭和10年9月24日に多田声明(国民党及び蒋政権の北支よりの除外、北支経済圏の独立、北支五省軍事協力による赤化防止、北支五省連合自治体結成)に見るように、石原派もそれを躊躇なく推進しました。

しかし、石原自身は、昭和11年末頃、華北分離工作の危険性を察知しそれを抑制する一方、盧溝橋事件発生以降は参謀本部第一部長として、事件不拡大に奔走しました。秦郁彦氏によると、陸軍中央では、陸軍省軍事課長の田中真一と参謀本部第一部(部長石原完爾)第三課(作戦編成動員)長の武藤章ラインが拡大派の中心だったと指摘されています。一方、石原自身の7月11日の派兵容認が事変拡大の転機となったとも指摘されています。(『盧溝橋事件の研究』秦郁彦)

このことは、すでにこの段階では、不拡大派の石原が派兵を決意しなければならないほど事態は悪化していたということで、実は、この時戦争を欲していたのは、日本側ではなく中国側だったのです。盧溝橋事件発生以降の北支における郎坊事件、公安門事件、通州事件、上海における大山事件、上海事変はそのいずれも、中国側のイニシアチブによるものであり、日本はそれに応戦せざるを得なかった、というのがより真実に近いのです。

こう見てくると、昭和の悲劇は、「偽預言者」たる石原完爾の「最終戦総論」という一種のハルマゲドン思想に振り回された結果と見ることができます。それを「奇道」とし、それを排除する力が軍内に全く働かなかったわけではありません。昭和7年8月の石原完爾の満州からの転出や、昭和12年9月の参謀本部第一部長解任はその現れではないかと思います。

しかし、それらはいずれも中途半端なものであって、石原完爾の「奇道」の危険性をしっかり認識した上で取られた処置ではありませんでした。満州事変の首謀者を報償したのがその典型であって、天皇大権を犯しても謀略でもなんでも結果オーライでそれを認める、そうした目的のためには手段を選ばないやり方が、客観的条件を無視して執拗に結果を求める、その後の軍の態度を決定づけたのです。

昭和戦争は「意味不明な戦争だった」ということがいわれますが、石原完爾の千年王国説と、その前段のハルマゲドン思想=最終戦争論が及ぼした危険性にもう少し注意を払うべきではないでしょうか。今なお氏を英雄視する人もいるわけですが、その五族協和論がアメリカ流の「モザイク」統合ならまだしも、石原の場合は協和思想に基づく「合金」統合を夢見ていました。それが、「意味不明な戦争」の根本原因であったことを、私たちは知る必要があると思います。