軍による満州の領国化が招いた華北分離工作(3)

2014年10月11日 (土)

大変重要なことなので、まるきよさんとの対話を本文掲載とします。

まるきよさんへ

(まるきよさん引用)「梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。
が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。
別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。
中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、意図的に日本が困るようなことを企むものだから日本が自衛策をとっただけです。
中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。」

要するに中国が日本の満州領有権を素直に認めて満州を執拗に再侵略しようとせず、友好的な態度を取っていれば、日本は華北侵略をせずに済んだ、といっているのですね。

ここで問題は、本文で指摘した通り、満州国は主権を持った独立国ではなく、日本の「領国」とされていることです。つまり日本の「領国」たる満州の主権が侵されたから、逆に中国の主権を侵した(蒋介石政権とは別の親日政権樹立による華北分離)、悪いのは中国だといっているのです。

さらにここでの問題は、主権が侵されたら逆に相手国の主権を侵しても良いとする考え方で、相互の主権を尊重するという考え方がないことです。

これら二つの問題点をさらに考えて見ると、前者の問題点は、日本は国際連盟に対して、満州国は、満州の人々の自治運動の結果成立したと主張していたが、ほんとにそうなら、中国との関係は日本が決めることではなく満州国が決めるべきことである。なのに日本が決めているということは、実は、満州は主権を持つ独立国ではなく日本の傀儡政権だということで、ここに一つのうそがあります。

また後者の問題点は、日本は満州事変を日本の条約上の正当な権益が侵されたことに対する自衛と主張していた(ほんとは日本の謀略による満州占領)が、これと同様、華北分離を日本の「領国」たる満州の安全が犯されたことに対する自衛と主張し、華北に中国の中央政府から切り離された親日政権を樹立しようとした(これも華北の自治運動の結果と宣伝した)ということです。ここに二つ目のウソがあります。

どうしてこんなウソをついて満州占領や華北分離を正当化しようとしたのかというと、その根本的な動機は、軍は、大正末期以来の軍縮に伴う処遇低下に対する不満を、当時流行の国家社会主義思潮と結びつけ、軍主導の国家改造を行い政治権力を掌握し、それによって、当時日本が直面していた安全保障・人口・資源・貿易問題と抱き合わせて問題解決しようとしていたということです。

つまり、こうした長期戦略の元に、満州占領や華北分離が行われたのです。その長期戦略を支えた思想が国家社会主義思想であって、その内実を埋めたのが、明治維新をもたらした「尊皇思想」であり、それ故に、昭和の青年将校らの国家改造のためのスローガンが「昭和維新」となったのです。

ではなぜ明治維新期の「尊皇思想」が国家社会主義思想の内実を埋めるものとなったのか、ということですが、この「尊皇思想」は、徳川幕府の体制の学となった朱子学の影響を受けて、それまでの朝幕併存の二元的国家体制から、天皇中心の一君万民平等の一元的(家族主義的)国家体制に変革し、西洋諸国の侵略に備えようとしたものでした。

この思想の故に、尊皇倒幕が可能となり明治新政府の樹立となったのですが、明治新政府は結局、この「尊皇思想」による体制変革をなし崩し的にあきらめ、明治憲法下の「立憲君主制」としたのです。

これは、朱子学の影響を受ける以前の、鎌倉時代以降の、政治権力を持たない一種の象徴天皇制の伝統を継承するものでしたが、その伝統的な天皇制と明治維新期の一元的天皇制との思想史的な整理ができなかったために、昭和期になって、前述した通り、当時流行した国家社会主義思想の内実を埋める一元的天皇制として復活利用されることになったのです。

そこで問題は、軍は、この一元的天皇制とその入れ物となった国家社会主義思想のどちらの方を信奉していたかということですが、言うまでもなく後者で、現実の天皇については、国民には絶対忠誠を説きながら、自らはあくまで天皇を象徴としてしか扱わなかったのです。

そうでなければ、関東軍の一部参謀が統帥権を総覧する天皇を無視して、独断で満州事変を計画実行するわけがありませんし、満州の治安確保のために長城付近で兵を動かすことがあっても、”決して関内に兵を進めてはならぬ”という天皇の厳命に反して、華北分離工作をすることもなかったのです。

では、なぜ天皇の意思に反してそうしたことをやったかといえば、それは自らの思想と計画に基づき、対ソ防衛さらには英米に対抗しうる、国家社会主義思想に基づく軍主導の国家改造を目指していたからで、満州の領国化・華北の傀儡化は、そうした体制確立のための資源供給・経済圏確立のため必須とされたのです。

もちろん、こうしたことを平和裏に外交交渉を通してやればまだ問題はなかったのですが、実際はこれを軍事力にものをいわせて、あるいはそれを背景に強引にことを推し進めたわけで、そしてその背後には、前述したような軍の思惑があったわけで、つまり、それ故にこそ外交交渉によらず軍事力による既成事実作りを先行させたのです。

従って、ご案内のサイトの主張は、こうした隠された軍の思惑を看過しているというより、当時の軍と同様にこれを隠して、その責任を中国に転嫁しているということになります。

では、もし満州問題の解決に、こうした軍の思惑がなかったとしたら事態はどのように展開していたか、ということですが、満州における日本の権益擁護は、それまでの山東出兵以来の経過からすれば、いずれ何らかの軍事力行使に至ったでしょう。結果的には、こうした事態に至る前に、関東軍の一部参謀による謀略による満州占領そして満州国の樹立となりました。

しかし、その目的があくまで満州における日本の正当な権益擁護であったとすれば、たとえ満州国が成立したとしても、その主権をできるだけ尊重するような形で、また、満州に対する中国の宗主権を強引に否定するようなことはせずに、中国との互恵平等の経済関係を樹立することができたでしょう。蒋介石も「敵か友か」でそれを望んでいましたから。

では、なぜそれができずに、さらに自衛と称して華北分離工作を強引に押し進め、その第二の満州化をはかろうとし、結果的に日中戦争を招くことになったのか。はっきり言えば、そうしない限り、自分たちの隠された思惑に基づく国家改造はできないし、それまでついてきたウソを隠し通すこともできないと考えたからでしょう。なにしろ彼らのやっていることは憲法遵守を唱える昭和天皇の意思を無視した国家改造だったわけですから。

実はこうした問題は日米交渉にも色濃く反映していて、結局、満州事変及び華北分離でついた二つのウソが足かせとなって、満州問題の合理的な解決ができず、ついに日米戦争に突入することになったのです。

昭和14年1月21日の湯浅内大臣の話として、昭和天皇が次のように話されたことが『西園寺公と政局7272~273』に次のように記されています。

「陛下も先日自分に『どうも今の陸軍にも困ったものだ。要するに各国から日本が強いられ、満州、朝鮮をもともとにしてしまはれるまでは、到底目が覚めまい』という風に仰せられて、非常に悲観しておられた。」

満州事変以降の軍と昭和天皇のやりとりから見て、陸軍が日独伊防共協定強化(三国同盟)を主張し始め、近衛がやめ、平沼内閣が成立したこの時期に、昭和天皇はすでに日本の行く末を見ていたのですね。