軍による満州の領国化が招いた華北分離工作(2)

2014年10月 7日 (火)

まるきよさんへ
 田中上奏文は田中義一内閣の山東出兵以降威勢の良くなった少壮軍人の無責任な大言壮語を、満蒙支配から中国侵略・世界征服を目指す計画書のように編集し、それを田中首相から昭和天皇への上奏文であるかのように偽装したものです。実は、実際の田中首相の外交感覚はそれ程おかしいなものではなく、山東出兵や済南事件は、多分に森恪(外務次官)や酒井隆(済南駐在武官)らに引きずられた可能性が濃厚です。

 満州事変については、日本が満州の宗主権を長い目で認めることができれば、満州国承認問題も解決できたと思います。リットン調査団報告書も満州の開発に果たした日本の役割や、満州における日本の条約上の権益も認めていました。また、満州に中国の主権下に自治政府を作り、その自治政府を日本人顧問が中心となって指導することも認めていました。

 それがなぜできなかったか、それは本文で述べた通り、当時の軍人が満州を領国化しようとし、ここに日本本国の政治体制(立憲君主制、政党政治)とは違った軍主導の国家体制(憲法も議会も政党もなく軍が内面指導する権限を持つ)を敷こうとしていたからです。つまり、満州は軍にとって一種の革命根拠地であり、ここを拠点に本国の政治体制の変革を目指していたのです。

 だから、満州に対する中国の宗主権を認めるわけにはいかなかった。だから、中国に宗主権を認めて満州問題を解決しようとした犬養毅は殺されたのです。また、蒋介石は、満州国の承認問題を「棚上げ」にするところまでは譲歩しました。それは宗主権さへ残っていれば、後の問題は外交交渉で解決できると考えたからです。しかし、それは軍にとっては「領国化」の否定だから、蒋介石は倒すべきと考えた。蒋介石が軍を信用しなかったのはこのことに気がついたためです。

 これが、華北分離工作の目的とされる「満州国の接壌地帯の安全確保、華北の戦略資源の確保・経済圏の確立」のさらにその下に隠されていた軍の究極の狙いでした。しかし、これは決して口に出せないことでした。なぜか、それが明らかになれば、彼らの統帥権の主張や天皇親政の主張も、実は、自らの権力掌握のための手段に過ぎないことがばれるからです。

 昭和5年のロンドン海軍軍縮批准問題で軍の統帥権に手が出せなくなったのは、政府が、この条約が国防を危うくしないのは、これがすでに陛下の批准を得ているから、と答弁したことに対し、野党が、それを内閣の輔弼責任の放棄、つまり陛下に責任を負わせることだと批判したためです。つまり、政治家の党利党略のための天皇の政治利用が、天皇のアンタッチャブルを軍のアンタッチャブルに転換する露払いになったのです。

 この軍の統帥権、つまり軍は天皇の統帥下にあるという考え方を最大限に利用して独断専行、満州を占領したのが満州事変で、まあ、これこそ究極の天皇の統帥権違反であったわけです。しかし、軍が満州を占領し続けると自らの主張する天皇制と矛盾を来すことになる。そこで満州国を誕生させ溥儀を連れてきて王政とし、日本の天皇制との親和性を確保したのです。つまり、満州国の独立主権を認めたわけではなくて、「内面指導」という形で実質的に領国化しようとしたのです。

 また、なぜ日本国民がそれを支持したかということですが、まあ、この時代の日本人の国益追求ということもあったでしょうが、最大の問題は、満州国の本当の狙いが、実は軍の満州領国化であるということを知らなかったためです。(それを夢想した国民もいたと思いますが・・・)つまり、このウソが分かっていなかったために、中国や国際社会の満州事変批判を満州における日本の権益否定と捉え反発したのです。

 この錯覚に陥らなければ満州問題の解決は可能だったし、それが解決できていれば日中戦争は起こらなかったし、もちろん、アメリカとの戦争も起こりませんでした。つまり、”一体、なぜ軍は満州を領国化しようとしたのか、”という問いを発することが、昭和史の謎の解明の第一歩なのです。ジャーナリズムの役割とは、実は、事実に肉薄する中で、こうした疑問を提出することだと思うのですが・・・。