軍による満州の領国化が招いた華北分離工作(1)

2014年10月 4日 (土)

 まるきよさんへ

返事が遅くなりました。コメントをいただいた記事は、私が6年前に書いた「田母神航空幕僚長『最優秀論文』の論旨・論点及び哲学」についてのものですが、私の基本認識は今でも変わっていません。そのころの田母神さんはおそらく勉強不足で、済南事件も満州事変も華北分離工作もその真実を知らなかったのではないでしょうか。今はどうかわかりませんが。

(まるきよ)「華北分離工作について今まで私は知りませんでした。漫然と論文の主旨のような歴史認識を持っていました。自衛行為なのだと。」

華北分離工作については、従来の歴史教科書では十分な説明がなされてきませんでした。梅津・何応欽協定とか土肥原・秦徳純協定という言葉はあっても、その意味はよくわかりませんでした。そのため満州事変は知っていても華北分離工作は知らない人が多く生まれたのです。もう一つ欠落しているのが済南事件で、これ以前は中国人のナショナリズムは反英に方向に向かっていたのですが、この事件を契機に日本に向かうようになりました。日本は中国の統一を妨害したということで・・・。これ以降、中国人の日本に対する感情は一気に悪化し、これがその後の広範な抗日気運を形成して行くのです。

この華北分離工作については、確か教科書問題が起こったとき、「華北へ侵略」が「華北に進出」に書き換えられたとして、一騒動になりましたね。

実際は、この部分の教科書検定の改善意見は「記述に直さなくてもよい改善意見(B意見)」でした、つまり、「華北に進出」とする意見はついたが、必ずしも「記述を直さなくてもよい」改善意見だったのです。といっても、「華北分離工作」、つまり、満州に接する華北五省(山東、河北、山西、チャハル、綏遠)に親日政権を樹立し、国民党政府から切り離すという工作を関東軍や支那駐屯軍が執拗に繰り返したことは、到底「華北に進出」と言う言葉で言い表されるものではありません。

なぜ関東軍や支那派遣軍はこんなことをやったかというと、この時期、日中関係をなんとか政府間交渉によって改善しようとしていた広田弘毅や蒋介石らの和平への努力を妨害するためで、簡単に言えば、軍は満州国を自分の領国視していて、その独自の国家観に基づく独自の外交権を主張していたのです。こうした行為は、日本の中国に対する侵略というにとどまらず、これら出先軍の本国政府に対する「国家的反逆」ともいうべきものでした。

ではなぜ、「このような道議にもとる行いをしたのか」ということですが、根本の原因は国家思想の問題で、日本の人口・資源・貿易問題を根本的に解決し、対ソ対米英戦に備えるためには、日本も「大陸国家」にならなければならないと考えたこと。そして、こうした考え方を中国に力で押しつけようとしたこと。つまり、こうした政策課題を達成するためには、満州では不足する軍事資源を華北に求めるとともに、華北を含む日満支経済圏を確立する必要があると考えたためです。

もちろん、中国はそれまで欧米の植民地主義的侵略にさらされてきました。そうしたくびきを脱するためには、日本のアジア主義者との連携が必要だとも考えられてきました。しかし、日本が大正末期から昭和の初めにかけて、「持てる国」「持たざる国」間の資本主義的葛藤に直面し経済的苦境に陥ると、日本軍内に、上述したような「大陸国家」幻想が急速に肥大し、政治権力の奪取から軍事力による満州制圧、さらには華北分離工作へと突き進むことになったのです。

こうした日本軍の動きは、中国にとっては甚だしい主権侵害であり、日本帝国主義による侵略と見えたのは当然です。これが、安内嬢外で剿共戦を優先して戦っていた蒋介石の日本不信を一挙に高めることになりました。こうした日本軍の愚行はこれに止まりません。それは、壊滅寸前だった共産党に格好の抗日宣伝材料を提供することになり、その復活を助けることになりました。

こうした軍の動きに「政府や軍部で強硬に反対する政治家や軍人はいなかったのか」ということですが、戦後はそのような主張したと弁明する政治家や軍人はたくさんいます。皇道派がそうであったとか、北一輝や大川周明も日中戦争に反対したとか、鈴木貞二は、自分や永田鉄山は満州の外つまり関内には絶対に兵を出さないと決めていたとか弁明しています。しかし、結局は、総力戦思想のもとで「大陸国家」を目指したという点では共通していました。

外交官の中には、こうした軍の思想や行動を阻止しようとした人物がいました。幣原喜重郎をはじめ重光葵、佐藤尚武、石射猪太郎などがそうです。広田弘毅もその一人ですが、次第に軍に対する抵抗力をなくしていきました。政治家では、犬養毅もそうですが5.15で、高橋是清は2.26で殺されました。軍人では同じく2.26で殺された渡辺錠太郞などがそうです。だが、彼らもこの時代の尊皇思想に支えられた国家社会主義的思潮に抗することができませんでした。

「北支分離工作が引き金なら、盧溝橋事件から廊坊事件・広安門事件、通州事件、大山中尉・斉藤一等水兵殺害事件まで日本側に責任があるのでしょうか?」との問いですが、これらの事件を引き起こしたのが中国であることは間違いありません。ではその責任はどちらにあるのかといえば、当時中国には、こうした事件を引き起こすことを恐れない程に抗日気運が高まっていたということ。また、あえてこうした事件を引き起こすことで日中戦争へと導こうとする勢力がいたという事実を指摘するだけです。要は、それに引きずられてはいけないのに、引きずられたということです。

なぜそうなったかといえば、応戦すれば必ず勝つので、かえって好都合だと思った日本の軍人が多かったということで、その答えが出たのが8年後の1945年8月の日本の無条件降伏でした。ですから、政治の結果責任という点から言えば、まさに弁解無用であって、だまされたとか戦争に引きずり込まれたとか言う弁明は、満州事変から華北分離工作に至る嘘っぱちかつ傲慢無礼なやり口が招いた結果であると知れば、到底言えた義理ではありません。

ただ、日本が中国との戦争を望んでいたわけではなく、この時代を生き残るためには、中国と協力して欧米資本主義国に対抗する必要があると考えていました。これに対して、中国は、日本に協力するどころか日本を満州や中国から排除しようとしました。そのため、そうした中国の反抗的態度を懲らしめるため応戦した、と言うのが、当時の日本の大方の言い分でした。結論から言えば、そうした日本の言い分の背後にあった国家社会主義的思想(=尊皇思想)が間違っていたのです。

問題は、この時代の国家社会主義的思想の内実が「尊皇思想」に裏打ちされていたということで、その「尊皇思想」の思想的系譜を知らなかったために、これがヒトラーの国家社会主義思想と癒着することになったのです。ここに日本の伝統的な象徴天皇制と、明治維新期における「中国皇帝型絶対天皇制」、さらには明治憲法下の立憲君主制の三つどもえの矛盾関係があり、これを思想史的に解明できなかったことが、昭和の、以上述べたような宿命的悲劇をもたらしたのです。

戦前昭和の本当の反省とは、その意味で、日本の天皇制の思想的位置づけをどうするかと言うこととつながってきます。私は象徴天皇制に賛成です。その近代的表現が立憲君主制であるわけですが、左翼思想家の多くは実は「中国皇帝型絶対天皇制」指向ではないかと思っています。中国共産党に対する親和性はそこから出ているのではないかと。だが、中国や韓国のウソ宣伝はそのうち必ずそのツケが巡ってくる。日本は淡々とその虚妄を指摘しつつ、一方で上述したような思想的課題の解決に取り組む必要がある、私はそう思っています。