「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと5――
葵様への返書2

2010年4月 3日 (土)

 「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと4、への葵さんの反論の紹介と、それへの私の再反論(これが最後)です。「一知半解」さんが、旧日本軍に見られた「とっつき」と「いろけ」について紹介されていますが、同様に、いいまくり、暴力的な言辞や侮辱で、対話の相手を黙らそうとする日本人が、今も多くいると思いました。もって「自戒」としたいと思います。

(葵)tikurinさんの記事を読んで、これぞ山本教と・・悪いけど嗤ってしまった。
葵に間違いを指摘されて、それをつくろうために恥の上塗りをしている。
哀しい人だなぁーと・・・・以下は『一般常識の範囲』で私見を述べる。
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(葵)私は(山本の論を)「大事」だとは言ったが、良い評価はしていない。
「大本営のバカに殺されたようなもの」は当時の日本兵の心の叫びではあるが、戦後の軍批判とは別であると山本が注意しているにもかかわらず、「戦犯を日本で裁けなかった云々」と書く読解力を嘲笑しているだけ。

tiku ①「日本兵の心の叫び」と「戦後の軍批判」との違いをどう理解しているのかわかりません。なのに②「戦犯を日本で裁けなかった云々」(これは私の言葉ではないが)と「戦後の軍批判」を同定していますが、①の理解が間違っていれば、②も間違いとなる可能性があります。そこであえて①を曖昧にしたまま(理解していない証拠)、②で相手を嘲笑し黙らせようとする。これを、”こけ脅かし”といいます。

(葵)長々と日本沈没の解説をしているが、あれはあくまでもSF小説である。
あのような作品は20世紀少年と同じように娯楽として愉しめばよろしい。
tikurinn殿は『銀河鉄道999』や来るべき宇宙戦争の為に『宇宙戦艦ヤマト』が必要と考えている?まさかね・・・・SFものは現実にはありえないから面白い。違う?

tiku 「ディアスポラ」の意義は、歴史的事実を踏まえて諒解されているものであり、それを踏まえて『日本沈没』が書かれているということを指摘したのです。現実にはあり得ないのは「日本沈没」というプロットであって、あえてそういうあり得ないプロットを設定してまで、日本人のディアスポラの必要を示唆したところに、この小説のねらいがあったのです。これが理解できないはずはないと思います。つまり”いいまくり”ですね。

>もちろん、私がディアスポラというのも、それは祖国喪失をすすめているわけではなくて、若者には、積極的に異国に出て行って、日本と異なる文化を体験してほしいといっているだけです。そうした経験を通じて、自らの民族的アイデンティティーを確認し、さらにその発展に努めて欲しいといっているのです。あるテレビ番組で兵役に代わる一年間の「徴農制」を提言していましたが、そんなことより一年間の「ディアスポラ」の方が効果的ではないかと思ったことでした。

(葵)それを言うのならば留学、遊学と言う言葉を使用しなさい。「ディアスポラ」とは自分の意思に反して祖国を追われて民族が分散することを言う。

「ディアスポラ」という言葉を、先に説明したように「自民族の文化的アイデンティティーを自覚するための体験」という意味で使っているのです。そういう意味があるのだということを理解してもらうために、小説の該当部分を引用したのに、これもしらんぷり。つまり、これも”いいまくり”ですね。

>”攘夷思想くらい持ちなさい”と母親が息子を叱っているみたいですが

(葵)↑これは超ウルトラ誤解ですよ。(笑)
今の時代で攘夷となれば、米軍基地撤退、そして全ての外国人を国外追放となってしまう。そんな危険なことを、私は夢にも考えたことはありません。

tiku「この平和ボケしている日本人に攘夷思想なんてあるのだろうか?」と葵さんがいった時の「攘夷思想」とは”米軍基地撤退”を想定していたのかしらん?日本のナショナルアイデンティティーを中国や韓国の攻撃から守る、程度の象徴的な意味だったのでは。これを”話のすり替え”と言います。

>朝鮮戦争は、日本の資本家が(もうけるため)、たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人に対して、

(葵)だから~~、そんな嘘を言う進歩的文化人って誰なのさ!山本七平かい?

tiku そんなこと文脈見ればわかるでしょう。これを”口からでまかせ”といいます。

(葵)「朝鮮戦争はアメリカとソ連の代理戦争である」という歴史の定説を無視するのか?
「われわれが三十八度線で死闘をして日本を守ってやったのに」とは常識ある朝鮮民族は思わないはず。三十八度線は、日本が引いたのではない。

tiku そういう誤解がないよう願いたいものですね。

(葵)なにやら半島はきな臭いようだね、(いつものことがけど)停戦中と言う事を思い出して、この際、「統一は民族の悲願」のために頑張って欲しいな。
アメリカや中国や日本の経済の為に、思う存分と死闘してください!南北ともに頑張れ!

tiku こういうことを匿名をいいことに平気で言う人がいるのです。進歩的文化人どころの話ではありません。これを”卑怯”といいます。

>(tiku)象徴天皇制をGHQの発明と考えているようでは、まだまだ山本学を理解したことにはなりませんね

(葵)山本学って・・・俳優のこと?嗤)山本学という学問はないのじゃ!
偽学問に心酔するから左巻きになってしまう(嗤)山本は聖書学者でも歴史学者でもない。ただの聖書屋のおやじにすぎない。象徴天皇制は源頼朝が創出した制度とは恐れ入りすぎる。頼朝は朝廷から征夷大将軍という役職を頂いたのであり、一応は臣下の礼をしている。
信長も秀吉も家康も同じ。あの頃の天皇は象徴ではない。
「天皇を日本の象徴とする」は、日本国憲法に書かれたものであり、主権在民の内閣では、天皇に臣下の礼はなされない。したがって、源頼朝が創出した制度は間違い、×なのだ!

tiku 天皇制の「象徴」的性格については、津田左右吉、和辻哲郎、美濃部達吉らも指摘しています(私コメント参照)。それを思想史的に解明したのが山本七平です。象徴天皇制の意味は、天皇が政治の実権から離れて文化的象徴となったことを指しています。それが、制度的に確立したのが鎌倉時代なのです。なお、現憲法下の「象徴天皇制」でも、内閣総理大臣は天皇の任命を受けていますよ。(憲法6条)

(葵)天皇機関説は軍部が強力になりすぎたから問題になったのであり、教育勅語は関係なし。
立花隆もそんなことは承知しているはず。彼は学者ではない。
『自分で想う』いいとこチョイスは、間違えれば作者の名誉を毀損することが分からないならば、むやみに引用しなさるな。

tiku 軍部の力が強力になりすぎると「天皇機関説」が問題になるのですかな?「なり過ぎる」程度はどの程度?。天皇機関説とは、それが依拠する思想、それに基づく憲法解釈があって初めて出てきているのであって、その思想を表出していたのが教育勅語であり、、この論争の過程を記したのが立花隆の『天皇と東大』です。この本に「軍部の力が強力になりすぎると「天皇機関説」が問題になる」と書いてあるのかしらん?”これを”あてずっぽ”といいます。

> つまり、「仏性」とは、仏教徒だけの「信心」についていったものではなく、人間の「良心」にあたる心的現象を仏教用語で説明したものなのです。
>この「本心」の持ち主は重ねていいますが、「仏教徒」だけのものではなくて、私たち日本人一般が持っている良心的観念のことを指していて、この心的現象の存在を担保しているものが、日本人独自の自然主義的宗教観念なのではないのか、という意味で、山本七平はそれを「日本教」と名付けたのです。

*(以下6パラグラフ挿入3/4)

 付け加えれば、それまで仏教によって語られてきた「仏」という宇宙の絶対的中心概念が、徳川幕府による平和が維持される中で、日本人が創作したオリジナルな中心概念=「天地自然」に切り替わったのです。

 ここから「天地は万物を生み給う根本にして大父母なり」「されば、人は天を父とし、地を母として、かぎりなき天地の大恩を受けたり。故に天地につかえ奉るを以て人の道とす」

 「天地の御心にしたがうとは、われに天地より生まれつきたる仁愛の徳をうしなわずして、天地の生めるところの人倫をあつくあわれみうやまうをいう。これすなわち人の行うべき所にして、人の道なり」「仁は人の心に天より生まれつきたる本性なり」

 「人倫の道は天性に生まれつきたれども、その道に志なくして、・・・聖人の教え(=五常・五倫)を学ばざれば、人の道なくして鳥けだものにちかし。かくの如くなれば、人と生まれたるかいなし。万物の霊とすべからず。」(貝原益軒『大和俗訓』)

 という具合に、仏より授かった「仏性」が、自然に生まれつきたる「本性」となり、さらに石門心学の流行を経て「本心」となったのです。しかし、それを本当に身につけるためには、五常・五倫の教えを学ばなければならない、とした。 

 それを教育方針として簡潔にまとめたのが明治の「教育勅語」だったのです。(もちろん「教育勅語」はこうした道徳律だけでなく、天皇を宗主とする家族主義的「天皇親政」国家論を伴っていました。これが「天皇機関説」と対立するようになったのです。)

(葵)仏教とは悟りを開いて仏になる修行である。
「人は皆、仏性がある」と説くのは日本式の大乗仏教だけであり、小乗仏教には無い。
神に全て身を任すキリスト教や八百万の神を畏れる神道では仏性は説かない。
神仏混合の時代が長かった日本では宗教観が薄い。簡単に神や仏を敬う。
そんな体質を山本は日本教と言ったのだろう。
仏性とは仏になれる素質ということを理解しなさい。
『仏性』とは、あくまでも大乗仏教の言葉であり仏教用語である
仏教徒でないものには仏性は無いのだ!
屁理屈こいて己の恥を晒せば、教祖の山本の恥でもあるぞよ

tiku この文章の論理は、「仏教とは悟りを開いて仏になる修行である。(これが小乗仏教のこと、付け加えれば出家僧の悟りのこと=筆者)「人は皆、仏性がある」と説くのは日本式の大乗仏教だけで、小乗仏教には無い」。ということは、日本人は「人は皆、仏性がある」と考える、というのが葵さんの結論なのでは。なのに、葵さんは結論として「仏教徒でないものには仏性は無いのだ!」と強弁なさる。そして「屁理屈こいて己の恥を晒せば、教祖の山本の恥でもあるぞよ」とご託宣なさる。これを”インチキ教祖のご託宣”といいます。

>以上、葵さんご自身の「本心」に照らして考えてみて下さい。もちろん、以上の説明が”左巻き”の仕業としか考えられなくても、私は一向にかまいませんが

(葵)葵のいう“左巻き”はクルクルパーのことであり、左翼のことではないよ。

tiku 別に左翼のことと思っていたわけではありませんが、こういう罵詈雑言を投げつけて相手を黙らそうとする、これが”とっつき”の手法です。戦中の話ではなく、平和の御代にも、こうした「とっつき」を得意とし、相手を、言葉の暴力で黙らそうとする人がいるのです。昔の話ではありません。

(葵)著名人の思想という色眼鏡無しでは語れない、己の愚かさを知らず、山本という刃をかざして論争を挑む滑稽さを私は嘲笑しているのさ。

tiku 思想というのは先人に学びつつ身につけていくものです。”はったり”や”こけ脅かし”や”あてずっぽ”では議論になりません。先に紹介したように「学ばざれば禽獣に近し」なのです。葵さんはその恐れが多分にありますね。

 今回の返信は、あなたがわざわざ「一知半解」さんのブログに私論への反論を紹介したから応答したまでです。その後、少しは正直さや礼儀を身につけたのかと思っていましたが、相変わらずの「とっつき」三昧!あなたに、「左巻き」を批判する資格はありませんね。「自虐」以下です。