「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと4――
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2010年3月30日 (火) |
*葵様への返書です。いい質問が含まれていましたので、本文掲載とさせていただきます。
葵さんからLAST突っ込みをいただきました。なんと、かって山本七平の戦争体験談を駄作と思っていたが「大事だ」と評価されるようになっておいでのようで、その山本の言葉を、私たち(一応「一知半解」さんも共犯ということに・・・)が誤読しているのが悪い、とお叱りをうけました。
もちろん、私たちが紹介しているのは山本七平であって「自分」たちではありませんから、つまり、私たちのは刺身のツマのようなものですから、より優れた山本解釈が現れれば有難いわけで、葵さんにはよろしくご教示いただきたいと思います。
そんなわけで、今回はお返事差し上げることにしました。ついては、葵さんも折角のお料理ですので、変な臭気を出さず、上品に召し上がっていただきたいと思います。
>攘夷思想よりディアスポラへの挑戦
(葵) ↑まず、タイトルを見て、目が点になってしまった。
攘夷って?黒船渡来時期なら分かるが???
傑作なのが『デェ(ィ)アスポラへの挑戦』。日本人はユダヤ人のように迫害されて国を追われた歴史は・・・私は知らない。苦痛を我慢して最後まで読んで、その意味が分かったような・・・つまりは↓こうゆうことなのか?
>小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。
(葵)『日本沈没』の原作は読んでいないが、私は映画で愉しんだ。
もしかして・・・・現実と空想の境界線を引けない人なのかいな?
ディアスポラに挑戦するに相応しいのは、日本に強制連行されたとする朝鮮民族だろう。
一日も早く祖国に帰るように~~アーメン、ソーメン、ナンマイダー
(tiku) 以下、『日本沈没(下)』の、日本列島の沈没を目前に、一人の死を覚悟した老人が、日本沈没を予知した田所博士に話す言葉です。(少々長いですがご辛抱下さい)。というのも、葵さんは、ディアスポラを「祖国喪失の悲劇」としか捉えていないみたいですが、それは、次の会話にあるように、「大人の国に再生するための契機」という見方もあるのです。聖書が生まれたのも、ユダヤ人のバビロン捕囚というディアスポラを契機としてますし、キリスト教が生まれたのも、ローマにディアスポラしたユダヤ人のために、その聖書をギリシャ語に翻訳したことがその契機となっています。
「日本人は・・・若い国民じゃな・・・」そういって、老人はちょっと息をついた。『あんたは自分か子供っぼいといったが・・・日本人全体がな・・・これまで、幸せな幼児だったのじゃな。二千年もの間、この暖かく、やさしい、四つの島のふところに抱かれて・・・外へ出て行って、手痛い目にあうと、またこの四つの島に逃げこんで・・・子供が、外で喧嘩に負けて、母親のふところに鼻をつっこむのと同じことじゃ・・・。それで・・・母親に惚れるように、この島に惚れる、あんたのような人も出る・・・。だがな・・・おふくろというものは、死ぬこともあるのじゃよ・・・」
『日本人はな・・・これから苦労するよ・・・。この四つの島があるかぎり・・・帰る”家”があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやかし、育ててくれているおふくろかいたのじゃからな。・・・だが、世界の中には、こんな幸福な、暖かい家を持ちっづけた国民はそう多くない。何千年の歴史を通じて、流亡をつづけ、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかねばならなかった民族も山ほどおるのじゃ・・・。あんたは・・・しかたがない。おふくろに惚れたのじゃからな・・・。だか・・・生きて逃れたたくさんの日本民族はな・・・これからが、試練じゃ・・・。家は沈み、橋は焼かれたのじゃ・・・。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、わたっていかねばならん・・・。いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん・・・。これからはな・・・帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧でなにもわからん民族と立ちあって・・・外の世界に呑みこまれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか・・・それもええと思うよ・・・それとも・・・未来へかけて、本当に、新しいか意味での明日の世界の”大人の民族”に大きく育っていけるか・・・日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな”国”ぐらいつくるじゃろうが・・・辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、我が身の不運を嘆いたり、世界の”冷たさ”に対する愚痴ばかり次の世代にのこす、つまらん民族になりさがるか・・・」これからが賭けじゃな・・・。そう思ったら、田所さん、惚れた女の最期をみとるのもええが・・・焼ける家から逃れていった弟妹たちの将来をも、祝福してやんなされ。あの連中は、誰一人として、そんなことは知るまい。また将来へかけて気づきもしまいが、田所さん、あんたは、あの連中の何千万人かを救ったのじゃ。・・・わしが・・・それを認める・・・わしが知っとる・・・それでええじゃろ……」
「ええ・・・」田所博士はうなずいた。「わかります・・・」「やれやれ・・・」と老人は、息をついた。「わかってくれたら・・・何よりじゃ・・・。あんたが・・・考えてみれば・・・最後の難物じゃったな・・・。実をいうと、あんたをな・・・そういう思い(日本列島に恋して、一緒に沈没して死のうと決心する程の思い=筆者)のまま・・・死なせたくなかった。・・・本当は、それが心のこりじゃったが・・・今、あんたの話を聞いて、わしも、やっと日本人というものが、わかったような気がしたでな。・・・日本人というものは・・・わしにはちょっとわかりにくいところがあってな・・・」
「どうしてですか?」 老人のいい方に、ふとひっかかるところかあって、べつにそんな深い意味もなしに、田所博士は聞きかえした。
ふ、と老人は、短い息を洩らした。――しばらく、間をおいて、老人は、ささやくようにいった。
「わしは――純粋な日本人ではないからな・・・」それから、もう一つ、吐息をつくように老人はいった。「わしの父は・・・清国の僧侶じゃった・・・」
田所博士は、ちょっとおどろいたように、ふりかえった。――老人に何か問いかけようとして、老人の次の言葉を待つ形で、老人のほうを見ていたが、そのまま老人は一言も発しなかった。
実は、この小説は昭和48年に出版されたもので第一部完となっていますが、第二部はなんとその33年後の2006年に刊行されました。二部を書くことは実際は困難だったのですね。私もざっと目を通しましたが、ディアスポラ後の日本人の生き方としては、ユダヤ民族が捕囚地で始めたシナゴークにおける祖国の伝統教育、そのための聖書編纂の仕事を示唆する程度で、最後は宇宙にディアスポラする話で終わっています。
(葵)日本人は今ある平和に感謝して、わざわざ民族分散なぞに挑戦する必要はないよ。ただし、日本が嫌いな人は、遠慮なさらずに脱出しなさい。
しかし、この平和ボケしている日本人に攘夷思想なんてあるのだろうか?
もしかしたらtikurin殿は、黒船騒ぎのあの時代から、タイムスリップしてきた人なのか?
なんとも、まー・・・不思議な御仁の考えることは、凡人の私には分からない。
(tiku)”攘夷思想くらい持ちなさい”と母親が息子を叱っているみたいですが、息子たちが平和ボケしている現代こそ、”他所の国にたたき出すべきでは・・・”。それがディアスポラのすすめ、という意味です。
『日本人とユダヤ人』では、ベンダサンは、ユダヤ人のように祖国を失うようなことは決してしてはならないといい、ユダヤ人が受けた迫害の教訓から、朝鮮人との関係について、「朝鮮戦争は、日本の資本家が(もうけるため)、たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人に対して、「ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないとだれが保障してくれよう」といっています。
そして、朝鮮戦争について、朝鮮人が「われわれが三十八度線で死闘をして日本を守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけぬくぬくともうけやがった」と考えるのは当然だが、たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない。・・・しかし同様なことを第一次世界大戦後のユダヤ人はドイツ人からいわれ、それがアウシュビッツにつづいたのである――前述の文化人さんよ。自分の子のためにも、このことを忘れないで欲しい。」といっています。
この部分は、浅見氏をはじめ左翼の皆さんが、口を極めて山本七平を人種差別主義者だと非難罵倒している部分ですが、ユダヤ人(この本の著作には二人のユダヤ人が関与している)の経験から、日本人に人種(民族)問題の困難性を教えているのであって、こうした山本批判は当たらないと思います。いずれにしても、自らの政府を失うことは大変なことですから、ベンダサンは、民族・国家というものは、武力を使ってでも守るべきものだといっているのです。
もとろん、私がディアスポラというのも、それは祖国喪失をすすめているわけではなくて、若者には、積極的に異国に出て行って、日本と異なる文化を体験してほしいといっているだけです。そうした経験を通じて、自らの民族的アイデンティティーを確認し、さらにその発展に努めて欲しいといっているのです。あるテレビ番組で兵役に代わる一年間の「徴農制」を提言していましたが、そんなことより一年間の「ディアスポラ」の方が効果的ではないかと思ったことでした。
>確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。
(葵)分からないついでに↑これ。
象徴天皇制は、かなの発明とは無関係であり、日本独自の文化ではない。
あれはGHQの発明じゃ!
難解な長文は山本七平流?その思想は山本教の教義なのかい?
(tiku)象徴天皇制をGHQの発明と考えているようでは、まだまだ山本学を理解したことにはなりませんね。これは源頼朝が創出した制度で、それを北条泰時が、これに抵抗した三上皇を島流しにした後に、法制度(貞永式目)上確立したものです。その後、後醍醐天皇の巻き返し(建武の中興)がありましたが、結局、後醍醐天皇は足利尊氏に追われて南朝となり、尊氏は”武家のために立てた天皇”である北朝を擁立し、南北朝合一で神器が南朝から北朝に譲られ、こうして天皇制は文化的「象徴天皇制」となったのです。
この状態が、室町時代以降も続きますが、守護大名間の下剋上的争乱から戦国時代を経て家康による全国統一が完成すると、武力によらない秩序づくりが求められるようになりました。この時採用された思想が、中国の宋・明の時代に発達した朱子学(新儒教)で、これによって、天皇の正統性が「神武天皇は呉の太伯の子孫」という形で権威づけられました。さらに、その天皇により家康が将軍に任命されたことで、幕府政治の正統性が説明されたのです。また、朱子学の五常(仁義礼智信)・五倫(父子の親、君臣の義・長幼の序・朋友の信)の道徳哲学に基づく個人倫理の確立によって、幕藩体制下の身分秩序の安定が図られました。
ところが、こうした中国思想の体制思想としての導入は、過度の中国文明の理想化を生み、その後、明が滅んで朱舜水をはじめとする多数の亡命者が日本に来るようになると、現実の中国は満州族に支配された「畜類の国」であって、日本こそ「真の中国」だというような考え方が生まれました。そして、これが、「根本枝葉花実説」(神道が根本で儒教は枝葉、仏教は花実とするもの)といわれる神道思想や、記紀神話に基づく萬世一系の天皇家の統治の正統性を主張する国学思想と習合したことによって、天皇を「象徴」に棚上げしてきた幕府政治の正統性を疑うものが出るようなりました。
こうした考え方を鮮明にしたのが、山崎闇斎門下の浅見絅斎で、彼は、朱子の「正統の三原則」(1)夷狄、(2)賊后、(3)簒臣、を日本に当てはめ、幕府は天皇から政権を奪った「簒臣」であるから正統性はなく、政権は朝廷に返上さるべきだと主張するようになりました。また、こうした考え方をもとに水戸の彰考館などで日本史の再解釈がなされるようになり、天皇政治の復活を企図した後醍醐天皇の「建武の中興」を挫折せしめた張本人として足利尊氏が叛臣扱いされるようになり、他方、後醍醐天皇を支えて幕府軍と戦った楠木正成が忠臣と見なされるようになりました。
こうして、鎌倉幕府以降、源頼朝や北条泰時によって確立された「象徴天皇制」に基づく二権分立的な日本の統治体制は、中国皇帝の一元的な統治体制をモデルとし、それを萬世一系の皇統において理想的に体現しているとされた、天皇による直接統治=親政に戻すべきだとする考えが生まれたのです。しかし、幕府の統治下でこれを公然と主張することはできないので、彼は、中国人の歴史上の人物の中から、こうした正統を絶対として、それを守るためには殉教も厭わない人物8人を選び出し、その評伝を『靖献遺言』という本にまとめて公刊しました。
この本には、正統性を有しない政権への忠誠を拒否し、殉教をも厭わなかった忠臣・義士が紹介されており、これが幕末の志士達に「革命のエトス」を注入することになったのです。すなわち、幕府の存在を非合法とし、日本の歴史の過ちを正そうとする政治運動に参加して、例え幕府の法で処刑されるようなことがあっても、「それは正しい」とする個人的・絶対的倫理規範」に身を委ねるようになったのです。幕末になると、こうした思想が徐々に全日本に浸透していき、これが攘夷思想と結びつくことによって、尊皇の志士たちによる尊皇攘夷運動、そして尊皇倒幕思想へと発展していきました。
明治維新とは、実は、この尊皇思想と攘夷思想とが結びつくことによって達成された日本初のイデオロギー革命だったのです。しかし、この思想は、日本の政治思想史の全体の流れからいえば、幕府政治が登場する以前の、天皇が名目上政治的主宰者であった時代の政治体制に逆戻りしようとするものでした。しかし、実際、幕府から天皇に大政奉還がなされ維新政府ができてみると、この復古思想で新政権を運営することは不可能である事が明らかとなり、そこで、政府は文明開化策に転換し、政治制度としては、イギリス流の立憲君主制が採用されることになったのです。
この時、この尊皇思想という復古思想を思想的に精算し、あくまで歴史的産物として過去の申し送ることができていれば良かったのですが(まあ、無いものねだりですが)、この思想は西南戦争の敗戦によって西郷とともに地下に潜り、他方、教育勅語という形で理念化されたために、「明治憲法は天皇親政が建て前である」とする誤った憲法解釈を温存させることになりました。これが、昭和において、この教育勅語の国家観と明治憲法の国家観の矛盾対立として表面化し、天皇機関説問題を惹起することになったのです。
(葵)天皇機関説問題・・・ばからしい解説に苦笑した。
(tiku)この復古思想の昭和における噴出が、それまでの明治憲法下の立憲君主制下の「君臨すれども統治せず」の制限君主としての天皇制と、教育勅語に結晶した尊皇思想にもとづく、一君万民・家族主義的天皇制の衝突となって表面化しました。すなわち、前者を主張する美濃部達吉と、後者を主張する蓑田胸喜ら狂信的右翼思想家及び軍部との、天皇制の憲法解釈上の位置づけをめぐる対立、いわゆる天皇機関説問題として露呈したのです。
ただし、美濃部達吉も少し甘かった。というのは、政治的には、天皇もあくまで日本国の統治機構の一機関と見なすことができるのですが、教育勅語に謳う家族的国家観に基づく道徳律の主宰者という天皇の位置づけについては、これを政府の一機関とすることができない、つまり、ここに二つの国家観の矛盾が胚胎していることに、この時初めて気づかされたのです。このことは現在の問題でもありますが・・・。。(『天皇と東大(下)』「天皇機関説論争が招いた二・二六事件」立花隆p169)
(葵)「日本教には仏性がありまして」と、平気でばかを晒す(仏性があるのは仏教徒。日本教とは山本の造語)そんな似非知識人の記事を参考にするから、頭が左巻きになっちゃうのだ!
(tiku)日本の思想は、弥生時代以来の卑弥呼に見られるような神祭りを中心とする祭儀の伝統に、大和朝廷の時代に導入された仏教(これは「儒・釈・道」の三教混合宗教だった)が重なり、日本的な「神・儒・仏」三教合一思想として発展したものです。従って、人間の良心に当たる心の作用を、人の心には仏の心(=慈悲の心)が宿っているという意味で仏教用語を充て「仏心」と名付けたのです。
それが江戸時代になると、仏教が戦国時代の乱世に説得力を失ったことからその影響力が低下し、日本の思想の表現は、神仏習合から神儒習合へと切り替わっていきました。また、幕府が、切支丹排撃のため全国民を仏教徒として檀家制度に組み入れ、お寺にその戸籍管理をさせたことで、僧が公務員のようになり、僧の資質の低下をもたらし、仏教の庶民に対する宗教的影響力は一層低下しました。そんなことで「仏心」は、儒教用語で「(本)性」と呼ばれるようになりました。
さらに、石田梅岩の心学が流行し、脱宗教化が一層徹底するようになると、その弟子の手島堵庵がそれを「本心」と言い換えたのです。この言葉は現代の私たちでも使いますね。「自分の本心に聞いて見なさい」といった具合に。
つまり、「仏性」とは、仏教徒だけの「信心」についていったものではなく、人間の「良心」にあたる心的現象を仏教用語で説明したものなのです。だから、それが脱宗教社会といわれる江戸時代には、一般社会的には、より宗教臭くない「本心」という言葉で言い表されるようになったのです。
この「本心」の持ち主は重ねていいますが、「仏教徒」だけのものではなくて、私たち日本人一般が持っている良心的観念のことを指していて、この心的現象の存在を担保しているものが、日本人独自の自然主義的宗教観念なのではないのか、という意味で、山本七平はそれを「日本教」と名付けたのです。
以上、葵さんご自身の「本心」に照らして考えてみて下さい。もちろん、以上の説明が”左巻き”の仕業としか考えられなくても、私は一向にかまいませんが。
(葵)ネットという仮想空間で、著名な文化人の衣をまとってHNという匿名に箔をつけて誇示するさまは、私には哀れに見える。
(tiku)HNってなんのことかしら?
(葵)学歴と教養は同じではないよ。折角PCという素晴らしい百科事典があるのだから、分からない言葉や事柄は検索して調べなさい。ただし、歴史を本当に学びたいのならば、自虐も自慰もサヨクもウヨクも、その思想を知りなさい。そして自分の頭で考えて自分なりの真実を決めなさい。
(tiku)PCはすばらしい!葵さんも十分ご活用下さい。でも、それだけではダメですね。自分の頭で考えることが大切です。しかし、葵さんの場合は、まだ、ステレオタイプな歴史観から脱しておられないようですね。折角の粘り腰、奮起を期待します。
(葵)私は山本の戦争体験談を駄作と評したけど
大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。
従って「大本営の気違いども」といった言葉は、戦後のいわゆる軍部批判と同じではない。
↑この大事な山本の言葉を誤読しているキミたちの感想が山本文を駄作にしているのだが・・・わかるかなーわかんないだろうなー
(tiku)この言葉がどこに書かれているか私知っています。でも、葵さんに何がわかり、何がわかんないのか、私は皆目わかんない。良かったら、”わかんないだろうなー”なんてもったいぶらないで教えて下さいね。
以上、いつもの長文で申し訳ありません。アップは、一知半解さんのブログでの紹介と私ブログ及び私HPとさせていただきます。葵さんのブログにはご自身でリンクを貼って下さい。