「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと3
――浅見氏の山本批判について

2010年3月27日 (土)

*AP_09さんとの対話ですが、少々長くなりましたので、本文掲載とさせていただきます。

AP_09さんへ
拙論(といっても山本七平の説を私なりに解釈したものにすぎませんが)を参考にしていただき光栄です。今後ともご意見よろしくお願いします。

 さて、浅見定雄氏の山本批判についてですが、山本は1988年6月22日号の朝日ジャーナルのインタビューを受けています。そこで浅見氏の指摘について問われ、あれはエッセーです。エッセーは楽しんでもらえればそれでよい。学術論文として扱われると問題があるのは当然で、私だってそのことはよく知っている、と答えています。また、ベンダサン=山本説については、この本の編集上協力したことは否定しないが著作権は持っていないと繰り返し、さらに、浅見さんの批判を無視するのかという問いに対しては、自分について書かれたことで自己弁護はしないと答えています。

 また、このことについて小室直樹氏は次のように浅見氏を批判しています。

 山本先生は本人が署名する場合は山本書店主と書いており、学者でないことは自他共に認めている。しかし、山本先生は学問的にはまったくの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものなのだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えばいろいろな点で欠点があるだろう。しかし、才能もあって一生懸命努力している人には、プロは助言して励ますべきものであって、細かいことで難癖つけてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である。

 事実、著名な聖書学者等の多くはそのようにしていますね。では浅見氏はなぜあのように敵意むき出しの山本批判をしたのか。実は、浅見氏は「山本ベンダサンのにせ知識と論理のでたらめさの指摘はダシのようなもの」で、「もっと心のわだかまっていたのは、『踏まれる側』の人間に対する彼の鈍感冷酷さと、『踏む側』の人間に対する彼らのへつらいや協力ぶりのことであった。こういう人が、日本の文化教育から『防衛』政策にまで影響力を行使している。この現象をあまり見くびってはいけないと思った。」と別著で述べています。(『聖書と日本人』浅見定雄P27)

 問題は、ここで『踏まれる側』と『踏む側』とは、どういう基準で分けられるかということですが、ここには氏の信仰(私にはイデオロギーのように見えます)が関わっていて、その最大のポイントは、氏の「象徴天皇制」に対する批判にあります。氏は①天皇が象徴であるというのは、天皇は私たち一般の人間とは異質だということである。②「その天皇が日本国及び日本国民統合の象徴であるというのは、国民以外の『よそもの』(朝鮮人や白人)は入ってはいけないということである」といっています。

 つまり、「このように天皇を別格視する考えと、日本国(民)が自分を特別な民族だと思い込む精神とは、根本でつながっている」というのです。そして、「天皇が日本の象徴だということは、裏がえせば、日本の『世界に比類ない』特徴はこの国があの天皇家によって支配されてきたきた点にある」といっています。つまり、日本民族の優越性と他民族に対する差別性は「天皇制」から生まれていると考えていて、究極的にはその廃絶を主張しているのです。(上掲書P175)

 では、こうした天皇制の基本的問題点を克服するための氏の基本的立場はどういうものかというと、「それは、あのガラテヤ人の手紙第三章二十八節に言いあらわされているような福音の真理・・・キリスト・イエスにあっては『もはや、ユダヤ人もギリシャ人』もなく(つまり日本人とか外国人とかの優劣はなく)、奴隷も自由人もない(つまり下層民とか天皇とかいうこともない)という、あの原則・・」つまり、こうした「人類普遍の原理」を国のすみずみまで生かしていくことだ、といっています。(上掲書P177~182)

 この本は1988年に出版されたものですが、一見して、浅見氏の天皇制の理解は当時の戦後左翼のそれと同じであることが分かります。これに対して『日本人とユダヤ人』は、鎌倉幕府以来の「朝廷・幕府併存」という政治体制が、統治における祭儀権と行政権を分立させたものであるとして、日本人を「政治天才」と高く評価しました。つまり、この段階で、天皇制は「象徴天皇制」に変化したと指摘していたのです。また、その背後には、「日本教」とでもいうべき「人間教乃至経済教」(政治は義の実現より経済的安定を指向する)があるともいっていました。

 浅見氏は、こうした論理による「象徴天皇制」の評価が許せなかったのでしょうね。しかし、浅見氏は『にせユダヤ人の日本人』の中では、この章にはほとんど触れていません。その代わり、他の章で、氏の聖書学がいかにインチキか、その日本人論がいかにでたらめか、氏の語学力がいかに低いかを執拗に攻撃しています。しかし、私は、氏の本当の山本攻撃のポイントはその天皇制論にあったのではないかと思います。しかし、ここに触れると、以上紹介したような氏の「象徴天皇制」否定のイデオロギーが露呈するのでそれを憚ったのかも・・・。

 しかし、この点では、私は、ベンダサンの「象徴天皇制」の評価の方が正しいと思います。このことは、その後の『ベンダサン氏の日本の歴史』や山本七平氏の『現人神の創作者たち』などによって、この「象徴天皇制」が、朱子学の名分論の影響で、中国皇帝をモデルとする一元的絶対主義的天皇制へと転化していったこと。これが尊皇討幕運動を生み明治維新へとつながっていったこと。しかし、新政府は攘夷は実行せず、立憲君主制に基づく開国策を取ったこと。一方、尊皇思想は教育勅語に結実するとともに、政治制度としては、西郷の「殉教」によって地下に潜り、そのマグマが、昭和の政治的・経済的混乱を契機に地上に噴出したこと等、これまで昭和史の”なぞ”とされてきたことが、思想史的に解明されたのです。

 その他、私は、浅見氏の「人類普遍の原理」による、民族や言葉の壁を越えた国際市民社会が実現するという考え方にも疑問を持ちました。また、宗教的信念に基づき、日本の「象徴天皇制」を「天皇特殊論」と断じ、それを差別の根源と批判するその思想の妥当性にも疑問を持ちました。まして、自分と異なる思想の持ち主を、『踏む側』の人間と決めつけ、『踏まれる側』の人間に対する鈍感冷酷さもつ人間と断罪することなど、はたして宗教家のやることかと思いました。

 ところで山本七平には、その縁戚筋に大石誠之助(大逆事件で処刑=冤罪)がいて、両親はそのことで故郷を追われ東京に住んだクリスチャンでした。山本自身は、先の大戦では21才で陸軍に入隊し23才から25才までフィリビンのジャングルで戦い、飢餓線上をさまよい、最後は捕虜となり戦犯容疑も受けています。

 そんな生い立ちと経歴から、氏は、次のようなことを『現人神の創作者たち』の「あとがき」で述べています。

 「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。」 

 また、氏は、復員後も戦争による後遺症に苦しみ、35才でようやく「社長兼社員」の山本書店を立ち上げ、その後、聖書学の専門図書を出版してきました。43歳の時、岩隈直氏が33年かかってまとめた「新約聖書ギリシャ語辞典」の出版を赤字覚悟で引き受けました(どの出版者も断った)。その出版費用の一部にでもと思ったのか49才の時『日本人とユダヤ人』を出版し、これが大ベストセラーとなったのです。その後、氏は多くの山本七平名の著書を世に送りましたが、その収益の大半は聖書学関係の本の出版費用に充てたといいます。

 そんな氏に対して、平和な時代に、自分の時間を自由に使え「聖書学」を学びそれで生計を立てている人が、どうして「鈍感冷酷さもつ人間」などと山本七平の人格攻撃ができるのか。もちろん学問的な間違いを指摘することは私も大切だと思います。しかし、私は、山本七平の本領はその「日本学」にあると思っています。その独創的で日本人にとって極めて示唆に富む研究成果が、こうした攻撃によってアクセスを妨げられている。私はこれは誠に残念なことだと思い、非力を承知でその紹介にあたっているのです。