「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと2――
攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

2010年3月22日 (月)

*「一知半解」さんのブログでの対話を再掲させていただきます。

自己絶対化を克服すること

 司馬遼太郎には昭和が書けませんでした。精神衛生上悪いといって・・・。山本七平はその昭和を、戦場の自分自身を語ることでその実相を伝えようとしたのです。それは自虐でも美談でもなく、戦争で露呈した日本人の弱点を言葉(=思想)で克服しようとする試みでした。

 そのポイントは”自己を絶対視する思想をいかに克服するか”ということで、そこで、尊皇思想における現人神」思想の思想史的系譜を明らかにしようとしたのです。氏の聖書学はそのためのヒントを与えるものでした。

 mugiさんは、浅見定雄氏を山本批判の切り札に援用されますが、浅見氏はmugiさんが最も嫌う”非寛容な一神教”クリスチャンで、思想的には”先鋭な”反天皇制、反元号、反靖国、反軍備、親中・朝論者です。 氏の著書を見ると、氏の意見に賛成なら”できの悪い”生徒でも及第点をもらえるが、その逆なら大変な目にあう、そんな恐ろしさが感じられます。

 この強度のイデオロギー性は教師としては問題ですね。確かに、氏の山本批判(ただし、ベンダサン=山本七平とは言えない)には肯首すべき点もあります。しかし、それを台無しにするものがある。上記の点もそうですが、その論述に憎悪が感じられる点学者としては不名誉だし、クリスチャンとしては致命的です。(同様の指摘は立花隆、小室直樹氏もしています。)

 そのため、氏は、山本七平の「日本人論」の優れた部分が全く見えなくなっている。もちろん、その動機はキリスト教左派(?)の立場からする日本の伝統思想批判ですから仕方ありませんが、これでは自虐どころか自国否定になりかねません。

 山本七平の日本人論の独創性は、こうした日本人の思想形成における自国否定とその反作用としての自国美化の非歴史的循環論からいかに脱却するかということ。これを日本思想史の課題として捉えることで、そのベースとなる伝統思想を思想史的に解明することにありました。

 私が山本七平を紹介するのは、その日本人論が、私たちが無意識的に生きている伝統思想を自覚的に把握し、それを対象化できるようにしてくれたと考えるからで、それが、次の時代の日本の思想的発展を考える際の議論の土台になると考えたからです。

「一知半解」さんのコメント

tikurin様

確かに、戦争などの極限状態においては、その民族の行動原理というものが、はっきりと露呈してしまうのでしょう。

山本七平はそれを自ら嫌というほど体験したが故に、日本人とは何かを追及し続けたのでしょうね。

ap_09さんのコメント

tikurin 様
自己の絶対視から、その裏返しともいえる自虐や自己否定へと、極端から極端へ振れ、中間が無いということなのでしょうか。なぜそうなるのでしょう、面白いですね。外国の人は、自分が一番の一本調子のことが多いように見えます。

ap_09さんへ(tikurinより)

攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

 中間がないというより、自己の考えと他者の考えを相対的な関係において捉えることができないということですね。自己の考えはどうしてできているか。それは、その人の素質や育った環境、受けてきた教育(=歴史)などによります。同様に、他者のそれもその人に与えられたこれらの条件によります。このことは民族や国家についてもいえます。

 では、自己と他者の考えが現実問題の処理において対立した場合はどうするか。他者が圧倒的に勝っている場合は、自虐や自己否定に陥る。しかし、そうした心理状態は長くは続かないから当然反発心が生まれる。さらに、それを根拠づけようとすると自己の歴史の優位性を主張するようになる。それが行き過ぎると他者の存在を否定するようになる。

 では、こうした悪循環からいかに脱却するか。それは自己あるいは自民族や国家の存在を歴史的に把握するということですね。というのは、自分はもちろん民族や国家も一種の有機体で独自の根をもって成長しているから、その現在を理解するためには、それが受けた他の文化の影響も含めて、それを歴史的に把握する必要があるのです。

 日本の場合は、中華文明の圧倒的影響下にありましたが、海に隔てられていたおかげで安全を確保でき、独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明の影響力が圧倒的であっただけに、思想的には、それへの迎合と反発というパターンを繰り返さざるを得ませんでした。

 確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明のもたらした仏教や儒教の思想的影響力は圧倒的で、それを自己の文化に取り込もうとする時、これらに対する迎合と反発というパターンの繰り返しから、完全に脱却することができなかったのですね。

 明治になると、その迎合の対象が中華文明から西欧文明に切り替わりましたが、従来の中華文明に対する劣等意識の反動で、中国に対する優越意識を持つようになりました。次いで、西洋文明への迎合が反発に変わり、ついに東洋文明のチャンピオンが日本が、西洋文明のチャンピオンであるアメリカと対決する、という風に民族意識が変化していったのです。

 同様の心理変化は戦後にも見られますね。最初はアメリカ民主主義に対する迎合、それからソ連共産主義、中国毛沢東主義へと次々に・・・。そして、それへの幻滅と反発、再び自己の歴史の正当化からその美談化へと・・・。それが現在の状況ですね。これを放っておくと、再び自己絶対化に陥ることになります。

 では、そうならないようにするためにはどうしたらいいか。それは、先に述べたように、自己及び自民族を歴史的に把握するということです。それができれば、他者の文化も同様に歴史的に把握することができる。その上で、今後自分たちが生きのびていくためには、どのように彼らとつき合ったらいいか冷静に考えることができるようになる。

 優れた中心文化に接ぎ木して生き延びるか、それとも自己独自の文化の芽を育てそれを発展させていくか。それは和魂洋才ということになるが、難しいのは、洋魂洋才が一セットであるということで、洋才だけ切り離して採り入れようとしても、洋魂の影響を免れ難いということです。

 この問題をクリアーするためには、自己の文化を和魂和才一セットで把握する視点を持つことが大切です。つまり、自己の思想形成を歴史的に把握するということです。その上で、洋魂洋才の文化から何を学ぶか。その文化的遺伝子の内どれを、日本文化の新たな創造的発展に取り込んでいくかを考えなければなりません。

 では、具体的にはどうするか。かっての「陸軍パンフ」は「たたかひは創造の父、文化の母である」といい国防国家建設を謳いました。これに対して美濃部達吉は、それは「国家既定の方針」(立憲君主制下の議会制民主主義=洋才)を無視するものであり、「真の挙国一致の聖趣にも違背す」と批判しました。このため美濃部は陸軍の怨嗟を受け、その後天皇機関説問題として糾弾されることになりました。

 この場合、確かに、「文化的創造」も一面「たたかひ」だと思いますが、それが単純に戦争の勝ち負けに還元されたことが問題でした。というのは、すでにこの頃、西洋文明は「戦争を外交の手段」としてそれを合理的に処理する思想を持っていたのです。これに対して軍部のこの思想は「一か八か」の”賭け”の域を出ませんでした。

 結論的にいえば、やっぱり、その思想の”「現実」コントロール能力が貧弱だった”ということですね。西洋文化は、戦争を外交という「国際社会の生き残り競争」の手段としてコントロールするだけの思想的したたかさを持っていたのです。では、日本人はこうした昭和の失敗の教訓から、何を学ぶことができたか。その思想を咀嚼しえたか。

 これについては、否というより、こうした思想を持つこと自体を拒否しているように見えますね。でも、徳川幕府による260年間の平和でさえも、各藩の軍事力を最小限にコントロールする思想によって維持されたのです。では、今日の国際社会はどうか。その平和を「公正と信義」に基づく言葉のみで維持できるか。

 それは、日本の江戸時代もそうであったように、現在の国際社会の平和を維持するためには、国連軍が各国の軍事力をコントロールする力を持たない限り無理だと思います。まして、宗教を異にする各部族、それも自己絶対化に陥りやすい部族や個人が大量破壊兵器を手にする時代の安全保障は、一層複雑かつ困難なものになると思います。

 こうした現実を”見ない”、というより、”逃避する”ような思想では、「たたかひは自虐の父、自滅の母」というようなことになってしまって、せっかく日本人が歴史的に創造してきた独自の文化の根を枯らしてしまうことにもなりかねません。その時は、接ぎ木もさせてもらえず、日本文化は立ち枯れる外なくなります。

 それは、結局、明治維新期に韓国や中国が陥ったような状況を、今度は逆のパターンで再現する事になるかもしれません。小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。