「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと――
政治家森恪の大罪

2010年3月11日 (木)

前回、私は、「日本の安易な『アジア共同体思想』が日中戦争を引き起こした」ということを申しました。また、対米英戦争についても、その原因をアメリカに求めるのは無理がある、とも申しました。以前、私は、多母神さんの主張について私見を述べた時、日中戦争については”慢鼠、窮猫に噛まれる”。日米戦争については、アメリカは”窮鼠猫を(南方で)かませる”つもりだったが、油断していて真珠湾をかまれた”というのが、妥当なところではないかと申しました。(参照

 多母神氏は、”日中戦争、日米戦争とも、日本は謀略により戦争に引き込まれた”といっています。いわゆる「謀略史観」というやつですね。また、”日本は大東亜戦争においてアジア諸国の植民地解放といういいこともした”ともいっています。しかし、前者については、日中戦争の原因(満洲の謀略による軍事占領や華北分離工作など)を作ったのは日本ですし、日米戦争については、日本が中国との戦争を終息できず、逆に、米英の敵であるヒトラーと同盟して南方進出をはかったことがその原因です。

 そもそも、日本に、”アジア諸国の植民地からの解放”という大義が当初からあったのなら、なぜ日本は、中国と戦争するようなことをしたのか。確かに、中国が革命外交と銘打って、日本の満洲権益を閉め出そうとしたのは間違いでした。また、張学良のとった対日強硬策が満州事変の暴発を招いたことも事実です。しかし、国民党にそうした政策を採らせたのは、日本軍が三次にわたる山東出兵を行い、その間済南事件を引き起こして、蒋介石の中国統一を阻止しようとしたからです。また、張学良については、その父張作霖が日本の説得を受け入れて満洲に帰還したのに、関東軍の一部将校が奉天郊外で彼を列車ごとを爆殺したことが原因です。

では、どうして日本軍はそのような行為に出たのか。それは、対ソ防衛という安全保障の問題に加えて、日本の人口問題や資源問題を解決するためには、満洲における権益拡大は、「日本の生命線を守る」という意味で不可欠の条件と認識されたからです。そのために、これを阻害する要因を武力で排除しようとした。これが、日中戦争を誘発することになった一次的原因です。(二次的原因は、こうした日本軍の行動を、日本人の安易な「アジア共同体思想」で正当化したことです。)

 こうした日本軍の独善的行動の水先案内をし、彼らを政治の世界に引き込んだ政治家が政友会の森恪でした。その象徴的な行動が第一次山東出兵直後に開催された東方会議です。この会議の後に満蒙に対する積極策を説いた「田中上奏文」が昭和天皇に上奏されたと中国が世界に宣伝しました。これが偽書であることは今日明白ですが、しかし、そこに「森の依頼により少壮軍人と少壮外務官僚が作り上げた」タネ本があったことは間違いないと思います。(『昭和史の怪物たち』畠山武p33)

 そこには、「満洲は中国領にあらず」とする主張や、ワシントン会議における九ヵ国条約や軍縮条約、さらに不戦条約に対する根本的批判がありますが、これは当時森が主張していたことでした。森はこれらの条約を廃棄し「東洋における日本人の自由活動」を確保することを主張していたのです。こうした森の主張を、独自の文明論で理論化しそれを正当化したのが石原莞爾でした。

こうした森の活動は、朴烈事件に始まり、第二次南京事件における幣原喜重郎外務大臣に対する「軟弱外交」批判、三次にわたる山東出兵(それが済南事件を引き起こした)、その帰結としての張作霖爆殺事件、ロンドン軍縮条約締結時の統帥権干犯事件、幣原喜重郎(首相代理)に対する「天皇の政治利用」攻撃、満州事変、そして五・一五事件と続きました。その目的は、軍を政治に引き込んで軍・政一体の政治組織を作り、積極的な大陸政策を推進することでした。

 石原莞爾については、前回、その「最終戦総論」の一端を紹介しましたが、おそらく、その思想形成は、こうした森恪の積極的な大陸政策論を引き継ぐ形でなされたのではないかと思います。あえてその違いを指摘するなら、後者は、田中智学の影響で、それを東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式の中に、日本とアメリカをそれぞれのチャンピオンとして位置づけ、両者間の最終戦争を文明論的な宿命として論じている点です。

 実は、東京裁判が行われた時、満州事変から太平洋戦争に至る日本の軍事行動について、そこに、世界支配のための「共同謀議」があったのではないか、ということが問われました。結果的には、被告25名全員の共同謀議が認定され、東條英機外7名に死刑が宣告されました。しかし、不思議なことに、そのトータルプランナー兼初期実行者ともいうべき石原莞爾はその訴追から免れました。(森恪は昭和7年に死去しています)

 それは、東京裁判の時点では、満州事変が石原莞爾ら数人の関東軍参謀による謀略であることが、明らかになっていなかったことと、石原莞爾が廬溝橋事件の勃発に際して、不拡大路線をとったことによるのではないかと思います。しかし、この時彼が不拡大を唱えたのは、あくまで最終戦争に至る準決勝戦としての対ソ戦に備えるためであり、ここで中国と戦争すれば、持久戦となり国力を消耗する。それではアメリカとの最終戦争に備えることが出来なくなる、ということだったのです。

 こうした石原莞爾の見通しについては、確かに当たった部分もありますが、しかし、その最終目的がアメリカとの最終戦争に勝利することであった以上、中国における軍事資源の確保は日本軍にとって至上命令でした。そして、それを蒋介石が受け入れない以上、中国との戦争は避けられなかったのです。トラウトマン和平工作が失敗したのも、日本がその資源確保のため、華北からの撤兵を中国に対して約束できなかったことがその本当の原因です。

 そこで問題は、この石原莞爾の、このアメリカとの最終戦争を不可避とした思想が本当に正しかったのかどうかということですが、まず、その東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式は必ずしも石原の独創ではなく、「日蓮主義者」の田中智学に学んだものでした。それは、それが尊皇思想と癒着していることからも分かるように、「満洲生命線論」を智学の「汎日本主義」によって粉飾しただけのものではないでしょうか。(修正6/4)

 つまり、実際は、満州事変は日本の植民地主義的な権益確保(というより石原の当初のねらいとしては領土確保というべき)が目的だったが、それを正当化するため、より大きな王道文明vs覇道文明という対立図式の中に、アジアと欧米諸国とを位置づけた。それによって、日本の満洲占領という植民地主義的行為を、東洋の王道文明という概念でオーバーラップし、それを正当化しようとしたのではないかということです。

 確かに、彼の最終戦争論は、武器技術の発達がその極限に達することによって、戦争そのものが出来なくなるという、今日の核時代における戦争抑止を予見したように見えます。しかし、それは、彼の戦史研究から導き出されたものであって、王道文明vs覇道文明という対立図式から生み出されたものではありません。つまり、この図式から日米戦争の必然性を導き出されたわけではないのです。つまり、彼の日米必戦論は彼の宗教的ドグマ(田中智学の宗論に依拠したもの)なのです。

 しかし、このドグマが、当時の軍人のアジア観やアメリカ観を規制し、それが、満洲に止まらず、中国の華北五省、さらには東南アジアへと、日本軍を進出させることになったのです。それだけでなく、この思想は、「満洲生命線論」を核として連鎖反応的に膨張していき、それが日本人の伝統的な尊皇思想と結びつくことによって、日本国民全体のアジア観やアメリカ観をも決定的に拘束することになったのです。

 先に述べたように、この石原莞爾が登場する前段において、彼ら軍人が政界に進出するための政治的条件を整えた政治家が森恪でした。おそらく彼がいなかったら、石原莞爾の出番はなかったでしょう。その意味では、彼こそ、「昭和の悲劇」をもたらした真正A級戦犯とすべきです。不思議なことに、そうした評は余り見かけませんが、日本の政治に軍を引き込み、統帥権という魔法の杖を彼らに渡したのは、犬養毅や鳩山一郎ではなく、この森恪こそがその元凶だったのです。

 さて、以上で、森恪及び石原莞爾の政治的・軍事責任が明らかになったと思いますが、では、なぜ、満州事変以降、それまで地下に眠っていたはずの尊皇思想が、青年将校だけでなく国民一般の間に呼び覚まされることになったのでしょうか。それは、その時代の客観状況と、その思想とが共鳴現象が起こらない限りあり得ない事でした。

 いうまでもなくその客観状況とは、関東軍の軍事行動によって満州領有が既成事実化したということでした。それと尊皇思想とが共鳴したわけですが、では、なぜ尊皇思想がこの客観状況に共鳴し、この時代の国民の意識を支配するようになったのでしょうか。

 それは、この尊皇思想が、当時の腐敗堕落した立憲君主制度下の政党政治に代わる、一君万民平等主義思想及び家族主義的国家観を持っていたことによります。同時にこの思想は、反近代主義的農本主義やアジア主義的・(西洋)攘夷主義的国家観をも合わせ持っていました。

 実は、この尊皇思想は、明治維新の指導的イデオロギーだったのです。しかし、明治新政府は、政権獲得するや否や攘夷ではなく開国政策に転じ、西欧近代文明の摂取に努めました。こうした政府の欧化政策に反対し、尊皇思想に基づく農本主義的国家を作ろうとしたのが西郷隆盛でした。しかし、これが西南戦争の敗北により挫折したために、この思想は、それ以降の日本の近代化の陰に隠れることになったのです。

 それを再び地上に「昭和維新」として蘇らせたのが満州事変でした。これ以降この思想は、隊付き青年将校を中心に広がりはじめ、5.15事件、天皇機関説排撃事件、国体明徴を経て、当時の国民思想を全体主義的に拘束するものとなりました。そしてついに、2.26事件において暴発し、その首謀者は処刑されましたが、軍はそうしたテロの恐怖を背景に、その政治支配力を強化していったのです。

 その後、昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけとして、8月13日には中国軍による上海の日本海軍に対する攻撃が行われ、日中戦争が始まりました。その後、幾度となく日本から講和の働きかけがなされましたが、ついに実を結ぶことはありませんでした。また、昭和14年には大政翼賛会の発足と共に政党は解散となり、それによって議会は有名無実となり、また、国民の間の言論統制も次第に厳しくなっていきました。

 結果的には、この尊皇思想による全体主義的思想統制が、立憲君主制下の政党政治や議会政治を窒息させ、国民から言論の自由を奪い、軍に対する盲目的献身を生むことになったのです。しかし、もし、明治以降、この思想のもつ先に述べたような諸相が自覚的に認識されていたならば、それを立憲君主制下の諸制度と矛盾しないよう思想的整理をつけることができたかもしれません。

 例えば、その家族主義思想は家族に返し、天皇は立憲君主制下の制限君主制として内閣の輔弼責任を明確にし、農本主義と近代主義の調和を図り、中国の主権を尊重しつつその近代化を支援すること、それをアジア地域に拡大し、自由貿易体制を推進すると共に、欧米の植民地主義の是正を求めていく。まあ、夢のような話ですが、この問題に気づいてさえいれば、尊皇思想を思想として過去に申し送る手がかりがつかめたのではないかと思います。

 このことは、現代の日本の政治についてもいえると思います。というのは、今日なお、「昭和の悲劇」をもたらした伝統思想と近代思想のミスマッチによる思想的混乱を精算できていないように見えるからです。日本人の伝統思想である一君万民平等思想・家族主義的国家論、反近代主義的農本主義、アジア主義的攘夷思想と、立憲君主制下の民主主義諸制度との相克関係、これを今一度整理し直すことが、今日求められているのではないでしょうか。

 その時関門となるのが、冒頭に記した日本人の歴史観の問題です。私は、日本国民一人一人が、「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つことが、今日求められていると思います。私は、福沢諭吉の「独立自尊」を支えた精神、あの明治維新期の革命的な社会変革を支えた精神をもってすれば、「昭和の悲劇」がもたらした思想的混迷を克服することも可能だと思います。

(3/11最終校正)