テロ脇 研様との対話――
日本における「保守主義(=保守の思想)」をめぐって

2013年2月 9日 (土)

 拙稿「保守の思想」を再点検する1――日本には明治期も戦後期も真の「保守主義」は根付かなかった、について、テロ脇研さんよりコメントをいただきました。

氏は「進歩」という言葉を=「進歩主義」=「進歩(設計主義)」=共産主義と結びつけてこれを否定しています。しかし、私は「進歩」という言葉をそのような意味に使ったのではなく、つまり、「保守主義(保守の思想)といえども「進歩」を否定するものではないこと。それは、あくまで民族の歴史伝統文化を踏まえ、それを未来に向けてさらに成長発展させる、という意味において、「進歩」という言葉を使ったのです。この辺りに誤解の原因があるように思いますが、日本に「保守主義」が定着したか否かについては、私と氏とはその基本認識を異にするようですし、またそれは大変重要な論点でもありますので、参考までに、以下そのやり取りを本文掲載とさせていただきます。

>>明治維新の時も、敗戦後も、日本における真の「保守主義」の思想的立場は確立されなかった。

>いいえ、確立されていました。
明治憲法を起草した井上毅(こわし)の思想は保守そのものです。井上は英国の立憲君主制を深く理解しており、万世一系の御皇室を中心とした「日本国」を国民に示し、我が国に続く伝統的価値観を存分に反映させています。

tiku 私は次のようにいっています。
 「つまり、真の「保守の思想」とは、自らの歴史・伝統に立脚し〈守るものと改善すべきものを弁別〉するとともに〈軽薄と頑迷を排除〉し、改善すべきものを守るべき伝統に適合させていく思想なのですが、そうした強靱な思想的伝統は日本には定着しなかったのです。とはいえ、そうした思想を体現した人物がいなかったわけではなくて、そうした時代情況にありながらも、敢然と「保守の思想」を体現した「知的巨人」も少数ながらいました。」

 井上毅も確かに保守の思想家と言えますね。問題は、彼が持っていた保守主義がその後日本に定着したかどうかで、貴方は「いいえ、(明治時代に)確立されていました」ただし、それを昭和になってヒックリ返し、日本に超国家主義、国粋主義をもたらしたのは、「戦前から棲み付いたコミンテルンや極左」だった、といいます。ということは、それは、その「保守主義(=保守の思想)」がしっかり定着していなかった、ということの証左ではないですか?

 まあ、何時の時代も、国際政治に「騙し合い」はあるわけで、当然、日本もそれをやったわけで、要は騙されないようにすることです。そこで問題となるのは、なぜ、そんなに易々と当時の日本人は騙されたか、ということです。それを考えることの方が、私はよほど重要だと考えます。

>>それ故に、真の「進歩主義」も生まれなかった。おそらく両者は、前者を基底としつつも、それを相克せんとする「進歩主義」との葛藤関係で捉えられるべきものでしょう

>いいえ、順序が史実と真逆です。
歴史的な思想潮流の事実を、180度ヒックリ返していますね。「保守が基底で、進歩がそれを越える葛藤」ではなく、「進歩(設計主義)を監視し、打倒する」ことこそが、保守思想であり、反共産主義としての自由主義です。

tiku つまり、進歩主義が先にあって、その後に、それを監視し打倒するべく保守主義が生まれた、とおっしゃりたいのですね。残念ながら、それは「史実と真逆」です。まず、中世の保守主義があって、その堅固な伝統に抗すべくヒューマニズムを母体とする「進歩主義」が生まれ、その後、そのもたらした厄災を経て、保守の思想(これは一定の体系をもつ思想というものではなく、歴史の「進歩」を考える際の、伝統を基底に置いて進歩のあり方を考える、そうした基本的態度)の重要性が認識された、というのが西欧近代思想発展の正しい順序です。貴方は、この思想発展の系譜の後半の部分を切り取って論じているのです。

>英国のエドモンド・バーク、米国のアレクサンダー・ハミルトン、ハイエクらに代表される保守主義の思想は、計画/設計主義、社会/共産主義・全体主義を砕き、それらの温床である無秩序な人権思想、平等思想を監視する、自由の砦です。

tiku 保守の思想の重要性を指摘するのが本稿のねらいでしたので、この点は御理解いただけたと思います。なお、ここで問題となるのは「無秩序な人権思想及び平等思想」ということですね。私は、「人権」思想の中核は思想・信条・良心の自由だと思っていますが、では、法制上その自由を保障されたこの領域における秩序は、どのように形成されるか。

 実は、昭和の悲劇は、明治憲法によって法制上確立された立憲君主制と、日本国民(臣民)の教育指針を定めた教育勅語との矛盾関係を思想的に止揚できなかったことから生じたのです。つまり、政治思想と倫理道徳思想とが混淆し、後者の指針とされた教育勅語が法的拘束力を持つようになり、その結果、教育勅語が想定する天皇親政が正統と見なされ、明治憲法に規定する立憲君主制が「国体」にもとるものとされ、ついに後者が打倒されるに至ったのです。

>共産三兄弟のシナ・ロシア・北朝鮮と隣接する日本にとって、この点を欠く保守議論は空疎です。

tiku 先に述べた通り、簡単に騙されないようにすること。そのための知恵やノウハウを昭和の悲劇から学ぶべきですね。また、騙されないようにすることも大切ですが、それ以上に大切なことは、先に指摘した通り、自らの「保守の思想」をより強靱なものにすることです。貴方は、「保守の思想」はすでに「定着している」とするので、その必要はないとされるでしょうが、しかし、それなら、共産三兄弟(ロシア?)を恐れることもないのでは?

 私は、騙される恐れは依然としてあると考えますので、騙されない為の上述したような思想的訓練を積むと同時に、真の「保守の思想」に支えられた日本文化の進歩のあり方について、より具体的に政策論的に考えていきたいと思っています。

 なお、テロ脇研さんが、折角、井上毅の「保守主義」について言及されましたので、参考までに、氏の教育勅語についての考え方を、紹介しておきます。

 「今から一一三年も昔の話になるが、当時の井上毅法制局長官は山縣有朋総理大臣宛の明治二三年六月二〇日付け書簡で教育勅語換発に関して七ヵ条の諌言をしている。原文は漢文混じりの文語体であるが、要約すれば次のようなことになる。

 第一に君主は臣民の良心の自由に干渉しないこと。第二に天を敬い、神を尊ぶといった言葉は宗旨上の争いを起こすので使わないこと。第三に反対論を引き起こすので哲学や思想上の理論に巻き込まれないこと。第四に政事上の臭味を疑われないようにすること。第五に漢文の口吻と洋風の気習を吐露しないこと。第六に愚を貶めたり、悪を戒めたりしないこと。第七に特定の宗派を喜ばしたり、他の宗派を怒らせたりしないこと。

 彼はプロシア主義の近代国家を目指したといわれるが、立憲主義の建て前と君主による教育理念の提示が原理的に矛盾することを自覚していた。また民権派などからの批判を躱す必要も感じていたことから、教育勅語煥発の構想には本来賛成ではなかった。立場上、結局は起草に参加するが、勅諭を政事上の命令と区別して君主の著作とすることを主張した。当時は彼だけでなく、官僚や政治家、さらには閣僚の中にも、「教訓の如きものは君主の与る処ではない」とか「人の教育は克く之を左右し得べきものにあらず」など、だいぶ異論があったという。

 そうした事情を考慮してか、教育勅語は「内閣大臣の副署がなく、政治上の勅語・勅令とは区別され、天皇が社会に対して直接諭言した形式をとって発布された。したがって、法制上の取扱いからいえば、それは天皇個人の国民全体に対する教育理念の表明であって、政府当局の教育方針を規定したものではなかった」。

 その後、教育勅語を補完する詔勅が出されているが(戊申詔書1908、国民精神作興ニ関スル詔書1923)、ここにおいては「教育勅語成案時のような立憲君主の統治行為への限定的配慮は消え失せ」ていたといわれます。さらに戦時体制が進行した昭和16年の国民学校令第一条、昭和18年中東学校令第一条には「皇国の道」という言葉が使われ、それはすなわち教育勅語の「幸運扶翼の道」と解されるに至って、教育勅語は完全に法令体系の中に組み込まれ教育法令の中核となったのです。(『教育基本法を考える』市川昭午p180~183)

 井上毅は、「立憲主義の建て前と君主による教育理念の提示が原理的に矛盾することを自覚していた」のですね。この自覚があって始めて「保守主義者」といえるのです。この自覚がなければ「保守反動」と見なされても仕方ありません。