「保守の思想」を再点検する(最終回)――
福沢諭吉が儒学批判と共に、その「尊王論」で訴えたこと

2013年2月 2日 (土)

 前回、西欧においては、社会秩序形成における「神聖秩序」と「世俗秩序」の二元的な関係の中から、思想信条の自由という考え方が生まれたことを説明しました。これに対して日本の場合は、神仏に対する畏れの観念が次第に脱宗教化し、天と人との関係が「恩」の授受関係という二人称の人間関係論となったこと。さらに、そうした人間関係論が朱子学の名分論的秩序と結びついて、三綱の常、つまり臣は君を、子は父を、婦は夫を天とすることが天につかふる道、という考え方になったことを説明しました。

 この結果、世俗秩序における直属上司を天とするようになり、さらに、その名分論的秩序観が、国学の万世一系の天皇を宗主とする国体観と結びついて、天皇を「現人神」とする、いわゆる皇国史観に基づく尊皇思想が生まれることになりました。実は、明治維新は、この尊皇思想に基づくイデオロギー革命であって、この天皇を宗主とする思想が、幕府の体制思想であった朱子学の正統論と結びつくことによって、天皇を正統とする一方幕府を「非正統」とする尊皇思想が生まれ、それが大政奉還に繋がったのです。

 ただ、こうした明治維新期のイデオロギー的熱狂をシニカルに眺めていた人もいました。それが福沢諭吉です。

 福沢は小氏族の生まれで徳川幕藩制下の門閥制度に大変不満を持っていて「上士が下士を見下すという風」に強い不満を持っていました。そして、門閥ゆえに威張るのは男児の恥だと考え、氏自身、身分以下の町人・百姓を見下して威張るなどということは一切しなかったといいます。そういうわけで、門閥制度で成り立つ幕藩制度など眼中におかない。それが嵩じて、そうした制度を改革しようとする当時の政論にもほとんど組みしませんでした。その一方、緒方洪庵の塾で洋学の勉強をしたり、咸臨丸に乗り込んでアメリカ見物をしたりして見聞を広めていました。

 その頃の日本の政治は東西二派に分かれて、勤王・佐幕という二派がしのぎを削っていたのですが、その頃の福沢の考えはどうだったかというと、

第一、私は幕府の門閥圧政、鎖国主義がごくごくきらいでこれに力を尽くす気はない。
第二、さればとてかの勤王家という一類を見れば、幕府よりなおいっそうはなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。
第三、東西二派の理非曲直はしばらくおき、男児がいわゆる宿昔青雲の志を達するは乱世にあり、勤王でも佐幕でも試みに当たって砕けるというが書生のことであるが、私にはその性質習慣がない。

 というようなものでした。

 そのうち大政奉還となり王政維新となり明治新政府ができました。そのどさくさの中で生まれたのが慶應義塾です。まあ、上記のように二派の局外に立っていたことが幸いして被害を受けることもなく塾を始めることができたわけです。この間、新政府への出仕にも応じませんでした。その理由は、「新政府も古風一点張りの攘夷政府だと思い込んで」いたためです。福沢は攘夷はなによりもきらいで、こんな始末では政府は代わってもとても国は持たない、大切な日本国をめちゃめちゃにしてしまうだろう、と思っていました。

 ところが、「のちに至ってその政府がだんだん文明開化の道に進んで今日に及んだというのは、実にありがたいめでたい次第」というわけで、御一新後しばらくは洋学は慶應義塾だけという有様でしたが、その内文部省ができて政府もたいそう(洋学)教育に力を用いるようになってきた。この頃の福沢の教育についての考え方ですが、東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較して、東洋にないものは「有形において数理学と、無形において独立心」である。漢学教育はこの二つを無視してきた。しかし、これがなければ、富国強兵の時代の立国は決してできない、というものでした。

 ここで、福沢が従来の日本の儒教教育で不足していると考えたものは、「人間普通日用」に役立つ”実学”、すなわち物事を理性的に考える実証科学的な思考法を育てる教育と、集団の論理に埋没しない独立自尊の精神でした。とりわけ、「集団の規制に自己を委ね、情緒的結合に依存する」日本の伝統的な「政(治)教一致」の考え方の克服ということ。この「個人としての独立と理性を尊重」する教育が「一身独立して一国独立」を担保する。そのためには、日本の伝統的な家族的社会観を克服して、契約的・法的社会観を確立する必要があると考えたのです。

 この場合、問題となるのは、では福沢は明治維新の思想的原動力となった尊皇思想についてどう考えていたのかということです。というのも、前述した、社会秩序形成における「神聖秩序」と「世俗秩序」との関係について、日本の「治教一致」という考え方においては、結果的に、「神聖秩序」が「天皇の現人神化」することで「世俗秩序」に入り込む危険性があるからです。そこで、福沢はこの問題をどのように考えていたのか、ということなのですが、福沢はこの問題を「尊皇論」「帝室論」において論じていますので、次に、それを紹介したいと思います。

 「尊王論」では、この問題を次の三つの論点について論じていました。

第一、経世上の尊皇の要用は如何
第二、帝室の尊厳神聖なる由縁は如何
第三、帝室の尊厳神聖を維持するの工風は如何

 この第一は、日本において尊皇ということが実際生活上有用であるか否かを問うものです。これについては次のように言っています。

 「我が日本国の如きは古来士流の習慣をなして政治に熱心するもの甚だ多く、其熱度も至極高くして法律徳教の力も時として無効に属するの事例なきに非ず。歴史の明証する所にして恰も日本固有の気風なれば、この気風の中に居て政治社会の俗熱を緩解調和する為には、自から亦日本に固有する一種の勢力なかる可らず。即ち吾輩が此勢力の在る所を求れば帝室の尊厳神聖是なりと明言するものなり。」

 「即ち一国社会は政治家の玩弄物と為りて意外の災難を被る可き時なれども、此の一大事の時に當りて能く之を調和し、又平生より微妙不思議の勢力を耀かして、無形の際に禍を未萌に預防するものは、唯帝室至尊の神聖在るのみ。一杯の酒以て志士の方向を改めしめ、一句の温言以て奸勇の野心を制するが如きは、決して他に求むべからざることなり。・・・苟も其の尊厳を缺き神聖を損することあらば、日本社会は忽ち暗黒たる可きこと、古来の習俗民情を察して疑いを容れざる所なり。」
    
 つまり、日本国民は政治の熱狂に流されやすく、極端に走る傾向があるので、それを未然に防ぎ社会の調和的発展を回復するためには、長い歴史の中でその微妙不思議な力を発揮し政治の暴走を防いできた帝室の尊厳神聖を守る必要があると言うのです。

 第二は、ではそうした帝室の尊厳神聖はいかなる由縁によるのかということです。これについては次のように言っています。

 「此の帝室は日本国内無数の家族の中に就て最も古く、其の起源を国の開闢と共にして、・・・以後今日に至るまで国中に生々する国民は、悉皆その支流に属するものにして、如何なる旧家と雖も帝室に対しては新古の年代を争うを得ず。・・・その由来の久しきこと実に出色絶倫にして、世界中に比類なきものと云う可し。況んや歴代の英明の天子も少なからず・・・その人心に銘すること最も遠くして最も深きは弁を俟たずして明白なるべし。」

 「又吾輩が此の辺より立言するときは、天子の聖徳如何に就いて蝶々するを好まず。殊に世の論者が聖徳云々を説くに、動もすれば直に政治上に関係するもの多きは最も忌まわしく思う所なり。元来政治法律は道理部内の事にして、その利害の分かるる所も道理を標準にすることなれば、一利一害相伴う社会にありながら、億兆の人民をして聖徳の如何と政治の如何と直に影響するが如き思想を抱かしむるは、時として施政の為に便利なるが如くなれども、又時として聖徳を累(わずら)はすの恐れなきにあらず。」

 つまり、帝室の尊厳は日本国開闢以来のその歴史的継続性にあるのであって、決してその政治上の功績を云々することによってその権威が担保されるものではない、というのです。そして此の議論が、第三のいかにして帝室の尊厳を維持するか、という論点に繋がっています。

 「帝室の尊厳神聖を維持するの法、如何の問題に就いては、吾輩は二様の手段ある。其の一は」「帝室の神聖は政治社外の高所に止まりて広く人情の世界に臨み、その余徳を道理部内に及ぼして全国の空気を緩和せんこと」にある。このように「日本社会の中央に無偏無党の一燒点を掲げて民心の景望する所と為し、政治社外の高処にありて至尊の光明を放ち、これを仰げば萬年の春の如くにして、万民和楽の方向を定め、以て動かす可からざる国体となさんと欲する者なり。」

 「第二の手段は、日本全国を同一視して官民の別なく至尊の辺より温徳を施し民心を包羅収攬して日清開明の進歩を奨励することなり。・・・たとえ事の実際に於いて帝室は政府に近しとするも、其の政府は唯一時の政府にして、職員の更迭毎に施政の趣を改めざるを得ず。況んや近々国会も開けて次第に其の体裁を為すときは、政府の改まるは毎々のことなる可ければ、萬年の帝室にしてかかる不定の政府と密着するの理あらんや。」

 「左れば人は一代の人に非ず、誰れか死後を思わざる者あらんや。苟も後世至尊を思ふて我が日本社会の安寧を祈る者は、帝室の尊厳神聖を我が国も至宝としてこれに觸るることなく、身の欲を忘れ心の機を静にし、今の社会の事相を視察して将来の世運を卜し、今日に全く無害なるも百年の後に不安なりと思得たることあらば、決してこれを等閑に附す可らず。鄙言或は過慮なりとて世の笑をとることあらんなれども、もとより憚るに足らず。是非の定論は蓋し蓋棺の後に知る可し。」

 帝室の尊厳を維持する為には、第一に、それを政治の外の高所に置いて、万民和楽の方向を定め、それを以て動かすべからざる国体とすること。第二に、日本全国民を一視同仁に見て、官民の別なく其の温徳を施し民心を収攬すること。そうすることで、人々は、この無偏無党の温徳を旨とする存在を鏡として自ら省み、将来に禍根を残すようなことをしない。これを等閑に附すようなことをすれば、これは私の思い過ごしのように聞こえるかも知れないが、それがいかに重要であるかは、私が死んだ後に知ることになるだろう、というのです。

 まさに,天皇を現人神として政治の頂点に据え、その神聖不可侵を利用して、人心を圧伏し、日本の政治を国際世論無視の極端に導いた昭和の悲劇を、予言するかのような言葉です。ここで福沢が言っているのは、日本の伝統的な家族的社会観に根ざす「治教一致」の秩序観を脱却して、契約的・法的社会観を確立する必要があるということ。そのためには、なによりもまず、明治維新の原動力となった尊皇思想における、神聖秩序と世俗(政治)秩序の一体化を防ぐ必要があるということです。

 さらに、福沢は。その「帝室論」の冒頭で、「帝室は政治社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、其の主義に於いて帝室の尊厳とその神聖とを乱用す可らずとの事は、吾輩の持論にして」と述べています。昭和の悲劇の嚆矢となった統帥権干犯事件において、政友会の森恪が天皇の神聖を盾にこれを政治問題化したこと。陸・海軍がその統帥権拡張の為に皇族総長を据えたこと。天皇の神格化によって軍の絶対化を計り国民の思想信条言論の自由を圧迫したことなど、福沢の鄙言が決して杞憂ではなかったことを証すものです。

 といっても、明治維新期の政治家や軍人には、福沢と同様な尊王論や帝室論を持っていた人も多かったように思われます。そうでなければ明治憲法における立憲君主制が生まれるはずもありません。それは天皇を国民統合の中心に置きつつ、政治的にはそれを「政治社外」に置くもので、こうした措置はにわかにできるものではない。おそらく、これは、皇室の文化的権威を尊重しつつ政治権力は武家がその委任のもとに担うという、鎌倉幕府以来の700年に及ぶ日本の政治的伝統の所産ではないかと思われます。

 さて、では、こうした日本の天皇制に関する政治的文化的伝統を、戦前昭和が失敗したような「現人神化」に陥らせないためには、どのような工夫が必要でしょうか。言うまでもなく、これは福沢が第三の論点――帝室の尊厳神聖を維持するの工風は如何――として論じたことで、これは戦後の日本国憲法において象徴天皇制として生かされています。しかし、第一の論点――経世上の尊皇の要用は如何、や、第二の論点――帝室の尊厳神聖なる由縁は如何、については、なにしろ戦後の占領政策の中で日本の歴史伝統文化が否定された為に、この趣旨が国民に理解されないまま今日に至っています。

 この意味において、日本の歴史伝統文化を、戦後の占領政策の後遺症から脱却し学び直すことが日本人にはどうしても必要なのです。

 そこで、本稿の締めくくりとして、このような日本の伝統文化を、こうした近現代の脱宗教化の流れの中で、いかにしてその「治教一致」の弊を正し、政教分離し、思想信条の自由を保障し、民主主義的な政治制度を確立していくかについて論じたいと思います。

 福沢はこの件に関して「帝室論」の中で次のように言っています。

「西洋諸国に於いては宗教盛んにして、唯に寺院の僧侶のみならず、俗間にも宗教の会社を結て往々慈善の仕組み少なからず、為に人心を収攬して徳風を存することなれども、我が日本の宗教はその功徳俗事に達すること能わず、唯僅かに寺院内の説教に止まるという可き程のものにして、到底此の宗教のみを以て国民の徳風を維持するに足らざるや明らかなり。帝室に依頼する要用なること益明なりと云う可し。」

 そこで、この国民の徳風を維持するための教育規範として定められたものが「教育勅語」であったわけです。しかし、此の教育勅語に語られた国体観と、明治憲法に規定する立憲君主制との矛盾関係を思想的に精算しなかったために、昭和の国難に当たって、前者の国体観が後者の立憲君主制を駆逐することになったのです。その結果、福沢が預言した通りの、「一国社会は政治家の玩弄物と為りて意外の災難を被る」という、まさに国家存亡の淵にはまることになったのです。

 この点、道徳の規範を「勅語」という形式で示すことは間違いとすべきではないでしょうか。こうした規範は、基本的には宗教的戒律に依拠して生まれるものだと思いますが、日本の場合は、江戸時代の仏教の檀家制度によって、僧があたかも「検死の役人」となり、その結果「僧徒は無学にても、、不徳にても、事すむ」ことになったため、仏法は滅却し脱宗教化が進むことになりました。明治は、それに代えて神道を教義化することによって道徳規範を確立しようとしましたが、神道にはそれだけの思想的蓄積はなく、これもあえなく失敗しました。

 こうした一種の無宗教状態が、結果的に天皇の「現人神化」を招来したとも言えますが、では戦後は、このような「脱宗教化」の流れの中で、どのように国民の道徳規範を確立し、それをもって世俗秩序とのバランスをとっていけばいいのでしょうか。

 ここで考えるべきは、イザヤ・ベンダサンが指摘した「日本教」という概念についてです。これは、いわば「人間教」とでもいうべき宗教で、人間は生まれつき「人間性」という善性を備えているという日本人に特有な信仰形態を指しています。これを宗教と呼べるのかどうか分かりませんが、キリスト教の場合も、その戒律における究極の教えが「汝の隣人を愛せよ」であるように、日本人は人間の善性を無条件に信じていますので、これは「日本教」という宗教の然らしめるところ、と考えても良いような気がします。

 では、こうした日本人特有の心性がどこから生まれてきたかというと、その思想的系譜は、元来「一切衆生悉有仏性」という仏教の日本的解釈に由来し、それが、江戸時代の心学に発展する過程で、仏性→本性→本心となり、現代ではこれが「人間性」という言葉で、人間の生まれつきの善性を表すものとして用いられているのです。ということは、やはり、この「人間性」信仰の出自は宗教的観念に由来していたわけで、ただし、それは生まれつき人の心に宿るものではあっても、貪瞋痴の三毒に邪魔されると働かなくなるから、そうした煩悩を去るべく修行しなければならない、という条件がついていました。

 では、こうした考え方を、現代の「人間性」信仰にあてはめるとどうなるでしょうか。まず、この「人間性信仰」を支えた宗教的観念が社会の近代化と共に益々希薄化し、一方、実は、人間の本性はもともと「白紙」で、その心的統合と規範化は、生後に受ける教育の文化様式に依存するということが判ってきたこと。それと共に、「人間性」は無条件にその善性が保障されるのではなく、実は「教えなければ禽獣に近し」という孟子の教えの通りであることが判ってきたこと。とりわけ、こうした脱宗教化のもたらす「全体」の喪失を「治教一致」という体制で贖うことは決してできないということが、戦前の失敗を通して判ってきたのです。

 となると、今後の日本人の課題は、その伝統文化によって歴史的に形成されてきた「人間性」信仰を、以上述べたような現代的条件の中で、宗教あるいは教育という営為によっていかにこれを保持・発展させていくか、ということになります。特に、「治教一致」という日本特有の集団主義については、福沢が指摘するように、まず、皇室を「政治社外」に置くと共に、その歴史的意義を明らかにして無偏無党の温徳の象徴とすること。政治の場においては、その家族的国家論を脱却し法治主義を徹底すること。また、一般社会においては、その家族的社会論から契約的社会論への移行を進めること、などが必要です。

 以上述べたような社会進歩の考え方を、私は「保守の思想」と理解しているわけですが、最後に、そうした観点から、今話題の橋下氏の政治改革論を評するとどうなるか、ということを参考までに述べて、本稿の終わりとしたいと思います。

1,「決められる政治」ということについて
 これは、政治的意志決定におけるリーダーシップのあり方であって、従来の日本のボトムアップ式の集団主義では、集団内の和の維持が優先される結果、真に先見性のある判断と、それに基づいた組織の再編が為されない。とりわけ、日本では全員一致ということを重視されるため、利害関係の錯綜する事案については、荏苒として決定が先送りされることになる。こうした弊を脱却する為には、決定に至る論理的な討論を経て、最終的には多数決により決定する外はない、ただし、その決定についてはリーダーが責任を負う。そういう民主的な決定のプロセスを明確にすべきだ、といっているのです。この通りだと思います。

2,「治教一致」の考え方について
 橋下氏は、教育にも政治が一定の責任を持つべきだ、現在の教育委員会制度のもとでは、その決定についての責任の所在が不明確ゆえに形骸化している。従って、首長と教育委員会の教育行政管理上の権限関係を整理する必要があると言っているのです。これについても賛成です。ただし、教育における専門的リーダーシップをどう確立するか、教育行政はそれをどうサポートすることができるか、ということについては、未だ定見を持つには至っていないように思われます。教育をいささかプラグマティックに捉え過ぎているような気もします。

3,地方分権(主権)の確立について
 地方自治体が地方交付税制度に乗っかって、身分制的な公務員制度を維持しつづけて来たこと、中央官庁に対する陳情政治に明け暮れてきたことは、御指摘の通りです。これを、自主的な地方財政運営を可能とすることによって、地方自治体を真に自治的かつ経営的な組織に作り変える。これは誰かがやらなければならないことです。この仕事は三公社五現業の民営化と系をなす仕事だと思っています。現在、あらゆる組織のムラ化ということが問題になっていますが、日本的集団主義の利点を生かしつつその弊を改める工夫が大切だと思います。公務員制度については、その身分制の脱却ということも含めて、より機能的な人事制度を確立すべきです。

4,日本の歴史伝統文化の尊重について
 日本維新の会という政党名に象徴されるように、橋下氏は明治維新を高く評価しているようです。この場合、本稿で論じたような天皇制についての考え方、「治教一致」の克服という課題については、以上の氏の主張から見て、おそらく同意いただけると思います。また、「文楽」に対する補助金問題や、「体罰」問題での対応を見ると、いささか感情的な言動が見られるものの、自説の修正も時機を失せずやるし、攻撃のポイントの絞り方もさすがだと思います。願わくば、政治の限界をよくわきまえて、決して全能感に陥らないよう自戒していただきたいと思います。

5,国際社会における法治主義の徹底について
 これは竹島や尖閣の領土問題についての言説に現れていました。国際司法裁判所で決着をつけるべきとの考えでした。もちろん、それで決着がつけばよろしいわけですが、裁判に訴えることによって、係争地であることを認めたことにもなるわけで、竹島の場合はいいしても、尖閣の場合は、まず中国の挑発的行為を止めさせることが先決ではないかと思います。

 以上、雑ぱくな評となりましたが、全体的には、橋下氏の日本の統治構造改革論は、一見するよりはるかに「保守の思想」の本質を捉えたものではないかと思います。もちろん個別の課題も残っていると思いますので、必要と思われる事柄については、今後、折にふれて提言したいと思っています。

おわり