「保守の思想」を再点検する9――
「神聖秩序」と「世俗秩序」を二元論的に並立させる思想と日本の天皇制の関係について

2013年1月20日 (日)

 これまで、西欧近代社会におけるデモクラシーの発展と平行して確立された「保守の思想」とはどういうものか、について説明してきました。それは、西欧の中世社会におけるキリスト教を基軸とする神聖秩序から世俗権力としての政治を分離させることで、前者の信仰の自由は個人の内面において認め、後者の政治的自由は民主制のルールに従うこととしたこと。そこで、各個人に政治秩序形成における一種の「中庸の精神」が求められるようになり、それが「保守の思想」として確立された、というものです。

 ここで注意を要することは、このキリスト教を基軸とする神聖秩序と、民主主義に基ずく世俗秩序とは決してアンビバレントな関係ではなく、両者は緊張関係を持って並立すべき二元論的な関係に置かれたと言うことです。従って、個人の内心においても、この二つの秩序原理は緊張関係を持って併存することになります。実は、こうした考え方を前提にして始めて、基本的人権という考え方、とりわけ、その中心概念である思想・信条・良心の自由が認められることになったのです。

 では、私たち日本人の場合はどうでしょうか。日本人は一般的に江戸時代以降、脱宗教体制に入ったと言われます。確かに、江戸時代はキリスト教が禁止され、国民は強制的に寺の檀家制度に組み込まれ「仏教徒」となりました。しかし、その結果、寺が戸籍管理のような役割と葬祭業を独占的に担うようになったために、僧職が役所の市民課職員のようになり仏教の脱宗教化が一気に進むことになったのです。その精神的間隙を埋めたのが朱子学的世界観にもとづく儒教倫理でした。

 そこで、次に、この朱子学的世界観の下における政治的秩序が、その後、日本においてどのように構成されるに至ったかについて見てみたいと思います。言うまでもなく、朱子学は、孔子や孟子の教えについて書かれた儒教の教典を、「四書」(大学、中庸、論語、孟子)を中心にまとめ、それに新たな注釈を加えると共に、その思想的体系化を図ったものです。

 まず、孔子や孟子の説いた儒教についてですが、これは、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の関係を維持することを教えています。ここで五常の「仁」とは、人を思いやること。「義」とは 利欲に囚われず、すべきことをすること。「礼」とは、仁を具体的な行動として表したもの。「智」とは、学問に励むこと。「信」とは、言をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること等を意味します。

 次に、五倫の「父子の親」は、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならないということ。「君臣の義」は、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならないということ。「夫婦の別」は、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なるということ。「長幼の序」は、年少者は年長者を敬い、したがわなければならないということ。「朋友の信」は、友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならないということです。

孟子は、以上の五徳(倫)を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えなければ、人間は禽獣に等しい存在であると教えました。なお、『中庸』では、これを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としています。また、江戸時代初期の日本の儒者林羅山は、自著『三徳抄』において朱子学にもとづいて三徳(智・仁・勇)を概説し、五達道(五倫)との関連を述べています。

 こうした儒教の教えを、太極を中心とする宇宙構造下の「理気二元論」で説明したものが朱子学です。その朱子学の「理」とは形而上のもの、「気」は形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)ですが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係にあるとします。

 また、「気」は、この世の中の万物を構成する要素で、つねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼び、この陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるとします。

 そして、「理」は、根本的実在として「気」の運動に対して秩序を与えるものとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれる。「性即理」の「性」とは心が静かな状態ということ。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。

 「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要というのが、朱子学の説く倫理的テーマです。つまり、朱子学の核心は実践倫理であって、朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」なのです。

 そして、その「修己」の方法が「居敬窮理」であって、「居敬」(心を一つにして他にそらさないこと)の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきることができる、つまり「良知」に達することができる、とするのです。

 これに対して王陽明は、「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた「心」そのものが「理」に他ならないという立場をとります。王陽明は「致良知」といいますが、この「良知」とは、貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもあるとします。

 また「致良知」とは、この「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものと考えます。逆に言えば、この「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されないということ。ただし、「意」(心が発動したもの)が働くことで善悪が生まれるので、これを「良知」によって正す・・・これを格物といいます。

 このように、心の外に「理」を認めない陽明学では、経書など外的知識によって「理」を悟るわけではなく、むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考えます。これを「知行合一」といいます。従って、もし「知」と「行」が分離すれば、それは私欲によって分断されていると考えます。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教えますが、「知行合一」はこれへの反措定ということになります。(以上、wikiの関連項目参照)

 こうした朱子学や陽明学の教えが江戸時代以降の日本に大きな影響を与えました。もちろん、それは、それまでの日本の「神・儒・仏」混合の宗教的伝統の延長上に起こったことで、その受容にあたっては日本的な変容を免れませんでした。そこで次に、それがどのように変容したかについて見てみたいと思います。明治維新という大変革も、その後の近代化も、それによって可能になったわけだし、さらに言えば、昭和の悲劇もその延長と見る事もできますから。

 次に、山本七平が、「日本教」の”聖書”の如く江戸時代後期の日本人に読まれた、という貝原益軒の『大和俗訓』から、彼が多くの儒者と交わり、朱子学と同時に陽明学も修めル中で身につけた、彼の生涯における思想的決算というべき部分を紹介します。

 「『天地は万物の父母、人は万物の霊なり。天地は万物をうみ給う根本にして大父母なり、人は天地の正気をうけて生るる故に、万物にすぐれてその心明らかにして、五常の性をうけ、天地の心を似て心として、万物の内にてその品いととうとければ、万物の霊とはのたまえるなるべし。霊とは、心に明らかなるたましいあるをいう。

 天地は万物をうみ養い給う中にも、人をあつくあわれみ給うこと、鳥獣草木とことなり。ここを以て万物のうちにて、もはら人を以て天地の子とせり。されば、人は天を父とし、地を母として、かぎりなき天地の大恩を受けたり。故に天地につかえ奉るを以て人の道とす」

* ここでは天地と万物(人を含む)との関係を自然科学的・合理的な関係ではなく親子関係のような”よんどころない”関係としています。とりわけ人は万物の霊として五常の「性」を受けているので、その天地に対する大恩を忘れず、天地につかえよと・・・。

 「天地につかえ奉る道は別にあらず。天地の御心にしたがうを以て道とす。」「天地につかえ奉る人の)道はいかんぞや。およそ人は、天地の万物をうみそだて給う御めぐみの心を以て心とす。この心を名づけて仁という。仁は人の心に天より生れつきたる本性なり。

 仁の理は人をめぐみ物をあわれむを徳とす。この仁の徳をたもち失わずして、天地のうみ給える人倫をあつく愛し、次に鳥獣草木をあわれみて、天地の人と万物を愛し給う御心にしたがい、天地の御めぐみのちからを助くるを以て、天地につかえ奉る道とす。これすなわち、人の道とする所にして仁なり。」

* 「仁」は、人の心に天より生まれつきたる本性、という考えは、朱子学の「性即理」の考え方を反映しています。しかし、ここでは、それを親子関係に同定することによって根拠づけ、それを「人をめぐみ物をあわれむ徳」としています。

 「かくのごとく、極りなき大恩をうけたれども、凡人はしらず。いわゆる百姓は日々に用いて知らざるなり。しかるに(そのために)、天地につかえ奉らずして、人欲にしたがい、天理にしたがわざるは、天地の大恩をこうぶりて天地にそむくゆえ、天地の子として大不孝なり。人の子として、その親を愛せずして他人を愛し、父母にそむきて不孝を行うがごとし、不孝の子はその身を天地のうちに立てがたし。いわんや、天地の子として、天地にそむき不孝なるをや。幸いにしてわざわいなしといえども、天地にそむけるとがおそるべし。」

* 天地と人との関係を親子関係に同定することで、両者の関係を「恩」で説明しようとしています。この「恩」は、平家物語に見られる倫理概念で、「受恩の義務は拒否しない」「施恩の権利を主張しない」という対概念で構成される、日本に最も伝統的な倫理概念です。ここでは、朱子学の「性即理」を担保する「良知」が「恩」に代わっています。

 「人となる者、人倫の道は天性に生れつきたれども、その道に志なくして、食にあき、衣をあたたかに着、居所をやすくしたるまでにて、聖人の教えを学ばざれば、人の道なくして鳥けだものにちかし。かくの如くなれば、人と生れたるかいなし。万物の霊とすべからず。」

* その「人倫の道」は、天性のものではあるが、聖人の教え(四書五経など)を志を持って学ぶことで得られるもので、学ばなければ禽獣に近いという。この部分は『孟子』の教えと同じですね。

 「学んでも道を知らざれば学ばざると同じ。道を知りても行わざれば、知らざるに同じ。もし学びようあしくして道を知らずんば、学ばざると同じきなり。また道をしるは行わんがためなり。」

* このあたりは、陽明学の「知行合一」の影響が見られます。

 「人と生まるるは、きわめてかたきことなれば、わくらわに得がたき人の身を得たることをたのしみて、わするべからず。また、人と生まれて、人に道を知らで、むなしくこの世を過ぎなんことうれうべし」「人の心の内にもとよりこの楽あり。私欲行われざれば、時となく、所として楽しからずと言う事なし」

* 「人の心の内にある」「人の道」を知る事が「人の身」を楽しむ事であり、そのためには「私欲」を抑える事が必要だといっています。

 ここで、朱子学の考え方がどのように日本的に変容しているかをまとめると、
①天地と人間の関係を親子関係に同定していること。
②天地の自然秩序を支配している不変の自然法則(=「理」)と、人間の人倫関係を支配している道徳原理(=「性」)を一致させる媒介項である「良知」が「恩」になっていること。それによって、「性即理」という形而上的概念が、「恩」で媒介される人間関係になっていること。
③「恩」で媒介される「人の道」を知る事が人生を楽しむ事であり、そのためには私欲を抑える必要があるとしていること、などです。

 実は、こうした朱子学思想の日本的変容の過程で、神仏に対する恐れの観念を媒介とした宗教的観念が次第に脱宗教化して、「恩」の授受関係という二人称の人間関係論になっているところに、日本の思想の一大特徴があるのです。

 こうした日本における宗教的観念の脱宗教化は、日本における「市民思想」の始まりとされる石田梅岩によって、宗教的悟達(悟り)の状態とは、次のような「個人の内心における心理作用」として解釈されるようになります。それは、浄土教の西方極楽浄土は一体どこにあるのか、という議論から出発します。

 「仏氏ニテ云トキハ迷イガ故ニ三界城(=欲界・色界・無色界)、悟が故ニ十方空(宇宙万物は皆空であるという考え方)、本来無東西、何処南北アランヤ。如此ナレバ、彼国ト云ハ、唯心ノ浄土ト云コトニ決定セリ。浄土ト云モ我心ノコトナリ。・・・

 コレニ因テ見レバ、一切衆生二心ノ濁乱(にごりみだ)ルゝ者多ク、正念ノ者ハ少キユヘニ、衆生ノ心ヲ一筋二向ハシメン為ニ、西方ヲ極楽ト指テ教ユトノ玉フコト明白ナリ。然レバ極楽ヲ西方ト教玉フハ、愚痴ノ者二説玉フ法ニテ、上知ノ教ハ十方仏土(=現実の世界が仏土)ナルコト明ナリ。・・・

 サテ如来ノ説法ト云ハ、直二南無阿弥陀仏ト知ルベシ。如何トナレバ口ニ唱ル、南無阿弥陀仏ガ耳ニ入リ、一遍念仏ニテハ一念ノ悪ヲ消シ、二遍ノ念仏ニテハ二念ノ悪ヲ消ス。悪念死シテ善心生ルルナレバ、コレ即往生ナリ。・・・自心ヨリ生ルルヲ以テ、故ニ不往生を名(づけ)テ往生トナスナリ。・・・

 終ニハ余念他念ナク、後ニハ南無阿弥陀仏計(ばかり)ニナレバ不往(ゆかず)シテ、南無阿弥陀仏ニ生ルゝナリ。南無阿弥陀仏ニナレバ我ト云ウモノアルベキヤ。我ナケレバ虚空ノ如シ。虚空ニ南無阿弥陀仏ノ声有テ、唱レバ此レ即チ阿弥陀仏ナリ。(こうなれば)苦楽二ツヲ離レ終ルナリ。離レ終テ無心無念ノ不可思議トナル。是ヲ名(づけ)テ自然悟道トモ云」う。

 つまり、極楽浄土と云っても、これは各人の「内心の実在」であって「外的な実在」ではない。いわば、この現実の世界が仏土であって、それを仏土とするもしないも「本心」の一念であって、ここに、「仏」という概念はすでに外から働きかける「人格神」ではなく、本人の内なる心の状態になっています。

 また、念仏とは、それを唱える事によって悪念を消すためのものであって、それによって悪念が死んで善心となれば、これが即ち往生である。こうなると念仏は一種の心理作用となり、それによって無我の境地を招来し、我の意識も消え、虚空に波阿弥陀仏の声だけがあって、これが即ち波阿弥陀仏となる。こうして無我の境地に達する事を、梅岩は「聖人の状態」と規定し、これを人間の「本性」と考え、その本性は宇宙の本性と一致すると考えて、これを「絶対善」としています。

 このような、仏教や儒教・朱子学思想の日本的変容の仕方を見ると、それは、結局、仏教思想や儒教思想等の諸概念を用いて、日本の伝統的な「自然生成的」な思想(=古事記・日本書紀以来の日本の伝統思想=神道思想)を再編集しているように見えます。おそらくこれが「保守の思想」という事なのかも知れませんが・・・。

 そんなわけで、石田梅岩による日本思想の再編集作業は、その後、国学者によって説かれた「自然生成的」な神道思想との親近性を次第に露わにしていきます。

 「或問日、神儒仏三ツノ中ニテハ何レヲ至極恭シト尊バレ候ヤ。銘々信心スル所ガラ少シヅゝハ倚ル所アルペシ。互二心得ノ為二相尋申候。心内ヲ払テ御聞セ候へ。

 答。神儒仏三道ノ中ニテハ何レヲ至極ニ恭シト思ヒ尊ブヤ、信心スル所ニ依テ倚(よ)ル所アラハ申ベシト存、腸(はらわた)ヲサグッテ見申候へ共、少シモ倚ル所コレナク候。然レ共礼拝シ尊ブ所ニハ前後アリ。子細ハ儒者ユヘ学ブ所ガ礼ナリ。且ツ神モ正礼ヲ受、非礼ハ忽チ受玉ハズ。然レバ儒者モ正礼ヲ以尊べバ神明受サセ玉フコト明白ナリ。是レヲ以テ見レバ一日トシテ礼ナクソバ有ベカラズ。

 依テ神儒仏共ニ尊ブニ礼ヲ以テスルニ次第アリ。先第一(に)天照皇大神宮ト拝スル中ニ八百万神、天子、将軍モ寵リ玉フ。第二番ニハ文宣王ヲ拝スル中(に)、曽子、子思、孟子、宋儒等マデ龍り玉フ。第三番ニハ釈迦如来ヲ拝スル中ニ開山方マデ寵り玉フ。又仏者ナラバ第二番目ニ仏ヲ拝シ申ベシ。コレ礼ナクンバアルベカラズト云所ナリ。

 世ニスム者ハ此礼ヲ尽スベキ所ナリ。儒仏共ニ太神宮ハ第一番ナルベシ。細(こまかく)ハコレヲ推シヒロメテ万事万端ニワタルベシ。士農工商共ニ太神宮ニ次いで拝スベシ。太神宮ニ次デ父母ヲ拝スベシ。君アル者ハ士農工商共君ヲ先トシ、父母ヲ第二(に)拝スベシ。君ト親トヲ尊ビ拝スベシ。或ル時ハ正直ヲ胸ニツケテ高間(たかま)が原ヨリ天下ヲ照ラスベシ。」

 ここで、神儒仏のどれが最も尊いかと問えば、それは基本的にはそれぞれの信仰によるが、いずれも「礼」を尽くことが大切なので、まず、天照皇大神宮を拝す事を第一とし、是を押し広めて万事万端に及ぶべきである。次いで第二は、それぞれの信仰によるべきで、次いで第三は、君あるものは君を親と思い拝すべきであり、君なければ父母を拝すべきである、といっています。

 なお、この神授仏という宝をどう選びどのように用いるかと言う事については、これを金銀銭に例えて次のように云っています。

 「此三種ノ御宝ヲ何レヲ取テ勝レリトセン。何レヲ撰ラミ捨テヲトレリトセン。譬ヘテ云ハバ金銀銭ヲ遣フガ如シ。金ガ勝手ニ能コトアルベシ。銀ハ又悪キ事アルベシ。銭又コマカニ用ヒラレテヨキコトアルベシ。銀又ヨク、金又悪ク、銭又少シガヨク、大分ハ悪キコトアルベシ。財宝モ是ノ如シ。神儒仏ノ三道ヲ倚ラズシテ尊ビ用ユルモ是ノ如シ。
金銀や銭なきむかしすミけれど けふはなければすまぬ世の中」

 宗教をこのように貨幣に例えたのは「人類史上梅岩だけだと思われる・・・宗教はアヘンなり」はまだそれなりに宗教の力を評価しているわけだが、「宗教は貨幣なり」となり「神儒仏ノ三道ハ倚ラズシテ尊ビ用ユルモ是ノ如し」となると、これはまさに三教合一論を極限まで押し進めた一種の脱宗教思想と考えないわけには行かない」と山本七平は言っています。

 このように、神儒仏が人間にとって「外的な実在」から「内的な実在」となり、それを貨幣のようにそれぞれの効用に従って使い分ける。つまり、神儒仏はいずれも「心(=生来の善心)を磨く磨草(とぎぐさ)」であるから何れも捨てるべきではない。ただ、あまり一つに偏らないようにした方がよい、といった考え方になってくるのです。いわば「宗教は薬」という考え方ですね。

 また、山本は、「彼は神儒仏を金銀銅の貨幣に比べ、これを信仰の対象とは見ていないとはいえ、人間の秩序の表象として皇大神宮を見ることは、それが同時に宇宙の基本的秩序の社会秩序における表象となることは否定できない。従って、その表象自体が「教育勅語的」に、人間が生きて行くための根源という形で宗教化」されれば、後の尊皇思想のように天皇を現人神とする考え方も出てくる、と言っています。(以上『勤勉の哲学』参照)

 このことは、冒頭に紹介したような、「神聖秩序」と「世俗秩序」二元論的に並立させることで社会を維持発展させようとした西洋キリスト教社会との対比において、極めて重要な問題点を提起しています。というのは、上述したような日本における脱宗教化は、江戸時代に主流となる朱子学の名分論的秩序観と相まって、世俗秩序を維持するための絶対的表象をその頂点に据える事になったからです。つまり、「親政秩序」が「世俗秩序」に潜り込むことになったのです。

 ここで、朱子学の名分論的秩序観について説明しておきますが、これは以下のような新井白石と日本にキリスト教を布教するためにやってきたシドチとの対話に典型的に現れています。(『受容と排除の軌跡』p126)

 シドチは、彼自身すでに日本におけるキリシタン禁教史をよく知っていて、それが禁止されたのは、オランダ人が「キリスト教の布教はその国を奪うためだ」と讒訴したためだ。しかし、オランダこそ侵略国であって、私たちにそんな意志はない。宗教はそのようなものではない。私がここに来たのはそうした讒訴による無実を雪ぎ、キリスト教に対する国禁を解いてもらうためだ、といいました。これに対し、白石は次のような批評をしました。

 「按ずるに凡ソ国を論ずるに、其土の小大、其方の近遠によらずといふは、達論に似たり。又国を誤るもの、其教によらず、其人によるといふも、其言また理あるに似たり。されどまた其教とする所は、天主を以て、天を生じ地を生じ、万物を生ずる所の大君大父とす。我に父ありて愛せず。我に君ありて敬せず。猶これを不孝不忠とす。いはんや、その大君大父につかふる事、其愛敬を尽さずといふ事ながるべしといふ。

 礼に、天子は、上帝に事ふるの礼ありて、諸侯より以下、敢て天を祀る事あらず。これ尊卑の分位、みだるべがらざる所あるが故也。しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とす。されば、君につかへて忠なる、馬で天につかふる所也。父につかへて孝なる、もて天につかふる所也。夫につかへて義なる、もて天につかふる所也。三綱の常(君臣・父子・夫婦)を除くの外、また天につかふるの道はあらず。

 もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐて二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし。たとひ其教とする所、父をなみし、君をなみするの事に至らずとも、其流弊の甚しき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへり見る所あるべからず」

 これをみると、江戸時代における朱子学の名分論に基づく社会形成の基本原理は、あくまで「治教一致」(=政治と教育は一体)でなければならず、天子は上帝を、臣は君を、子は父を、妻は夫を天としつかえて始めて義となるのであって、それぞれが個別にそれ以外の天につかえるということがあってはならない。それは二尊を生じることであって、社会秩序を乱す根本原因となるといっているのです。

 さて、こうした秩序観の上に、後に教育勅語に説かれたような、天皇を皇祖神の祭主とすると同時に国権の最高主宰者とする家族主義的国家観が説かれ、それが理想とされることになったわけですが、このことは西洋キリスト教社会における脱宗教化がもたらした反近代思想のニヒリズムにも通じていて、これが日本の昭和史を狂わせた根本原因であることを、私たち日本人は知る必要があります。

 山本七平は、日本における天皇制を前期天皇制と後期天皇制に区分していて、鎌倉時代以降、武家が政治の実権を握り皇室が宗教的祭祀を司るという、一種の二権分立の近代的政治体制が日本に確立した事を高く評価しています。しかし、その後江戸時代の終わりまで700年続いたこの伝統は、江戸末期の皇国史観に基づく尊皇思想の誕生によって天皇親政を理想とする国体観が理想とされる事で逆転しました。

 実際には、明治維新がなされて以降も、こうした天皇親政は行われず、イギリス型の立憲君主制をモデルとする明治憲法体制化に日本の近代化が推し進められ、天皇親政的観念は、教育勅語に基づく道徳教育の範囲内に止められていました。しかし、この両者の国家統治構造を巡る思想的決着をつけないまま、両者を併存させたことが、昭和の思想発展上の逆転現象を産むことになったのです。

 このことについての思想史的整理は、戦後も手をつけられないまま放置されていて、従って、左翼は、天皇制に基づく日本の政治的伝統文化を丸ごと否定しようとする一方、一君万民平等の「尊皇」の看板を「尊スタ・尊毛」に変えただけの思想に共鳴したり、また、右翼は、山本が指摘したような天皇制の歴史的変遷についての思想史的分析を無視して、明治維新期の尊皇思想を称揚したりしています。

 ここには、冒頭指摘したような、社会秩序形成における「神聖秩序」と「世俗秩序」の関係、及びそのそれぞれについての思想的・理論的根拠の確定という、内省的かつ持続的な知的営為が欠けているように思われます。従って、上記のような思想的営為を進めることが、今日の日本における閉塞的な政治状況を打開する上で不可欠だと思います。日本における「保守の思想」確立のネックはここにあるのではないでしょうか。