「保守の思想」を再点検する8――
日本人が独立回復後も「一部の軍国主義者」論を脱却できなかったのは何故か

2013年1月 5日 (土)

 まず、本稿における「保守主義」と「保守の思想」の使い分けについてですが、前者は思想史上「自由主義」との対抗関係にある概念。後者は、その対抗関係を止揚することで両者が共有することになった、社会改革の民主的諸制度を介した斬新的改良主義(=基本的態度)のことを指しています。

 つまり、ここでいう「保守の思想」とは、自ずと「固定した理論体系を持たず、(歴史的・文化的に形成されてきた)現実の事態の尊重の上に立ってその改革のあり方を構想する。その場合何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる、従って、その間における判断の正鵠と妥当を政党間で争うことになる」というものです。

 従って、その正鵠と妥当とは、それぞれの政党の政策を具体的に検討することによってしか判定できないということになります。そこで、まず、民主党の政策ですが、実は、彼らの政策は基本的には小泉首相と同じ「構造改革路線」でした。ところが、その基本政策の堅持より、政権奪取のための「格差批判」という小沢「策略」を採ったため、「構造改革」なしの「子ども手当」等バラマキ政策となりました。これが財政を破綻させ、その埋め合わせに消費税10%を提案することになりました。これが政権喪失に繋がったわけですが、問題は、この「構造改革」路線の妥当性如何ということですね。

 また、民主党の歴史認識も極めて曖昧なものでした。その曖昧さが日米同盟の重要性を阻却しかねないアジア共同体構想の提唱や、領土問題に対する極めてちぐはぐな対応となりました。韓国が執拗に繰り返す慰安婦問題についても、何ら有効な解決策を見いだせませんでした。その根本原因は、いうまでもなく、これらの問題構造を空間的な関係だけでなく時間的(=歴史的)関係のなかで捉えきれないためで、そのために場当たり的な対応しかできなかったのです。ここにおける問題が、いわゆる「歴史認識」の妥当性如何ということですね。

 前者の「構造改革路線」問題は、一見すると経済問題のようですが、実は、日本企業の雇用関係――終身雇用や年功序列制などの生活文化に関わる問題でもあるのです。また、後者の「歴史認識」問題は、日本の近現代史の評価に関わる問題、とりわけ昭和史の失敗から何を学ぶかという問題に繋がっています。

 言うまでもなく、これらの問題は日本人自身が解決しなければならない問題です。しかし、アメリカが、戦後の日本占領政策において日本の伝統文化を危険視しその断絶を図ったことと、それが、同じくアメリカが日本に押しつけた「平和憲法」と重なったために、日本の伝統文化やそれが生んだ歴史が、その「平和憲法」とは対極の位置にあるかのような錯覚に陥ってしまいました。

 もちろん、平和憲法の理念が全て正しいとか正しくないとか言うわけではありません。例えば、憲法第九条の第一項は、不戦条約の流れを汲むものであって日本も戦前この条約に署名していました。第二項の戦力放棄条項は、それは幣原喜重郎が戦後の米ソ対立を予測して、日本がアメリカの先兵として対ソ戦略に使役される危険性を予め封じるため挿入したものである可能性が大です。

 また、前文の「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのは、日本悪玉論を前提としているようですし、これとは逆に、戦勝国の国民は「公正と信義」に満ちているということを前提としているようです。。

 これらの戦勝国の立てた前提が手前勝手なものであることは言うまでもありませんが、日本が、その惨憺たる敗戦を通じて、「日本という国は近代持久戦争を戦える国ではない」ということを自覚したことも事実です。日本は島国であって、鉱物資源もエネルギー資源も限られ、耕地面積も少なく食料自給率も低い。さらに、これらを輸入は海上輸送に頼らざる得ず、従って、一度戦争となれば、その安定供給はほとんど不可能等々・・・。

 こうした手痛い経験をもとに選択された戦後の立国の基本方針が、「軽武装、経済立国、日米協調」路線でした。そして、この路線を選択したのが、「明治維新から大正デモクラシーに至る日本の政治文化の近代化の流れを復活しようとした」日本の自由主義者たち(幣原、吉田ラインとでも言うべき保守主義の流れ)だったのです。

 実は、彼ら保守主義者は、当然のことながら、その戦後の再出発にあたって、なぜ日本はこのような無謀な戦争をして国を滅ぼすことになったか、その原因を徹底究明しなければならないと考えました。そこで幣原内閣下で組織されたのが「戦争調査会」で、総裁幣原以下、馬場恒吾外十九名の学識経験者が委員、各省路間島十八名が臨時委員に任命されました。その第一回総会は、昭和21年3月27日に開かれています。

 その時の幣原総裁の挨拶は次の通りです。

 「今日我が国民が敗戦に依って被りたる創傷は日一日と身に徹え、食糧事情は逼迫する。物資は欠乏する。通貨は膨脹する。物価は騰貴する。戦災の焼跡は今尚大部分荒廃のままで急に復興の見込がない。電車や汽車は何時も混合って、乗ろうとする者降りようとする者の争が絶えない。斯の如く、敗戦の国民に與えたる苦痛は極めて深刻なものがありますが、その苦痛の深刻なるだけ一層大なる教訓を国民に具えておるものと考えます。

 或外国人は神の前には戦勝国もなく敗戦国もないということを私に話しましたが、我々は冷巌なる敗戦の事実を十分に認識すると共に、敗戦の苦痛の為に意気銷沈するが如きことなく、凡ゆる試錬に堪え、敢然として自力を以て立ち上り、平和的なる幸福なる、又文化の高い新日本の建設に一路邁進しなければなりませぬ。これが為には我々は如何なる理由に依って斯の如き不利なる境遇に陥ったのであるか、その原因を探究致しまして、再びこの失敗を繰返しませぬよう我々の心持を改め、教訓を後世に垂れることが我々の子々孫々に対する義務であると考えるのであります。(後略)」

 ところが、この日本人自身による「戦争の原因調査」は、GHQの占領下で認められず、同年9月末日を以て戦争調査会は廃止されました。そのため、この作業は民間事業として継続する外なくなりました。そこで、その作業は調査会事務局長官であった青木得三の外補助スタッフ二名で進められました。脱稿したのは昭和24年12月まだ占領中のことで、その標題は『太平洋戦争前史』となっています。また、その資料収集にあたっては極東軍事裁判で明らかにされた記録に多く依存していることが記されています。

 その内容は十八編にわたり、「ロンドン海軍軍縮条約に対する日本軍国主義者の反抗」に始まり「三月事件前後」、「柳條溝事件前後」、「上海事変前後」、「五、一五事件」、「満州国承認前後」、「国際連盟脱退前後」、「海軍縮小に関する日本の単独行動」、「二・二六事件」、「日独防共協定」、「日華事変」、「日華和平交渉(トラウトマン和平交渉=筆者)の失敗」、「中国新政権の樹立」、「三国同盟」、「日ソ中立条約」、「日蘭会商」、「仏印進駐」、「日米交渉」までとなっています。

 これらは、太平洋戦争に至った原因を探ろうとするもので、その嚆矢をなす事件として、昭和5年の「ロンドン海軍軍縮条約締結に対する統帥権干犯非難」を上げています。そして、それが三月事件、柳条湖鉄道爆破事件、十月事件を引き起こした。そしてこれらが、太平洋戦争発生の前駆となった、と指摘しています。では何故に統帥権干犯の非難が起こったかというと、これについては、その第一章総説で次のように述べています。

 「当時の日本は国土狭隘にして人口過剰、失業及び就職難は一般国民の間に瀰漫したるのみならず、これらの困難に遭遇せざりし者と雖も、有意の才を抱いて久しく志を得ず、空しく驥足を延ばすこと能わざるの状態にあった。茲に於て、日本民族が外に対して発展せんとする要求は翕然として起こった。これを理論的に合理化せんとする者は或は元老重臣の態度を非難し、或は当時政権を掌握せる政党の腐敗堕落を高調し、或は米英両国の亜細亜に対する政策を攻撃した。従って、我が国の軍備を縮小せらるることに対して反対するに至ったのも亦怪しむに足らない。然るに、浜口内閣が倫敦海軍軍縮条約に調印するに及んで、これに対する反感は統帥権干犯という題目を採って世間に現れるに至ったのである。しかして、その反感の根拠は軍備縮小そのものに対する反感であったことは疑いを容れない。」

 確かに、当時、こうした世間の風潮があった事は事実です。しかし、何故それが倫敦海軍軍縮条約に反対する統帥権干犯という非難になったかというと、その反感の根拠は「軍備縮小そのもの」であり、その反感の主体は軍だったということ。では、この「軍備縮小」が間違っていたのかというと、それは、第一次世界大戦の惨禍を経験した当時の世界の潮流だったわけで、もちろん日本国内も同じ潮流の中にありました(ただし、日本は対独戦に一部参加しただけ)。しかし、それが軍人軽視の風潮を生み、それが軍の「軍備縮小」に対する反感を一層募らせていました。

 また、なぜ、この当時の「軍備縮小」の潮流が、「統帥権干犯」騒動を経て三月事件や十月事件というクーデター未遂事件を引き起こし、満州事変が勃発するや、一転して日本の国民世論がこうした軍の積極的大陸政策を支持するようになったか?ここには、昭和3年以降、普通選挙法に基づく選挙が実施されるようになったということも関係しています。つまり、政治に及ぼす国民世論の影響が無視できなくなったと言うことです。そして、このことにいち早く気づき、世論を味方につけるための一大キャンペーンを繰り広げたのが陸軍でした。

 その先兵としての役割を果たしたのが、満州青年連盟でした。彼らは石原・板垣等が企図する関東軍による満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州における在留邦人の世論の統一と、さらに国内世論を喚起沸騰させるための一大遊説運動を展開しました。その主張は「満蒙は我が国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地として我が国の存立上極めて重要の地域である」という大前提のもと、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」というものでした。

 こうした満州における在留邦人の危機意識は、田中内閣の山東出兵、済南事件、張作霖爆殺事件などに起因する満州における排日運動の高まりを背景としていました。そして、こうした問題の解決を、満州の武力占領によって解決しようとしたのが陸軍だったのです(当初海軍は賛成しなかった)。では、この場合、満州の武力占領が唯一の問題の解決策だったかというと、必ずしもそうではなくて、そこには次のような陸軍のエリート幕僚青年将校等の思惑がありました。

 「軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する」ことでした。つまり、満蒙における「国際法や条約の守られているはずの日本の権益を、中国がないがしろにしている」という主張は、陸軍にとっては国民を納得させるための「宣伝」に過ぎなかったのです。これが、満州事変が満州の実質的な武力占領に止まらず、華北分離さらには蒋介石政権打倒へとエスカレートしていった理由です。

 ともあれ、陸軍は、こうした「宣伝」に拍車をかけ、「満州事変勃発後には、1ヶ月足らずの間に、全国の人口6,500万人のうち、165万5,410人が1,866回の講演会に参加したとの憲兵の記録」もあるそうです。こうした宣伝が功を奏して、満州事変直前(31.7)の東大生の意識調査では「満蒙に武力行使は正当なりや」との質問に対し、実に88%が「然り」と答えています。また、また、満州事変直後の同様のアンケートに対しては、約9割が「はい」と答えたそうです。(『それでも日本人は「戦争」を選んだ)』p263)

 端的に言えば、陸軍が国民を騙したということです。しかし、陸軍はこうした満蒙の武力占領を正当化する論理も周到に用意していて、その一つが、「満蒙における日本の特殊権益は国際法上正当な日中間の条約に基づくものであり、中国がそうした日本の正当な権利を蹂躙する以上、それを武力で守ってどこが悪いか」というもの。もう一つは、おそらく、満州事変後に考えられた理屈でしょうが、「張学良政権を匪賊なみの軍閥支配であると見なして、その支配に苦しむ満州の人々が圧政に耐えかねて独立を図った」というもの。また、「満州の治安は日本の利益に緊切な関係を有するから、そこでの日本の自衛権の発動は不戦条約に違反しない」という理屈です。(上掲書p251)

 結果的には、こうした後付けの理屈を日本政府も認めることになり、これが日本国の満州国承認となるのです。その後日本は、この満州国を蒋介石の国民政府に認めさせようとしました。蒋介石はこの問題について「棚上げ」までは譲歩しましたが、次第に高まる抗日世論の高まりの中で「承認」はしませんでした。そうした日中間のせめぎ合いがついに日中全面戦争に発展し、日本側にも膨大な戦死者を生むに至りました(太平洋戦争までに約20万人)。それをさらに正当化しようとして立てられた理屈が、「亜細亜が半植民地状態を脱するためには、日本、中国、満州を運命共同体として協同する「新秩序」を建設する必要がある」という大東亜共栄圏構想でした。

 こうして日本国民は、日中戦争のみならず日米戦争まで含めて、その国際法的・文明史的正統性を信じ込むことになり、破局的な太平洋戦争へと突入していったのです。先に紹介した『太平洋戦争前史』は、この破局に至る政治的・外交的経過を記しています。そこで、日本をこうした破滅に導いたその責任者は誰だったかと言うと、言うまでもなく、上述したような誤った考えのもとに国民を強引した「一部軍国主義者」ということになります。しかし、当時の国民の支持なしにはそれも不可能だったわけで、単にそれを「騙された」というだけでは済まされなものがあります。

 というのも、もしこれを「騙された」で済ましてしまえば、この時代と同じような困難に直面した場合、日本人は再び「騙される」ことになるからです。この点、こうした軍人の暴走を許した制度的要因もあったわけで、戦後の日本国憲法下においてはその問題点は除去されています。しかし、それ以上に重要な事は、こうした困難に直面したときの日本国の進路の選択において、かってエリート青年将校等が抱懐したような大国主義的妄想に陥らないようにすることです。

 そのためには、日本の国情をリアルかつ歴史的に認識する力、世界の思想的・政治的潮流を見抜く先見性、それを可能にする思想・信条・言論・集会・出版の自由の保障、日本の組織の下剋上的無統制や法的秩序を無視する談合体質の克服、皇国史観に基づく一君万民平等の徳治主義国家観からの脱却などが求められます。そして、これらの課題を克服するために身につけなければならない基本的な歴史の進歩に関する「考え方あるいは態度」が、本稿の主題である「保守の思想」の確立と言うことなのです。

 ところが、こうした日本人の内面的反省は、戦後のアメリカ軍の占領統治下の軍政によって、「一部の軍国主義者の暴走」という範囲に封じ込められてしまいました。そのため、一般の日本人はその被害者とされ、戦前の歴史に対する反省は、挙げてその「一部の軍国主義者」の所為とされました。そして、彼らの権力絶対化のために利用された皇国史観に基づく天皇制が、日本の伝統的天皇制であるかのように見なされ断罪されました。一方、その裏返し思想であるマッカーサーあるいはスターリン・毛沢東を理想化する一君万民平等の徳治主義的国家観がモデルとされました。

 言うまでもなく、こうした倒錯した論理展開にアメリカが気付かなかったはずはないのですが、アメリカの占領政策は、太平洋戦争で目撃した日本人の狂信的な戦いぶりを根拠に、それを生んだ日本の伝統文化の抹殺に向かいました。そこで、GHQは、私信の開封までやるという徹底した検閲によって、占領下の思想統制を行ったのです。その結果、日本の歴史伝統文化のうち優れたものは生かし弱点は克服する、という先述した「保守の思想」の観点に立って戦前の昭和史を総括するという視点が、全く失われてしまったのです。

 そのGHQによる検閲の実態については、その検閲のための蔭の組織CCD(民間検閲支隊)より出された次のような検閲指針が江藤淳によって紹介されています。この事実は、この検閲自体によって厳重に秘匿され、日本の独立回復後も明らかにされることはありませんでした。最初にこの事実を指摘したのは山本七平で、昭和48年に『ある異常体験者の偏見』「マックの戦争観」「洗脳された日本原住民」で、その恐るべき実態を暴露しました。その検閲指針は次の通りです。

《削除または掲載発行禁止の対象となるもの》
(一)SCAP―― ―連合国最高司令官(司令部)に対する批判
連合国最高司令官(司令部)に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されて  いない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範躊に  属する。
(二)極東軍事裁判批判
極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは  事項に関する特定の批判がこれに相当する。
(三)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
日本の新憲法起草に当ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲  法起草に当ってSCAPが果した役割に対する一切の批判。
(四)検閲制度への言及
出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに  相当する。
(五)合衆国に対する批判
合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(六)ロシアに対する批判
ソ連邦に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(七)英国に対する批判
英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(八)朝鮮人に対する批判
朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(九)中国に対する批判
中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(十)他の連合国に対する批判
他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(十一)連合国一般に対する批判
国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
(十二)満州における日本人取扱についての批判
満州における日本人取扱について特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連  および中国に対する批判の項には含めない。
(十三)連合国の戦前の政策に対する批判
一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当す  る。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
(十四)第三次世界大戦への言及
第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判  の項目ではなく、この項目で扱う。
(十五)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および  特定の西側の国に対する批判の項目には含めない。
(十六)戦争擁護の宣伝
日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに  相当する。
(十七)清国日本の宣伝
日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
(十八)軍国主義の宣伝
「戦争擁護」の宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
(十九)ナショナリズムの宣伝
厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。(後略)
(二十)大東亜共栄圈の宣伝
大東亜共栄圈に関する宣伝のみこれに相当(後略)
(二十一)その他の宣伝
以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
(二十二)戦争犯罪人の正当化および擁護
戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。(後略)
(二十三)占領軍兵士と日本女性との交渉
厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。(後略)
(二十四)闇市の状況
闇市の状況についての言及がこれに相当する。
(二十五)占領軍軍隊に対する批判
占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。(後略)
(二十六)飢餓の誇張
日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
(二十七)暴力と不穏の行動の煽動
この種の記事がこれに相当する。
(二十八)虚偽の報道
明白な虚偽の報道がこれに相当する。
(二十九)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(三十)解禁されていない報道の公表

 以上の三十項目の検閲指針によって、日本の言論空間がどのように歪められたかについて、江藤淳は次のように総括しています。

 「一見して明らかなように、ここで意図されているのが、古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない。
こうして日本人の周囲に張りめぐらされた新しいタブーの網の目のうちで、被検閲者と検閲者が接触する場所はただ一箇所、第四項に定められた検閲とその秘匿を通じてである。検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させてきた伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。
この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。」(上掲書P242)

 また、CIE(民間情報局)は、こうしたCCDが検閲を通して提供する情報に基づいて「ウォー・ギルト・インオーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」を数次にわたって展開しました。その基本的なねらいは何であったかについて、江藤は次のように指摘しています。

 「そこにはまず、『日本の軍国主義者』と『国民』とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国との間の戦いであった大戦を、現実には存在しなかった『軍国主義者』と『国民』との間の戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

 これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。『軍国主義者』と『国民』の対立という架空の図式を導入することによって、『国民』に対する『罪』を犯したのも、『現在及び将来の日本の苦難と窮乏』も、すべて『軍国主義者』の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島。長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起こった厄災であって、実際に爆弾を落とした米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。」(上掲書P270)

 この前段の指摘は、軍政というものの基本的性格だと山本七平は指摘しています。つまり、本当は「軍国主義者」と「国民」は一体だったと言うことで、この時「軍国主義者」が持っていた問題点は多かれ少なかれ「国民」も共有していたのです。このことを自覚することが大切で、それによって始めて「なぜ、あのような悲惨な結果を招いたか」ということについての反省も出来るし、その長所を生かし弱点を克服するということも可能となるのです。

 このことは、後段についても言えます。確かに検閲がここに述べられたような効果を持ったことは事実だと思いますが、問題は、日本人自身が、その独立回復後もこうして作為された言論空間を破れなかったということ。それは何故かということです。その基本的原因は、日本人は自らの置かれた状況をリアルかつ歴史的に認識する力が弱いということ、そのための思想的鍛錬が不足していると言うこと、繰り返しになりますが、そのためにこそ、日本人は「保守の思想」を身につける必要があると思います。