「保守の思想」を再点検する7――
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2012年12月19日 (水) |
本稿の始めに、日本では十分に理解されていない「保守主義」の定義について、エドマンド・パークの説を紹介しました。
「それは第一につねに〈現状のなかに〈守るべきものと〈改善すべきものを弁別し〈絶対的破壊の〈軽薄〉と〈一切の改革をうけつけない頑迷〉とをともに排除しようとするものであり、第二に、そのような〈保守と改革〉とにあたっては〈旧い制度の有益な部分が維持され〉、〈改革〉によって〈新しくつけ加えられた〉部分は、これに〈適合するようにされるべきであり〉、全体としては、〈徐々とはしているが、しかし、きれ目のない進歩が保たれることを政治の眼目とする」(小松茂夫「保守の価値意識」、岩波講座『現代思想v』所収)
つまり、ここでバークの言わんとしていることは、「凡そ人間の進歩ということは、決してある個人の頭脳から人為的に作り出された「省察」によって導かれるのではなく、「全体が一時に老年・中年・青年であることは決してなく、普遍の恒常性のもとで、不断の衰退・没落・革新・進歩というさまざまな過程をとおってすすんでいく」ような、一種有機体の成長に似た自然な歩みにしたがうものである、ということです。
(次は、『現代日本思想体系・新保守主義』解説「現代における保守と自由の進歩」林健太郎の要約)
こうした「保守の思想」は、フランス革命の衝撃に対する反応として生まれ、その後一貫してその存在理由を保ってきた思想であって、その特徴は、固定した理論体系を持っていないと言うこと。むしろ、具体的な状況に応じて自ずから発展した一つの心的態度であって、それは時と所によって様々のニュアンスを取って現れるので、その考察はその具体的な発現形態に即してなされなければならないものだ、ということです。
この保守の思想に相対立する概念として発達したものが、同じくフランス革命から生まれた自由主義です。そもそもフランス革命自体が、自由主義思想の一大発現であったのであって、それがナポレオンと王政復古という反対物に取って代われた後、改めて政治運動としての自由主義として定着をしてきたのです。
その後、この保守主義と自由主義とは相克を繰り返しながら、その後の社会的発展を演出してきたわけですが、その形態は、イギリスにおいては革命と反革命、変革と対立ではなく、ただ変革の速度の差における対立であったのに対し、大陸においてはフランス革命の影響が直接的かつ強烈であったために、その保守主義はいきおい社会の進歩に逆行しようとする復古的・反動的性格を帯びることになりました。
このように保守主義は反動思想として現れたこともありましたが、総体的に見れば、保守主義は自由主義と並ぶ車の両輪として、時代の発展と歴史の形成に貢献してきたのです。また、こうして、特定の理論形態を持たない保守主義が生き延びてきたと言うことは、「そこに人間生活のある本質的な一面を表現する観照が一貫して流れている」と見ることもできます。
とはいえ、保守主義と自由主義が19世紀の時代思想を二つに分かつ対立物であった以上、その両者の間には、社会・人生に対する見解において明瞭な相違が存在したことも事実です。その違いは、次のような諸点にありました。
第一に、社会の変革に対する態度で、両者とも変革そのものは否定しないが、自由主義の場合は多かれ少なかれフランス革命の精神を一つの価値基準としており、時には現実を無視して変化を求める傾向があるのに対し、保守主義は、変化の中にも過去とのつながりを重視する。いはば、前者はゾルレンとしての抽象的概念から、後者はわれわれが現実に見出すザインから出発する。従って、一般的に保守主義者は自由主義者よりも多く漸進主義者であると言うことができる。
第二に、自由の観念に関して、ここでも保守主義者は自由の否定を旨とするものではないが、その自由の解釈の仕方が自由主義と違う。すなわち彼らは自由というものをあくまで具体的な事物との関連の中で把握しようとする。つまり、抽象的、無規定的な自由というものは存在しない。それは概念的対立物である権威というものとの相関関係の中においてのみ考えられる。一方、自由主義は権威そのものを否定するのではないが、とかくそのような要素を捨象して自由を説く。しかし、それが結果的に伝統的権威による制約を脱した絶対的政治権力を生むに至ったことも事実である。
第三に、合理主義と非合理主義の差というべきものが考えられる。自由主義は人間の本性が理性にあり、従って人間の事物は合理的思惟によって処理できると考える。これに対して保守主義は、理性信仰に代えるに「生」を重視し、その生とは、理性を重要な要素としながら、それ以外の感情・本能・意志等の諸要素との複合として存在するもので、それらの諸要素の調和・均衡的発展を図ろうとする。といっても、それは理性の万能的支配を認めないと言うことであって、理性そのものを否定するものではない。
最後に人間能力の評価である。保守主義は、自由や進歩を否定も軽視もしないが、その掲げる標語の単純な支配に賛成しないのは、人間存在の本性に対する反省と人間の能力の限界についての認識が存在するためである。自由主義はこうした保守主義にある人間の能力の限界についての認識が希薄である。
しかし、以上の保守主義と自由主義の比較は19世紀のものであって、20世紀には大きな変化が生じた。それは政治勢力としての自由主義が保守主義と合体したということ。これは、両者の対抗思想である社会主義が台頭したためでもある。また、フランス革命に見られた理性万能の啓蒙主義的思惟方法が、実証科学的な思惟方法=「事実による仮説の検証」に取って代わられ、自由主義の抽象性・観念性が薄まったこと。その結果、自由主義も具体的な生の関連の中の自由を重んじるようになり、保守主義との対立の基礎が失われることなどによる。
これに対して新たに登場した社会主義は、かっての自由主義が持った理性万能主義的性格をそのまま受け継ぎ、あるべき社会状態の想定からする現状批判、人間社会を一つの法則的発展観念の下に解釈しようとした。また、自由主義のような個人主義、自由第一主義には立たず、公共の福祉を個人の自由に優先させたことから、いきおい、個人の内面的自由を軽視する傾向を持った。この点、保守主義は、市民社会における公共性を重んじる観点から自由の制約を説きはしたが、個人の内面的自由の制約は説かなかった。
しかし、こうした保守主義と社会主義の対立も、西欧社会においては共に民主主義的な政治制度を採用することで、共に社会改良主義的な政策を採るようになった。ただし、保守主義は、前述したように、固定した理論体系を持つものでなく、現実の事態の尊重の上に立って、その改革のあり方を構想する。従って、何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる。そこで、その間における判断の正鵠と妥当が重要な課題となる。
こうした保守主義の流動的性格は、その決定の過誤を当然に内包することになる。しかし、複雑な諸要素の聚合から成る人間社会は、決してそのすべての要素が一様に変化するものではないから、進歩は何らかの意味での安定の破壊をもたらすことになる。その場合、安定を重んずるあまり変化を恐れ、当然行わるべき改革を怠ったり、或いはそれに反対したりする場合が生ずることは避けがたい。そのため、「保守的」という言葉が「事なかれ主義」や「頑迷」の意味に使われることになる。
以上は、保守主義の発展についての思想史的解説ですが、日本における問題点は、以上説明した保守主義と自由主義の思想的な対抗関係が十分検証される暇なく、従って両者の違いが止揚されることもなかった、ということです。つまり、前者は、皇国史観に基づく一君万民平等の家族共同体的国体観をベースとしていたということ。後者は、明治憲法に規定されたイギリス流立憲君主制をモデルとしていたということ。そして前者は教育勅語によって顕教的に説かれたのに対し、後者は一部の政治家・知識人によって密教的に保持されたということ。
この矛盾した関係が、第一次大戦後の政治的・経済的・社会的混乱状況の中で顕在化し、前者の保守主義が、後者の自由主義をそうした混乱の元凶として駆逐することになったのです。この際の保守主義は保守反動と化し、教育勅語に語られた宗主的天皇は神格化され、かつ、天皇の統帥下にある軍は内閣からの独立を主張しました。こうして、日本の政治・外交の実権が軍に握られた結果、明治以降日本が積み重ねてきた政治制度の近代化の流れ――立憲君主制の下での政党政治・議会政治は崩壊し、代わって、軍中心の国家社会主義体制が敷かれることになったのです。
この場合、軍がもっとも忌避した思想が自由主義でした。本来は、先述したように、保守主義と自由主義は、近代民主主義的な政治制度を確立する中で、理性万能主義を排し、漸進的に社会改革を進める「車の両輪」の関係にありました。この両者の関係が、昭和に至ってアンビバレントな矛盾関係に陥ったのは、実は、軍が依拠した保守主義は明治政府の採った近代の保守主義ではなく、皇国史観に基づくファナティックな尊皇攘夷思想だったからです。
さらに言えば、そこにおける天皇親政はあくまでも建前であって、当時軍を支配した幕僚軍人らの本音の思想は、軍が実権を握る国家社会主義だったということです。言うまでもなく国家社会主義は、社会主義的理念を国家権力をもって一気にその実現を図ろうとするもので、本来の保守主義――「理性を重要な要素としながらも、それ以外の感情、本能、意志等の諸要素との調和、均衡的発展を図る」漸進的改良主義とは対蹠的な、いわば初期の自由主義の「理性万能主義」を引き継ぐものだったのです。
こうして、伝統的権威による制約をも脱した絶対的政治権力が生まれることになりました。昭和の幕僚軍人は、国民に対しては天皇を神格化しそれへの絶対忠誠を説く一方、現実政治においては、天皇を”錦の御旗”あるいは”玉”と称して、自らの権力絶対化のための手段としました。昭和動乱の発端となった満州事変は天皇の奉勅命令を無視して推し進められました。この結果、明治維新以降大正デモクラシーに至る日本の政治制度の近代化・民主化の流れは圧殺されました。
その後、皇国史観に基づくファナティックな尊皇攘夷思想と、西欧の反近代思想である国家社会主義とが結びつくことになりました。この時石原完爾によって説かれた思想が、西欧文明を覇権文明、東洋文明を王道文明と規定し、日本を西洋文明に対抗する東洋文明の盟主と位置づけ、軍事大国化を目指す道でした。それは満州事変に始まり、華北分離、日中戦争を経て大東亜戦争に発展し、ついに破滅的な敗戦を迎えることになったのです。
こうした失敗をもたらした、その思想上の問題点は何だったかというと、一言で言うと、先述したような保守主義と自由主義の対抗関係を、民主主義的政治制度を確立する過程で止揚出来なかったということです。人間社会は、時代の変化に対応して政治・経済・社会の仕組みを変えて行かなければならない。その際の改革の進め方は、伝統文化の生命力を生かし、弱点を克服しつつ漸進的に進めて行く外ない。この宿命を見定めた「保守の思想」を確立できなかったということです。
このことは、戦後日本の思想的発展にも大きな障害をもたらしました。戦後日本の思想の流れは三つあります。一つは、明治維新から大正デモクラシーに至る日本の政治文化の近代化の流れを復活しようとした、いわば幣原、吉田ラインとでも言うべき保守主義の流れ、もう一つは、この保守主義と軍部の保守反動思想とを一緒くたにして、敗戦に至る日本の歴史を全否定し、社会主義思想の下に、一君万民平等の理想社会を実現しようとした社会主義の流れ、最後は、アメリカの占領政策――東京裁判からプレスコードによる検閲によって、日本の歴史的伝統文化の連続性を破壊しようとした占領政策の流れです。
この三つの流れのうち、最初の保守主義の流れ、これを自由主義との対抗関係を止揚する中で発展させることが日本にとっては最も望ましかったわけです。しかし、アメリカの占領政策が、軍政の常として原住民政府と原住民の関係を敵対化したために、社会主義を理想とする革新派の反体制運動が主流となった。さらに、それと平行して、アメリカが、プレスコードによる検閲によって、日本の歴史伝統文化の連続性を破壊しようとしたために、日本の革新派の運動は、反国家さらには反日本歴史・文化運動になってしまった。
こうした革新派の、反国家、反日本歴史・文化的体質が、朝日や毎日などの大新聞や、進歩派知識人・反体制政党などに受け継がれているのです。問題はそれだけではない。こうした日本の革新派は、実は、無意識的に戦前の尊皇思想の一君万民平等主義、徳治主義・家族主義的国家論に拠っており、かつ、反英米=反自由主義ナショナリズムをその基底に持っている。つまり、その思想的系譜は明治維新期の尊皇攘夷思想にあるということ。それゆえに、この思想は今日まで生き延びた、と見ることができるのです。
しかし、こうした反国家、反日本歴史・文化的体質を持つ革新派に支えられた民主党政権は、三年半の施政を経て政権を失いました。財政を無視した社会主義的ばらまき政策の挫折、反米ナショナリズムに迎合した沖縄基地問題の処理の失敗、さらには夫婦別姓などの日本の伝統文化否定の動き、鳩山首相や菅首相らの無国籍かつ人望なきリーダー体質の暴露等々・・・。こうして自民党安倍政権が誕生することになったわけです。
しかし、改めて国会の政党構成を見ると、一部少数政党を除いて、他は保守政党だということ。つまり、ここにおいてようやく、保守主義と自由主義の対立関係を止揚する、日本の「保守の思想」(これはイデオロギーではなく上述したような態度)の基盤が出来たと言うことができると思います。
これによって、それぞれの保守政党の政策について、その保守主義の真贋を問うことができるようになります。もちろん保守反動はダメ、理性万能主義の自由主義や社会主義もダメ。先に、「保守主義は固定した理論体系を持たず、現実の事態の尊重の上に立ってその改革のあり方を構想する。その場合何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる、従って、その間における判断の正鵠と妥当を政党間で争うことになる」ということを申しました。
今回の選挙では、各党の政策の違いが必ずしも明確でなく、そのためか投票率も前回より10%程低かった、ということが指摘されます。また、選挙後のマスコミ評では、自民党安倍政権の保守性を批判する意見も多く聞かれます。しかし、上述したように、こうした状況を、保守主義の真贋を見分けるための基盤が出来た、という観点から見ると、ここではじめて、各党の歴史認識や日本の伝統文化理解、さらにはその継承策・改善策の正鵠と妥当を問えるようになったわけで、日本の政治近代化の大きな前進と見ることができると思います。
そこで次回は、こうした観点から、自民党や日本維新の会の政策を具体的に検証して見たいと思います。
最終校正2013/1/1