「保守の思想」を再点検する6――
敗戦を国民の胸に深く刻み、その原因を究明し公表すること

2012年12月11日 (火)

 本年の9月から10月にかけて、「負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂」という題名のNHK歴史ドラマがありました。「負けて、勝つ」というのは、アメリカに「戦争では負けたが、外交で勝った」という意味なのですが、では、ここで「外交で勝った」というのはどういうことなのかというと、これが必ずしもはっきりしない。吉田茂を始め当時の日本人は、マッカーサーを”救世主”のように崇めましたし、例の「日本人12歳説」がなければ、東京湾の入り口には、自由の女神よろしくマッカーサーの銅像を建ったそうですから、”マッカーサーに勝った”とはとても言えない。まあ、吉田のマッカーサーに対する態度が堂々としていた、という程のことかと・・・。

 そこで、本稿で論じた、戦後憲法の”ビックリ条項”いわゆる象徴天皇制と戦力放棄条項がどのような経緯で書き込まれたを、このドラマに注意して見ることになったわけですが、この点は、実に明快に、幣原喜重郎がマッカーサーに申し出たものとして描かれていました。ということは、この憲法の”ビックリ条項”とりわけ戦力放棄条項は、アメリカが日本に押しつけたものではなく、日本人がマッカーサーを教唆し憲法に書き込ませたものとNHKは解釈しているわけです。日本はアメリカに「戦争では負けたが、外交で勝った」というメッセージは、ここに込められていたわけですね。

 この点に関して、岡崎久彦氏は『吉田茂とその時代』で、昭和21年1月24日の幣原喜重郎とマッカーサーの会談の内容について、次のように言っています。

 マッカーサーはその占領政策を成功させるためには、天皇制維持が必要だと考えていた。そのためには「戦争放棄などを含む、極東委員会の誰も反対しようのないリベラルな憲法」を極東委員会が開催される2月26日までに作ることが必要で、しかも、それが占領軍の強制ではなく、あくまで日本側の自発的意志ということでなければならなかった。そのため、幣原は、マッカーサーとの会談で、「大筋として、今後必ず平和憲法をつくり、そしてそれは占領軍の強制ではなく、日本側の発意だったとする約束をする以外になかったのである。」(上掲書P151)

 つまり、幣原は、この時、マッカーサーに「戦争放棄などを含む、極東委員会の誰も反対しようのないリベラルな憲法」をつくる必要性を告げられ、かつ、それを日本側の発意とすることを約束させられた、というのです。しかし、それは、「戦争放棄」ではあっても「戦力放棄」ではなかったのではないか。また、その憲法草案はGHQが作って日本側に押しつけたものであることは明白だったわけですから、それを「日本側の発意」とすることにそれほど大きな意味があったとも思われません(それをあえて「日本側の発意」とする意味は、「戦力放棄」が日本側の発意だったからではないか)。従って、問題は、なぜここに「戦力放棄」条項が挿入されたか、ということではないでしょうか。(下線部12/13挿入)

 ところで幣原は、敗戦の年の10月に東久邇内閣の外相吉田茂に次のような「終戦善後策」を書き送っています。(上掲書P80)

(1)連合国の信頼をかち得ること
もし国内の秩序が乱れて内外人に被害が出たり、また権謀術数を弄して公約の実行を怠ったりすると、連合国によるわが国の主権制限は厳しくなり、占領も長くなるであろう。

(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと
たんに生活のために連合国の歓心を求めるのに汲々とし、あるいは、敗戦の恥を忘れて偸安に耽るようでは日本の再建はできない。

(3)国際情勢のチャンスを逃さず、日本に有利な局面の展開を図ること。列国間に百年の友もなく、百年の敵もない。終始列国の動向に注目し、好機に乗ずるべし。

(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること。  

 (1)は、負けっぷりの良さを示し、国内秩序をしっかり維持すること。(2)は、敗戦という現実を主体的に受け止めること。(3)は、国際情勢の動向に注視し、日本に有利な局面展開を図るべく好機に乗ずること。(4)は、敗戦の原因を政府の責任において究明し、その結果を公表して、国民の歴史的教訓とせよ、ということです。これは、幣原が首相になる以前のものですが、この内の(1)と(3)の策が、まさに、GHQが憲法草案を押しつけてきたこの局面において発揮された、ということが言えるのではないでしょうか。

 つまり、戦勝国が、敗戦国である日本に憲法を作って押しつけるなら、この際、その戦争放棄の理念をさらに徹底させて戦力放棄とし、日本人が、戦後の米ソ対立構造の中でアメリカの先兵として使われる危険性を予め排除する・・・と幣原が考えたとしても決して不思議ではないと思うのです。その後、幣原は知己であった柴垣隆氏に次のように語ったとされます。

 「今度の憲法改正も、陛下の詔勅にあるごとく、耐えがたきを耐え、忍ぶべからざるを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみというものだ」としみじみ語り、そして傍らにあった何か執筆中の原稿を指して、『この原稿も、僕の本心で書いているものではなく韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。いずれ出版予定のものだが――これは勝者の根深い猜疑と強圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ』」(上掲書141)

 これは、幣原の長男道太郎氏が、「第九条幣原提案説は百パーセントの嘘である」ことを証明するために引用したものですが、私には、これは、「第九条、特にその戦力放棄条項は、上記のような理由で、幣原がマッカーサーの理想主義を逆用して新憲法に書き込ませた」ものであることの証言のように思われます。おそらく、この時、幣原が書いていた原稿は、戦後の国際政治における戦力放棄の意義を説いたもので、それは、まさに「勝者の根深い猜疑と強圧を和らげる悲しき手段の一つ」だったのではないか。

 ということは、幣原の本心においては、戦勝国から憲法を押しつけられるなど、国家としては最大の屈辱だったわけで、それなら、それを弁護する必要など全くないということになります。にもかかわらず、なぜ、幣原は、その戦力放棄条項を自らの発案と言い、その意義を論文に書いてまで強調したのか。それは、言うまでもなく、「国際情勢のチャンスを逃さず、日本に有利な局面の展開を図り、好期に乗ずる」ためであり、そのための策が、戦争放棄をさらに進めて戦力放棄条項とし、それを新憲法に書き込むことだった、と見ることができると思います。

 さて、これによって幣原は、吉田と共に、先の4項目の策の内、(1)と(3)を達成することが出来ました。残ったのは(2)と(4)ですが、これについては、戦後60年経った今も、未達成のままだと言うことですね。あえて再掲すれば、(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと。(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること。つまり、戦勝国に憲法を押しつけられたことの屈辱を決して忘れるな、ということ。また、戦勝国の都合による戦争(歴史)解釈に拠らず、自らの力で、主体的に日本の敗戦原因を究明し、それを国民の歴史的共有財産とせよ、ということです。

 ともあれ、幣原と吉田は(おそらく昭和天皇とも連携して)、(1)と(3)の策によって、軽武装・経済立国・日米協調という日本の戦後政治の基本スタイルを確立することに成功しました。しかし、重ねて言いますが、(2)と(4)の課題をクリヤーすることなしには、日本の再建はできません。では、なぜ、日本が独立を回復した後にもこれが出来なかったか。その原因は、日本人自身の問題でもあるわけですが、占領軍の占領政策=軍政下の思想統制が極めて巧みだった、ということにもよります。

 この問題を最初に指摘したのが山本七平です(『ある異常体験者の偏見』「洗脳された日本原住民」(昭和48年)。そして、この事実をアメリカの占領軍関係の文書(スートランド国立公文書館分室のG-2関係資料、及びメリーランド大学付属マッケルディン図書館のプランゲ文庫)によって実証したのが、江藤淳の『閉ざされた言語空間』でした。

 ただ、江藤淳の場合は、「アメリカは、占領下の日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である」との指摘。問題は、後段の「日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖」ということですが、その原因が、アメリカ軍が日本占領中に実施した検閲にあったことは間違いないとしても、日本人が独立回復後もこのタブーを破れなかった、その責任は、やはり日本人自身が負うべきだと思います。

 このことを、江藤淳より10年前に指摘したのが山本七平で、その問題構造を次のように明らかにしています。

 「占領下の言論統制やプレスコードの実態は不思議なほど一般に知られていない。マスコミ関係者がこの問題をとりあげると、必ず、例外的な犠牲者を表面に立て、自分はその陰にかくれて、自分たちは被害者であったという顔をする。それは虚偽である。本当の被害者は、弾圧されてつぶされた者である。存続し営業し、かつ宣撫班の役割を演じたのみならず、それによって逆に事業を拡張した者は、軍部と結託した戦時利得者でありかつ戦後利得者であって、「虚報」戦意高揚記事という恐るべき害毒をまき散らし、語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して「戦争の実態」を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させたという点では、軍部と同様の、また時にはそれ以上の加害者である。

 占領下の言論統制やプレスコードという問題になると、・・・多くの出版人が言うように「プレスコードのしめっけは東条時代よりひどかった」のは事実であろう。この点、内務省や軍部の統制には、表むきは実にきつく、つまらぬことまでうるさく干渉するくせに、どこか幼稚なところがあった。「××は×××である」で本が出せた時代などは、ソビエトや中国の言論統制と比較すれば、幼稚を通り越した間抜けであろう。戦時中は非常にきびしくなったとはいえ、やはり、こういった間抜けがあった。

 マックの統制はこれとは型が違ったらしい。神経症的な毛嫌いはなく、かつ枠は一見大きいように見えたが、占領政策に障害ありと認めたものは、即座に出版を停止させ、抜け道は一切なかった。『野呂栄太郎全集』の中断は、それが理由だときいた。たかだか二千部三千部という、部数という面から見ればほとんど影響はあるまいと思われるものにまで直接的統制が及んだということは、新聞・放送は徹底的に統制されていた証拠といえるであろう。

 そしてこの、日本的な抜け道がないということが「東条時代よりきつい」という印象の原因であろうと思う。事実マックは、「私信」すら遠慮なく組織的に開封して点検した。こういうことは、戦争中の軍部も行わなかったし、日本軍の占領地でも全く行われなかったそうである。ほかの多くの例は除くが、あらゆる点から見てマックの言論統制が戦争中より徹底したものであるという古い出版人の意見は、妥当性があると私は思っている。

 ただ彼は軍部よりはるかに巧みであって、一般の人びとにはほとんどそれを感づかせず、「言論」が自由になったような錯覚を、統制した新聞を通じて、人びとに与えていたのである。そして今でも人びとは、この錯覚を抱きつづけている。民主主義と軍政の併存(?)は、実は、この錯覚の上に成り立った蜃気楼にすぎない。

 プレスコードによって情報源を統制してしまえば、あとは放っておいて「自由」に議論させればよい。そしてその議論を誘導して宣撫工作を進めればよいわけである。この点日本の新聞はすでに長い間実質的には「大日本帝国陸海軍・内地宣撫班」(と兵士たちは呼んだ)として、毛沢東が期待したような民衆の反戦蜂起を一度も起させなかったという立派な実績をもっており、宣撫能力はすでに実証ずみであった。これさえマック宣撫班に改編しておけば、占領軍に対する抵抗運動など起るはずはない、と彼は信じていた。

 これは私の想像ではない。私にはっきりそう明言した米将校がいる。そしてそれはまさに、その通りになった。「史上最も成功した占領政策」という言葉は、非常な皮肉であり、同時にそれは、その体制がマックが来る以前から日本にあり、彼はそれにうまくのっかったことを示している。そしてこれは戦争中の軍部の位置にマックを置いてみれば明らかであろう。

 「占領統治・宣撫工作」の基本図式は、日本軍がやろうと米軍がやろうと同じことである。まず「民衆はわれわれの敵ではない」と宣言する。何しろ「一億玉砕」とか「徹底抗戦」とかいうスローガンを掲げて、竹槍まで持ち出していたのだから、どんな復讐をうけるかと思っていたところに、こういわれるとホッとする。一方占領軍は民衆の散発的抵抗という、最もいやな問題に直面しないですむ。そこで「占領軍は民衆の味方であり保護者である」と宣言する。ついで「お前たちをこのように苦しめた一握りの軍国主義者はわれわれの手で処罰する」という。

(中略)

 この行き方は軍政なるものに必然的に付随するようにも思う。第一 「お前は敵ではない」と宣言しなければ「対話」はできない。では敵でないなら、なぜこの国へ侵入してきたのかとか、なぜわれわれに干渉するのか、となると「それは、百年にわたり東亜を侵略した米英帝国主義者からアジアを解放するためで、従ってお前は私の味方であって、米帝国主義者や一握りのその手先は日比共同の敵である。従ってその敵と戦うためお前たちの協力を求める」という言い方しか出来なくなるのである。

 相手はその言葉をどこまで本気で聞いたかわからないが、一応「うけたまわって」おけば、何しろ敵ではないと言われたのだから、自分が安全なことは確かである。何しろ相手は武器をもっているから反論はできない。そして本当の反論は、武器には武器という形になるであろう。従ってこれは対話のように見えるが、実はきわめて一方的な宣言にすぎず、「占領軍の命令指示に従え、そうすれば生命財産は保証する。ただし敵対するなら射殺するぞ」という一方的な命令を、「対話」の形式でいっているにすぎないのである。これが宣撫なるものの基本型であり、以上の台詞がその原則の一である。

(そうした)原則を、新聞・放送を通じて複雑な表現で言っただけであり、違うのはただ伝達の手段と表現だけであって、伝達する内容は結局は同じことにすぎない。そしてそうするのは、それが占領軍にとって有利だからだ、という理由だけである。結局占領軍の原則とは「占領軍に有利」ということだけであるから、たとえ原則らしいことを口にしても、それが自己に不利ならば、平然と自分の原則を自分で破る。

 たとえば経済力の集中は排除する、独占は許さんと言っても、軍の移動に必要ならば当時独占企業であった日本通運はそのままにしておく。戦時中の独占的書籍雑誌配給企業である日配(日本出版配給株式会社)は解体しておきながら、単行本の配給機関などとは比較にならぬほど大きな影響力をもつNHKや大新聞は解体せず、自己の宣撫工作のためそのままにしておく。・・・そこでどのような手段を使っても絶対に避けようとすることは、占領軍が徹底的に不利な立場に立たされることである。

 そしてその最たるものは占領地のあらゆる不平不満が占領軍に集中して来て、ついには爆発して、両者の正面衝突となり、収拾がつかなくなることである。ひとたびこれが起れば、アメリカにおけるマックの声望は一瞬にして急落する。しかしどの社会にも不平不満や利害の衝突は必ずある。そこで宣撫班は、不平不満はいかなる場合も「原住民の当局に向うよう」誘導しなければならず、また「原住民の政争その他の争いに直接介入してはならない」のである。

 こうすれば、自分は矢面に立たないですみ、あらゆる不平不満は原住民の政府に向うだけでなく、これは一種の分割統治となるから原住民が結束して占領軍に刃向う心配がなくなるわけである。従って占領軍はたえず原住民の分裂を策し、また常に野党の立場に立って、原住民を原住民政府に向わせ、そのエネルギーを自己に集中させないようにする。これは宣撫工作の原則の二である。

(中略)

 宣撫のもう一つの原則は「原住民に深く考えさせないことと直接的情報を受けさせない」ことである。というのは宣撫班の言っていることは、ちょっと静かに考えれば、だれが口にしようと「子供だまし」で、常識のある社会人に通用する代物ではないからである。と同時に社会人は社会に生きているから、身辺から直接情報がとれる。物価が上がった、物資がなくなった、食料を売ってくれない、闇値が高騰した等々から、どこにゲリラが出た、だれだれが消えてなくなった等々まであらゆる情報があり、どんなに情報を統制しても、この直接的情報は消すことはできない。

 中国人やユダヤ人はこの直接的情報を組織化することが上手だそうだが、戦争中日本にいた中国人は、直接的情報だけで、日本の敗戦の日時を正確に予測していたそうである。これは宣撫班にとって最もこまる問題であり、一歩誤れば宣撫工作はこの点で瓦解する。そして、これに対処するため、宣撫班は二つの方法を使う。一つには絶えず架空の「危機」を言いたて、同時に「占領体制」に批判的な人間にその危機の原因を転嫁して糾弾し、それを沈黙ざせてしまう方法である。

 これは二方向に作用する。人間は危険の表示に非常に弱い。ただの水をビンに入れ、これに「劇毒」と表示しておけば、だれも絶対にふれないが、同時にそれに注意が集中して、他のことが念頭になくなってしまう。そして対象を変えつつ、たえずこれを行うと、人間は思考力を失って、指示された方のみを見、指示された通り反射的に動き出すようになってしまう。・・・いわば「原住民」をある程度は、軍隊を動かすように動かしうる状態にもって行き、宣撫班が直接間接に与えるさまざまな指示しか見ず、指示された通りにしか動かないようにしてしまうわけである。

 この面に関する限り、宣撫班による被害は、実に昭和五年ごろの「非常時」「超非常時」の叫び以来、半世紀近くわれわれは受けつづけているのである。日本人が天性暗示に弱いとか扇動に乗りやすいとかいうのは恐らく誤りで、情報を遮断され、絶えずアントニーの詐術にふりまわされ、そのうえ絶えず「危機」「危機」とやられればどの民族でもそうならざるを得ないと私は思う。そしてこれは新聞宣撫班が日本に流した最も大きな害毒の一つだと私は思う。

(中略)

 昭和五年ごろから、実にあらゆる面で、危機・危機・危機の叫びは絶えずくりかえされている―― 一つ終れば、また一つと。人間も生物だから、絶えずこれをくりかえされていると、断続的な私的制裁の恐怖の下に常に置かれている兵士と同様、行動が衝動的反射的で思考は不能という状態にならざるを得ない。そうなってくれれば、宣撫班はこれを思うがままに操ることができる、操れれば「原住民」が一致して自分に立ち向う心配はない。そればかりでなく、それを「占領軍にとって好ましからぬ人間」への攻撃へと誘導すれば、自らの手を汚さずにある人間を抹殺し、ある人間を沈黙さすことができる。いわば一石二鳥で、これが最初にのべた二つの方向である。

 以上にのべた宣撫の原則の基本にあるものは何か。それは宣撫とは軍事行動であり戦争であり、従って、あらゆる方法を駆使して打倒すべき敵かおり、そのためマスメディアを使っての手段を選ばぬ作戦と戦闘が展開されているのであって、ぞの実態は情報の提供という意味での報道とは全く別だということである。従って宣撫班は敵がいなくなれば存在理由を失う。戦争中は確かに敵がいた。従って宣撫班は架空の敵をつくる必要がない。しかし戦争が終ったら敵はいない。そこで平和時の「軍政」では、軍政を維持していくためには、宣撫班はまずありとあらゆる架空の敵を作り出さねばならない。

 戦犯・パージ・レッドパージ、右翼の追放、共産党の追放等々々から戦争の責任の追及まで――ただし、宣撫に使えると見たものは、全部、温存しておいたのだから、民主化の為だなどとは全く白々しい。この細部を見ていくと全く無原則に見えるが、その底にあるものは「軍事占領」であり、「自軍に有利」の原則である。そして温存する場合、必ずその組織内の「戦争反対者」を表面に出して実体を隠蔽した。

 もし、冷たい戦争の時期が少し早く来て、マックが、日本の陸軍を温存することが占領軍に有利と判断したら、自衛隊を新たに創設することなく、東条に抵抗し開戦に反対して追放された軍人を表面に立てて、同じことをやったであろう。そういう人はいくらでもいた。彼らは専門家で実態を知っていたから、おそらく、宣撫されていた者より「戦争反対者」は多かったはずである。  

 新聞は新しい「権力」だなどといわれるが、「新しい」は誤りで、戦争中から、最高の権力者であった。プレスコードで統制された新聞とは、連合軍最高司令官の機関紙に等しいから、これを批判することは「占領政策批判」であり、そういうことをする者は、抹殺さるべき「好ましからぬ人物」であった。・・・(そして原住民の)不満を「原住民政府」と「架空の敵」に転嫁して、占領軍の安泰を計り、かつ「占領地日本の原住民」を相互に争わせてその勢力を減殺さすべく、宣撫班は実に忠実に行動したわけであろう。そして人びとは、言論の自由があると錯覚させられており、プレスコードの存在すら知らないままでいた。しかしこれは、戦後のことでなく、実に、戦争中からであった。

 その当時の新聞は、うっかりそれを批判すればそれはそのまま「軍部批判」となった。配属将校の耳にでも入ったらそれこそ大変と、親切な先生からゴツゴツと諭された体験が私にはある。もちろん立派な批判をしたわけではない。私が迂闊なので、ついついある記事を「こりゃ嘘だ、軍部へのオベッカだ」と言っただけである。それが問題になるぐらい新聞とは恐ろしい存在・絶対の権威であった。従って絶対的権力者であった――もちろん虎の威を借る狐だったのであろうが。そしてこの状態がはじまったのは、前述のように昭和五年乃至十年ごろからではないであろうか。思えば実に長い期間である。

 マックは去った。しかしマック制は存続した。ひとたび権力を握った者は、革命なしではその権力を手放すことはないという。その通りであろう。そして不幸なことに、マック制という軍政擁護の錦の御旗に「新憲法」がつかわれた。すなわち最高決定権はなお軍司令部宣撫班にあるという形態である。憲法で定められた通りなら最高裁のみが違憲の決定ができるはずである。しかし占領体制はそうはいかない。たとえ最高裁が何をいおうと、マックが違憲だといって、そう新聞に出れば違憲なのである。従って新聞は最高裁の決定をくつがえしうる絶対的な権力となる。

 軍部が支配したときも同じで、旧憲法でも信教の自由は一応保障されている。しかし、宣撫班は、この「不磨の大典」といわれた明治憲法の保障ですら、「国民精神総動員」の音頭をとって、実質的になくしてしまうのである。(中略)この体制は戦争が終っても形を変えて、マック体制の下で生きつづける。当時も今も、人は最高裁が何と判決を下そうと新聞が「憲法に違反し・・・」と書けば憲法違反だと信じているから、憲法にこうあるから、新聞判決の方がおかしいではないかといってもダメなのである。

(中略)

 ではどうすべきか。まず、われわれが置かれている現実の位置を見、過去における決定的な失敗の跡をたどり、それへの検討を新しい方法探求の基盤とすべきであろう。何しろ戦後三十年近くは空費してきたのだから、今急にあわてても何の結論も出るわけがない。考えるのは五年がかりでもよいであろう。そして考えるためには、まず、マック制とその宣撫班的発想から自らを解放することである。これがある限り、何の結論も出てくるはずはない。」(上掲書P182~191)

 「マック制とその宣撫班的発想から自らを解放すること」。それが独立後の私たちの課題だと言うのです。しかし、戦後三十年どころかそれから37年経った今でも、マック制という隠された軍政下の思想統制によって植え付けられた宣撫班的発想から自由になったとは言えません。朝日や毎日などの大新聞は、占領軍に代わって「新憲法」の平和主義や言論の自由を盾に、昭和史の反国家的宣撫班的解釈を国民に押しつけてきました。言うまでもなく、それは軍政維持のための方便だったわけで、それは言論の自由に支えられた民主主義とは無縁のものだったのです。

 このことを、米軍の占領政策のやり方から見抜き、それに服従すると見せかけてマックの理想主義を逆用し、彼らが日本に押しつけようとしている「新憲法」に戦力放棄条項を潜り込ませた。それによって予測される米ソ対立構造の中、日本人がアメリカ軍の先兵として使われる危険性を未然に防いだ。これが、幣原喜重郎や吉田茂等の「戦争に負けて、外交に勝つ」秘策だったのではないか。一方、マックの軍政擁護の宣撫班として、占領中はその情報統制の事実を隠し、独立後は、その宣撫思想の誘導に努めたのが、日本の大新聞だったのではないか。

 であれば、今こそ、幣原の「終戦前後策」の(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと。(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること、の二つを、日本再建に不可欠な課題として再認識する必要があると思います。それによって、昭和史の宣撫班的解釈からの脱却と共に、その反動としての陰謀史観から脱却する。日本人から見た「真の敗戦原因」を究明する。その上で、国民が大いに議論して、日本人の手になる「真の平和憲法」を創る。これができて初めて、日本は独立を達成したと言えるのではないでしょうか。