「保守の思想」を再点検する5――
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2012年11月22日 (木) |
日本維新の会への太陽の党の合流、というより、橋下氏が石原氏と手を組んだということで、多くの評者が混乱に陥っているようですね。まさか、維新の会が「たちあがれ日本」を受け入れるとは思わなかったし、とりわけ橋下氏が、反中国的言動でタカ派的イメージの強い石原氏と手を組むとは思わなかった。従って、これで維新の会も終わり!という意見も出てくるわけですが、私は、それは「保守の思想」と「保守反動」とを区別しないためで、両者を区別できれば、その意味をより正しく把握できると思います。
そもそも、橋下氏が抱いている問題意識とは何か。それは、戦後の日本人に習い性となった「他者依存」の精神を、明治維新の「独立自尊」の精神に立ち返らせること、そうしなければ日本は亡ぶという危機感なのです。そうした危機感の根本にあるのが戦後憲法です。しかし、戦後憲法と言えば「平和憲法」、その改正はすなわち「戦争の出来る国」などという反論が出てきます。しかし、その平和は自然に得られるものではなくて、むしろ究極の忍耐や自己犠牲が求められる・・・。
日本が明治維新に成功して、アジアで唯一、自力で近代化を成し遂げることが出来たのはなぜか。それは「儒教的身分社会」を脱して、「独立自尊」をその「一国独立」の基礎に据えたからです。そして、その「一国独立」を達成するためには、日清戦争で中華文明のくびきを脱し、日露戦争でロシアの膨張主義を掣肘する必要があった。また、それに勝利するために、日本人は膨大な自己犠牲を払った。そのおかげで日本は、「一国独立」と共に「近代化」を成し遂げることができた。その後、その「一国独立」が「一国独善」に陥ったことが問題だったのですが・・・。
そこで、敗戦後の日本の平和主義についてですが、戦前昭和の「一国独善」を反省するのは当然としても、それは決して「一国独立」を否定するものではありません。今日、国連の役割が高まっていることは事実ですが、その国際秩序形成の基本単位が国民国家であることは疑いありません。つまり、「一国独立」があって初めて国連が機能するわけで、この逆ではないのです。そこに、「一国独立」の重要性があるわけで、次いで、それを支える国民の「独立自尊」の精神が問われることになるのです。
では、戦後憲法の「平和主義」を担保したされる「戦争放棄」条項はどのようにして生まれたのでしょうか。『昭和の三傑』の著者堤堯氏は次のような見方をしています。
「戦後日本の基軸=戦力放棄のビックリ条項は、東西冷戦の谷間にあって、再軍備の要請を見越して、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、こちらから策定した捨て身のトリックだった。言うなら占領総督を煙に巻いた『くの一忍法・煙遁の術』である。本来、相手を煙に巻くものであって、自らを呪縛するものではない。」
「幣原はマックをハメ込んだ。『戦力はこれを持たない。交戦権はこれを否定する』――ためにアメリカは日本の戦力を対外的に使役する手立てを失った。これを占領総督マックの失態と見て、そこに解任の真因を見る説がある。その後の慌ただしい日本再軍備への圧力を見れば、あながち的外れではあるまい。」
こうした幣原の秘策を受け継いで、アメリカの再軍備の要請を憲法を盾に拒んだのが吉田茂で、それによって、日本は「朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵たりとも出さずに終わった。くらべて韓国はベトナムにタイガー部隊を派遣、その”猛虎”ぶりがいまだにベトナム人の恨みを買っている・・・幣原が策定した(憲法の)『当用の基軸』と、これを堅持した吉田の二枚腰の効用である。」
では、こうした解釈はどこから出てくるかというと、それは次のような事情によります(要旨)。
〈昭和21年2月13日、GHQから日本側に「象徴天皇制」と「戦力放棄」条項を含む新憲法草案が突然示され、日本側を驚愕させた。そこで幣原首相は、2月21日にマッカーサーを訪問し、この憲法草案が作成された内情を聞き、これを受け入れる以外日本の採るべき道がないと判断し、陛下に拝謁してそのご同意を得た。その上で、これで「兎も角天皇制が維持できるならば、戦争放棄を始めその他のことは多少譲歩するも亦やむを得ない」ということで、その旨閣議に臨んで説得し、また、枢密院会議で次のように説明した。
(一) なぜ總司令部が自分の案を押しつけてきたか。私の考へでは、極東委員會などを中心とする國際情勢が天皇制をやめて日本を共和國にし、共和主義的な憲法を作くるといふ機運が強くなってきたためではないかと思ふ。十二月末にモスコーで開かれた米英ソの三國外相會議で、日本管理の機関として、ワシントンに十一ケ國からなる極東委員會、東京にはマ元帥を議長とし、五ケ國からなる對日理事會がつくられた。政府の作くつた憲法改正案も司令部だけでなく、これらの機関の審査を受けなければならなくなった。
ところが極東委員會の情勢は、頗る強硬で到底日本政府のつくった保守的な案では受入れられないものであることが、總司令部に判ったらしい。そこで司令部案を持ち出し、極東委員會の動きに先手を打たうとしたのだと思ふ。あんなに急いで、しかも極秘に作くり、できあがるとハッセー中佐が十一通の案文を持って、特別仕立の飛行機でワシントンに急行、極東委員會に間に合せたわけだと思ふ。
当時、日本に對する國際的な感情は冷やかなものであった。ソ連はいはずもがな、ニュージーランドやオーストラリヤ、フィリッピンなど、日本に対して天皇制の全廃、共和主義憲法の成立を望むといふきびしい政策を要求してゐた。かういふものをうまく抑へながら、日本人の現覚に即した道をどこにみつけるか、總司令部は相常苦心したのではないかと思ふ。
だから日本のことを考へた政策といふより、急進的な連合國の方を向ひて考へたものであらう。さうした意味で、日本が抑へつけられたり、実情に合はなかったりすることも相当強要した点があると思ふ。
(二) 日本に進駐してきて、彼らが打った一番強力な手は、日本の頑迷な天皇紳様的考へ方を打ちくだいて、近代的な人格尊厳にめざめたデモクラシーに持って行くことだった。金づち頭をくだくために、一時は共産党の勢力さへ利用したように思ふ。共産党のような刺戟の強いもので、日本の地ならしをする事を考へたようだ。しかし共産主義の勢力が日本に強くはびこり出すし、一方、日本全体に強く流れてゐる保守的な考へ方、天皇に對する切り難い感情といふものが判ってきたわけだった。
聯合國の間に旧日本、とくに天皇を中心とする復元的なものに極端な嫌悪をいだいてゐるところがある。さうした國際的な要請と日本人の現實の動きとを調和させるために、あの憲法草案のような「象徴」といふ形になって出て来たのだと思ふ。ケーディス大佐のごときも、初めは天皇問題については深刻な考へ方をしてゐた。しかし日本の實情が判るにっれて、共和國的なものは日本に適しないことを知った。
天皇については、日本國民が納得できるような地位に置き、しかも實質的に主権在民といふ方向に持ってゆくため、相当な苦心をしたようだった。とにかくあの憲法は、営時の國際的要求をからうじてくひとめ得た一種の救助艇のようなものと考へてゐる。彼らも、これによって日本も救はれたし、司令部も救はれたといふ話をしてゐたことがある。(毎日新聞発行「占領秘録」『幣原喜重郎』所収)〉
おそらく、こうした幣原の説明は、必ずしも嘘偽りではなく、当時の連合国の内情の厳しさを正しく説明するものだったと思います。しかし、この「象徴天皇制」は、当時首相であった幣原が起草した天皇の「人間宣言」(昭和21年1月1日)の延長と見る事ができますし、後者は、昭和21年1月24日に幣原がマッカーサーを訪問した折、幣原の方からマッカーサーに申し出たものであることが、その後のマッカーサー証言等で明らかになっているのです。
つまり、幣原は、極東委員会によるヒロヒト断罪を避け、天皇制を残す方策として、「象徴天皇制」と「占領放棄」の条項を新憲法に書き込むことを、事前にマッカーサーに示唆し、その賛同を得ていたのです。そもそも新憲法草案は、日本側が「松本案」を作成しGHQに提出していたのですが、GHQはそれを棚上げし、それに代えて、極東委員会に間に合うように慌ただしく憲法草案を独自に作成し、そこに「象徴天皇」と「戦力放棄」条項を書き込んだのです。
つまり、幣原は、この二つの「ビックリ条項」が新憲法に書き込まれるよう事前にマッカーサーに画策していたわけで――といっても、氏がGHQの憲法草案作成の動きをどの程度知っていたかは分かりませんが――日本側には、その内情を隠して”知らんぷり”をしていたのです。というのも、もし二つの条項が日本側に知れたら、当時の状況からして、それが閣議を通るはずもありませんから・・・。
そこで、幣原は、先に紹介したような極東委員会の天皇制に対する厳しい見方を知っていたので、繰り返しになりますが、極東委員会によるヒロヒト断罪を避け、天皇制を残すために、「象徴天皇制」と「占領放棄」の条項を新憲法に書き込むことで、それを回避しようとした。ただし、この経緯を知っていたのは、幣原の他に、鈴木貫太郎、吉田茂(幣原内閣の外務大臣)、そして昭和天皇ではなかったかと推測されます。
で、結果的には、GHQが独自に作った新憲法草案に、この二つの”ビックリ条項”が盛り込まれることになったわけです。そこで問題ですが、「象徴天皇制」については、先に述べた通り幣原が起草した天皇の「人間宣言」の延長ですからよいとしても、「戦力放棄」については、実は、GHQ自体、それを憲法に書き込むことまでは考えておらず、条約による日本の非武装化を考えていたといいます(『昭和の三傑』P73)。ではなぜ、幣原はそれをあえて憲法に書き込もうとしたか。
その理由としては、原爆という大量破壊兵器の登場が戦争を不毛なものにしたという時代認識や、日本の経済復興のため再軍備の負担を軽くしたい、ということも考えられますが、その隠された真の目的は、戦後の米ソ対立構造が明らかとなる中で、日本軍がその先兵として使われる危険性を予め排除するということではなかったか・・・。というのも、幣原は、国家が軍備なしで独立を保てると考えるほどのヤワな外交官ではありませんでしたから。
また、なぜ幣原は「戦力放棄」を事前にマッカーサーに示唆したことを、先の三人以外には秘密にしたか。また、なぜ、その後、新憲法の「戦力放棄」条項による「徹底平和」を繰り返し語ったか。にもかかわらず、昭和25年秋、国立国会図書館長の金森徳治郎が、戦力放棄条項が新憲法に書き込まれた経緯について、「アメリカから報告書が出され、幣原首相の発案だったことが報じられているが、日本側でも一つ正確な記録を作っておきたいが、そのことは貴方しか知らないから、この際その事情を伺っておきたい」と希望したのに対し、「そのことをお話しするのはまだ時期が早い」と幣原は答えたか。
これらのことを総合的に考えると、氏がマッカーサーに示唆して、新憲法に「戦力放棄」条項を書き込ませた、その第一の目的は――政治家の仕事は、理想を語ることではなく、その時代の直面している現実的問題を処理することですから――戦後の米ソ対立構造が明らかとなる中で、日本軍がその先兵として使われる危険性をなくすことではなかったか、と考えられるのです。加えて、幣原には、戦前の日本が軍事力を過信しすぎたことによる過ちを、この際熟考する必要がある、との意味合いもあったかも知れません。
いずれにせよ、この新憲法は、それが「徹底的な民主主義と平和主義とを果敢に採用した点において驚嘆と賛意を以て迎えられ、内外に非常な好感と反響」をもたらしました。とはいうものの、法的な問題はあり、枢密院本会議での採決では美濃部達吉顧問官だけは起立しなかったといいます。また、占領軍が憲法を作って敗戦国に押しつけるなどということは異例のことで、しかし、それによって、かろうじて日本の「国体」が守られたと考えれば、やむを得ないことだったと考えざるを得ませんが・・・。
その後、こうした幣原の意図を引き継いで吉田内閣が成立しました。これに対して、社共をはじめとする左翼勢力は、後に発足することになった自衛隊に対して「違憲説」を唱え政府を攻撃しました。さらに「自主憲法制定・自主防衛・自主外交」を掲げ政府を攻撃する右派勢力も現れました。吉田は、それらの説く「自衛隊違憲説」や「自主外交」論に対して、当時の情況下では、それは「ソ連への擦り寄り」になると見て、逆にこれらを利用し、アメリカの再軍備要求を抑えつつ、対米協調・軽武装・経済立国を中核とする国づくりを目指しました。
それが、今日までの日本の国づくりの基軸になったわけですが、問題は、戦後憲法の「平和主義」の理念と、憲法第九条の戦力放棄条項とが相まって、その「軽武装」の主体である自衛隊の存在さえ「違憲状態」に置くことになった点です。そのため、自国の安全を守るために自己犠牲を払う精神、かって、日本の「一国独立」と近代化を支えた「独立自尊」の精神が、その正当性を失い、他国依存、さらには他者依存の精神を国民の間に蔓延させることになったのです。
おそらく、戦後憲法に、この「戦力放棄」条項を組み込んだ幣原、その遺髪を継いだ吉田は、それは、あくまで、当時の状況下において、前述したような目的を達成するための苦肉の策であったに違いありません。従って、日本が独立を達成した暁には、当然、それは改正されるべきものと考えていたと思います。しかし、そうはならなかった。自民党政府も憲法解釈上それを認めただけで、「日米協調」の基軸となる集団的自衛権も、いまだに認められていません。
こうした状況の中で、自民党に代わって民主党が政権党になったわけですが、それは旧来の左翼系団体を支持母体としていたため、戦後憲法に胚胎する上記のような問題点はほとんど無視されました。さらに、日本外交の基軸である「日米協調」も、「日米中正三角関係」とされ、また、小泉内閣以来の自民党の構造改革路線については、「格差拡大」に繋がるとして放棄され、子ども手当をはじめとする数々の”ばらまき政策”が採られました。
しかし、これらは悉く破綻し、沖縄の普天間基地移転問題を振り出しに戻して「日米協調」を危うくしました。また、北方領土、尖閣、竹島の領土問題も悪化の一途をたどりました。また、国内の財政問題も、景気の低迷と、子ども手当をはじめとする”ばらまき政策”で、税収の二倍を超える100兆もの財政赤字を抱え込むことになりました。さらに3.11東日本大震災後の原発政策の誤りで、年3兆円もの燃料費負担にあえぐことになりました。
この結果、「左翼政党」民主党の国家統治能力が、ほとんど口先だけのものであったことが明らかとなりました。といっても、かっての自民党政治が再評価されたわけではなく、その支持率は依然として20%台のままです。こうした中で、上述したような、他者依存ではなく、独立自尊の精神を基礎に置いた国づくりを、まずは自立した地方自治制度を確立することから始めようとする「日本維新の会」が登場したのです。
その維新の会に、石原氏が、「維新八策」をほぼ丸呑みする形で合流したわけですが、これを、以上説明したような他国依存、他者依存体制からの脱却、独立自尊に支えられた「地方自治」→「一国独立」→「国際貢献」を目指す動きと見れば、私は理解できます。また、そのような「基本的考え方」において一致すれば、原発や税制等の個々の政策のズレは、両者の知識や経験を総合することで、より現実的な政策に調整することが出来ると思います。
ただ問題は、こうした「基本的考え方」で一致しても、先に説明したような戦後憲法の成立事情についての理解が異なると、今後、重大な路線問題に発展する恐れがあります。そこで、本稿では、この戦後憲法が生まれた経緯とその問題点を検証しました。この点、民主党は、この認識がバラバラでしたね。また、このことは保守陣営についても言えます。つまり、この認識の仕方によっては、「保守の思想」ではなく「保守反動」になってしまうのです。
では、「保守の思想」と「保守反動」とはどこが違うか、ということですが、端的に言えば、「独立自尊」の精神をどのようなものと考えるかということ。具体的には、それは、戦後憲法の「象徴天皇制」の規定、「戦力放棄条項」の歴史的意義とその問題点、吉田首相が確立した軽武装・経済立国・日米協調を基軸とする外交・経済政策、戦前昭和の歴史評価、戦前の軍部の暴走の原因、日本の安全保障のあり方、等々の課題の処理をめぐって顕在化すると思います。
そこで次回は、これら諸課題の処理方法を検討する中で、「保守反動」に陥らない「保守の思想」とは何か、について考えて見たいと思います。