「保守の思想」を再点検する4――
「東西文明対立論」を基底とする「昭和維新」は「反近代」の思想に通じていた

2012年11月 5日 (月)

 前回、満州事変について、その目的は、いわゆる満州問題の解決のためではなく、それは別の目的を達成するための手段に過ぎなかった、ということを申し上げました。というのは、もし、それが満州問題の解決を目指していたのならば、自ずとそれは、国際社会の支持を得られるような方法・手順で、かつ政府と軍が一体となって取り組んでいたはずです。そして、それが十分可能であったことは、幣原喜重郎と当時広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁のやり取りや、当時南京政府の中心人物であった宋子文財政部長との協議内容を見ても判ります。

 しかし、そうした外交による満州問題の解決は満州事変の勃発により水泡に帰してしまいました。いうまでもなく、その目的は、満州事変の首謀者石原完爾によれば、東西文明の対立によって必然的にもたらされる日米間の最終戦争に備えるため、満州を軍事占領し資源を確保するというもの。しかし、こうした考え方は政府に認められるはずがありませんので、関東軍の一部参謀が政府の意向や軍の統制を無視して、謀略による柳条湖鉄道爆破事件を引き起こし、これを中国側の仕業として満州を軍事占領したのです。

 この時、蒋介石が日本との軍事行動に踏みきらず、国際連盟への提訴で問題解決を図ろうとしたことが批判されます。しかし実際問題として当時の中国に日本軍に対抗するだけの軍事力はなかったし、国民政府の内部も分裂しており、また、国民の「愛国心」も十分ではなかった。しかし、それ以上に、満州事変は「日本軍閥の猪突的行動」であって「当時の日本政府の立場が関東軍の意図と異なり、事態は拡大せず」「瀋陽と長春の占領」程度で終熄すると見ていたのです。(『蒋介石の外交戦略と日中戦争』家近亮子p32~34)

 なぜ、このように”満州事変は歴史的必然ではなかった”ということを繰り返し述べるのかというと、これが、その後の日中戦争や大東亜戦争の評価を左右するポイントになっていて、これを自衛戦争の範疇に含めることで、大東亜戦争を肯定的に評価しようとする保守論客が多いからです。しかし、私はこれは間違っていると思います。確かに「満州問題」は存在したし、満州の対ソ防衛上の重要性もありました。しかし、石原の「東西文明の対立が必然的に日米間の最終戦争をもたらす」という「東西文明対立論」は、私は間違っていたと思います。

 問題は、こうした「東西文明対立論」が決して石原完爾に特有のものではなく、当時の日本人(とりわけ右翼知識人や軍人)に共有された考え方だったということです。もちろん、それが必然的に「日米最終戦争」に帰結するという石原の説は、田中智学の国体論の影響を受けた一種の宗教的終末論であって、それが満州事変を引き起こす起爆剤となりました。が、その根底に「東西文明対立論」がありそれが多くの国民に支持されたことが、泥沼の日中戦争さらには日米戦争へと発展する根本原因となったことは間違いないと思います。

 では、こうした日本人の思想的傾向がどうして生じたのか、これを解明することが、実は大東亜戦争やその原因となった日中戦争、さらにはその火元となった満州事変の謎を解明する最大のポイントなのです。重ねて言いますが、こうした「東西文明対立論」から日本人が自由であったなら、おそらく、政府や軍中央の意思を無視した関東軍一部参謀による下剋上的・謀略的軍事行動が起こされることもなかったでしょう。その頃懸案となっていた満州問題は、上述した如く両政府間で外交的に処理されていたはずです。

 そこで、以下、どうして当時の日本人が、そうした「東西文明対立論」的な考え方に支配されたのか、ということについて私見を申し述べたいと思います。

 まず、この「東西文明対立論」と言う言葉ですが、言うまでもなくこれは、東洋文明と西洋文明という言葉で一括り出来る二つの文化圏の存在を前提としています。そして、前者は、徳を以て国を治めることをめざす王道文明、後者は、力を以て国を支配する覇権文明であると定義されています。しかし、このように東西両文明を定義し両者を対立関係におく考え方が正しいかどうかはわかりませんし、さらに、東洋文明という言葉で日本や中国を一括りできるかどうかもわかりません。

 といっても、こうした冷めた見方はごく最近のもので、上述したような「東西文明対立論」的なものの見方は、戦前の昭和時代から戦後を通じて日本人一般に見られた考え方でした。では、こうした考え方がどうして昭和の日本人を支配するようになったかというと、それは、明治以降の急激な近代化によって、日本人の伝統文化が破壊されるとの危機感があったためです。そして、それを回復しようとする試みが、同じ文化圏に属し同じ危機に直面しているはずの中国と連携し、西洋文化に対抗しようとする発想になったのです。 

 では、このような被害者意識を昭和の日本人に持たせた、西欧近代化とは、どのようなものだったのでしょうか。

 西欧の近代化とは、その中世と区分される時代――「ゲルマン人の大移動が収拾してヨーロッパへの定住化が進み、それと共にキリスト教が大衆へ浸透し、封建社会が確立して行った9世紀頃」から、「官僚と常備軍をもって地方分権的領主を次第に圧迫していった国王が国内統一を成し遂げ、絶対王政による強大な中央集権国家を築き上げた16世紀末頃まで――を経て、宗教改革(ナントの勅令1598)→国家秩序の形成(ウエストファリア条約1648)→議会政治の開始(名誉革命1688)→産業革命→人権宣言(1789)→国民国家を単位とする国際秩序の形成(1871)へと進んだ西欧の歴史を言うのです。

 この過程で、中世の宗教的桎梏から人間性の解放を目指す諸改革が実行されました。まず、宗教改革を経て信教の自由の確立。それを補償する国家秩序の形成。議会政治・政党政治の導入、法の支配の確立。資本主義経済の発達から所有権の確立、植民地獲得競争。一方、自由・平等・博愛を旨とする人権思想の確立、思想・言論の自由の保障を基本とする民主的政治制度の確立。そして、これらを包括的に保障する政治的枠組みとして国民国家の成立、国家観の内政不干渉原則の確立など・・・。

 これらの諸制度改革、諸権利・原則の確立に、ヨーロッパは優に二百年を越える歳月をかけ、その間、熾烈な闘争や論争を経験してきました。それがようやく終わって近代国民国家を基本単位とする国際秩序形成がなされたのが、1871年統一ドイツが出来た年、日本では丁度明治維新がなり、日本の天皇を中心とする中央集権国家体制が出来たばかりの時でした。それから日本は大急ぎで、ヨーロッパが200年以上かけて積み上げたこれら近代化のための諸改革を、文明開化・富国強兵・殖産興業のかけ声の下に、一気に推し進めたのです。

 この明治の開国・近代化の劈頭にあたって、明治天皇より神々に誓約する形で示された立国の基本的考え方が五箇条のご誓文です。これは、明治8年に出された「立憲政体の詔書」によって、日本の政治体制が立憲政体をとることを約束した文書と位置づけられました。後に昭和天皇も、この五箇条のご誓文を、戦後の人間宣言起草にあたって、日本の民主主義の根拠とすべきことを主張しています。

五箇条のご誓文
・広く会議を興おこし、万機公論に決すべし
・上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
・官武一途庶民に至いたる迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す
・旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
・知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし

こうして日本の急速な近代化に向けた諸改革が始まりました。その主なものを年別に上げると次のようになります。

 五箇条のご誓文・神仏分離令・廃仏毀釈運動(1868)、廃藩置県・太陽暦採用・招魂社(靖国神社)建立・平民に苗字を許す・横浜毎日新聞発刊(1870)、洋服普及の始め(1871)、国軍創設・学制頒布・富岡製糸場開業・戸籍簿作成・新橋―横浜間鉄道開通・学問ノススメ・日本基督教会設立(1872)、徴兵令・地租改正・ウイーン万国博覧会参加(1873)、鹿鳴館舞踏会盛行・婦人洋装・明六雑誌刊行(1874)、気象台設置(1875)、第一回内国勧業博覧会・洋菓子店出現(1877)、教育令制定・民権自由論(1879)、刑法・治罪法公布(1880)、国会開設の詔・自由党成立(1881)、立憲改進党・民約論・日本銀行創立(1882)、天賦人権論(1883)、内閣制度制定(1885)、帝国大学令・焼酎学校令公布(1886)、(国民之友(徳富蘇峰)創刊(1897)、市制・町村制公布・東京朝日・大阪毎日新聞創刊(1888)、大日本帝国憲法・皇室典範発布・地租条例改正・東海道線全線開通(1889)、民法・刑訴法・民訴法・商法交付・第一回帝国議会・教育勅語下賜(1890)、日清戦争(1894)、条約改正(1899)・・・。

 これを見れば分かるように、明治の近代化(統一国家の樹立から富国強兵、殖産興業による資本主義経済の発達、近代法の整備、新聞の創刊、西洋近代思想の紹介、政党結成、内閣制度発足、憲法発布、議会政治の開始など)は、日清戦争に勝利し不平等条約を改正するまでわずか三十年しか経っていません。短期間によくこれだけの改革が出来たものだと感心しますが、それだけに、こうした近代化に伴う思潮の変化や社会の変化に対応することは、極めて困難だったのではないかと思います。

 とはいいながら、ともかくも、こうした近代化のための諸改革が日本人にできたのは、こうした時代を迎えるにあたって必要とされる条件が、日本にはある程度整っていたということです。まず、鎌倉幕府以降、二権分立的政治体制が確立していたこと。安土・桃山時代の宗教改革に相当する事件を経て政教分離が行われたこと。仏教の内面化を経て、いわゆる「勤労のエトス」が生まれたこと。農業を中心に生産・加工・流通・販売・金融までの経済機構ができていたこと。一揆契状による組織作りと、儒教道徳に基づく個人倫理が確立していたこと。寺子屋による世俗教育が普及し、江戸時代末期の庶民男子の識字率が50%を超えていたこと、などです。

 しかし、このように歴史的に形成されてきた日本の伝統文化と、近代化に伴って流入する西洋文化とのマッチングを図ることは容易ではありませんでした。その齟齬を象徴するものが、明治の立憲君制と、教育勅語に謳われた天皇を中心とする忠孝一致の家族的国家観との矛盾でした。といっても、前者は皇国史観以前の日本人の天皇制理解=一種の象徴天皇制に似ており、明治の元勲等はこのことを知っていましたから、明治の間は、「内村鑑三不敬事件」のような形でその矛盾は表面化していたものの、大きな政治問題となる事はありませんでした。

 ところが、日露戦争に勝利(1905)し、日本が世界の五大国に列せられ、それが西欧世界の警戒心を生むようになると状況が一変します。また、この間、西欧には彼ら自身の近代化の歩みを不安視あるいはその限界を指摘する思潮(アナーキズム、社会主義、共産主義)も生まれていました。それが、ようやく近代化を成し遂げ国力に自信を持ち始めたばかりの日本に流入しました。その結果、日本政府は、こうした思潮を警戒するようになり、それと平行して、個人主義・自由主義を基調とする西洋近代思想に疑いの目を向ける者も出てくるようになりました。

 こうした日本の政治体制をめぐる葛藤が政治の表面に現れたのが、いわゆる大正デモクラシーの時代で、その劈頭に起きた事件が、社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された大逆事件(1910)でした。その翌年には、南北朝正閏論が起こり、南朝が正統とされ、教科書の書き換えがなされました。また、その翌年の1912年には、東京大学の上杉信吉と美濃部達吉の間で天皇機関説論争が展開されました。しかし、この時は、美濃部達吉の天皇機関説が学界や官界でも広く受け入れられており、また学生等も美濃部を支持しました。

 このように、大正時代というのは、明治以降の近代化の流れの中で西欧思想を学び、それを日本の発展に役立てようとする勢力と、近代の内包するマイナス面――貧富の差の拡大・自己中心的生き方の蔓延・道徳の退廃、それに伴う社会の混乱・国論の分裂――を憂慮し、その脱却を訴える勢力とがせめぎ合った時代だったのです。それが次第に後者が優勢になるのですが、その原因は、先述したような、日本の近代化を可能にした日本の伝統と、西欧のそれとが異なる上に、日本が西欧の近代思想を咀嚼する間もなく反近代思想が流入したために、その矛盾に日本が耐えられなかった、ということなのです。

 福田恒存によると、その時代の知識人の有り様は次のようなものだったといいます。

 「大正末期から昭和にかけて、日本の資本主義の急上昇と激化する労働運動の中で、知識階級の示した反応の形はさまざまだが、おおよそ二つに大別することができよう。その第一は、権力が作りあげた社会秩序の外側に一種の特別な緩衝地帯を造って、そこに立てこもり、国家権力を無視もしくは軽蔑して、権力に利用されることも危険に身をさらすこともなく、個人的な人間完成にいそしむことを看板に掲げた人たち、すなわち大正期の人格主義的「教養派」の一軍がそれである。」

 「第二の知識階級も群れは政治的異常関心とでも言うべく、前者の無関心の裏返しに過ぎない。維新の開国以来正義の王道であった欧化思想――西洋諸国と合衆国とを理想とする近代主義――は、ロシア革命以後過去の遺物として葬り去られ、代わりにソヴィエット・ロシアがより進んだ近代国家として神話の舞台に登場する。(略)」

 「いずれにせよ反権力・反体制の情熱によって自我を維持しようとするこの一群の精神構造は、マルキシズムを近代否定の思想としてではなく、より進んだ近代思想、「超近代主義」、「超ヒューマニズム」と受け取り、欧化主義の大道から錦の御旗を奪い取り、権力を悪とし、自己を善と信じて疑わない独特な習性を持っている。・・・それは皮肉な言い方をすれば、政治的な悪に参加する機会を奪われていた結果にすぎず、それ故、自分の内部にも機会さえあれば悪者になり得る要素があるということに思い及ばなかったからに過ぎない。」

 そして、「こうした現象が示す知識人の呑気さをよそに、政治や軍の指導者たちによって着実に、そして急速に進められていった日本の近代化は、近代そのものの爛熟に達し、そこ頃すでに危機の前夜期を迎えていたのである。危機が爆発点に達したことの責任の一半は、知識階級の逃避性・非現実性・革新性、要するに前近代的性格にあると言わなければならない。なぜなら、マルキシズムの手強さとその本質と、言い替えれば近代の終焉を真に見抜いていたのは知識階級ではなく、権力の側であり、権力の近代性を身を以て感じていた日本的「ファシスト」たちであったのだ。

 二・二六事件の知的指導者北一輝の「日本改造法案」は従来の近代主義を左翼思想によって補強し、左翼によって先回りされた「反近代」思想を右翼の血の中に注入し、新しい「右翼的全体主義」によってそれに答えようとしたものである。全体主義の前で個人主義・自由主義は無力である。相変わらずリベラリズムを夢見ていた知識階級が、戦争の渦中に苦もなく曳き込まれていったのは蓋し当然であったと言うべきだろう。」(現代日本思想体系32『反近代の思想』p39~42)

 
この時、北一輝が持ち出した「右翼的全体主義」思想とはどういうものだったかというと、要するに、軍(下層階級)がクーデターを起こして政権を掌握し、天皇大権を発動して戒厳令を施行し、その下で、現行の議会政治や政党政治を排し、新たに改造内閣、改造議会を組織し、「資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた」経済体制へと移行する。それによって、私有財産や土地所有の制限を設け、超過分は国に納付させる。これによって財政の基盤を拡張して福祉を充足させるなど社会改革を進める。具体的には、労働者の権利の保障、平等な福祉政策・教育政策の実施、国民の人権を守るための施策の実施するというもの。

 また、石原完爾のそれは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というもの。これは、戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論というべきものです。そして、そのためには、適時支那本部の要部をも我が領有下に置き・・・其経済生活に溌剌たる新生命を与へて東亜の自給自足の道を確立し長期戦争を有利に指導し我目的を達成すべき」としていました。(石原莞爾資料p40)

 結果的には、前者は、出世の夢を絶たれた隊付き将校等の憤懣と結びついて、天皇親政下の一君万民平等を夢見ることとなり、”捨て石”的にクーデターを繰り返素ことになりました(最終的には二・二六事件で自滅)。後者は、満州事変が成功して、実質的に軍が満州を支配するようになったことで、こうした過激な行動はとらなくなりました。その後、前者の革命のエネルギーをカウンタークーデターに利用することで、軍主導の高度国防国家を建設しようとしました。一方、大陸では、冒頭に述べた「東西文明対立論」をベースに、ソ連あるいはアメリカとの総力戦・長期持久戦に備えるべく「華北分離工作」を推し進めました。

 そうした軍の動きは、福田が言うように、「類的(=全体的)」人間性の回復を目指す「反近代」の思想に通じていました。そこで、その「反近代」の思想と「保守の思想」との関係ですが、「保守の思想」が「保守反動」、つまり、保守+反近代になってはいけないと言うこと。つまり、「保守の思想」は、その国(あるいは民族)の歴史や伝統文化の延長上に未来を構築しますから、日本の「保守の思想」の課題とは、「近代」の内包する危険とその可能性を見据えつつ、その歴史的時間軸に沿って未来を構築する。それによって「東西文明対立論」を克服する。それを可能にする「言葉の力」を身につける、と言うことになるのではないかと思います。