「保守の思想」を再点検する3――
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2012年10月16日 (火) |
前回、満州事件がなぜ起こったか、ということについて、主に中国側の責任を指摘したマクマリーと佐分利貞夫の主張を紹介しました。
前者は、「中国に好意を持つ外交官たちは、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。
しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだつた。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった」というもの。
後者は、「日本上下の輿論は或は今日迄或は現在信じて居る対支政策(相互の円満なる提携を主とする日本の外務省が主導する原敬以来の外交政策)を認めなくなる時期が来らんと想像さる。我国には他に伝統的の政策がある。やゝもすれば我が朝野の輿論は将に此の政策に共鳴せんとする傾向がある。之は一面貴国の当局に於て十分なる責任を負はるゝ必要があると思う。
貴国が激越な対外政策は極めて危険なもので又拙劣なるやり方である。貴国をして反て亡国に導く様なものであると思う。日本に対する貴国の政策は非常に誤って居る。特に日本を敵国とする遠交近攻の政策は東洋平和の為め不利である」というものでした。
不幸にして、この両者が恐れた通りのことが「満州事変」という形で起こったわけですが、問題は、こうして起こった満州事変を歴史的にどう評価するかと言うことです。秦郁彦氏は「近代日本の対外行動で最も弁護しにくいのは満州事変であろう。『泥棒にも三分の理』というが、日中戦争に三分、日米戦争に四分の理があるとして、満州事変には一分の理も乏しい」(『現代史の争点』p267)といっています。
その理由は、「たしかに事変直前期には、陸軍や満鉄の若手社員が満蒙の危機を誇大にPRしていた。しかし私が調べた範囲では、ほとんど虚像に過ぎなかったことが判明している。たとえば張学良政権の排日が頻発したというが、在留邦人が殺された例は聞かない。満鉄の列車をひっくり返した例も見当たらない。線路に置石する妨害事件が多発したともいうが、脱線事故の実例はなさそうだ。
張政権の包囲線敷設で満鉄の経営が悪化したと騒がれたが、木村鋭一理事は昭和5年12月7日の拓務省会議で「満鉄包囲線が原因ではない。不景気のためなり。世人は黄金時代の収入を基準に論ず。包囲線の方の減収はより大」と説明していた。つまり満鉄が世界恐慌の波をかぶって従来のような巨利を得られなくなったのは事実だが、競争相手の包囲線の方が先に倒れそうだというプラスの面が指摘されているのである。
たしかに張政権の対日政策は決して親日ではなかった。だが考えてみると、張学良にとって日本は父の作霖を爆殺したいわば「親の仇」である。多少の「排日」や「侮日」を非難する資格はないとも言える。
いずれにせよ、張政権の対日政策が親日であろうと反日であろうと、結果にはさして変わりはなかったろうと筆者は考えている。明治期いらい満州の占領は陸軍のいはば『一般意志』だったからである」というのです。
この陸軍の「一般意志」というのが、佐分利貞夫のいう「わが国の他の伝統的(大陸)政策」で、これが、「相互の円満なる提携を主とする日本の外務省が主導する原敬以来の外交政策」を駆逐することになったのです。マクマリーや佐分利はその原因として、中国の「激越な対外政策」を指摘しているのですが、秦氏の場合は、それが「虚像に過ぎなかった」といっています。しかし、それが万宝山事件や中村大尉事件で爆発したことも事実で、当時の中国の外交政策が「反て(中国を)亡国に導く」拙劣なものであったことは事実でしょう。
このあたり、最近の、尖閣諸島の国有化をめぐる中国国内の反日暴動の無軌道ぶりを知る私たちには、そのおおよその見当をつけることができますね。ましてこの時、中国は欧米列強の植民地支配を脱する国家統一期にあり、かつ、それを妨害したかに見えた日本の山東出兵や済南事件、そして張作霖爆殺事件の発生とその「もみ消し」があったばかりでしたから、反日・侮日運動が一層激しさを増したのも、けだし当然であったろうとと思います。
といっても、その程度は、先の秦氏によると、実態としてはそれほどひどいものではなかった。しかし、軍としては満州問題の武力解決を正当化するためにも、その非違行動を誇大に日本のマスコミに訴える必要があった。それは、日本が条約に基づいて正当に取得した権益を、中国が背信または不法行為によって阻害していると訴えるもので、それに対して日本が実力でもってその権益を守るのは当然、とするものでした。
ここで、条約上の権益というのは、二つあって、一つは、南満州鉄道付近にそれと平行する鉄道を敷設しないという取り決め(1905年「満州に関する日清条約付属取極」)があるのに、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。もう一つは、南満州における各種商工業上の建物を建設する土地あるいは農業を経営するための土地を商租する権利が、1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」で認められているのに、それが守られていない、というものでした。
この件について幣原喜重郎は、昭和6年夏に当時広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁が日本に訪れた際に、次のような見解を表明しています。この時、柳条溝での鉄道爆破に始まる軍の暴走を抑えることが出来ていれば、次に紹介するようなやり方で満州問題を解決することも可能だったのではないかと思います。いずれにしても満州問題を解決する別の道があり得たということを知る上で極めて重要な資料ですので、少々長いですが紹介しておきます。
「満洲に於ける我が権益は、頗る多岐多様に亘り、直截簡明なる定義を下すことは難しいが、これら権益の大部分はすべて條約に根拠を有して居るのみならず、何れも多年の意義深き歴史の所産ならざるものは無い。千八百九十六年、清國は露國との間に特に日本を對象とした秘密同盟條約を締結したが、同條約の有効期間は満十五個年であって、日露戦争は其の期間内に発生せるものである。
しかして露國は同條約の締結せらるゝや直に満洲に於ける侵略政策の実行に着手したが、明治三十七八年戦役の勃発に至る迄の日露交渉の記録は、常時露國が宣際上満洲を以て自國領土の不可分的一部と目し居りたることを明確に立証するものである。斯くの如き露國政府の威圧的活動に對し、清國は全く無力にして一言の抗議をも提出したこことがなく、此の事態にして自然の推移に放置せられてゐたならば、満洲は疾くに清國領土中より喪失せられたること疑を容れない。
清國そして此の廣大なる沃地を保持せしめたる所以のものは、実に日本の武力干渉に外ならない。吾人は清國の日露戦争に對する巌正中立の宣言に信頼し、終始同國領土保全の方針に忠實であった譚だが、若し常時露清秘密同盟の條項にして曝露せられてゐたならば、日本は上述領土保全の方針を一変して、別個の政策を執るに十分な理由あることを認められたことであらう。
日露戦争の終結以来、満洲は建設的事業の凡有る方面に於いて驚くべき進展を示し、支那の他地方に嘗って見ない程度の平和と繁栄とを獲得した。斯くの如き東北諸省の発展が少くとも一部分は日本の同地方に於ける企業及び投資の結果なることは、我が國民の確信する所である。しかし吾人は未だ嘗つて満洲に對する中國の領土権を争いたることは無い。
吾人は同地方に對する中國の領土権を明白に承認し、且之を領土権たる凡有る意味に於いてこれを尊重せんとするものである。然し乍ら吾人は日本国民が内地人たると朝鮮人たるとを問わず、相互的親睦及び協力の基礎の上に満州に居住し商、工、農業に従事し、其の他一般に同地方の経済的開発に參加し得る如き状況の確立せられんことを期待するものであって、これを以て少くとも道義的に吾人の有する当然の要求であると思惟する。
次に満洲の鐵道問題につき吾人は中國側の如何なる鐵道計画も、南満洲鐵道の存立及び運行に對する脅威を企画するものでない限り、これに干渉せんとするが如き意図を持たないし、又千九百五年に日清両国代表者が調印した北京會議議定書には南満洲鐵道と並行し、又は同鐵道に有害なる鐵道を敷設しない旨、中國政府は保障してゐるのである。何れにするも中國が日本の南満鐵道所有及び経営に同意せる以上、苟も該鐵道を無價値ならしめんとするが如き線路の建設を計画することが出来得ないことは、信義の観念上からいっても自明の理と謂ふべきものである。
吾人は本問題に就いても「共存共栄」の主義に拠らんとするもので、我方としては中國が我方累次の抗議を無視し、建設したる既成競争線の撤去を要求せんとするものではないが、しかし日華鐵道系統間に無盆なる競争を予防するに足るべき運賃率及び運輸連絡を取極むるの要あることを主張するものである。吾人は両國鐵道当局が友好的協力の共通の基礎を発見し、以て双方の永続的利益に資するの可能なるべきを信ずるものである。」
この説明に對し、陳君は「よく諒解が出来ました。これで日本政府の意向も判明し愉快に堪へません。」と述べ、「若し貴大臣が辞職せらるればどうなるか。」と反問した。私は「自分が辞職しても何等変更なき如き種類の言明を為すことは困難だ。」と答へると、彼は「孰れにするも誤解を避くる為め、自分の了解したところを書面に認めるから閲覧して欲しい。」といひ、私はこれを承諾したが、後に彼我両者の間に非公式ながら左の通り確認されたのであった1。
一、過去四半世紀間を通じ日華両國間に存在せる不満足なる関係を終了せしむること両國のため利益なり。
二、両國関係は之を真の親善の基礎の上に置かざるべからず。右は廣東政府が支那の承認せられたる政府となりたる暁、同政府と日本政府との間に締結せらるべき協約又は條約に依り形成せらるゝ同盟又は協商の形式を取り得べし。
三、該締約には極東に於ける平和の必要及び其の維持保全を明定すべく、而して一般に挿入せらるゝ形式的の普通の條款の外不侵略條款及び日支両國間に係争中又は未解決なる總ての問題及び事項、殊に満洲に関するものの解決に開する規定を設くべきものとす。
四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意図なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により附与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鐵道は其の一例にして、同鐵道の経管及び運行は同鐵道の破滅を企図する如き支那側鐵道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。
一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来れる支那側鐵道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び聯絡に開する取極にして成立するに於いては、之を既成事実として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。
而してこの道徳的要求は三個の考慮による。
即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。
第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に常り満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し当時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事実を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。
第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるゝ處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。
五、日支両國間の締約が有効なる為めには支那側に於ける一種の國民的承認を経ざるべからず。此の点に関し、陳友仁氏は右は國民党なる機関を通じ実現し得べき旨を述べたり。又同氏は支那側に於いては斯る締約は全國大會に於いて國民等に附議し、その承認を得たる後に於いてのみ批准せらるべきものなることを表明せり。
(中略)
満州事変が起こったのは、この会談が行われてから約五十日許り後のことであった。十月には上海で南京、広東の平和的統一会議があり、十二月には国民党四全大会があって、南京広東に分地開会。豫ての諒解により蒋介石の下野宣言、広東南京蔣汪合作政府成るといった筋書きが続いた。・・・
満州事変が起こった後に、陳友仁君は須磨総領事を通じて私の所に書簡を送って来た。その中に満州事変は実に残念だったが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が実現出来ることだ。張学良を追い出せば満州は綺麗になるから、これを実現するいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたいと書いてあった。」(『幣原喜重郎』幣原平和財団p460~462)
これが、当時の広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁と幣原喜重郎との間で交わされた満州問題の基本認識とその解決法でした。
一方南京政府との関係では、幣原は重光公使に訓令して、当時南京政府の中心人物であった宋子文財政部長と協議させ、「満州に於ける日支の緊張を緩和するため、相携えて満州に赴き、これが解決方法を発見することとし、それが為には先ず宋部長は赴満の途中、北京に立ち寄り、同地滞在中の張学良と会見し、彼の対日態度を是正するよう説得した上、大連で重光公使と落合い、これに信任満鉄総裁内田康哉を加え三人鼎座の上、満州問題に関する基礎的解決法を作成しよう」としていました。
しかし、こうした外交的努力は、9月18日に柳条溝事件が勃発し、それが満州事変へと拡大したことによって水泡に帰してしまいました。いうまでもなく、この事変は関東軍参謀石原完爾らが周到に計画し実行に移したものです。石原らは中村大尉事件をその武力発動の契機とすべく軍中央に働きかけていましたが、最終段階で中国側がこの責任を認め謝罪したために外交的に処理されてしまいました。
そこで、石原等は9月下旬、謀略による武力発動を計画することにしたのですが、その動きを察知した政府の要請で軍中央から留め男として建川少将が関東軍に派遣された(実質的には黙認の態度だったとされる)ため、彼らは計画を10日程早めて9月18日に柳条溝での鉄道爆破を決行し、それを中国軍によるものとして軍事行動を起こし、わずか数ヶ月の内に満州の東三省を占領してしまいました。
こうした関東軍の独断的軍事行動は政府は、いうまでもなく政府を無視するものであり、また、軍中央の意志――軍中央の意向としては、満州における日本の条約上の権益侵害について、国際社会の理解をとりつけるためなお1年ほどを待ち、その上で実力行使しようとしていた――に反するものであっただけでなく、何より天皇の奉勅命令なしに行われたものでしたので、軍紀からいえば当然のことながら首謀者は極刑を免れないものでした。
ところが、こんな行為が、処罰されるどころか、後に報償の対象となったのですから、この事件がいかに特異な性格を帯びていたか・・・、山本七平はこの事件を境に、日本は政府主導の「日本一般人国」と、軍人主導の「日本軍人国」の二国が並立し、あたかも後者が前者を占領したような形になったといいました。このため、内政においては軍の政治関与が次第に強くなり、また、外交における一元性が損なわれ、日本は国際社会における信用を全く失うことになりました。
ではなぜ、当時の日本において、このように「日本軍人国」が「日本一般人国」を占領したような状態になったのでしょうか。
その理由としては、こうした軍の行動の動機が、単に満州における日本の特殊権益が犯されたことに対する報償(=自衛措置)としての意味合いを持っていただけではなくて、実は、次のような「思想」の下に設定された目標や手順であったということが指摘されています。(『戦争の日本近現代史』加藤陽子参照)
①第一次世界大戦の教訓から、経済封鎖と総力戦の備えの重要性、さらには長期戦の覚悟の必要性が陸軍や海軍の若手の幕僚将校の間に芽生えてきた。
②こうした事態に備えようとする危機意識が、ロンドン軍縮会において海軍側の大型巡洋艦対米7割要求が達成されなかったことによって刺激され、特に排日移民法等で日本を「侮辱する」アメリカに対する警戒心が強くなった。
③陸軍の若手幕僚将校の間でも、反長州閥の方向での人事刷新や満州問題の解決を図る「木曜会」などの団体が組織されるようになり「国防方針」などが話し合われるようになった。
④その中で、当時陸軍大学校教官であった石原完爾が、彼独自の戦史研究の結論として、日米が東洋文明と西洋文明の両横綱となり、航空機を以て勝敗を一挙に決する「世界最後の戦争」が行われるとの構想を述べ、これが若手幕僚将校の文明観に影響を与えることになった。
⑤そこでは、資源のない日本が膨大な資源を持つアメリカと互角に戦うためには、中国全体を資源供給の根拠地として「戦争によって戦争を養う」やり方であれば可能であること。また、中国に対しては、「軍閥支配からの解放軍」として日本が乗り込めばよい、という考え方が唱えられた。
⑥これは「空虚な大言壮語」のようだが、第一次世界大戦後のロシアの崩壊とその後の混乱によって、日本の伝統的大陸政策を妨げるのはアメリカだけとなったこと。しかも、南京の国民政府はソビエトと国交断絶している。つまり、そのソ連が弱体なうちに満蒙と北満をとっておけば、ソ連はしばらくは出てこれない。これは日本にとっては「天与の好機」だ、というもの。
⑦この時期をねらって、「日本とソ連が対峙する防衛ラインを短縮させる方向で東北四省を軍事占領し包括的に支配すれば、将来のソ連の軍事的脅威にも、また当面する中国のナショナリズムの脅威にも対処できる・・・というのはむしろ付随的で、その最終的な目的はアメリカとの最終戦争にどう備えるか、ということだった。
しかし、こうしたシナリオに沿って、独断で満州を軍事占領したものの、そのままではこれを国内的にも国際的にも正当化することは到底出来ない。そこで、こうした軍の行動は、あくまでも日本の条約に基づく正当な満州権益を、中国の不法な侵害行為から守るための「自衛行動」であり、その結果については「満蒙の独立国家化は張一族の『悪政』から満州の人々を守るための中国人自身の自壊作用だ」と説明することにしたのです。
さらに、こうした軍の行動は、九カ国条約にも不戦条約にも違反しない。それは、日本の自衛権行使に基づく正当な行為だと、国民にも、そして世界に対しても主張することにしたのです。そして、このように「日本は国際法にのっとって正しく行動してきた」のに、国際社会から不当に扱われている、という感情が、次第に国民にも共有されることになった結果、次第に、軍の行動を支持する国民世論を形成するようになったのです。
しかし、こうした日本の成りゆきに、実は、大きな「嘘と罠」が隠されていたことに日本人は気づきませんでした。というのは、以上のような軍の説明は、あくまで、満州事変の発端となった柳条湖事件は中国軍の挑発によることが前提としていたこと(この真相が明らかになったのは何と昭和30年代)。そして、その最終目的は、アメリカとの最終戦争に備えることであり、そのためにこそ、満州の軍事占領とその包括支配が必要であると考えられていたのです。
もちろん、こうした石原完爾の独自の構想が総て日本軍に受け入れられわけではありませんし、当の石原自身も、途中でこうした構想を修正し、満州占領から満州の五族協和思想に転換しました。しかし、これは所詮「きれい事」にすぎないのであって、その「日本軍人国の拠点」としての満州の基本的性格は、その成立事情からして変えようはありませんでした、というか、そこに胚胎した軍の下剋上的性格が、その後の日本の政治をなし崩し的に崩壊させることになったのです。
以上のように考えを進めてくると、自ずと満州事変の評価も明らかになってきます。端的に言えば、それは、いわゆる満州問題の解決を図ることが目的だったのではではなく、それは手段に過ぎなかったということ。まず思想的な問題としては、日米「最終戦争」を必然とする文明論が間違っていたということ。それが関東軍による謀略に始まったこと。そのため日本外交の信用が失われたこと、というより、それは政府に対する一種のクーデターであり、かつ、軍の統制をも破壊するものだった、ということです。
このことを逆から見れば、もし、満州問題の解決が、国際社会の支持を得られるような方法・手順で、かつ政府と軍が一体となって取り組まれていたならば、その外交的解決は十分可能だったということです。このことは、先に紹介したような幣原喜重郎がやろうとしていたことを見ても判りますし、また、その時の中国政府の動きを見ても、張学良の抑制策あるいはその排除も考えられていたわけで、全く可能性がないわけではありませんでした。
要は、関東軍の一部参謀将校に主導された軍が、そうした政府のやり方を拒否し、独自の思想に基づく独自のやり方で日本を強引した、ということです。