「保守の思想」を再点検する2――
満州問題の外交的解決に当たった最後の外交官佐分利貞夫はなぜ死んだか

2012年9月28日 (金)

 尖閣諸島の国有化がなされた日9月11日は、中国の「国恥の日」=9.18柳条湖事件の起こった日の一週間前です。そんなタイミングでこの島の国有化がなされたことを批判する意見もあります。といっても、東京都知事の尖閣購入は、この島の地権者の都合で出てきたものでしょうし、これに対して政府による購入・国有化は、これを阻止するためになされたといいますから、私は、むしろ、こうした外交案件の取り扱いにおける国内調整のなさこそ、問題とすべきではないかと思います。

 ところで、この昭和6年9月18日の柳条湖事件が、中国の「国恥の日」をなっていることを、日本人としてはどう考えるべきでしょうか。いうまでもなく、日本軍は、この事件を口実に満州を武力占領したわけですが、例の多母神論文「日本は侵略国家であったか」では、この事件はスルーされています。その代わり、その前段の張作霖爆殺事件が取り上げられ、この事件の真犯人は通説に言う河本大作ではなくて、「ソ連の工作員だった」とする新説が紹介されています。

 ではなぜ、多母神氏はこのような扱い方をしたのでしょうか。私見では、満州事変を直接弁護することは困難なので、その前段の張作霖爆殺事件――この結果、満州が支那の一部であることを宣言する易幟(えきし)が行われ、日本の租借地旅順大連の回収運動が始まるなど、満州における排日運動が激化した――をソ連の陰謀とすることで、その後の満州における排日運動をそのせいにできる。そうすることで満州事変を、そうした排日運動によって生じた権益侵害に対する「報償」(相手国が条約に違反した行為をしたときそれを止めさせるために軍事力を行使すること)と位置づけることができる・・・そういうことではないかと思っています。

 その後、この事件の新解釈として、張学良本人による「親殺し」謀略説(『謎解き「張作霖爆殺事件」』加藤康男)も出されています。しかし、これを実証する資料があるわけではなく、その論証部分はほとんど著者の推理です。こんな奇説が出てくるのも、この事件があまりに”馬鹿げている”からで、これについては、この事件当時アメリカの中国駐在公使であったマクマリーは、次のように評しています。

 「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な『支那浪人』の集団であったにせよ――、1928年(昭和3年
)に張作霖を爆殺したかと言うことである。

 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状でのたよりにならない不安定要因が彼であった。

 日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん堪えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。」(『平和はいかに失われたか』ジョン・アントワープ・マクマリーp178)

 つまり、日本にとって張学良は「たよりにならない不安定要因」であって、関東軍が張作霖を殺せば、日本はその後継者である張学良を相手にしなければならなくなる。そして、日本は張学良にとって「親殺しの仇敵」となるのであるから、彼が、「満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になる」ことは当然予測されたはずだ、というのです。

 では、この時、この事件の首謀者であった河本大作等は何を狙っていたかというと、これを機に日本が武力を発動して満州における日本の支配力を強化できれば、張学良を御すことは簡単だと考えられていたのです。これが、張作霖爆殺事件に関する従来の定説ですが、しかし、こうした理解は必然的に、この事件はプレ満州事変だったのではないかという疑念を生みます。そうすると、満州事変を、次のように”同情的”に解釈することが難しくなる。

 「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。

 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。

 中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない″けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。

 中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。

 そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。

 しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだつた。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。

 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。

 協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」(上掲書p180~182)

 これは、先に紹介したマクマリーによる満州事変の解釈ですが、いずれにしても、当時の日本が中国や満州との関係において、破局的な状況に直面していたことは事実のようです。では、なぜこのようなことになったか。その原因の最大のものは、ワシントン体制下における日・米・英の協調体制が壊れたこと。岡崎久彦氏は、これを幣原喜重郎が日英同盟を廃棄したことや、第二次南京事件の際に、米英と共同して中国を制裁する案を、彼が拒否したこと等を指摘しています。

 これに対してマクマリーは、ワシントン体制崩壊の原因を、中国人自身の「外国に対する敵対と裏切」に求めています。そして、「国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否」する中国人を厳しく批判すると共に、「米国政府が当時中国に対してとった「ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策」も、これを助長したと批判しています。

 そして、これらの要因のために、日本が従来取ってきた「国際協調政策」は「中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視され」た。その結果、「東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって」満州事変が起こされ、「国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となった」と・・・。

 ところで、ここで日本が取った「国際協調政策」とは、いうまでもなく幣原外交のことですが、実は、そうした日本の対米英外交の基本姿勢は、田中内閣においても継承されていました。しかし、日支関係においては、三度にわたる山東出兵や張作霖爆殺事件に見るように、支那・満州における日本の権益を武力で守ろうとする動きがあり、そうした考えがが若手幕僚軍人等に共有されるようになっていたのです。

 マクマリーは、こうした日本軍内部の動きについてはよく知らず、そこで、その動きを「受け身的」に解釈していたようですが、それでも、先に紹介したように、なぜ日本軍が張作霖爆殺事件を引き起こしたか、ということについては、理解を絶することとしていました。

 こうした考え方を日本の指導者達も持っていたとすれば、当然、この事件の関係者は厳罰に処せられ、その真相も公表され、関係国への謝罪もなされたはずです。しかし、事実は、この事件の真相は不明とされ、犯人は単なる行政罰で済まされた。とりわけ注目すべきは、この事件の主犯河本大作は軍内で英雄視され、その後も、蔭で関東軍に重用され続けたのです。

 ここに、欧米と日本の考え方の違いが現れているわけですが、では、なぜ日本はこの時、欧米と同様な考え方ができなかったのでしょうか。それは、もし、この事件の真相が証され、軍の関与が明白となれば、満州問題の武力による解決は二度とできなくなるからです。従って、軍は総力を挙げてその真相公表を阻止した。そのため、田中首相は天皇に食言を叱責され、退陣を余儀なくされた・・・。

 次いで登場したのが、民政党の浜口内閣で、その外務大臣には再び幣原喜重郎が就きました。この結果、日本外交は「国際協調外交」に復帰することとなり、中国もこれを歓迎しました。そして、その交渉担当者として選ばれたのが佐分利貞夫で、彼は駐支那公使として満州問題の外交的解決を目指しました。ところが、彼が中国との予備交渉を終えて帰国し、本国政府との打ち合わせを済ませて任地に帰ろうとしたその前日、佐分利は、箱根の富士屋ホテルで、謎の死を遂げました。

 死因は拳銃自殺とされましたが、その前後の状況から見て自殺とは到底考えられず、また、手に持っていた拳銃は軍用の大型拳銃だったのに、その入手経路も明らかにされないまま自殺と発表されました。故に、”怪死事件”とされるわけですが、この佐分利貞夫が、その死の直前、交渉相手である国民政府の外交部長王正廷に、次のような内容の書簡を送っていたことが判明しました。

(佐分利公使が王部長に送られたる最後の所信の内容を知りたる経過)
於南京 板坂留一

 「佐分利公使が逝去を入電せし後五日にして一封の親展書が王部長の官舎に配達された。王部長はこれを開封するや極度の懊悩を来たし一日公務を廃し客にも接せざりしと。
次で後十日目自己の腹心国民政府外交部亜細亜司第一課員馬長亮辛楊藻の両人を官舎に呼び金庫より公使の書信を出し口頭にて翻訳を命じ記録を作らしめなかった。

 終りに王部長は厳命して曰わく之は極秘にせよ他に漏らすことあらば厳罰に處す可しと。一言一句譯語を述べたるに王部長は沈痛なる嘆声を放ち・・・「ウーウ」とうなって頗る感激に打たれたと云う。当時昨年十二月消極的態度を取り辞をほのめかし外交部各員に結束せしめたることがある。之もその一原因だと云うて居たので余程重大な手紙であったらしい。以上の談片は私が興味を以て或は故意に尋ねた譯でなく偶然日支交渉の行悩みを嘆したる際両君から佐分利閣下が居たならなーと語ったので反問して問うたる場合に秘かに以上を述べたるものである。

 全文は二人が記憶して居ると云うから更に機会を見て申し上げたい。芳沢公使を単に公使と云い佐分利公使は閣下と敬称した。

 佐分利公使が王外交部長に致された書信の概略
冒頭に兄が読める丈理解しうる丈読め決して第三者に示してはならぬと書き出され
儒堂兄(王部長の号) 署名

 自分は貴国の革命工作の予測に対しては十年前より十分考慮し予測もしてきたことがある。
現在の陛下に対し奉り御進講申し上げたることさえもある。自分は非常に希望と期待を以て刻々来たる貴国の情報に目を通し研究した。
今回貴国に任を奉じ赴くに際し南北を通して革命後の実際その現状又は対内的の施設種々なる状況を見るに自分の監察したる結果は全々自分の予測を裏切られて居ると申し上げたい。

 我等外交官の立場としては相互の円満なる提携之を主としなければならぬと思う。それを考える前に故原敬公使から教へられた対支政策を回顧したい。其対支方針と我か外務省の対支方針は完全に一致して居る(詳細に認めてある)

 之は古今を通して動かすことのできない方策だと確信する。此の主義に依って我か外交当局が貴国に臨んだことは我々は如何なる輿論に対しても是なりと信ずる。其結果から見ればたとえ一時でも上陛下の聡明を掩い奉り下国民に対し何を以て謝してよいか自責の念に堪えない。

 日本上下の輿論は或は今日迄或は現在信じて居る対支政策を認めなくなる時期が来らんと想像さる。
我国には他に伝統的の政策がある。やゝもすれば我が朝野の輿論は将に此の政策に共鳴せんとする傾向がある。之は一面貴国の当局に於て十分なる責任を負はるゝ必要があると思う。

 貴国が激越な対外政策は極めて危険なもので又拙劣なるやり方である。貴国をして反て亡国に導く様なものであると思う。
日本に対する貴国の政策は非常に誤って居る。特に日本を敵国とする遠交近攻の政策は東洋平和の為め不利である(理由は詳細に述べてあると云う)。

 貴国は一日も早く内部の不安の状態を一掃し内部的には団結を欠いて居るから此方面も解決を急ぎ改めなければならぬ。外部からは有形無形に列強の圧迫があり煽動がある。之は一に貴国の内部に待つことである。

 列国は貴国に対して平等の精神を以てして殊に平和に関しては寧ろ誠意を以て解決してやらねばならぬ。互譲を原則として貴国の新政府建立を幇助しなければならぬ。
従来列強が貴国に臨んだ態度を見るに各々本国の利益を求むるに急で互に反間苦肉の策を弄して居る。
一方自分の関係する或は醸成せる支那紛乱の局に対しては冷笑こそすれ毫も責任を負うとはしない。
ただ従来獲得せる所謂既得権の蔭にかくれて赤い舌づつみを打たんと夢見つつある現状だ。

 革命完成後の貴国の政策と内部の状態は悉く自分の期待を裏切って極めて悪化して居ることを申し上げたい。
国民政府は之に対し充分なる考慮と責任を負わねばならぬ云々

 譯者はこんな簡単なものでなく極めて詳細に懇切を以て書いてあると云う。以上は座談の一班に過ぎないことを付記す。」

 こうした、佐分利公使による王正廷に対する批判は、先に紹介したマクマリーの中国批判とほぼ一致しています。ただ、佐分利の場合は、日本陸軍の伝統的大陸政策の存在や、それに共鳴する国内世論の動向を熟知していて、それが支那の激越な対外政策によって力を得ていること。そのため、外務省が故原敬以来進めてきた互恵平等の対支政策がとれなくなっていると強い危機感を抱き、支那政府に対して警告を発していたのです。

 というのは、佐分利公使は公使就任後の独自調査で、自分が進めようとしている「互恵平等」の対支外交政策が、軍との関係でほとんど調整不能なレベルに達していることを知ったのです。それは死を覚悟させる程のものでした。そこで、交渉相手である王正廷に対して、上記のような警告を発したのです。こうした外交官としての佐分利の行動を見る限り、佐分利が絶望して自らの命を絶ったとは到底思われません。

 松本清張は、その著『昭和史発掘』「佐分利公使の怪死」の末尾に、当時の警視総監であった丸山亀吉の言葉を印しています。「あの事件の真相は、日本に国体が変わったときに初めて判る」。おそらく、その死は、幣原外務大臣の下で進められることになった対支「互恵平等外交」が進捗し、日支関係が改善し満州問題が外交的に解決されることを、なんとしてでも阻止しようとしたグループによる犯行だったのではないでしょうか。

 というのも、この頃、幣原外務大臣自身は「ロンドン条約」締結問題にかかりきりで、対支外交交渉は佐分利公使に一任していました。しかし、その佐分利が死んだことで、幣原の対支外交は大きく躓きました。その後、幣原は、軍と結託した政友会の森格等による「統帥権干犯」の執拗な攻撃を受けました。その間、首相浜口雄幸の暗殺、その後、三月事件、満州事変、十月事件といった軍のクーデター事件に相次ぎました。

 こう見てくると、こうした軍の行動の根底には、ある強固な意志が一貫して流れていたことを看取しないわけにはいきません。では、それは一体何だったか。端的に言えば、それは、満州問題を軍事力によって一気に解決すること。それによって日本の人口問題、資源問題、経済問題さらには安全保障問題、そして軍人の処遇問題も抜本的に解決できること。それは満州人、ひいては中国人のためにもなる、というものでした。

 そして、こうした軍の動きの背後には、こうした考え方に同調し、或いはその力を利用して政権奪還を計ろうとする政治家たちがいました。それが功を奏して政友会田中義一内閣が誕生し、その結果、森恪を中心とする、軍と連携した対支積極政策が推し進められたのです。それが第一次山東出兵、東方会議、第二次山東出兵となり、そして済南事件を引き起こし、その結果、日本は支那の統一を妨害する国と見なされるようになりました。こうして、それまで英国に集中していた反帝・反植民地運動は一気に日本へと向かうことになったのです。

 さらに、それに引き続いて、張作霖爆殺事件が引き起こされ、満州の張学良まで敵に回すことになりました。本来そうした行為は、彼らの大先輩である陸軍大将田中義一(首相)に対する叛逆ですし、また、ようやく田中が張作霖を説得してまとめた満州経営計画を台なしにするものでしたから、厳罰は当然でした。しかし、軍はこれに反対し、事件の真相が明るみに出ることを総力をあげて阻止し、その裏で、再度の「満州武力制圧」計画を、周到に練り上げて行きました。

 では、こうした軍内の「一般意志」を抑え込み、それを政府のコントロール下に置くことが、当時、誰かにできたでしょうか。政治家は、彼らの不満を利用して政権奪還を計ろうとし、かえって”ミイラ取りがミイラ”になった。産業界はこうした軍による領土拡張政策に便乗しただけ。また、ようやく普通選挙権を手にした国民そしてマスコミは、金権腐敗の政治家よりも、清潔で純粋な軍人たちを信じた・・・。

 こう考えると、この時、軍の暴走を抑えることができたのは、軍内部の、自己抑制的で合理的な判断のできる人材だけだったように思われます。この点、岡崎久彦氏が指摘するように、もし日英同盟が継続されていたら、これら若手のエリート軍人たちの教育訓練は、ドイツではなくイギリス軍やアメリカ軍でなされていたでしょうから、彼等が非合理的な軍の暴走を食い止める役目を果たし得ていたかもしれません。

 しかし、それは所詮他力依存の願望であって、そこで、日本人自身の責任を追求するなら、私は、やはり、国の進路決定に最終的な権限と責任を有するのは政治家ですから、日本の敗戦責任は、やはり日本の政治家自身が負うべきだと思います。それと同時に、その政治家を選んだのは、マスコミを含めて日本国民ですから、その責任を「一部軍国主義者」のみの責任に帰すことはできないと思います。

 とはいえ、日本の外交が幣原外交の水準に達していたことも紛れもない事実です。それが日本国民に受け入れられなくなった理由としては、それがあまりに合理的かつ理想的であって、マクマリーが紹介したような中国の現状に適切に対応できなかったから、とされます。しかし、それを言うなら、そのアンチテーゼとして実行された田中積極外交は、こうした状況にどのように対処したか、その結果はどうだったかと問うべきだと思います。

 とんでもありませんね。それは、幣原外交によって積み上げられた日本外交に対する信用基盤を、一気にぶち壊し、とりわけ日本と中国・満州との関係を仇敵関係にしただけでした。さらに、張作霖爆殺事件の真相もみ消しによって、日本外交の国際的信用は地に落ちました。こうして傷ついた日本外交の立て直しを図ったのが、第二次幣原外交であって、しかし、それも、佐分利公使の死や幣原に対する執拗な統帥権干犯攻撃によって、再び挫折することになったのです。

 こうした事実経過を無視し、張作霖爆殺事件の実行犯が河本大作であることは間違いないのに、それをソ連の工作員あるいは張学良の陰謀とすることで、日本をその被害者に見立てようとする・・・、それによって、満州事変を、日本の「報償」(相手国が条約に違反した行為をしたときそれを止めさせるために軍事力を行使すること)行為に位置づけようとする。そうした歴史解釈のトリックを、いわゆる「保守派」と称する人たちは行っている。

 重ねて言いますが、そうした歴史解釈は、田中積極外交の惨憺たる失敗を糊塗し、その後満州において高まった排日運動の責任を、幣原外交に転嫁しようとするものです。実際のところ、軍は、そうした排日運動の高まりを口実に満州を武力占領する機会を狙っていましたし、機会を得て満州を軍の統制下に置くことができれば、そこを基地として日本の国家改造を図ろうとしていたのです。

 こうした明白な事実を看過するようでは、それを真の「保守思想」と呼ぶことはできません。また、そんなことでは、中国や韓国による、内政干渉・主権侵害という外ない一方的な歴史認識の強要に、有効に対処できるはずがありません。まして、日本人のためのより客観的で生き生きとした歴史認識を作りあげることなど到底できません。真の保守思想とは何かを、今一度考え直し、堂々たる議論を組み立てていただきたいと思います。

最終校正9/28 8:30