「保守の思想」を再点検する1――
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2012年9月18日 (火) |
民主党政治の惨憺たる失敗で日本外交のあり方がクローズアップされています。その嚆矢となったものが、鳩山元首相の沖縄米軍基地国外or県外移転公約とその撤回によって混迷した日本の安全保障問題です。次いで菅内閣のもとで起こった中国漁船衝突事件を契機とする日中間の尖閣諸島領土問題、さらに、野田内閣のもとで起こったロシアのメドベージェフ大統領国後島訪問後の北方領土問題、そして、李明博大統領の竹島上陸を契機とする竹島領有権問題と「従軍」慰安婦問題です。
従来、日本の政界では”外交は票にならない”と言われてきました。しかし、これら諸隣国のエゴイスティックな立ち振る舞いや言動は、日本人の国際平和に関する戦後的幻想を覚醒させるものとなるでしょう。今後、沖縄の米軍基地の問題は、中国の軍事的膨張への警戒心の高まりと共に、日本の安全保障を前提とする議論へと変わっていくと思います。また、韓国との間の竹島領有権問題や、「従軍」慰安婦問題の異常性は、日本人に従来の歴史観の再検討を迫るものになると思います。
言うまでもなくこうした状況は、日本人に国家意識をしっかり持つことの重要性を教えるもので、このことは自ずと憲法改正論議につながっていくと思います。また、従来の日本人の近現代史観は、多分に戦勝国の都合で作られたものですから、今後、日本人の間に、自分たちの目で見た、より客観的な歴史認識を持とうとする動きも強まってくると思います。しかし、中国や韓国は、こうした日本の動きに激しく反発し、”右傾化・軍国主義化”という言葉を投げつけてくるに違いありません。
その際、その主要なターゲットとなるのは、私は、日本の「保守の思想」ではないかと思います。しかし、幸いなことにというべきか、冒頭に紹介したような事態は、民主党政権下で起こったことなのです。周知の通り民主党政権は、日、米、中の関係を「正三角形」といい、アジア共同体構想の下、中国とのより緊密な関係を樹立しようとしました。また、韓国との関係でも、日韓併合に対する贖罪意識から、外国人参政権の問題や慰安婦問題などで韓国に譲歩する姿勢を示していました。
にもかかわらず、というか、それゆえにというべきか、冒頭に紹介したような思わぬ事態が次々と発生したのです。これに対して民主党は、かっての自民党の現状維持的対応とは異なった、ある意味でより強硬な対応策を採りました。尖閣での中国漁船衝突事件では、漁船の船長を国内法で裁くと言い、中国に脅迫されると腰砕けとなり、処分保留で船長を釈放しました。竹島の領有権問題では、李明博大統領の竹島上陸を契機に、日本はその領有権を主張して国際司法裁判所に提訴するとしました。
また、慰安婦問題については、菅内閣当時、日韓併合100年に合わせて「首相謝罪談話」を発表したにもかかわらず、2011年12月14日には、韓国の日本大使館前に慰安婦像が設置されました。さらに、李明博大統領は、自身の竹島上陸について、それを日本政府が慰安婦問題に積極的に対処しないことの”いらだち”の現れとしました。こうした韓国の慰安婦問題についての異常な執着に、さすがに民主党内にも、松原議員のように「河野談話」の見直しを主張する者もでています。
この「河野談話」が如何なるものであったか、ということについては、前稿「竹島、従軍慰安婦問題から私たち日本人が学ぶべきこと」で詳述しました。要するに、”日本軍や官憲による慰安婦の強制連行を証明するものはなかった”が、当時の韓国が日本に併合されていたという状況を考慮して、日本政府の責任を大枠で認めたものでした。これは自民党宮沢内閣下の出来事ですが、民主党政権下でも、これと同じことが繰り返されたわけです。ここで民主党も自民党と同じ立場に立ちました。
これらのことは、日本にとっては、従来、国民間で分裂してきた国家観や安全保障観を一致させる上でも、さらには自虐史観を克服する上でも、一つの貴重な経験となったのではないかと思います。この意味では、自民党から民主党への政権交代は、一定の意義があったということができます。そこで問題は、この日本人の国家観や安全保障観、さらには歴史観が今後どうなるかという問題ですが、民主党の失敗がすでに明らかとなった以上、次に問われるのは私は「保守の思想」ではないかと思います。
そこで以下、「保守の思想」とはそんな思想をいうのか、ということについて考えて見たいと思います。
とはいったものの、この「保守の思想」というのは、日本では、それをはっきりしたイメージでもって具体的に語ることは大変困難なのです。これは、「見方によってはたんなる反動のように思われたり、もしくはむしろ自由主義者に見えたりすることが多い。そのいずれでもないとしても、保守と呼ぶよりは、単にナショナリストと名づけたほうが余程ぴったりすると思われることも多い。」と橋川文三はいっています。(『保守の思想』「日本の主主義の体験と思想」)
さらに、このように「保守の思想」が曖昧であるということ、それ自体が、「日本の近代思想史上の一つの問題と見てもよいであろう」と指摘しています。
では、ヨーロッパにおいては、この「保守の思想」はどのようなものと考えられているのでしょうか。これを、「保守主義者」エドマンド・パークの定義によって示せば、
「それは第一につねに〈現状のなかに〈守るべきものと〈改善すべきものを弁別し〈絶対的破壊の〈軽薄〉と〈一切の改革をうけつけない頑迷〉とをともに排除しようとするものであり、第二に、そのような〈保守と改革〉とにあたっては〈旧い制度の有益な部分が維持され〉、〈改革〉によって〈新しくつけ加えられた〉部分は、これに〈適合するようにされるべきであり〉、全体としては、〈徐々とはしているが、しかし、きれ目のない進歩が保たれることを政治の眼目とする」(小松茂夫「保守の価値意識」、岩波講座『現代思想v』所収)ということになります。
つまり、ここでバークが言わんとしていることは、「凡そ人間の進歩ということは、決してある個人の頭脳から人為的に作り出された「省察」によって導かれるのではなく、「全体が一時に老年・中年・青年であることは決してなく、普遍の恒常性のもとで、不断の衰退・没落・革新・進歩というさまざまな過程をとおってすすんでいく」ような、自然な歩みにしたがうものである」ということなのです。
では、この保守主義の対立概念である進歩主義とはどのようなものかというと、これをバークが生きた時代に即して言えば、
「フランス革命の理念は、まさしくそのような自然の「すばらしい英知」を無視し、人為的な「機械学的哲学の原理」(=啓蒙的合理主義)によって、社会の一切を一挙に改革しようとするものであった。それは「じぶんたちにぞくするすべてのものをけいべつすることからはじめ」、「すべての先行者とすべての同時代者をけいべつすることをおしえ、かれらじしんをけいべつすることをさえおしえて、ついにはかれらがほんとうにけいべつすべきものとなる点にまでみちびくようなとほうもない優越な思索」の結果として生じたものであった。」ということになります。
これは保守主義の立場からする進歩主義=革新思想の批判ですが、逆に進歩主義の立場からすれば、
「保守主義はつねに直接の個々の場合から出発し、自己の特殊な環境を越えてその地平を拡大することはない・・・従って本来、その生きている世界の構造を問題にしようなどとはしない。それに対して、総ての進歩的行動は、つねに可能なるものの意識によって生きており、与えられた直接的なるものを、その体系的な可能性において捉え直すことによって超越する。それは具体的なるものとの闘いにおいて、別の具体的なるものをそれに代えようとしてではなく、別の体系的な発端を求めて闘うのである。」(マンハイム)ということになります。
そこで、こうした保守主義の考え方が、日本近代史においてどう扱われたかを見てみると、〈保守〉と〈反動〉のカテゴリーがすでに明治中期頃から癒着して使われており、そのため「今日まで保守がおおむね自称として通用せず、およそ実際上自由主義でも進歩主義でもなく、むしろ反動の傾斜の大きい政党までが〈保守〉の名を敬遠」するような状態なのに加えて、「大正末期以降マルクス主義の急速な普及のためにますます保守反動という一括した使い方と考え方が定着した。」(「反動の概念」丸山真男)というのです。
こんなわけで、日本には保守主義が知的及び政治的伝統としてほとんど根付かず、そのため、保守にしろ革新にしろ、その内在的な思想的発展がほとんどできませんでした。そもそも「保守」とは、先のバークの定義によれば、権力の発動形態としての「反動」とは結びつかないのですが、明治の近代化=西欧化が明治政府によって啓蒙的・権力的に押し進められたために、あくまで「進歩」を歴史や伝統の発展形態として捉える保守の立場が、後ろ向き=反動という言葉とセットでイメージされるようになったのです。
というのは、明治においても「その過去は・・・単に否定さるべきものとしかみなされず,逆に未来は、アプリオリに有望な価値にみたされているとされていた」からです。ベルツの日記には、この時代の日本の知的ムードについての驚きが、次のように語られています。
「・・・今日の日本人は自身の過去については何事も知ることを欲してはいない。・・・〈何もかも野蛮至極であった〉と一人が言った。他の一人は、余が日本の歴史につき質問した時に、明白に〈我等は歴史を持っていない。我らの歴史は今から始まるのだ〉と叫んだのである。」
これと全く同じことが、戦後においても繰り返されたことは言うまでもありません。この時は、敗戦という現実の中で、占領軍の軍政統治の必要からも、また戦勝国の立場からも、過去の日本の歴史は全否定され、未来は、アメリカ民主主義(あるいはスターリニズムあるいは毛沢東主義あるいは人権思想など)をモデルとして、ゼロから構築されるべきものとされたのです。
しかし、こうした歩みは悉く失敗し、これらのいずれの主義・思想も、民主党政権下における内政・外交のあらゆる局面において、その虚構性と無知・無力性が暴露されることになりました。かといって、こうした民主党の思想的崩壊によって、保守を自認する自民党の支持率が向上したかというとほとんど増えない。それは「真の保守」ではないからだ、ともいわれますが、ではその「真の保守思想」の中身をよく見ると、単なる「反動」の域を出ないものが多いように思われます。
それでは、日本における真の「保守の思想」とはどのようなものを言うのでしょうか。残念ながら、明治維新の時も、敗戦後も、日本における真の「保守主義」の思想的立場は確立されなかった。それ故に、真の「進歩主義」も生まれなかった。おそらく両者は、前者を基底としつつも、それを相克せんとする「進歩主義」との葛藤関係で捉えられるべきものでしょうが、いずれの立場においても、その思想形成が、その国あるいは民族の過去の歴史や伝統と切り離れたところで可能となるはずはないのです。
つまり、真の「保守の思想」とは、自らの歴史・伝統に立脚し〈守るものと改善すべきものを弁別〉するとともに〈軽薄と頑迷を排除〉し、改善すべきものを守るべき伝統に適合させていく思想なのですが、そうした強靱な思想的伝統は日本には定着しなかったのです。とはいえ、そうした思想を体現した人物がいなかったわけではなくて、そうした時代情況にありながらも、敢然と「保守の思想」を体現した「知的巨人」も少数ながらいました。上掲の本には、三宅雪嶺、徳富蘇峰、柳田国男、津田左右吉、鈴木大拙、柳宋悦、唐木順三などが紹介されています。
そこで、その「保守の思想」とはどのようなものかを、より判りやすく知ってもらうために、その「保守の思想」を代表する一人、津田左右吉の言説を紹介したいと思います。もともと津田は当時進歩派の歴史家と思われていて、その古代史研究の著作は戦前発禁処分を受けたのですが、戦後、天皇と皇室についての言説(天皇は神であられたとか、政治上の絶対権力を持ていたとか、軍国主義の思想と本質的に離るべからざる存在であったなど)は事実に基づかぬ虚偽であるといい、それを安泰にしその永続性を確実にするのは「国民みずからの愛の力」と説いた人物です。
津田左右吉「日本歴史に関するいわゆる知識人の知識」
「日本の進むべき新しい道を開き新しい日本を作ってゆくについて深く考うべき一つの問題がある。今の日本人は世界の文化の中に生活する一国民としてその世界の文化を進めてゆく任務をもってい、そうしてその世界の文化の要素としてはヨウロッパに発達したものの多いことは、いうまでもないが、この書の第三章で考えておいた如く、それには大なる欠陥がある。それと共に日本人は、世界人でありながら、どこまでも日本人であって、特殊の風土に生い立ち特殊の歴史によって養われて来た特殊の生活をしていることによって大なる制約をうけると共に、そのことがまたヨウロッパ人やアメリカ人とは違った特殊の文化をつくり出すはたらきをもする。
だからこれから後に日本の進んでゆく道は、ヨウロッパやアメリカの文化の世界にますます深く入ってゆき、従ってまたそれを日本人の生活に包みこんでゆくばかりでなく、日本人のもっている、それとは違った、精神をそれに注入し、そうしてそれを超克してゆく一面も、その道に無くてはならぬ。どうしてそういうしごとをしてゆくかは、むつかしいことであって、メイジ時代から今日まで断えず国民を悩まして来た問題であるが、それができなくては、世界に於ける日本人の独自の地位も無いことになり、世界の文化に日本人の寄与し得るものを造りだしてゆくこともできない。そうしてそれは日本人の覚悟次第努力次第でできないことではない。
敗戦以来、日本の一部の知識人が日本人としての自信を喪い、何ごとにつけてもヨウロッパやアメリカやまたは世界に於ける異様な存在としてのソ連に追従するように国民を引きずってゆこうとしているのは、みずから侮ることの甚しきものであって、そういう考が国民のすべてにゆきわたるようになるならば、日本は精神的に自滅してしまう。みずから侮るものは人これを侮る。日本は世界から侮られる外は無い。そうして世界から侮られることがまた日本人のみずから侮る気風を増長させる。
幸に国民のすべてが上記のように考えているのではない。明かに意識していないにせよ、日常の生活の上にそれはおのずから現われている。それを明かに意識させるには、世界の諸国民の生活の実相とその歴史的由来とを知らせると共に、日本人みずからの歴史に関する正しい知識をもたせることが必要である。
過去の生活を知ることは現在の生活を知ることであり、現在の生活を知ることによって未来にどうそれを進めてゆくべきかを知ることができる。生活は現在のうちから現在とは違った未来を作り出してゆくことであるが、その現在は過去となった昔からの歴史の成果であり、過去の生活がいろいろの形で現在の生活に内在している。それが現在の生活を制約し従って未来の生活を制約するが、生活は自己を新しくしてゆくことであるから、そういう制約の下に生活するその生活が現在を新しくし、従って新しい未来を作ってゆくことなのである。
だから日本人が日本人自身の歴史に関心をもたず、或はそれについて誤った知識をもつということは、未来に向って新しい生活を創造してゆく力を弱め、そのはたらきを鈍らせ、またはその方向を誤らせるものである。日本人は深くこのことを考えねばならぬ。学校に於ける歴史教育の重要なる所以もそこにある。」
津田左右吉は、このように「保守の思想」の基本的考え方を明らかにした上で、日本人の改善すべき点を次のように述べています。
一、今のことでも昔のことでも、事実をしっかり突き止めてそれに基づいて物事を考えようとはせず、世間でいいふらされていること、その多くはジャーナリズムの上に絶えず現れるまちがった記事や言説やまたは故意の宣伝やによって与えられたことであるが、そういうものをそのまま受け入れ、それが果たして事実であるかどうかを批判する用意がないということ。
二、一般的に物事の考え方が正しくないということ、その一つは、人の生活には多方面があって、国民としての生活も社会上の現象も、その多方面のことの複雑な働きあいによって成り立っているのに、その内の一面のみを見てそれが全体であるように思うこと。
例えば、
・経済の働きが国民生活の全体であるとする考え方
・日本をアジアの一国と見るようなこと
・国民生活の全体について統一した見解を持とうとしないこと
・具体的な生活を具体的な生活として見ず、何事も概念的に割り切って考えること
など。
三、また、思想的傾向としては、
・自己の自己に対し全体としての国民または社会に対する責務の念に乏しいこと
・国民生活社会生活の内部に存する伝統への愛着のないこと。そのため、伝統に含まれている人間的情味とその美しさとを感知することのできない。
・「若い世代」が「年取った世代」「古い世代」のものを軽侮する気風のあること
こうした思想的傾向は、「終戦の直前において、当時日本との間に締結せられていた中立条約を一言の交渉もなく廃棄することを予告し来たり、終戦の当時には、日本がポツダッム宣言を拒否したという無根の言を理由として宣戦を行い、満鮮方面の我が軍に攻撃を加えたのみならず、手あたり次第に捕虜として運び去った軍人及び同地方の在住していた一般日本人に対して、暴虐非道の限りを尽くしたソ連の行動について、日本人が憤怒することを忘れ、世界の世論に訴えてそれを難詰することもせず、日本人の正義感を政党に主張しなかったこと」に現れている。・・・
「日本の伝統を傷つけ誇りを傷つけ国家を傷つけたこと、ソ連に対する当時の日本人の態度より甚だしきものは、これまでの史上にまだ一度もなかったのではないか。」
また「共産主義国のシナに対してもまた日本人の態度はあまりに卑屈である。いわゆる中共人が自らその国を中国と呼んで日本を夷狄視する旧時の陋習を脱しないのに、日本人がそれを甘受しているのも、その一つである。(中華民国人に対しても同様に考えるべきである。)シナ人は日本人に対しては、今なお中華意識を保持しているが、いわゆる中共人はそれに加うるにさらに戦勝国を以て日本に臨まんとしているようにさえ見える。日本人が彼らをしてその非理なることを悟らせるようにしないのは、やはり卑屈な態度であろう。」
この津田の文章は昭和27年に書かれたものですが、こうした津田の指摘した戦後日本人の問題点が、今日も少しも改善されることなく残っていること。その根本原因が、戦後の日本人が自らの祖国の歴史・伝統・文化に対する誇りを失ったことにあることは言うまでもありません。
では、そうした卑屈な考え方をどのようにしたら克服できるか、ということですが、それは、津田左右吉も言うように、この国の歴史教育を国民が自らの視点で学び直すことから始めるほかないと思います。そこで、私自身は、昭和史に関心をもって勉強してきましたので、次回以降、この昭和史についての「保守」派の見方を紹介しつつ、私見を申し述べたいと思います。私は昭和史理解のキーポイントは、幣原外交の挫折をどう解釈するかにあると思っていますので、この点にポイントを絞って論じてみたいと思います。