趙無眠著『もし、日本が中国に勝っていたら』から学ぶべきこと

2011年4月 2日 (土)

 ap-09さんに紹介いただいた『温故一九四二』と『もし、日本が中国に勝っていたら』を読みました。後者の方がよりおもしろかったですね。この本は中国国内の中国人向けに書いたもので、こと国家の経営・管理能力という点においては――台湾統治や満州経営の他日本が中国の各都市を占領していた時も含めて――日本は極めて優れた能力を発揮した。中国人もこのことを認めるべきであり、それに学ぶべきである、というものです。

 「反省を込めて言えば、もしわれわれがそうでなければ(=国家の経営・管理能力という点で劣っていなければ―筆者)、なぜ人□にしてわずか数千万の小国に手も足も出ないまま国が滅びる寸前まで追い詰められてしまったのだろうか。」

 こうした反省と同時に、筆者は、日本の欠点を指摘することも忘れていません。

 「同じように日本の欠点も深刻だ。もしそうでないのなら、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになるだろうか。」 

 そして、氏自身の同胞に訴える言葉として次のように述べています。

 「日本がしたことは筆舌に尽くしがたいことだが、その一方で彼らがわれわれに与えてくれたものはとても貴重だ。われわれはそれを得るために血の代価を支払った。これを簡単に捨て去ってしまうというのであれば、それは民族にとって最高の不幸であろう。」

 この本の著者趙無眠氏は、現在中国では、「日本鬼子」を再評価したとして、”四大漢奸”に列せられているそうですが、実は、氏の論文は中国の言論界では既にかなり有名で、大きな論争を巻き起こしているとのことです。「事実」を「事実」として見る目が、中国でも、政府の政治的思惑とは別に次第に育ってきていると言うことですね。

 では、この「事実」を私たち日本人自身はどう評価すべきでしょうか。

 この場合も、中国人の場合と同様に、「事実」を「事実」として見る目を持つことが必要ですね。それと同時に、”なぜ、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになったか”を、徹底して反省する必要があります。

 それは、組織の経営・管理能力には優れているが、それをより長期的な戦略思想の元にコントロールすることが出来ない。つまり、日本人の行動を支える思想的基盤が弱いため、状況の変化に左右され、一貫性のない場当たり的行動となりやすい、ということです。

 では戦後は、この日本人の弱点=思想的基盤の弱さがいくらかでも克服されたでしょうか。この点は、むしろ戦前より悪くなったのかも知れませんね。戦前の日本を”日本鬼子”とすることで自分を正当化、あるいは平気でいられる日本人がたくさんいましたから・・・。

 これでは、伝統思想が引き継がれ、欠点が是正され、その新たな思想的発展が期されているとは言えません。こんなことでは、以下、この本で高く評価されているような”日本人の長所”といえるものさえも、失われてしまうことになりかねません。

以下『もし、日本が中国に勝っていたら』より

【日本統治下の中国】
日本はまず朝鮮を占領した後、台湾を占領し、次に満州、そして華北、華東、華南と占領した。これらの被占領区では、戦闘状態が終わり社会に一定の安定が回復されると、まだゲリラやレジスタンスとの争いは続いていながらも、土地の人々は基本的に占領者がどのようにこの地を治めるのかを見てみようという態度を見せるものだ。

 台湾は五十年の割譲を経て、再び中国に戻り、すでに五十年を超えた。現在、老人世代の台湾入には日本統治時代を懐かしむ者が少なくない。日本人は法を重んじ、国民党のような「白色テロ」を行うこともない。教師と警察は日本時代には最も尊敬される市民の職業であり、李登輝は「二十二歳までは日本人」を自称し、日本からの訪問者を熱烈に歓迎する。彼はもしもこうした老人世代が存在しなければ台湾の民主の基礎はとっくに失われていたはずだと考えているほどだ。

 日本の台湾統治時代、島では科学的で合理的な管理法が持ち込まれ、銀行が設立され、鉄道がしかれ、基隆や高雄などの港が拡張・整備され、ラジオ局が生まれ、上下水道やガスが整備され、一時は台湾経済の六割を占めた製糖業の基礎が築かれたのである。

 また、アジアに誇る潅漑、排水、冠水防止設備をもつ嘉南大川、桃園大川も整備された。産業研究を行う「台湾総督府中央研究所」がつくられ、都市計画や数々の法規も整い、台湾の交通、衛生、治安、経済の質が向上し生活レベルの底上げが起こったのである。このことは国民党統治下で現代化が進められるときの基礎となり青写真となった。

 このころ、台湾の一部産業には、日本本土よりも進んでいたものもあったのである。一九四〇年、台湾の工業生産の総額は農業のI・四倍となり、台湾の工業化は実現されたのである。(楊永良『日本統治時代の台湾建設』)

 われわれは、日本の台湾建設を批判することはできる。その「出発点」(目的)が悪い、その手段と態度もあまりに専横的で強引であったと。しかしその結果、台湾には近代国家としての基礎が築かれたのである。一人の作家の言葉を借りれば、「日本は台湾に近代化の卵を産ませるために、やせ細った鶏を太らせた」(伊藤潔=劉明修『謎の島、台湾』)ということになるのだろう。

 満州は清朝の発祥地である。もともと彼らは漁猟や遊牧を主な生活手段にしていたため、広大な農業処女地が長い間放置されてきた。そのため、中国の農民たちにとって新たな開墾地として”山海関外への入植”は大きな魅力であった。

 しかし、日本が降伏したときには東北部はすでに重工業の集積地とさえ言われるほどであった。そのことは数字の上から見ても明らかで、単に全中国の重工業の八〇%を占めるだけでなく、質的にも最高レベルの産業基地へと変貌を遂げていたのである。

 ソ連の紅軍が東北を”解放”したとき、彼らは無数の工業設備を解体し、持ち去ってしまったのだったが、それでも東北全域に張りめぐらされた鉄道路線はどうすることもできなかった。この鉄道網の密度は、いまもなお中国で最も充実しているほどである。

 大連は同じように居住地として中国で最も良い都市の一つだが、ここにも日本人が行った数十年計画の布石の痕跡がみつかるのである。

 海南島は、中国にとっての。天涯海角(辺涯の地)である。古くは犯罪人を流刑に処した荒れ果てた島だった。

 日本に占領されて以後、日本は第二の台湾をつくりだすために建設的に治め、コントロールを緩めて土地の人々の手による鉄道経営を進めた。

 日本人は村を回り、衛生面での検査を行い、子供たちに甘い飴を配った。彼らは満州でもこうした。”小恩小恵”という日本人の習慣を持ち込んでいたのである。

 東側はゲリラの活動が活発で戦争状態にあり軍民の関係は緊張し悪かった。唯一つ西線(鉄道)は日本人が手掛け、また鉱山の開発も行われた。

 共産党が取り戻して以後は、海南島は省から格下げされ、何も新しい建設がされない一方で、掠奪式の破壊的な資源の持ち出しだけが続いた。それは、もともと自分たちのものではなく、いつか誰かに取られてしまうものであるかのように大陸に持ち出されたのだった。こうした状況は、改革・開放によって海南島が大特区になるまで続けられた。

 フランスの作家アルフォンスードーデの「最後の授業」は世界文学のなかの名作として知られているが、侵略の苦味を腹いっぱいに味わったことのある中国人にとってこの作品は切実な感動を与えてくれる。

 作品は普仏戦争で領土を奪われるフランス人の怨み――教師はドイツに占領されるという最後の日に、明日からは許されなくなるフランス語で授業を行う――を描いている。

 この視点から見れば、中国の被占領区はまだ幸運だった。日本の占領者は中国語の授業を禁止したことはなかったどころか、かなりの程度は寛容であったからだ。向学心のある学生には、日本の占領区を離れて国民政府が管理する地域へ学びにいくことも許されていた。

 八年にわたる抗日戦争中に、最も早く日本の手に落ちた北平(北京)を例に取れば、日本の敗戦が決まったとき、多くの著名な大学の設備も図書の数も非常に充実していた。抗日戦争前の一九三六年、中国の高等学校の数は百八校しかなかったが、一九四五年の終戦時には、高等学校は百四十一校になっていた。高等学校の教師も七千五百六十人から一万一千百八十三人に、学生は四万一千九百二十二人から八万三千九百八十四人へと倍増したのである。(屈徹誠『現代物理学が中国で主導的に発展した原因』)

 たくさんの新しい大学――上海交通大学や上海医学院、ドイツ医学院、雷士徳工学院、上海商学院、上海音楽院など抗日戦争勝利後に政府によって取り潰された六つの偽学校――も被占領区で設立された。

 愛国者の視点から言えば、もし被占領区に学校がなければ、青少年は学ぶ場所を奪われ、中国の復興に貢献することもできなかったはずだ。張春橋の”たとえ・・・であったとしても、決して・・・を選択することはない”論は、彼の独創的な考えでもなければ、もちろん、彼が初めて語ったというわけでもない。

【日本から「学び方」を習う】
もちろんこうした日本人の”業績”は彼らの侵略による破壊を相殺するものではない。だが、このなかから彼らの経営、管理能力を見て、彼らのどこが中国人よりも優れているのかを知ることはできるのではないだろうか。

 長い間、多くの出版物が中日それぞれの民族に対して文化上の比較を行ってきた。一般的には、どちらにも勝っている面とそうでない面があるはずだ。しかし、ある種の文章では民族感情をむき出しにして日本民族を嘲笑し侮辱することで愛国を表現しようとするものもあった。

 私は、これには賛成できない。

 戦場での激烈な力比べはもちろん、平和な状況下での競争であっても、脅したり罵ったりすることなど、戦いではない。われわれは抗日戦争を戦った将軍たちの回想録を読み、その中身や行間に、はたしてそ(ど?)れほど程度が低く軽薄なことをわめき散らすだけの愛国が描かれているかを見なければならない。

 人類には必ず弱点がある。一つの民族には必ず積年の弊害もある。中国人には中国人の醜さ、日本人には日本人の醜さ、アメリカ人の醜さ、フランス人の醜さ、イギリス人の醜さ、ドイツ人の醜さ、イタリア人の醜さ、ロシア人の醜さ、アフリカ人、ラテンアメリカ人、アラブ人、ユダヤ人・・・。

 なぜ、醜さがあるのか。それは相対的にみなが認める美しいものが存在するからである。 二十世紀のはじめに魯迅は、最も中国人の特徴を備えたモデル的人物を作品に描いて見せた。それが「阿Q正伝」である。正直に言えば、阿Qの醜さは際立っている。そして、これは疑うことなきわれわれ中国人の姿である。

 反省を込めて言えば、もしわれわれがそうでなければ、なぜ人□にしてわずか数千万の小国に手も足も出ないまま国が滅びる寸前まで追い詰められてしまったのだろうか。

 同じように日本の欠点も深刻だ。もしそうでないのなら、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになるだろうか。

 ただし、日本はそうした欠点の裏側に非常に優秀である面も備えている。日本人は努力を惜しまず、積極的で向上心があり、仕事に誠実で研究熱心で、その上いい加減なことをしないので相手として手ごわい。新しいものに対して敬意を持ち、謙虚に学び、よく模倣して吸収し、犠牲を惜しまず、団結している。私的な争いはしないが、公的な戦いには勇敢である。こうした特徴には、中国人が学ぶべき値打ちのあるものも多い。

 日本人はミッバチのようであり、組織の結束が固く、一糸乱れず、高効率で、小さな狭間にも生きがいを見つけ、脅威を感じれば命を惜しまない特攻的な攻撃性を敵に対して発揮する。最後の部分を除けば、すべて現代であっても重要で社会に適した特徴である。

 日本があれほど短い時間のなかで工業革命を達成し、そして戦後はまた凄まじいスピードで回復を遂げ、経済と科学技術で強国の列に並ぶことができたのは、国民全体にあるこの素質を抜きに語ることはできないだろう。

 一つの民族は他の民族から学ばなければならないが、とくに敵からはよく学ばなければならない。

 古代、中国は日本の恩師であったが、近代の日本は中国の恩師であった。日本は中国を侵略し、われわれの家をメチャクチャにして損失を与え多くの血を流し深い恨みを残したのに、まだ恩師なのか? と問う者もいることだろう。だが、それでもやはり日本は恩師である。恩は恩、仇は仇である。相殺することも、ましてや抹殺することもできない。

 日本がしたことは筆舌に尽くしがたいことだが、その一方で彼らがわれわれに与えてくれたものはとても貴重だ。われわれはそれを得るために血の代価を支払った。これを簡単に捨て去ってしまうというのであれば、それは民族にとって最高の不幸であろう。

 一世紀も前から、われわれはイギリスにも学び、フランスにもソ連にもユーゴスラビアにもシンガポールにも学ぼうとした。そしていま、最も多くを学んでいるのがアメリカであるが、最も長くかつ最も深く学んだ相手といえば、やはり日本である。

 実は私自身もこの一点について認めたくはない。しかし、受け入れようと入れまいと、これは厳然たる事実なのである。

 イギリスから学んでも、われわれが工業革命を完成させることはない。フランスから学んでも、われわれの社会が自由を獲得することはない。ソ連に学んだわれわれは、失敗例を積み上げただけであった。アメリカから学ぼうとすればアメリカとの距離の遠さを思い知ることとなった。そして最後に日本から学んだわれわれは、ついに日本を打ち負かすことができたのである。

 日本はとくに学習熱心な国である。中国を学べば、できるかぎり中国人に近づこうとし、西洋から学べば脱亜入欧へと向かい、「体」とするか「用」とするかの際限なき議論のためにいたずらにエネルギーを消費するようなことはしない。

 現在、われわれが日本をちょっと眺めてみれば、彼らの近代化のレベルがすでに世界で最も近代的な国家支局を並べるほどになっていることが分かるはずだ。またその一方では、彼らの伝統文化の備える正真正銘さは、われわれのようなこの悠久の歴史を持つ国家でさえも、恥ずかしくさせるに足るものなのである。

 同時にまた西洋から学ぶことは、日清戦争という一つの試験で、中日はそれぞれ優劣のはっきり分かれる答えを出した。

 日本海軍は人数も装備も中国には及んでいなかったため、戦争で勝つ自信があったわけではない。しかし戦争前、北洋艦隊が日本を訪れ、日本人が艦上に登ると、そこには怠惰な水兵とその家族までが艦上で暮らし、いたるところで着物を陰干ししてあるのを見て、訝るのを通り越してひそかに喜んだとされる。彼らは、こんな軍隊なら戦っても問題ないと考えたのだ。

 中国は欧米からの学習に失敗した後、日本から「学習の方法」を学び、やっと少しずつ現代化へと社会変革を始めることができるようになったのである。(後略)