靖国問題について2――一神道の本体は第一に生命力崇拝、第二に共同体守護(一読者様への返信)

2010年9月19日 (日)

 一読者様、大変参考になるご意見をお聞かせいただき誠に有り難うございます。自分の考えの整理になりますし、新たな勉強にもなります。今後ともよろしくお願いします。ご意見に対する私見については以下の通りです。読者の皆さまの参考になると思いましたので、本文掲載とさせていただきます。

>私は「富田メモ」報道は、誤報もしくは捏造に近いものだと考えています。・・・結論を先に言ってしまえば、徳川義寛元侍従長の記者会見ないし記者懇談会の備忘録的なメモの端切を、昭和天皇の発言であるかのように偽装した(勘違いした)とする説が、最も説得力があると思っています。

tiku 私は、「富田メモ」が、徳川義寛元侍従長の見解についてのメモであった可能性はあると思いますが、天皇自身のA級戦犯合祀についての考え方も同様のものであったのではないかと思っています。

 「『朝日新聞』2007年8月4日朝刊は、昭和天皇がA級戦犯合祀についての深く懸念を側近に語っていたことを示す新たな資料を報道した。記事の内容は、靖国神社へのA級戦犯合祀について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと昭和天皇の侍従長だった徳川義寛が語っていたことがわかった。歌人で皇室の和歌相談役を長年務めてきた岡野弘彦が退任後に、徳川の証言として昨年(2006年)末に出版した著書、『四季の歌』(同朋舎メディアプラン)で明らかにした。

同書によると、1986年秋ごろ、徳川が、岡野を訪れた。3 - 4ヶ月に一度、昭和天皇の歌が30 - 40首溜まったところで相談するため会う習慣になっていた。その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があった。岡野が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べた上で、「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は2つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明。さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。」wiki「富田メモ」

tiku ご紹介いただいたブログ主は、昭和天皇の戦犯に対する考え方について、「そもそもA級戦犯として処刑された方々は、昭和天皇の身代わりになったという側面もあるのですから、これを一括りにして昭和天皇が批判することはまず考えられません。昭和天皇が自身が戦犯として訴追、処刑される可能性があったことは昭和天皇も自覚していました。このように考えると、自らの身代わりになった方々をA級戦犯という括りで批判されている以上、昭和天皇の発言ではありえないと言えます。」

 と言っていますが、私は、昭和天皇は御自己の責任も含めて戦死指導者の責任について厳しい見方をしていたように思います。特に松岡や白鳥に対しては厳しかったですね。また、A級戦犯の靖国合祀については、「あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになる」ことを恐れていたわけで、つまり、合祀の基準を明治天皇の定められた通り「戦死者」に限る、とすべきと考えていたのではないかと思います。もちろん、1975年以降ご親拝されなくなったのは、三木首相の「私的参拝」で政治問題化したためだと思います。 

>また、昭和天皇がなぜ靖国へのご親拝を中断したのかについては・・・麻生氏はこれまで、天皇の参拝が中断した理由について、1975年に当時の三木首相が「私人としての参拝」を強調したことを理由として挙げてきたが、この日の会見でも「基本的に今もそう思っている」と断じた。』

tiku 私もこの見方の方が正しいと思います。

>まず、昭和天皇の個人的感情とA級戦犯合祀の是否は、直接関係がないということです。

tiku 私も同意見です。

>次に、A級戦犯合祀の是否とA級戦犯合祀を政治問題化させることの是否・・・A級戦犯合祀を政治問題化させることは、避けなければならない問題です。・・・なお、筑波藤麿宮司がA級戦犯合祀を見合わせた理由が、A級戦犯合祀の政治問題化への配慮にあるとするなら、是否はともかく一定の評価はできます。

tiku 私も同様です。

>中曽根元首相は戦後政治の総決算と称して終戦記念日に靖国への「公式参拝」を行い(この行為自体は靖国の政治利用ですが、その功罪は半々でしょう)、それが外交上の騒動になると、翌年から止めてしまうという大失態を演じています。

tiku 私も同意見です。

>・・・中国共産党は「暴虐なる」日本軍を中国大陸から追い払ったことを最大の(現在では唯一の)正統性の根拠としている以上、仮に日本のマスメディアのご注進報道がなかったとしても、この原則に抵触する日本の行為に中国が抗議するのは当然であること、そして、靖国参拝を中断することは、むしろ胡耀邦を批判していた保守派の主張に正当性を与えてしまうだけでなく、中国が抗議すれば日本側が簡単に折れるという先例を残すという意味でも、外交的な愚策と言うしかないからです。

 では、どうすればよかったのか。
中国側の批判は当然としても、毅然として受け流すかあるいは無視して参拝を継続し、また、八月十五日の靖国参拝は一時的な政治利用であることを自覚して、翌年からは、以前のように春秋の例大祭時に参拝するという慣例に戻すことが正しいあり方ではなかったかと思います。

tiku 公式参拝+A級戦犯合祀が問題が問題を大きくし、そのため、A級戦犯合祀そのものも問題とされるようになった、ということですね。

>この点で、少し趣旨は異なりますが、中国の再三の要請にも拘わらず、日本がこれを毅然として受け流し一歩も譲らない、靖国問題と対比すると面白い論点があります。それは、いわゆる「一つの中国」と台湾の帰属に関する問題です。

tiku この件は知りませんでした。ご教示いただき感謝します。

>「分祀」という言葉は、もともと神道の用語としては存在しておらず、神道辞典に掲載されたのは平成十六年、意味は「分霊(わけみたま、ぶんれい)」と同じとされています。
・・・また「分祀」とは、神道上の「廃祀」もしくは「分遷」の意味であって、神道上の例がないわけではないとする説もありますが、ともに極めて特殊な事例のようです。

tiku 神道における分祀という言葉の定義がはっきりしない如く、「分霊(わけみたま、ぶんれい)」の定義も必ずしも教義上明確に定義されているわけではないのではないでしょうか。我が家にも戦死者がいますが、仏壇には位牌もあり先祖として祀っています。地区の共同墓地には戦死者の墓がまとめて墓地の正面におかれています。命日には護国神社からの祭礼の案内もあります。御霊祀りに関する神道の教義は融通無碍なところがよろしいのではないでしょうか?

> 戊辰戦争の結果、それまでの流動的な存在だった新政府が、なんとか内外に公認される政府になった。
内実はまだ封建体制のままながらも、戊辰戦争の勝利によって〝新国家〟ができたと考えてよく、その新国家としては、日本における新しい〝公〟として、戦死者たちの〝私死〟を〝公死〟にする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は、〝公〟とも国家ともいえない存在になる。
戊辰戦争がおわった明治二年、九段の上に招魂社ができたのは、そういう事情による。祭祀されるものは、時勢に先んじて、いわば〝国民〟のあつかいをうけた。さらにいえば、九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。(『この国のかたち 四』 招魂より P65〜71)

tiku 新政府のために死んだものを「公死」とするのが靖国神社の始まりである招魂社の目的だった、ということですね。

> そのあらわれが、九段坂上の招魂社だったといえる。
設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。・・・まず仮殿をつくり、勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たちをよろこばせるつもりだった。大村も木戸も人ごみの中にまじって見物した。

 死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞といっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない(この招魂社が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる)。
もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一祀堂にあつめ、国家が祈念する形をとったのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩させたつもりだったのにちがいない。・・・

 戦後の新憲法で、九段の招魂社の後身である靖国神社は、一宗教の〝私祀〟のようなあつかいをうけている。大村の素志、憐れむべしといわねばならない。(上掲書)

tiku 超宗教の形式で国が初版の死者を一祀堂に集めて祀る。それが招魂社→靖国神社の考え方だった。戦後はそれを”私祀”にした。・・・超宗教の”公祀”に戻すべきでは、ということだと思いますが、私もそう思います。

>(招魂社が靖国神社になり、神道によって祭祀されることになったこと)これに対しては、神仏分離令による廃仏毀釈等に見られるように、平田派の復古神道や水戸派の後期国学の影響を強調し、「国家神道」確立への動きとする見方の方が現在は主流かもしれません。ただ、私のように主として戦前を政治や法制度から見た場合、「国家神道」の内実は「国家管理の神社形式の施設があった=国家神道」と言っているだけ* にしか見えません。個人的には、「国家神道」という概念自体が戦後の左翼を中心に作られたドグマだと考えていますが、ナショナリズムや教育勅語、天皇主権の旧憲法も国家神道に含める考えなどを読むと、訳が分からなくなります。ある意味で、一種の「陰謀論」に近い考え方だろうと思っています。

tiku 神道の「教え」の本体について、石田一良氏は次のように説明しています。

 それは一に生産力崇拝、二はその生産力の発動と生産力の崇拝の封鎖制(この意味はその生産単位である共同体の利益・価値を守ること)である。その生産力を発揚するものが「よし」、それを阻害するものが「あし」、汚れ(罪)はその生命力を妨げ、人が神の創造力と一体になって生産力をあげることを阻むもの、原罪という観念は神道にはなく、「けがれ」は「みそぎ」で祓うことができる。つまり、「祓い」は生命力回復の呪術である。

 神道が「けがれ」を忌むのは、それが死と結びついた罪だったから。神道は生の宗教であって死の宗教ではない。神道は仏教やキリスト教徒習合しない限り、来世教的性質を持つことはなく、死者の魂の救済には全く関係がなかった。石器時代に、死者は葬られるとき胸の上に大きな石を載せられた。それは死者の魂が墓から出ることを恐れたためといわれている。

 日本の神は共同体(=氏族)の神であった。従って祭りは共同体の団結を更新強化するために行われた。こうした神を祀る生活においては、共同体への故人の埋没が倫理として要求された。神道のいう「誠」「正直」の徳は、近代道徳における個人的責任に関するものではなく「私のない心」=「けがれのない心」=「清明心」であって、畢竟それは全体に和順する心に外ならなかった。

 これが神道の「教え」のコアとなる本体で、それが時代時代のさまざまな思想の衣装を身につけて自己を表現してきた。「その『変わり身の速さ』――守旧性と適応性、持続と変化――の弁証法が私のいわゆる函数主義であって、これが神道思想史を特徴づける『着せ替え人形』的現象を生みだしたものである。」

 「したがって、神道が時代時代に身につけては未練もなく脱ぎ捨てていった衣装を本体だと思い――例えば戦前・戦中の国家主義を神道の本質だと思い誤って――神道を批判したり、またその批判に憤慨したりするのは、神道に対する的外れの中傷であり、また、贔屓の引き倒しというべきであろう。」」(『神道思想集』「神道の思想」解説p34~37)

tiku 一読者様の神道についての見解も、この石田氏の見解と同様のものではないかと思います。これは大変重要な指摘で、神道思想の”なぞ”を解明する時の第一の関門ですね。

 そこで問題は、では昭和において神道が身に纏った「思想」はどういうものだったか。なぜそれが「現人神」国体論に変貌し、軍の統帥権独立→天皇機関説排撃→国体明徴運動→政党解散→軍による大政翼賛議会の掌握→軍部独裁的政権の樹立へと進んだか、ということです。その究明に取り組んだのが山本七平の『現人神の創作者たち』(「創作者」から、「育成者」そして「完成者」まで記されるはずでしたが、創作者段階で止まった。)だったのではないかと私は思っています。

 まず、はじめは、江戸時代に入って、朱子学の正統論からそれに対する殉教思想が生まれたこと(浅見絅斎)。それが国学(本居宣長)との習合によって日本の万世一系の天皇による統治の正統性が「中朝事実」(山鹿素行、山崎闇斎)によって理想化されたこと。後期水戸学によってそれが忠孝一致の国体論(藤田東湖)に発展したこと。同時に、国学とキリスト教の習合(平田篤胤)によって日本神話の神々が絶対神化され、その子孫である天皇の「神格化」がなされるとともに、日本神話の世界宗教化が図られたこと。

 維新後は、このような平田篤胤による神道の「国家神道的理解」(これも衣装の一つ)によって神道の国教化が試みられた。神仏分離令(1968年)が出され(これが排仏棄釈運動に発展)神社の整理統合や祭祀の統一化が図られた。その後、政府は仏教と和解し大教院を置いて神仏合同の布教機関とした。布教の基準は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴、朝旨遵守)だったが、神道側の主導に反発した仏教側が「信教の自由」を楯に分離運動を起こしたため失敗。1875年に大教院は廃止された。

 この間、政治思想としては、藩の軛を脱した個人主義が富国強兵に結びつくという、福沢諭吉の「独立自尊」の思想を出発点として、明治20年代に入ると、個々人の民族的自覚の強調(陸羯南、三宅雪嶺)され、30年代は「家」を社会構成の単位として国家の基礎に据え直した「明治民法典」(穂積八束)が成立して、家制国家体制が樹立された。次の40年代は、そのイデオロギーとしての家制国家主義思想(井上哲治郎)が確立した。

 井上はこの家制国家体制を説明するのに、家族制度を個別家族と総合家族に二分し、個別家族の倫理である孝と総合家族である国家への忠が完全に統一されると論じた。こうして、忠孝一致、忠君愛国を国民道徳の中核とすること。家と国、孝と忠との結合を媒介するものとして、祖先崇拝をとり上げ、歴史と神話の結合を復活させ、これによって国家の神秘化(神国思想)、天皇の神聖観(神皇=現人神思想)が復活することになった。

 こうして、明治維新の思想的革命の「やり直し」としての昭和維新につながっていったのですね。そのポイントは、政教分離及び立憲君主制から、「現人神」である天皇による親政=祭政一致の国体政治に戻ることでした。教育勅語もこうした思想(尊皇思想)を背景にもっていたのですね。もちろん、そこに語られた徳目は儒教思想によるものでしたが、これらは「我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す」とされました。

>*戦前に神道の国教化を目指す勢力があったことと、国家が神道の国教化をはかることとは、まるで意味が違うということは、言うまでもないことだとは思いますが、一応附言しておきます。

tiku 参考までに日本史大事典「国家神道」より、
1869年 太政官の上位に神祇官を設けて神道の国教化を進める
1871年 伊勢神宮を頂点とし、他の神社を官弊社・国弊社(それぞれ大・中・小社)、府・藩・県社・郷社・村社に列格し、矮陋神祠の破却を命じた。神職は給録が支給され大教宣布に従事することになった。宮中でも仏事の全面廃止と神事の復興・新設がなされた。また宮中祭祀と神社祭祀の一体化が図られた。その後神社行政は教部省に移り、神職は僧職とともに大教院の教導職として活動するも、神道内部の対立や仏教界の離反もあり1877年教部省は廃止され内務相社寺局の管轄となる。
1901年 大日本帝国憲法は条約改正に関わって信教の自由を規定していたので、キリスト教公認と国会開設により国体が汚損されることを恐れた神社人は神社非宗教論を唱えた結果、神社局と宗教局が区別されるようになり、内務相は神社の祭式や神職の任用令を定め神社を統制した。
1907年ころより「神社合祀令」により日本の神社は無格社・村社・郷社・府県社ないし官・国弊社に合併・整理せられ、いずれも皇祖や皇祖神を祭神とすることになった。
1914年「官国弊社以下神社祭式」によって全国一律祭式に統一
1926年 神社法制定
1940年 神祇局設置

>また、仮に靖国神社が非宗教法人化して靖国社となったとしても、一定の神道的要素を残すべきではないかと考えた理由は、一つには、日本の伝統的な宗教感情との連続性を維持すること(この意味では、tikurinさんがおっしゃる祖霊信仰を考えることにも意味があるかもしれません。完全に宗教性を否定すると、当該施設が形だけのものとなって荒廃することは、古今東西の例が示しています。

> 要するに、簡単に「分祀」や「廃祀」を認めない方がよいということですが、宗教はもちろん伝統的文化や習俗であっても、現実の政治とは一定の距離を保つことが、近代以降の国家にとって必要とされる智慧ではないでしょうか。

tiku 靖国神社は神社本庁に属しない、戦没者を祀るための国家が管理する慰霊施設というのが本来の性格なのですから、その性質上「政治に巻き込まれないための政治的配慮」が必要であり、従って、靖国神社側がそうした「政治的配慮」をすべきではないか、というのが私の考えです。

>(遊就館について)麻生氏は次のように述べています。
『さらに靖国神社付設の「遊就館」は、その性質にかんがみ、行政府内に管理と運営を移すべきだろう。その後展示方法をどうするかなどの論点は、ここまで二に述べた「原点」に立ち戻りつつ、考えるべきである。』

tiku 私もこの意見に賛成ですね。作るなら記念館として「堂々たる立派なもの」を作っていただきたいですね。