小沢一郎の宣誓拒否と「知らぬ存ぜぬ」――なぜ偽証を強いられた子分だけが罪に問われるのか。

2010年5月20日 (木)

 「我々の実感からいえば、図々しくも宣誓を拒否した人間が最も罪が重く、証言しても『知らぬ、存ぜぬ、記憶にない』で突っぱねた人間は相当に罪が重く、組織への忠誠からやむなく偽証せざるを得なかったもの、とくに、社命に従わざるを得なかった下級管理者の余儀なき偽証は、情状酌量の対象のはずである。ところが、この最も図々しい宣誓拒否者は罪にならず、なっても軽く、余儀なき偽証でもその罪は重いとなると、どうも釈然とせず何とも割り切れない。そして我々の伝統を考えれば、割り切れなくて当然なのである。」

 以上の言葉は、山本七平『指導者の条件』(「山本七平ライブラリー」p190)からの引用です。これは、ロッキード事件裁判中の1976年8月4日に鬼頭判事補が引き起こした謀略事件に関わって氏が参議院に証人喚問された時、氏は刑事訴追のおそれがあるとして宣誓を拒絶したこと(この証言拒否は議院証言法違反で告発されたが、1977年3月21日に不起訴処分となった)、及び、同じくロッキード事件に関わって、丸紅前専務の伊藤宏や大久保利春らが偽証罪で逮捕起訴されたことについて述べたものです。

 この事件から、すでに33年が経っているわけですが、冒頭の文章は、まるで今日の民主党の鳩山首相及び小沢幹事長と、それぞれの秘書との関係のことを述べているかのようです。今日問題になっているのは、小沢幹事長の石川元秘書(現衆議院議員)らが起訴されている政治資金収支報告書の4億円虚偽記載について、小沢氏が共謀関係にあったかどうかということですが、小沢閥のまるで徒弟制度を思わせるような絶対服従の師弟関係から見て、秘書がそれを小沢氏の了解なしに勝手にやったとは到底思えません。

 こうしたやり方は、日本的な「恩」を媒介とする人間関係において、「恩」を施した人が、「恩」を受けた人に対して、それ相当の「見返り」(この場合は「身代わり」)を要求していることになります。山本七平は、不干斎ハビアンの『平家物語』(16世紀の著作)を紹介する中で、この時代の倫理規範は、「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」だったと指摘しています。(『日本教徒』参照)こうした考え方は、現代の私たちにも通用するものがありますが、小沢氏の以上の態度は、こうした日本人の伝統的な倫理感にも反する「やくざの論理」です。

 もちろん、憲法第31条や刑事訴訟法第336条の推定無罪の考え方からいえば、あくまで「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」ですから、嫌疑不十分で不起訴になったということは、当然、無罪を推定されます。しかし、小沢氏が国民に信を問う国会議員として自らの潔白を主張するなら、国会の証人喚問にも応じて問題となっている4億円の出所を明らかにし、それが、政治資金収支報告書に虚偽記載する必要のないものだったことを証明すればよいのです。

 しかし、小沢氏がそれをやらないということは、その金の出所を明らかにできないということで、だから、あえて利息を払ってまで4億円を銀行から借りたように偽装したのだと見られても仕方ありません。ただ、検察側としては、この4億円の資金の出所について、その違法性を立証することは困難なので、これを訴因とはしなかったのだと思いますが、そこに、地元建築業界からの政治献金や、政党解党時の残余の政党助成金など、脱法的に集められた資金が含まているのであろうことは当然疑われます。

 では、なぜ、氏にはそのような多額の政治資金が必要だったかというと、氏が野党に身を置きながら政治権力を維持するためには、自らの派閥を育成・強化することで、政党に対する支配力を保持する必要があった。そのために金が要ったということだと思います。ガルブレイズによれば、権力の三源泉とは、個人的資質、財力、組織であり、それを掌握することで、威嚇、報償、「条件づけ」(パブロフの犬の条件反射のように、人びとを一定方向に「条件づけ」ること)により、権力を維持することができるといいます。

 そこで小沢氏は、まず、『日本改造計画』などの著書によって個人的資質をアピールし、その裏で企業献金と政党助成金を脱法的に集めて財力を蓄え、自己派閥を育成して政党を支配し、政党の思想や理念を無視したむき出しの多数派工作によって、日本の政界をかき回してきたのです。だが問題は、『日本改造計画』などに語られた氏の政治思想が、実は借り物で、それは権力獲得のための手段に過ぎなかった。また、政官業癒着の利権構造の根絶というのも、あくまで政略的プロパガンダに過ぎなかったということです。

 確かに、氏のこうした権力維持方法は、田中角栄がそうであったように、いわば裏組織を駆使して隠密裡に取引されるものであるために、法的な責任を問われることは殆どありませんでした。しかし、こうした政治手法は、氏が『日本改造計画』で述べた次のような言葉、「第一に、政治のリーダーシップを確立することである。それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、そういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある」という表向きの政策理念とはまるで反対のものです。

 こうした氏の言行不一致は、氏の政治家としての個人的資質(情況判断・決心・処置)を疑わせるに十分です。それだけでなく、上述したような自分の責任を棚に上げ、部下を犠牲に生きのびようとするやり方、その場しのぎの嘘を繰り返すやり方、偏頗な知識でキリスト教批判をしたり、自分と異なる意見の持ち主を恫喝し黙らせようとするやり方など、その人格を疑わせるものもあります。おそらく、今日の民主党政治の混乱は、こうした小沢氏の資質にその一因があることは間違いありません。

 民主党の若手の政治家の中には、こうした小沢氏の目くらまし戦法や恫喝政治の金縛りにあって、氏を政治的先見性のある豪腕政治と錯覚している人が多いのではないでしょうか。実は私も一時騙された口で、同様に、氏の本を読んで騙された人も多いと思います。それにしても、これだけ派閥政治からの脱却が叫ばれる中で、なぜ、氏は、田中軍団を彷彿とさせるような派閥を維持するのか。自家の新年会や法事にむやみに人を集めるのか。社民党や国民新党など、氏の思想とは相容れないはずの政党と連立しようとするのか・・・。

 そんなことを考えていた折、VOICE6月号で、曽野綾子氏の次のような文章を見つけましたので、終わりに紹介しておきます。

 「日本人は長年、正直を世界的な信用の力にし、ほとんど資源もない国で生きのびてきた。この国民の素朴な道徳力を、民主党の総理と幹事長は、根本から覆した記録を残した。小沢氏の名義になった四億円分の資産など、細かに出所を明らかにしさえすれば国民は簡単に納得するはずだ。総理の元秘書は偽装し、月額千五百万円という途方もない額の資金提供を親から受けたことを鳩山氏は全く知りません、などと言う。そんな杜撰な金銭感覚の人に、爪に火を灯して暮らしている国民の金を扱うことなどできないだろう。・・・鳩山母堂は『親がおなかを痛めて生んだわが子を助けるのは当たり前』と言った。誰もが同じ思いなのだから、これからは皆がそう言って相続税を免れることができるようになる。そんな空気を生むのが、一国の総理の身の処し方なのだろうか。」

 小沢幹事長についても同じことが言えると思います。これが政権党幹事長の身の処し方ですかと。(5/21追記)