「正論」を堂々と掲げた、言葉による権力闘争こそが真の「権力闘争」

2010年2月18日 (木)

 相変わらず小沢氏が”ねばり”を見せていますね。というより、あえて強気に出ている感じがします。「強制力を持った検察の捜査に勝るものはない。その結果、不正はないと明らかになったのだから、国民ははっきり理解していただける」というのがその言い分です。しかし、前回のエントリーで指摘したように、特捜部の佐久間達哉部長は4日の記者会見で、「(土地購入の)原資の実態は重要な判断要素」「どういう由来の金かは公判で明らかにする」といっていますので、まだ「不正はないと明らかになった」とはいえないと思います。

 というより、「検察の捜査で不起訴になった」ということを「不正はないと明らかになった」と理解すること自体が、近代裁判の考え方を理解していない証拠だと思います。おそらくこれは、刑法の「無罪推定」に依拠しているのだと思いますが、これはあくまで「刑法上無罪を推定する」ということであって、疑われた政治資金規正法違反行為について「不正はないと明らかになった」ということではないのです。つまり疑いは依然として残されているが、検察が立件し公判を維持するだけの完璧な証拠が得られなかった、ということに過ぎないのです。

 ここに、日本人の法意識と欧米デモクラシー国家の法意識のズレがあるわけですが、この裁判における証拠採用の問題が、最も先鋭な形で露呈したのが、田中角栄元首相が被告となったロッキード裁判でした。ここで問題となったのは、田中角栄氏が全日空の航空機選定にからんで、ロッキード社から5億円の賄賂を受け取ったとする罪状について、その証拠として採用されたロッキード社のコーチャン、クラッター両氏の、刑事免責を与えた上での嘱託尋問調書が、はたして合法であるか否やということでした。

 立花隆氏は、法律というのは血も涙もあるもので、同じ数式に従って自動的に答えが出せるようなものではない。従って、その法律―この場合はこの調書を証拠として採用した法律―の運用にあたっては「その社会全体の益になるよう」に解釈・適用すべきだと主張しました。これに対して、渡部昇一氏や、数々の冤罪事件で無罪を勝ち取った、いわゆる人権派弁護士の倉田哲治氏などは、この裁判の事実認定の最大の拠りどころとなっている証拠が、嘱託尋問調書であることを問題としたのです。

 いわく、この裁判では、「被告人の自白調書など、本来は違法のものを裁判官が合法と認めている。そうしたルーズな証拠がどんどん裁判所に採用されてしまい、それが被告人の不利益になるような判断の材料とされ」ている。これでは、「戦後、刑事訴訟法が施行されてからこのかた、・・・(人権派弁護士らが)築き上げてきた事実認定や証拠の採用についての成果が一気に壊されてしまう。一番悪い刑事裁判のパターンが、先例として残されてしまう。これはどうしても阻止しなければならない。」

 結局、この論争は、最高裁が、「共犯者に免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる制度を日本の法律は想定していないとして嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した」ことによって決着しました。(もっとも、田中角栄の判決については、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されましたが・・・)立花隆氏の主張が斥けられた格好になったわけですが、しかし、立花隆氏の主張が全く無効だったというわけではなく、この論争によって、職務権限がないにもかかわらず、民間会社に政治的影響力を行使し裏献金を受け取る日本独特の「裏権力」行使の実態が明らかになったのです。

 そこで、こうした問題に対処すべく考えられたのが、政治資金規正法を改正し、企業・団体からの政治献金を、政党(政党支部を含む)、政治資金団体、新設された資金管理団体に限定する(1994)。資金管理団体に対する企業・団体からの寄附を禁止する(1999)。政治資金団体に関する寄附の出入りについては原則銀行や郵便振込み等で行う。政党及び政治資金団体以外の政治団体間の寄附の上限(年間5000万円まで)を設ける(2005)。資金管理団体による不動産取得の禁止する(2007)。国会議員関係政治団体に関して、1円以上の領収書公開や第三者による監査義務付ける(2009年分の収支報告書から適用)などでした。

 また、1994年の政党助成法の制定に伴って、収支報告書に虚偽記載した場合の罰則は、無届団体の寄附の受領、支出の禁止違反については5年以下の禁錮、100万円以下の罰金。収支報告書の不記載、虚偽記載(重過失の場合を含む)については5年以下の禁錮、100万円などに強化されました。また、こうした刑を言い渡された場合、下記の期間、公民権(公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権)が停止されることになりました。
① 禁錮刑に処せられた者
裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間とその後の5年間
② 罰金刑に処せられた者
裁判が確定した日から5年間
③ これらの刑の執行猶予の言い渡しを受けた者
裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間

このように、この論争を経て、政治資金規正法は格段に強化され、政治家の「裏権力」行使による企業団体からの政治献金について厳しい枠を設け、かつ、政治団体の政治資金収支を透明化し公表することを義務づけたのです。同時に、この法律に違反した場合の罰則も贈収賄罪に匹敵するものに強化されました。また、新たに政党助成法を成立させ、政党に対する政治資金を公的助成制度をスタートさせたのです。

 ところで私は先に、「日本人の法意識と欧米デモクラシー国家の法意識のズレ」ということを申しました。この点も、この論争を考える際の重要ポイントですので説明を加えておきます。実は、この指摘は、山本七平氏がその著書『派閥』において行ったものです。氏は、この著書の中で、「立花vs渡部」論争に関する、政治学者の小室直樹氏の次のような近代裁判の論理についての解説を紹介しています。

 近代裁判における「原告の主張も、被告の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続き)によって検証する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張をしりぞけない。ゆえに、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。まして、『正義が勝った』などという意味ではない。裁判官が、『必ず真実を明らかにして正義を勝たしてみせる』なんて思い上がった瞬間、近代裁判は姿を消し、それは『遠山の金さん』の裁判になってしまう。」

 これは、日本人は一般的に、裁判の目的を「真実を明らかにすること」と理解しているが、近代裁判の目的はそうではないということ。それは、あくまで所定の手続きに従って採用された証拠により判決を出す、ということであって、その判決はあくまで「仮説」であり「真実」ではない、ということなのです。従って、重要なのは裁判の方法(手続き)ということになる。おそらく、こうした考え方を基に、無罪推定や黙秘権さらにはプライバシーや思想信条の自由といった「人権」概念が生まれているのでしょう。

 そこで、こうした考え方を今回の小沢氏の「起訴見送り」に適用してみると、それは、裁判における証拠採用の「手続き」が重視された結果、石川代議士らに問われた嫌疑については、小沢氏の関与を立証する十分な証拠が得られなかった、ということだと思います。つまり、疑わしいが、起訴し公判を維持するための十分な証拠が得られなかったということで、決して「不正はないと明らかになった」わけではないのです。従って、今後、検察審査会による再審査もあり得ますし、新たな証拠が出れば別の訴因(例えば所得税法違反)での立件もあり得ることになります。

 以上、小沢氏の政治行動について、その政治資金調達が政治資金規正法や所得税法に触れるのではないか、ということを論じたわけですが、こうした法的アプローチとは別に、今後、その政治的・道義的責任が問われることは必至だと思います。過去の類似の事件を見ても、加藤紘一氏が秘書の所得税法違反の責任をとって議員辞職(2002.4)していますし、橋本元首相は、日歯事件(2004.9)で不起訴となりながらも議員辞職に追い込まれています。

 こうしたことを総合的に考え合わせると、小沢氏が、前回のエントリーで私が指摘したような複雑怪奇かつ巨額の政治資金疑惑をかかえながら、政権政党の幹事長として、首相をしのぐ権力を行使し続けることは到底できないと思います。それにしてもよく”ねばっている”という感じはしますが、そのことは逆に、小沢氏の政治手法や政治姿勢に対する疑念、民主政治家というより独裁政治家に近いのではないかという疑いを増幅させることにもなっていると思います。

 私が問題にしているのもこの点で、その政治手法はどうもおかしい。その政治資金調達法やその使い方が「金権政治」的であり、その組織の作り方動かし方が「派閥政治」的であるということもさることながら、その掲げた政治理念(=正論)は”本物”ではなかったのではないか、ということなのです。私は、昨年辺りから、氏の『日本改造計画』や『小沢主義』をはじめとする氏の著書を読みはじめました。はじめは、その「正論」に感動しました。また、その文脈の中で、氏のマニフェストも読み、その可能性に期待しました。

 従って、氏が民主党の代表になって以降の、日本の安全保障に関わる氏の主張のブレや、政権獲得までの小泉構造改革に対する批判は、野党をまとめるための”方便”であり、政権獲得後は「正論」の方向でリーダーシップを発揮するのではないかと期待したのです。それにしても民主党のマニフェストの”目玉”商品には”バラマキ”が多いとは思っていましたが・・・。ところが、民主党が政権獲得後も、この”方便”は修正されるどころか、”バラマキ”を食い散らすばかりで、その背後にあったはずの「正論」は微塵も感じられません。

 また、小沢氏自身の言動は、かって唱えてきた「正論」は実は借り物で、その動機は、単なる権力欲でしかなかったのではないかと疑わせるほどに貧弱です。そういえば、小沢氏が自民党を離脱して以降の日本の政治は、政治理念とは関係のない、単なる政権欲に発した野合政治に堕している。あるいは、民主党が政権を獲得した暁には、こうした状態も解消されるかと期待されましたが、現実には、民主党の「正論」は根も葉もない”飾り立ての造花”にすぎなかったことが次第に明らかになりつつあります。

 これまでの日本の政治改革課題といえば、まず、田中角栄以来の「金権政治」を打破すること。その温床となってきた「派閥政治」を打破し、内閣の政治的統合力を高めること。「官僚依存の政治」を脱却すること、などでした。いずれも小沢氏自身が主張してきたことでもあるわけですが、その後氏がやってきたことは、他の誰よりも「金権政治」的であり、「派閥政治」的であり、そして、その権力意志は「官僚依存の政治」からの脱却というより、「官僚敵視」の独裁政治を指向しているように見えます。

 では、現在の民主党内には、このような日本の政治改革課題――「金権政治」の打破、「派閥政治」の打破、「官僚依存の政治」からの脱却――を受け止めそれを実行に移す力があるのでしょうか。いうまでもなく前二者については、政権交代政党という、従来の”しがらみ”をもたない強みがあります。問題は三番目の「官僚依存の政治」から脱却して内閣の政治統合力を高めるということですが、この点では、小泉内閣の経済財政諮問会議に学ぶと共に、官僚のシンクタンク的機能を十分生かすことが大切です。

 要は、政治主導体制の確立のための「内閣官僚制」をいかに確立するかということです。そのためには、官僚組織が自己保身的に共同体化する傾向を阻止し、内閣官僚制を支える機能的な組織に改編する必要があります。また、政治的意志決定過程を極力透明化するため、その間の議論のをネット上に随時公開し、国民の判断に供する必要があります。その上で、安全保障、経済、福祉、行政改革、地方分権、教育などの政策課題に、政治主導で対処していかなければなりません。

 その場合、政権政党にとって最も大切なことは、その政党の掲げる政治理念を明快にするということです。また同様の政治理念を掲げる政党と連立することです。現在の民主党連合政権は、政治理念や歴史認識を全く異にする政党が権力欲しさに野合しただけのもので、これでは一貫した政策が打ち出せるはずがありません。鳩山首相の「友愛政治」とか「命を大切にする政治」などという言葉は、そうした政治理念の曖昧さを暴露する以外の何者でもありません。これでは政治家不信を招くだけです。

 同様のことは、社会党と連立して以降の自民党についてもいえます。このことは、今日の日本社会が、55年体制崩壊以来の政治理念の再構築を迫られているということだと思いますが、その時のキーポイントとなるものが、いわゆる日本人自身の歴史認識の問題ではないかと思います。いうまでもなく、夫婦別姓の問題や、外国人の地方参政権などの問題なども、この問題に関わっています。今日、「坂の上の雲」や「龍馬伝」が話題になるのも、こうした問題意識を反映しているのではないでしょうか。

 いずれにしろ、自らの歴史的・文化的伝統の上に、その弱点を克服し長所を生かすという形でしか、自らの民族の生存を図る道はないわけで、そうした共通認識の上に立って初めて、国際社会における共存・共栄のためのルール作りに参加できるのです。もちろん、自由主義経済から逃避することなどできないし、できることは、その枠組みの中で、企業共同体的な日本の社会構造を、社会全体へと広げていくこと。それも自己保身的な共同体ではなく、自己革新的な共同体へと発展させていくことが大切です。

 確かに、政治の世界において、”熾烈な権力闘争を闘うエネルギーが失われる”ことは歓迎されるべきことではないでしょう。だが、それが、かって「四絶」といい精神的克服の対象とされた「克・伐・怨・欲」という悪しき感情に動機づけられたものであってはならないと思います。その意味でも、小沢政治の「権力闘争相至上主義」はこれで終わりにしてもらいたいし、一日も早く、「正論」を堂々と掲げた、言葉による熾烈な権力闘争が繰り広げられることを望みたいと思います。