小沢一郎の権力意志と歴史認識について(2)

2009年12月11日 (金)

鳩山首相は、12月5日、今後の政権運営のあり方をめぐって、前日4日に首相官邸で小沢幹事長及び輿石東参院議員会長と協議したことを明らかにしました。これについて、小沢一郎幹事長は7日の記者会見で、「私は首相とは会ってません。首相に聞いてほしい」と否定しました。一方の首相は、首相官邸で記者団に対し「まぼろしの方とお会いしたと・・・。現実は、お会いしました。私から持ちかけた。普天間基地移設問題と平成21年度第2次補正予算に関する対応を申し上げた。『その通りで、頑張ってください』という話だった」と、会談があったことを改めて認めました。

 これらの記者会見の様子は、テレビ報道されましたので、多くの国民が目にしたことと思いますが、”一体どっちが首相なんだろう?”と首をひねった人も多かったのではないでしょうか。果たして、小沢幹事長の方が世間の噂通り傲慢なのか、それとも、鳩山首相のリーダーシップ能力が欠如していて、部下から舐められているのか、いずれにしても、内閣のあり様としては前代未聞の醜態のように思われました。

 次いで、12月8日には、当日開催された基本政策閣僚委員会で、菅直人副総理兼国家戦略担当相と国民新党代表の亀井静香金融・郵政改革担当相が、約20分にわたって口論したことが報じられました。

 菅氏は当初、4日に決定するだった経済対策が8日に先送りされたことについて、亀井氏が4日の閣僚委員会に出席しなかったことを批判し、次いで、亀井氏の推薦で元大蔵事務次官の斎藤次郎氏が日本郵政社長に就任したことや、郵政関連法案の成立にも協力したことをとりあげ、「亀井政権じゃないんだ」「鳩山由紀夫首相を支えて、政権全体の責任を分かち合ってもらいたい。党を代表する立場なんだから、理解してもらいたい」と注文を付けました。

 これに対し、亀井氏は閣議後の記者会見で、「ああいうのは議論とは言わない。菅氏は言ってはならんことを言った」と憤まんやるかたない様子でした。結局、亀井氏は、第2次補正予算案に盛り込む経済対策の規模を、当初案より1000億円上積みして、7兆2000億円とすることについて、「首相が決めれば私は従う」と述べ矛を収めました。

 ここで問題は、亀井氏の言う「菅氏は言ってはならんことを言った」の意味ですが――これを詮索する報道は見かけませんが――私は、このポイントは、菅氏の発言によって、日本郵政社長に斉藤氏を充てたことや、日本郵政とゆうちょ銀行、かんぽ生命保険3社の株式売却凍結法案などの「郵政関連法案」の成立は、亀井氏の意向によるものであって、民主党の本意ではないということが国民の前に明らかにされたことだと思います。当然菅氏はこうした計算をしていたはずで、亀井氏が憮然としていたのもむべなるかなと思いました。

 それにしても、今までの亀井氏の行動は、国民新党がいくらキャスティングボートを握っているからといって、国民新党の獲得議席数からすれば、国民の意向を無視した独断・独善的行動といわざるを得ず、それだけに、菅氏の発言は国民の目には”まっとうな意見”と映ったのではないかと思います。本来なら、こうしたことは、鳩山首相のリーダーシップさえ”まっとうに”発揮されていれば起こり得ないことなのですが、ここでも、氏のリーダーシップの無さが遺憾なく露呈されたと思います。

 しかし、真の問題は小沢氏です。氏は、今後、民主党政権をどのように運営しようとしているのか。普天間基地移設問題を端緒に信頼の揺らいでいる日米同盟関係や、核戦力を含め軍事力を一層強化しつつある一党独裁国家中国との外交関係をどのように調整しようとしているのか。本年度の国債発行額が、終戦直後の1946年度以来63年ぶりに税収を上回るという財政の異常事態にどう対処するのか。そのあたりの氏の意向が一向に見えてこない、ということなのです。

 そこで、前回言及しました氏の著書『日本改造計画』と『小沢主義』などから、氏のこうした問題に対する基本的考え方を探ってみたいと思います。

 まず、日本の安全保障の問題の問題ですが、とっかかりの問題提起として、WSJ(ウオールストリートジャーナル)10月26日のTokyo Defense kabuki と題する記事を念頭に置いていただきたいと思います。外国のジャーナリストがこの問題をどのように見ているのか、ここに明快に示されているからです。

Mr. Hatoyama may feel that he's simply sticking to a campaign pledge to put more distance between Japan and the U.S. But it doesn't sound like he's thought much about the alternatives. Will Japan spend more on its own defense? Does Mr. Hatoyama think the North Korean nuclear program and growing Chinese military force aren't serious enough to warrant a closer U.S.-Japan relationship? Does he think diplomacy alone can keep Japan safe? These are the questions Japan's new prime minister needs to be asking, rather than putting on a kabuki show on defense.

 鳩山氏は、単に、日米の同盟関係に今よりも距離を置くとした選挙公約にこだわっているだけなのかも知れない。しかし、彼はそれに代わる十分な対案を持っているようには思えない。日本は自国の防衛により多くの支出をしようとしているのか。鳩山氏は、緊密な日米関係による保障を必要とするほど、北朝鮮の核開発プログラムや中国の軍事力増強は深刻ではないと考えているのか。彼は、外交だけで日本の安全が確保できると思っているのか。これらが、防衛問題について日本の新首相が問われている問題である。歌舞伎を演じている場合ではないのである。(私訳)

 ここで問われているのは以下の三点です。
一、日本は自国の防衛により多くの支出をしようとしているのか。   
二、北朝鮮の核開発プログラムや中国の軍事力増強は、緊密な日米関係による保障を必要とするほど、深刻なものではないと考えているのか。
三、外交だけで日本の安全が確保できると思っているのか。

 では、これらの疑問についての小沢氏の考えはどうなっているのでしょうか。それは氏の次のような言葉に明快に示されています。

外交不在の国

 そもそも日本は歴史的に見ても、島国という地理的条件もあって、外交らしい外交をほとんどやってこなかった国である。
近代に入って、日本は西欧諸国とも外交関係を持つようになったわけだが、明治維新の元勲たちがいた間はよかったが、彼らがいなくなってしまうと途端に「外交音痴」に戻ってしまった。そして、昭和の日本は国際問題を処理することができなくなり、あのような戦争に突入することになってしまったというわけだ。

 戦後は、「アメリカの傘」に守られていた日本は、外交や防衛といった国家にとって重要な問題をみずから考え、決断する必要に迫られずに済んだ。
しかし、冷戦構造の終結によって、そうした時代はすでに過去のものとなった。日本は否応なしに「自分の脚」で立ち、「自分の頭」で考えて決断することが求められている。

無定見な対米外交

 今の日本が抱えている最大の外交問題は何といっても、対米関係、ことにアメリカが行なっている「テロとの戦争」への対応だろう。
僕は日本の外交にとって最も重要なのは日米関係だと思っている。日本と同じ政治体制、経済体制を持ち、長い歴史的関係を持つ両国が緊密な関係にあることは、世界平和にとっても、また日本の繁栄と安全のためにも必要不可欠なことだ。
しかし、だからといって現在のように「アメリカのI」機嫌取り”をしていればよい」というような態度を取るのは、けっして本当の意味での同盟国のあり方ではない。

 読者もご承知のとおり、アメリカは二〇〇一年のアフガン戦争、そして二〇〇三年のイラク戦争において「これはアメリカの戦争だ」として、国際社会の同意を待たずに戦争を開始した。
僕は、日本が国連決議を待たずにアメリカ支持を打ち出したことそのものを一方的に批判しているわけではない。
国際社会全体がアメリカのやり方を支持しなくても、日本の国益や世界平和の観点から、同盟国としてアメリカを支えるという判断がそこにあるのなら、それはそれで国家としての行き方であり、一つの外交政策となりうる。

 しかしながら、そこにはたして日本外交としての見識や思想があったのか。あるいは国益に基づく判断があったのか。そんなものがあるとは、僕にはとうてい思えない。
しかもその一方において、アフガンの復興と治安維持のため、国連は各国に要請してPKOを組織してアフガンに派遣したが、日本は国連の活動であるPKOであるにもかかわらず、「危険だから」という理由で参加を断わっているのである。

その場しのぎの下策

 そもそも、自衛隊は紛れもない軍隊であり、その軍隊を自国の領土の外に派遣するというのは、ひじょうに重大な意味を持っている。
自衛隊を派遣するならば、まず日本の立場と方針を明確に説明し、その枠の中で行動するのが当然のことであって、「その場その場で対応する」という対応は国家のあり方としては下策だ。
ましてや、自衛隊の海外派遣については、従来から憲法第九条の規定に抵触するのではないかという議論が絶えないところだ。

 アメリカと連携して対テロ戦争に参加するというのであれば、従来の憲法解釈を変更し、我が国の安全と直接関係のない事態であっても、目米同盟のもとにアメリカと集団的自衛権の行使が可能であると、日本政府として正式に決定した上で、堂々と自衛隊をイラクに派遣するのが筋というものであろう。

国連に「御親兵」を

 今のアメリカの過ちは、世界の平和を自国だけの力で維持できると過信しているところにある。
たとえば現在のイラクの混乱にしても、やはりアメリカが「これはアメリカの戦争である」として、国連による決議といった手続きを経ずに戦争を開始してしまったことがそもそもの誤りだった。
これがもし、アメリカが最初から国際協調の中でイラク問題を処理していたら、ここまで戦後統治に苦労することはなかったはずだ。

 といっても、今の国連には残念ながら、平和のための実力行使を行なう自前の警察力、軍事力がない。現在の国運の枠組みでは、国連が平和維持活動を行なうときには各国からの軍隊がそれに参加することになっているわけだが、それではしょせん「借り物」にすぎない。

 国連が本当の機能を果たすためには、やはり常設の警察軍を自前で持つのが理想である。しかし、国連がみずから独自の警察車を創設することは、今の世界情勢ではほぼ絶望的であろう。

 そこで僕がかねてから理想として提唱しているのが、日本が世界に先駆けて、国運にその力を提供するということである。
ご承知のとおり、明治維新の際、新政府は当初、自前の軍隊を持たずに、薩長をはじめめとする旧藩の「多国籍軍」によって国家防衛、治安維持を行なっていた。今の国連と同じである。
僕は、この明治維新の故事にならって、日本は今こそ国連に「御親兵」を出して、世界平和への我が国の姿勢と理念を世界にアピールしていくべきだと思っている。

今こそ日本国憲法の精神を

 といっても、現在の自衛隊をそのまま国連に差し出すのは内外から誤解を受ける恐れがある。だから自衛隊とはまったく別に国連専用の組織を編成し、これを提供するわけである。もちろん、その場合、その部隊は国運事務総長の指揮下に入る。
日本には不幸な過去があるから、現在のように自衛隊を国連の平和維持活動に提供すれば、それは周辺諸国に対して余計な疑念を起こしかねない。自衛隊はあくまでも国家防衛に専念する、専守防衛の兵力としておけば、そうした摩擦はなくせる。

 さらにもう一つ、付け加えれば、国連に部隊を提供することは現行の憲法といささかも矛盾するものではない。いや、それどころか憲法の精神に合致していると言っても過言ではない。

 なぜなら、先はども述べたことと重なるが、日本国憲法前文には世界の国々、諸国民と協力して「国際社会において名誉ある地位を占めたい」という理想が掲げられている。  一国だけの努力や活動ではなく、世界との連帯こそが重要であるという憲法の理想に、現在の地球上で最も近いのが国連であるし、実際、国連憲章の精神は各国が個別的に平和を目指すのではなく、国際的な協調の中で平和を実現するということにあるのだから、これはまさしく日本国憲法の精神とも合致するものだ。

 だとすれば、日本が国連の改革・発展に尽力していくのは、憲法の要請するところだとも言えるわけである。
さまざまな問題を抱えている国連をどう改革し、世界平和実現のために実効ある組織に変えることができるかを考えるのが、現代を生きる我々日本人の責務ではないだろうか。

 何度も繰り返すけれど、外交とはまずみずからの信念、ビジョンを世界中に明確にアピールすることから始まる。そして、みずからの信念に基づく行動を起こしてこそ、国際社会において敬意を払われる国家になれる。
僕は日本に、そうした国になってほしいと心の底から思っている。

日本は世界に何をできるか

 もちろん、国連部隊の創設ですべてが解決するわけではない。軍事力・警察力の行使は、あくまでも「対症療法」的なものであって、戦争や紛争、あるいはテロそのものがそれによってなくなるわけではない。
現在のイスラムーテロにしてもそうだが、あらゆる戦争や紛争の根っこにあるのは貧困の問題だ。

 こうした世界的規模での貧富の差、富の偏在をどうやって解決していくか。これは難問ではあるが、日本が二十一世紀の外交課題として取り組んでいく問題だと思っている。

 日本は戦後半世紀の間、アメリカの傘の下で保護されてきたから、みずからの信念、哲学を問われることはなかった。
しかし、二十一世紀の日本はそうであってはならない。「自立した国家」として、世界に何が貢献できるか、それが問われている。「アメリカのご機嫌を取っていれば大丈夫」などといった安易な道は止め、今こそ「日本が世界に対して何をできるのか」を考えなければいけないと僕は思う。 

 以上で、先の一及び三の疑問についての小沢氏の答えは明らかだと思いますが、では次に、二の疑問についての小沢氏の答えはどうなっているのでしょうか。

靖国参拝の問題点

 小泉首相が就任以来、靖国参拝を繰り返して、そのたびに中国や韓国の反発や抗議を受けてきたのはご承知のとおりである。
首相は、この靖国参拝について「政治家の信念として」とか「不戦の決意を込めて祈願している」などと語っているが、そうした政治的信念に基づくというのならば、堂々と靖国神社に行くのが筋というものである。

 つまり、あくまでも首相としての公式参拝ではなく、私人としての信仰活動だということにして、アジア諸国や国内からの反発を避けようとしたわけである。

 僕は中国や韓国が繰り返している批判には同調するつもりはないが、首相のこのやり方は姑息きわまりないものだと思っているし、政治家としての見識を大いに疑う。靖国神社に参拝するのが自分の信念ならば、それをきちんと説明するほうがかえって日本のためになったはずだ。

自らの信念を堂々と述べる

 僕は年に一回、「長城計画」と題して、一般からの参加者を募って中国指導部と人民大会堂で会食・懇談をしたり、北京市内や万里の長城を見学する交流事業を実施している。これは日中国交回復を成し遂げた田中角栄元首相の「両国の友好親善のためには草の根レベルの交流が大切」という精神から、自民党時代の昭和六十一年から行なってきたものだ。 そんな関係もあって、僕はこれまで何度も中国の指導者だちと会談を持ってきたが、そのときに靖国問題がしばしば話題に出る。

 もちろん、中国側は靖国神社の存在そのものを不快としているわけだが、僕はそのたびに自分の信念をきちんと説明している。
「どこの国でも、自国のために命をささげた国民に敬意を払うのは当然のこととされている。我が国においては、それが靖国神社であって、そこに行って日本人が感謝の念を示すことに他国から文句を言われる筋合いはない」

 「戦争の勝者が敗者を裁いたことによる「戦犯」という考え方を僕はよいとは思わないが、ただ靖国神社にいわゆるA級戦犯の人々が雌られていることは問題だと思っている。なぜならば、靖国神社とは戦死した人を祀る場所であって、戦犯とされている人たちは戦死者ではないからだ。この問題をクリアすれば、僕は首相が靖国神社に参拝するのはまったく問題がないと思っている」

 こうやって僕は中国要人に対して、さまざまな問題に関していつも堂々と自己の信念を明確に説明しているが、それで会談がこじれたり、会談をキャンセルされたことは一度もない。
もちろん、僕の話で彼らが考えを変えるわけではないが、「あなたの考えはよく分かった」と理解してくれる。

 今回の訪中(二〇〇六年七月)で、胡綿濤主席をはじめとする、中国首脳と会談したときにもあらためて感じたことだが、立場の違い、歴史の違い、民族の違いはあっても、みずからの所信を堂々と述べれば、相手はそれなりに尊重してくれるし、理解もしあえるのだ。これは中国に限らず、どこの国であっても同じことだろう

最も恥ずべき「嘘つき」の汚名

 そもそも、現在、靖国神社問題がごじれているのは、ひとえに日本側の対応に問題がある。
外交においては、「嘘つき」と呼ばれることは最も恥ずべきことである。その恥ずべきことを一国の首相が行なったために、中国も韓国も余計に憤激しているのである。このことはあまり知られてないようだから、ことの顛末を簡単に振り返れば、こうなる。

 二〇〇四年十一月にチリーサンティアゴで行なわれた日中首脳会談の場で、胡錦濤主席から靖国参拝を見送るように要請された際、小泉首相は「分かった。適切に対処したい」と答えた。
ところが、それでも小泉首相は二〇〇五年十一月になって靖国参拝をしたわけである。これでは中国側が「小泉首相は言うこととやることが違う男だ」と不信感を持ってもしかたがない。

 一国の首相である以上、その場しのぎのごまかしを言って済ませることは許されない。首相はその場を取り繕うために「適切に対処したい」と言ったのかもしれないが、それは最悪の選択だ。
参拝するつもりだったならば、「主席の立場はよく理解した。しかし、私は日本人の立場から参拝せざるをえないのだ」と堂々と語っておけばよかった。

 一般の人間関係と同様、国際関係においても嘘やごまかしは最もよくない。本音で話し合い、自分の信じるところを語れない人間は誰からも信用されない。

(以上『小沢主義』より抜粋引用)

 これで、二の疑問についての小沢氏の見解もほぼ明らかになりました。氏は、自民党時代の昭和61年から、田中角栄首相の「両国の友好親善のためには草の根レベルの興隆が大切」という精神から、年に一回、一般からの参加者を募って中国との交流事業を実施してきているのです。従って、今回の総勢600名にも達するという同行者を連れての中国訪問も、その一環ということになります。そこで、中国指導部とも、それぞれの国の「立場の違い」「歴史の違い」「民族の違い」を尊重しつつ、率直な意見交換が行なえるのなら、それは本当にすばらしいことではないかと思います。

 そういえば、小沢氏はかって(2002年4月6日)、福岡市内で講演し、東アジア情勢に関連して、中国の軍事力増強への懸念を示すとともに、日本の「核武装」論に言及したことがありましたね。

 「私はこの間、中国共産党の情報部の連中に言ってやった。あまりいい気になっていると、日本人はヒステリーを起こす。中国はロケットだの、核弾頭だのと言っているが、核兵器を作るのは簡単だ。日本がその気になれば一朝にして、何千発の核弾頭が保有できる。プルトニウムは一杯余っているのだから」と語った。そのうえで、「日本は軍事力では(中国に)負けない。だけどそういう時代にまた逆戻りするのか。それで本当にお互いの共存繁栄を図れるのか」とも語り、日中両国とも軍備増強路線は取るべきではないとの考えを強調した、というものです。

 さて、以上のような氏の主張を見ていると、鳩山首相の最近の対米交渉における、「嘘つき」といわれても仕方のないような曖昧な態度について、氏がどう見ているか、おおよその見当がつくように思われます。冒頭に紹介した「私は首相と会っていません」という、小沢氏の木で鼻をくくったような、突き放した物言いは、氏の鳩山首相に対する感情が決して同情的なものではないことを示していると思います。

 それにしても、なぜ、以上のような、氏の著書から伺われる小沢氏の思想信条と、氏の現実政治における政治手法及びそこから生み出される言動とは、関連して論じられることが少ないのか。そこには、およそ同一人物のものとは思われないほどの懸隔があるから、実は、社民党や国民新党との連立も可能となっているわけで、次回は、これらの問題を、小沢氏の日本の経済・財政問題についての考え方とも合わせて、総合的に考えてみたいと思います。