小沢一郎の権力意志と歴史認識について(1)

2009年11月28日 (土)

 渡部昇一氏は、2009年11月号『正論』「社会党なき社会党の時代」の末尾で次のように民主党政権成立後の政治状況の変化を嘆いています。

 「自民党は結党以来、東京裁判史観を是とするか非とするかという対立軸を意識してきたはずで、国家としてそれを乗り越えることが目的だったはずだ。戦後社会のかかえる歪みは全てそれに通底していると言って過言ではない。自民党は民主党に圧倒されたのではない。自らの存在理由であった結党理念を、ただ政権与党でありたいという動機からどんどん薄めていき、日本国を守るとはいかなることかという本質を忘れ、”保守もどき”政党に堕してしまったことが真因である。

 我々はマルクス主義に勝ったと思っていたが、「人権」「人道」「平等」「環境」という一見善なる言葉の陰に極左的価値観は浸透し、わが国を蝕んでいる。社会党という看板はなくなったが、その命脈は民主党に息づき、「保守」や「自由」を押し潰そうとしている。言い換えれば、マルクス主義という衣は見えづらくなったが、それとの戦いは終わっていないということだ。ソ連は解体したが、マルクス主義は日本で優勢になってきているのである。」

 最近は、保守か革新かを見分けるメルクマールは一体何なのかさっぱりわかりにくくなっていますが、この論文によると渡部昇一氏は、「東京裁判史観を是とするか非とするか」がその対立軸だといっています。氏は、日本がサンフランシスコ平和条約で東京裁判の判決を受諾したというのは、その判決主文に基づいた刑の執行については受諾したが、東京裁判において読み上げられた判決内容全般を受諾したものではない、といっています。

 具体的には、東京裁判が、昭和6年の満州事変から太平洋戦争終結までの日本の戦争について、それをアジアに対する植民地支配と侵略を目的とした犯罪行為と判決したことについて、異議を申し立てているのです。

 また、一九九五年八月、戦後五十年にあたって時の総理大臣・村山富市氏が談話(私見参照)という形式で、日本の「植民地支配と侵略」をアジア諸国の人々に対して謝罪したことについても次のように批判しています。「日本はサンフランシスコ条約を締結して国際社会に復帰したのであり、その時点で東京裁判とは完全に縁が切れた」はずである。しかし、これを外務省が否定したために、自民党もこの談話を踏襲するようになり、自らを脆弱、自虐的にしていった。これが今回の選挙敗北の原因だと。(下線部挿入12/2)

 この東京裁判の判決についての日本政府の公式見解(サンフランシスコ平和条約において日本政府が受諾した東京裁判の判決)は、「その主文のみではなく、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定・・・あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれている」とするものです。

 しかし、この政府見解は、「東京裁判の判決に述べられた事実認識等を積極的に肯定あるいは評価」したものではなく、ただ、「これを不法・不当なものとして異議を申し上げる立場にない」ということをいったものに過ぎません。渡部氏は、こうした政府見解を「これは裁判と判決をごっちゃにした誤り」であると批判していますが、政府は、東京裁判自体の評価あるいはその判決に述べられた事実認識等について異論があることは認めています。

 というのも、東京裁判については、「原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされず、証人の全てに偽証罪を問わなかった。また、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかったのも明らかである。こうした欠陥の多さから、東京裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も珍しくなく、また、「ほとんどの国際法の専門家の中では本裁判に対する否定的な見方が多い」のも事実だからです。

 しかし、国民の間には、「この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った"平和主義"を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見」もあります。(wiki「極東国際軍事裁判」参照)

 こうした、日本人の間における、東京裁判の評価をめぐる意見の対立は、一見矛盾していているように見えますが、実は、その評価の視点を、他国による評価ではなく、日本人自身による主体的な評価の位置に置いてみれば、自ずとそのコンセンサスを得る道は開かれるのではないかと私は思っています。

 つまり、こうした自立の視点でこの問題をとらえれば、東京裁判のもつ国際法上の問題だけでなく、それが勝者による復讐的性格をもっていたことや、次に述べるような占領統治のための宣撫工作としての性格を持っていたことも、素直に認識できるのです。また、この裁判を通して、戦時中は国民に対して隠蔽されてきた、実に多くの謀略的事実が明らかになったことも、事実であると確認できると思います。

 終戦直後、首相になった幣原喜重郎は、太平洋戦争の原因及びその事実関係を明らかにし、将来再びこうした大きな過誤を繰り返さないようにするために、内閣に「戦争の原因及び実相調査に従事する部局」を設置し、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門に亘り、徹底的調査に着手することを決し、昭和20年11月24日に内閣総理大臣の監督下に戦争調査会を設置しました。

 しかし、この日本人自身による、戦争原因及び実相を明らかにしようとする取り組みは、敗戦後日本が連合国の占領下に置かれたことによって、その継続ができなくなりました。そのため幣原首相は、やむなくこれを民間事業として調査を継続することとし、その仕事を、それまで調査会の事務局長官であった青木得三氏に託しました。

 その結果、昭和24年12月に『太平洋戦争前史』全五巻が完成しました。この記録集は日本人自身の手になるもので、「太平洋戦争の原因であり得ると考えられる史実を能う限り綿密詳細に記述した」もので、占領下では唯一のものです。青木氏は、「この中から真の原因を探求するのは読者の任務である」として、その公正な評価を後世の日本人に託しました。また、氏は、極東国際軍事裁判についても次のような感想を述べています。

 「極東国際軍事裁判即ち東京裁判はニュルンベルグ裁判と共に人類歴史にあって以来空前の裁判であった。東京裁判の判決については種々の議論もあろうが、この裁判があったればこそ、種々の外交上の秘密電報、秘密記録、枢密院会議及び審査委員会の記録などが公にせられた。又各被告の宣誓口述書も公にせられた。私は本書を執筆するに当たって東京裁判の速記録に最も多く依頼した。もし本書が幸いにして人類永遠の平和と戦争発生の防禦とに役立つならば、それは又東京裁判の功績である。」

しかし、残念ながら、こうした戦争の原因と実相を明らかにしようとする日本人自身の取り組みは、その後の保守と革新のイデオロギー的対立のために、国民のコンセンサスを得る議論には発展しませんでした。それどころか、戦後60年を経てもなお、冒頭紹介したような「東京裁判史観を是とするか非とするか」という、日本の占領時代に設定された対立軸を克服し得ないまま、今日に至っているのです。

 このことについて、山本七平は、すでに40年ほど前に、この東京裁判とその後の占領統治における情報操作について、それがマッカーサーの占領政策の手段でもあった事実について指摘し、日本人が自らの問題として昭和戦争の失敗の原因を探求するためには、「まず、マック制というその宣撫班的発想から自らを解放することである。これがある限り、何の結論も出てくるはずはない。」といっています。(『ある異常体験者の偏見』p178)

 ここでいう宣撫班的発想とは、氏によれば「占領統治」の基本図式であって、その目的は、占領統治をうまく進めることであり、その第一の方法は、「民衆はわれわれの敵ではない」「占領軍は民衆の味方であり保護者である」と宣言すること。ついで、「お前達をこのように苦しめた一握りの軍国主義者は我々の手で処罰する」ということ。そして絶えず原住民間の分裂を策し危機をあおり立てて深く考えさせないよう言論統制(マックコードと言われその締めつけは東条時代よりひどかったそうです)することによって、その不満が占領軍にではなく、現地政府に向かうようにすることだといいます。

 この宣撫工作によって、日本人は、昭和の戦争の本当の原因を、自らの問題として考えることができないまでに洗脳されてしまいました。そのため、多くの日本人が、昭和戦争の原因は「一部の軍国主義者」が勝手に起こしたものである、と考えるようになりました。さらに、自らを「殺される側」に置き、「殺す側」にあると目されるものを糾弾することによって、自らの正義感を満足させるという自己欺瞞に陥ることになりました。

 しかし、この時代における戦争の実相は、それは確かに、この戦争を指導した陸軍大学や海軍大学卒のエリート軍人たちの責任は重大ですが、しかし、それ以上に、党利党略から軍を政治に巻き込んだ政治家達の責任も重いのです。さらに、事実を伝えるべきマスコミが率先して宣撫班的役割を担い国民を戦争に駆り立てていったこと。また、そこに戦争を熱狂的に支持した国民がいたことも忘れてはなりません。

 といっても、この戦争の原因が全て日本側にあったというわけではありません。また、戦争指導をした日本軍人が特に邪悪だったというわけでもありません。むしろ、お節介な善意が仇をなしたといった方が事実に近かった。また、日本兵の多くが略奪や残虐行為を好んだわけではなく、これは、食料を現地調達せざるを得なかった日本の貧困や、便衣兵やゲリラなど一般住民と区別のつかない兵士と戦わざるを得なかったとことも考慮に入れる必要があります。

 一方、太平洋戦争における米軍との戦いは悲惨の一語に尽きます。対米戦争による日本軍の戦死者は230万ですが、アメリカ9万人に過ぎません。さらに日本軍の戦死者の内、戦闘以外の、餓死や病死や溺死による死者が一体どれだけいたのか、一説では広義の餓死だけでも全戦死者の半数を占めると言います。この外、特攻攻撃によって多くの若者の命を犠牲にしたことなど、作戦の巧拙を論ずる以前の、日本人の人命軽視思想を象徴する出来事もあります。

こうしたことを総合的に考えると、冒頭に紹介した「東京裁判史観を是とするか非とするか」とかいうような対立軸の設定から、私たちが今だに脱却できないでいることは、この戦争の問題を今なお他人ごととしている証左といえます。この点、自民党の中の保守主義を標榜する政治家たちの多くも、この陥穽に落ちていますし、一方、社民党の原理的平和主義者たちは、この戦争の主因を「一部の軍国主義者」に求めることで、自分たちの無垢無罪を主張しているのです。

 こうした、まさに時代錯誤とも思われる政治状況の現出について、渡部昇一氏は、、「人権」「人道」「平等」「環境」という一見善なる言葉の陰に極左的価値観は浸透し、わが国を蝕んでいる。社会党という看板はなくなったが、その命脈は民主党に息づき、「保守」や「自由」を押し潰そうとしている、と述べています。しかし、そうした認識はうがち過ぎではないでしょうか。私は、これらの言葉の背後にある価値観は、必ずしも「極左的」なものではなく、むしろ「伝統的」なものではないかと思います。

 問題は、こうした「伝統的」な価値観を対象化できず、その長所と欠点を見極めることができないまま、無意識的にそれに振り回され続けている日本人の心性にあるのではないでしょうか。社民党や国民新党はこの類かと思いますが、では、民主党本体はどのような価値観を持っているのか、また、彼らは、さきほど述べた「東京裁判史観」の問題も含めてどのような歴史観を持っているのか。

 そこで鳩山首相ですが、この人はもう何が何だかわかりませんのでパスします。問題は、小沢幹事長ですが、この人の価値観や歴史認識については、氏の著書『日本改造計画』や『小沢主義』に明らかです。この『日本改造計画』という本は、私は、その書名が田中角栄の『日本列島改造論』に似ていたことから読みませんでしたが、最近これを読んで、それが実に的確な日本人論に支えられていることに正直ビックリしました。さらに、『小沢主義』を読んで、氏の日本の歴史認識の確かさに再び驚かされました。

 その内容の紹介については次回に譲りますが、民主党がこの小沢氏の思想を中心にまとまっているとすれば、私は、これは渡部昇一氏も望まれておられる、日本人の東京裁判及びそれに引き続くマックによる「日本原住民宣撫工作からの脱却」という課題は、そう遠くない時期に解決できると思います。そして、その後に来るものは何か、それは日本の未来は、日本の歴史的伝統的思想を発展させる形でしか構築できないと言う事実を知ることです。

 山本七平は、その”まぼろしの名著”『山本七平の日本の歴史』の末尾に次のような誠に興味深い言葉を遺しています。

 「歴史の歪みを正し、未来の予定表を組む」という日本人の生き方は、「前方に先進国とか先進人民国とかを自己の未来像として置く」後進民族の生き方である。しかし、自らの文化を生み出した先進民族は、「目標を未来に置き、これに到達すべき予定表を組むことは不可能」であることを知っていた。だから、「過去をそのまま残す」ことで、現在の自分の位置を知ろうとした。歴史――過去がまがっているなら、まっすぐにしてはならない。そんなことをすれば、自分の位置がわからなくなる・・・。