民主党は、日本の「一揆」的民主主義をコントロールする事ができるか。

2010年6月10日 (木)

AP_09さんへ
 所用でレスが遅れました。いつも興味深いご意見をお寄せいただき有難うございます。以下、私見も交えたため長文となりましたので、本文掲載とさせていただきます。

>個人主義は、日本と違って個人の自由があると日本ではよく言われるんですが、少なくとも米国での観察では、アメリカ人は日本人より、よっぽど権威を尊重します。上の言うこと、上に対する服従度は日本より高いです。むしろ、上下の関係では下の意見は全く認められない。上がいかに非人道的、非倫理的であろうと、言われた通り、命令通りにするという感じです。上下の契約を結ぶ前に、自己主張をするだけで、一旦上下関係となると、絶対服従です。その代り日本と違って、実行したのは下っ端でも責任を取るのは命令を下した上役でのようです。

tiku 日本人が自力で社会集団を形成し始めたのは武士の時代に入ってからで、それは所領の安堵を媒介とする鎌倉幕府と家子・郎党間の「御恩―奉公」の主従関係に始まります。その後、鎌倉時代末期から足利時代にかけて幕府の権威が衰え、武家の所領を安堵する力が弱まると、武家は近隣の武家と連携し自主的に「一揆」を組織するようになりました。いわば集団安全保障的な盟約を結ぶことによって、自らの所領を守ろうとしたのです。

 この「一揆」組織の基本は、加盟者は原則として自分の意志で参加し、全員平等、全員一致で同一行動をとることにあり、もし公方(将軍)から命令が来ても「一揆中において談合を加え、衆議に依り相計るべし」としていました。こうした組織の作り方が、次第に社会全体に浸透していき、江戸時代になると「一揆」といえば「百姓一揆」のことを意味するほどになりました。

 実は、戦後民主主義といわれるものの実態は、戦後の日本人が敗戦に懲りて、戦前の「教育勅語」的な「忠孝一致」的儒教倫理観(江戸時代に導入した朱子学と国学が習合したもの)を排撃したために、その基層にあった「一揆」組織のもつ平等主義的・集団主義的な考え方が、無意識的に呼び覚まされたものなのです。

 今日の民主党政権がこの「一揆」による下剋上に悩んでいるのは、今日の日本における「民主主義」がこうした武家集団の相互盟約による集団安全保障観に根ざしていることに無自覚なためです。信長も秀吉も、こうした「一揆」組織を基盤とする大名領国制を中央集権的な秩序に組み込むことで、なんとか戦国時代を終わらせようとしたのです。

 また、江戸時代は、戦国時代の大名領国制を凍結し、さらに朱子学の五常・五倫の道徳律を導入することによって、下剋上的な考え方に代わる文化的な秩序観を育成しようとしました。ところが、この朱子学的名分論は、幕末になると国学思想と結びついて、天皇を中心とする一君万民の家族主義的国家論(=尊皇思想)に発展しました。

 そして、これが幕末に至って攘夷論と結びつくことによって、藩や幕府という政治体制の枠組みを超えた、尊皇攘夷という名の体制変革思想に発展しました。そしてこれが革命のエトスとなって、大政奉還から版籍奉還さらに廃藩置県という、いわゆる明治維新の革命的大業につながっていったのです。

>上下摩擦があると、日本のように話し合いなどなく、一方的に下が切られるだけです。日本の方がよほど口答えができる環境です。

tiku つまり「一揆」というのは、もともと、中央政府の所領安堵能力が落ちたときの、地方における自然発生的な自己防衛組織なのですね。従って、「上下摩擦があったばあい、日本の方がよほど口答えができる」ということになるのです。これはあくまで、上下摩擦があった場合のことでしょうが・・・。

 ところで、個人主義と自由の関係ですが、日本における「一揆」を媒介とした個人主義は、確かに「一揆」に加盟する時は個人の判断で行いますが、「一揆」に加盟した後は、そうした個人的な考えや行動は許されなくなります。

 こうした集団主義的な規範意識から、各自が自分の原理を明確に意識し、それに基づいて判断し、あるいはそれを自らの自由意志に基づいて破棄し、他の原理を採択するという、一見西洋の個人主義と似たような考え方をするようになるのは、江戸時代の朱子学の日本化といわれる崎門学(山崎闇斎の学問で朱子学と垂下神道の折衷)以降のことです。つまり、一つのイデオロギー(内的規範)によって自らを処するようになって始めて、個人の思想信条の自由に基づく西欧的な個人主義は生まれるのです。

 明治人の方が戦後の人間より欧米人との話が通じたと言われるのも、この時代の日本人は各々自分の原理(=思想)を明確に意識していたためではないかと思われます。福沢諭吉の「独立自尊」も、明治の自由民権運動も、こうした個人主義的な考え方に支えられていました。また明治憲法下の立憲君主政の採用にもそれは反映していました。

 こうした個人主義的な考え方は、大正時代に「大正自由主義」として花開きましたが、昭和時代になると、こうした個人主義的・自由主義的な考え方は、自分勝手な考え方や生き方をもたらすものとして、次第に排撃されるようになりました。こうして、反自由主義・反資本主義的な考え方が盛んに吹聴されるようになり、その一方で、共産主義的な考え方や国家社会主義的な考え方が広まるようになりました。

 こうした時代風潮の中で、これらの外来思想ではなく、日本の伝統思想である尊皇思想の「一君万民的平等思想」によって国家革新を行おうとする運動が、一部の思想家や軍人によって唱えられるようになりました。その結果、この思想の持つ家族共同体的国家論が、天皇機関説排撃問題を契機として、「天皇親政」を理想とする国家革新運動へと発展していきました。

 ところで、明治維新期の個人主義と昭和期の個人主義とはどこが違っていたのでしょうか。それは、前者が自己と思想との関係においてリアリズムを失わなかった(自国の実力についての幻想がなかった)のに対して、後者はそれを見失い思想的なファナティシズム=自己絶対化に陥ったということです。いわば、西欧的な個人主義の「自己絶対化」の罠にはまってしまったと言うことですね。

 これに対して戦後は、確かに戦前の尊皇思想が、ソ連の共産主義や中共の毛沢東主義等に置き換えられましたが、そうした自己と思想との関係の認識については、あまり変わらなかったのではないかと思います。つまり、真の意味での「思想信条の自由」に基づく個人主義という考え方は、容易には理解されなかったのです。

 というのも、欧米の個人主義を支えている原理は、「自己」と「絶対者」との関係から生まれたものであり、人間の自由意志は、神と人間との契約に基づいて与えられるもの。従って、人間の自由意志は神との契約を成就するために行使さるべき、といった考え方は、日本人には判らない。しかし、これが西欧のピラミッド型組織の上意下達の基本原理となっているのです。

 こうした欧米組織における組織のトップに対する服従を説く考え方は、神の権威への服従とパラレルな関係にあるものとして、新・旧約聖書の随所に出てきます。例えば、

出エジプト
22:28 あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。

ロマ書
13:1 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
13:2 したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。
13:3 いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。
13:4 彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。

第一ペテロ
2:13 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
2:14 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
2:15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
2:16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
2:17 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。

 確かに、日本人も、もう少し自分たちの指導者を敬う気持ちを持ってもいいような気もします、といいつつも、なんだか哲学も覚悟も感じられない政治家が多すぎるような気もしますが・・・。

>思うに日本の息苦しさは上から下へではなく、横の関係(房あるいは一揆の内部?)、同調圧力で、権威者や為政者は実に優しい、柔らかいです。そう考えると、左翼が主張するような階級闘争など存在しなかったわけで、彼らの主張は社会解体的なだけのように見えます。

tiku 日本の自前の思想に基づく為政者の統治スタイルについて一つのモデルとなったのは、北条泰時ではないでしょうか。それは、「族縁を絶って一切の私心私欲なき状態(つまり出家したような状態)になって、あくまでも『理非』に基づいて判断する」ことを基本にしていました。この場合、この盟約を記した起請文には、日本国中の大小神祇に対する一種の宣誓文が書かれていますが、これらの神々は、この起請文の連帯保証人のようなものなのです。つまりこの盟約の基本はあくまで「一揆」メンバー間の相互契約であって、西欧的な上下契約ではありません。

 では、このような「一揆」組織からは、どのようなタイプのリーダーが現れるかというと、一つは調整型リーダー、もう一つは、「一揆」が基本的に実力主義であることから、信長のような下剋上的リーダーが現れることもあります。もちろん、平和な時代には私利私欲なき調整型リーダーが求められます。こうしたリーダーの下に全員平等の資格でその組織運営に参加すると言うのが、「一揆」組織の基本的な運営形態ですから、欧米の組織のように、使用者と被使用者の関係が、一方的な命令・絶対服従になる、といったようなことは滅多なことでは起こりません。

>日本に独裁者が現れにくいのはこういうところなのでしょうね。これは同じアジアでも中国、朝鮮、東南アジア、どの国とも違うように見えます。ラテンアメリカとも違います。これらの国々では独裁者がうようよですね。・・・

tiku「一揆」は基本的に実力主義ですから、先に述べたように、そこから下剋上的リーダーが出てくることもあります。織田信長はその典型ですが、その彼が最も手を焼いたのが一向一揆だったと言います。比叡山や高野山を焼き撃ちしたのも、宗教勢力が「一揆」を組織して現実政治に関与することを拒否したのです。それは一種の政教分離的な考え方だったのかもしれませんね。

 昭和の尊皇思想の場合は「祭政一致」を標榜していましたから、それだけファナティックな性格を帯びたわけですが、かといってヒトラーに匹敵する独裁的リーダーが現れたわけではなく、その可能性が最も高かったと言われる石原莞爾にしても、陸軍内の幕僚「一揆」内での信望を失い、日中戦争開始早々失脚を余儀なくされています。東條英機にしても独裁者と言うより能吏に近く、軍内の下剋上に手を焼いていました。

>小沢一郎の独裁者的やり型は、日本的でない異質なもの、彼が朝鮮系だといわれるのは、そういうところから来ているのでしょうね。

tiku小沢一郎は著書『小沢主義』の中で、織田信長を日本史上の三代改革者の一人として最大級に評価し、その改革の精神を次のような言葉で紹介しています。

 「合戦とは、そもそも慈悲心とは無縁なものなのだ。もし慈悲を大事にしたければ、最初から合戦などしなければいいのであって、一度合戦をし始めたものが慈悲を口に出すのは矛盾している。合戦を始めた以上は、目的を達成すること以外を考えてはいけないのだ。」(辻邦生の『安土往還記』より)

 つまり、ここでいう「合戦」とは政治改革をめぐる権力闘争のことを言っているわけですが、これは一面既得権集団との闘いであり、この闘いに勝利するためには慈悲心など無縁だ、と言っているのです。また、ここで重要になるのは「理念と将来ビジョン」で、それは「多くの国民に幸せをもたらすもの」でなければならないが、小泉改革は「多くの人たちに痛みを与え、その一方で特定の者にだけ利益をもたらすもので、およそ本来の改革とは似ても似つかぬもの」と決めつけています。

 では、氏の掲げる「理念と将来ビジョン」とはどのようなものか、と言うと、『日本改造計画』では「個人の自立」を基本にした「新自由主義」を掲げていました。しかし、『小沢主義』では、これを小泉改革に押しつけて「多くの人たちに痛みを与え」るものと批判しています。その一方で、政治的リーダーシップの重要性を訴えていますが、新自由主義に代わる「理念や将来ビジョン」が示されているわけではありません。これを、民主党が政権を獲得して以降の氏の行動から推察すれば、むしろ、「選挙に勝つためにはあらゆる談合組織や既得権勢力との妥協も辞さない」のが氏の本当の思想のようです。

 このため、今回の鳩山前首相の電撃的退陣に際して、鳩山首相に「政治とかね」をめぐる政治的責任を一緒に取って、民主党幹事長の職を辞するよう求められました。まさか鳩山首相にこんな芸当ができるとは誰も思わなかったので、参院選前に政権交代があるとは誰も予測できなかったわけですが、おそらく、小沢氏自身も、そうした鳩山首相の捨て身の反撃を受けるとは予測していなかったのでしょう。

 この点、鳩山前首相の「善意の論理」は、一種の無私の思想にも通じていて、この辞任劇に限っては、それが功を奏した思います。フジテレビのプライムニュースで、「たちあがれ日本」の与謝野馨氏が、こうした鳩山氏の行為を、友人を裏切るものと批判していました。しかし、鳩山首相に退陣を迫ったのは小沢氏の方であって、つまり、友を裏切ったというなら小沢氏の方が先ではないかと思います。

 おそらく、鳩山前首相は、自分自身や小沢氏の政治資金の問題もさることながら、社民党や輿石副幹事長さらには国民新党の亀井氏の意向を過度に重視する小沢氏の政治姿勢に困惑しており、それがこうした「小沢&輿石おろし」の行動に結びついたのではないかと私は推測しています。

 なお、先に述べた日本の「一揆」的組織が今後どうなるか、ということですが、私は、企業における談合組織や、公務員組織の身内の利益を優先する体質――これらは「一揆」組織の名残り――を、上位法に対するコンプライアンスを高め、その目的合理性と機能性を高める方向で是正する必要があると思います。その上で、組織のメンバーが組織運営上の情報を共有し、平等の立場で経営に参加するという、日本組織の強みは大いに生かすべきだと思います。(6/10挿入)

 また、日本の民主主義の行方についてですが、政府の政治的意志決定が活発な政策論争を通じてなされるようになってもらいたいですね。派閥的談合によって国民の目の届かないところでなされるという、いわば小沢的政治手法からは早急に脱却してもらいたいと思います。そうすれば、郵政民営化法案や派遣法改正案などの問題法案が、国会での議論なしに強行採決されるというようなことはなくなると思います。

 このことは民主党のマニフェストに掲げられた政策全般についても言えることで、民主党には、ぜひ、こうした政策論争を通じて、自らの政策全般を再検証していただきたいと思います。

以上、山本七平『「当たり前」の研究』外参照