民主党政治主導の「悪しき前例」となりかねない亀井大臣の”傍若無人”

2009年10月 6日 (火)

 亀井金融郵政改革担当大臣の暴言・暴走が止まるところを知りません。

 先日(10月1日)のフジテレビ(BS)の報道番組「PRIME NEWS」には亀井大臣が出演し、中小企業に対する金融機関の貸し出し返済のモラトリアム政策について質問を受け、次のような趣旨の発言をしていました。

 曰く、私は金融相という重い仕事ではなく、もっと軽い仕事を望んでいた。実際自分は金融については素人で民主党には他に専門家はたくさんいる。しかるに鳩山総理があえて自分に金融大臣をやれと言ったのはなぜであるか。つまり、鳩山総理と私の金融政策における齟齬は全くない、ということである。

 これは、亀井氏自身は自分は金融の専門家ではなく、今回の私の金融政策はあくまで政治家として提示しているものであるが、鳩山首相はそれを全面的に支持している、ということでしょう。いわば、金融行政における政治主導を腕力のある亀井氏に託しているわけです。しかし、こうした氏一流の「庶民の味方」を気取る政治判断が、今後の日本経済にどのような影響を及ぼすことになるのでしょうか。また鳩山首相の任命責任はどうなるのでしょうか。

 また、氏は10月5日、東京都内で行われた講演会で、「日本で家族間の殺人事件が増えているのは、(大企業が)日本型経営を捨てて、人間を人間として扱わなくなったからだ」と述べ、日本経団連の御手洗冨士夫会長に「そのことに責任を感じなさい」と言ったそうです。御手洗会長は「私どもの責任ですか」と答えたといいます。

 ここには二つの間違いがあります。一つは近年家族殺人が増えているというのが全くの間違いであるということ。統計では、特に子殺しなど大幅に減少しています。

(以下「凶悪犯罪増加の誤解を解くページ」参照)http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/515559/

 「日本で家庭内殺人が多いってのはちょっと意味が違います。単なる「総殺人数の中の家庭内殺人比率」と「家庭内殺人発生数」をゴッチャにしている事からくる錯覚です。それどころか家庭内殺人が多く感じるのは皮肉にもいかに日本が治安がいいか示す証拠になってます。

 というのはアメリカや途上国のように日本の何倍、何十倍も殺人が起きている国のように「町を歩いていたら突然、ギャングに襲われて殺された」というような治安の悪さゆえの面識のない加害者被害者による乱暴な殺人が警察の努力により根絶されて極端に減少し、比較的減りにくい家庭内や知人同士の殺人が目立つようになっただけです。街中の強盗殺人などは警察の努力で減らせますが家庭内殺人は家庭内のいざこざが原因で起こるので警察の努力では比較的減らしにくいのです。

 日本で家庭内の殺人が多いのではなく殺人件数の低下から全体から見た割合が変化しただけです。しかも日本ではその家庭内殺人すら外国よりはずっと少ないですし減少もしくは横ばい傾向です。よく日本で家庭内殺人割合が多いことについて「日本人特有の病理」とか「家庭内の愛情が薄くなった」とかいうご高説をたれる人がいますが大嘘です。」

 もう一つの間違いは、日本的経営についてです。これは終身雇用、年功序列制に象徴されますが、これが可能であったのは、戦後の高度成長期、右肩上がりの経済成長ができた時代のことなのです。これが低成長の時代、経済のグローバル化の時代を迎えて、企業は生き残りをかけて経営体質の合理化・効率化を図らざるを得なくなった。そうなるとどうしても従来の企業福祉的な負担を軽くせざるを得ない。

 そこで、そうした負担を企業に代わって引き受けることになるのが社会福祉政策であって、これは当然のことながら政府の責任である。そこで政府は雇用保険や職業訓練等社会のセーフティーネットを整備したり、また、万一の場合の生活保護や生活支援のための財源も確保もしなければならない。そこで、公的部門のムダを徹底して排除する一方、「親方日の丸」体質の残る公営企業部門を民営化し、経営のガバナンスを高めて自立を図る。また、規制を緩和して起業のインセンティブを高めるなど、雇用機会を創出するための経済政策も採らなければならない。(しかし、こうした対応が、膨大な財政赤字やリーマンショックに始まる世界不況の勃発のために遅れた。)

 これが当時の政府(小泉内閣以降の自民党政治)に課せられた課題であったわけですが、亀井氏は郵政民営化(参照)に執拗に反対するなど、政府の以上のような努力を妨害する役回りを演じてきたのです。そして今回は、大企業に対して「日本で家族間の殺人事件が増えているのは、(大企業が)日本型経営を捨てたからだ」などと濡れ衣を着せ、「反省」を強要しているわけです。(今日、政治家のなすべきことは、先に述べた社会福祉政策に加えて、労働の選択的流動性を高めることであって、そのためには、従来、正規社員のみを対象としてきた労働法制や雇用慣行を、全労働者を対象とするものに作り変える必要があります。10/9追記)

 これに対して御手洗会長が、それは「私どもの責任ですか」と応じていますが、はたしてこんな亀井大臣の非常識いつまで放任されるのでしょうか。また、こんな”わがまま”(多分に、小泉改革に対する個人的恨みに端を発している)は郵政改革見直しでは、どんな”暴力”に発展するのでしょうか。また、これを鳩山「友愛」政治はどう処理するのでしょうか。

 悪くすると、これが民主党の政治主導の「悪しき前例」となりかねません。折角の政権交代、ほんとにやらなければならないことはたくさんあるのに、もう少し大切にしてもらいたいですね。(*政治主導の悪しき前例」とは、政治家が世論受けを狙って建前のきれい事だけを言い、官僚にはその本音を斟酌させて落としどころを見つけさせ、自分は名を取ろうとする政治手法のこと。国民は建前に振り回されて「現実」を見ることができなくなり、不満だけをつのらせることになります。下線部追記10/8)

(以下10/7日追記)

 なお、ついでですから、鳩山首相の「友愛」理念についても私見を申し述べておきます。先に、亀井大臣の金融政策は鳩山首相がその腕力を見込んであえてやらせているのだ、ということを申しました。このことについては、亀井大臣自ら、自らの政策は鳩山首相の「友愛」政治に沿ったものだと何度も公言しています。多くの場合「亀井流」発言として聞き流されていますが。

 だが、案外この発言は、鳩山首相の「友愛」政治が、「亀井流」庶民の味方政治と似ているということを裏書きしているのかも知れません。ということになると、問題は少しこじれるかも知れませんね。一連の亀井発言はどう考えても一国の大臣の発言としては常軌を逸しているし、そうした言動を鳩山首相の「友愛」政治が黙認していることになりますから。

 こうした鳩山首相の「友愛」理念が、国際政治の中でどう受け取られているか、ということについては、これを曖昧だとして疑問視する意見が多いようですが、特に問題視されている訳でもないようです。かといって、それが諸国間の利害を調整するほどのキーワードになり得るかというと、首をかしげる人も多いのではないでしょうか。

 ただし、これが国内政治の問題となると、前述したような問題点も出てきているわけで、これが鳩山首相の政治手腕に疑問符を投げかける材料ともなりかねません。確かに、こうした理念を理想として掲げることは悪いことではないと思いますが、実際問題の処理においては、周到な事実認識に基づく冷静な判断が求められるからです。

 この鳩山首相の掲げる「友愛」という言葉は、本人の説明ではフランス人権宣言の「自由・平等・博愛」の博愛に当たるものだそうです。そこで、フランス人権宣言に当たってみましたが、この宣言文には「博愛」という言葉は見あたりませんでした。ネットで調べてみると、この「自由・平等・博愛」は、フランス人権宣言の前からある言葉で、元はフリーメイソンのスローガンだったそうです。

 このフリーメイソンリー(リーがつくと組織名となる)という組織は、wikiによると、西欧において、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代に広まったもので、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定したため、自由思想としてカトリック教会などの宗教権力からは敵視されたのだそうです。フランス革命の当事者たちの多くもフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた、といいます。

 この団体は現在もあり、その入会条件は「無神論者や共産主義者は入会できない。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。そのほかの入会資格として、成年男子で、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の定収があって家族を養っていること、身体障害者でないことが求められる。」となっています。

  つまり、特定の宗教を超えた「理性や自由博愛の思想」が求められるとは言っても、それは「至高の存在への尊崇と信仰」に基づくものであり、それ故に無神論者や共産主義者は、会員となることができないのです。実は、日本占領時連合国総司令官であったダグラス・マッカーサーもこの会員であり、昭和天皇が会員となることを望んだそうです。また、鳩山首相の祖父である鳩山一郎は戦後この会員になっています。

 これで、鳩山首相の祖父鳩山一郎がなぜ「友愛」という言葉を好んだか判ります。ただ、この言葉は、英語でfraternity という訳語があてられているように、元来キリスト教の隣人愛に基づく言葉ですから、絶対神の観念の希薄な日本人にはピンと来ない言葉なのかも知れません。日本人にとっては、亀井大臣ではありませんが、人間を大切にする「和」の政治とでも言った方がわかりやすいかも。

 ところで、先に、フランス人権宣言に「友愛」という言葉はないと申しましたが、それは、「人身,意見,表現の自由(7,10,11条),所有の不可侵(17条),罪刑法定主義,無罪の推定(8,9条),抵抗の正当性(16条)等を宣明するとともに,国家形成上の最も基本的な原則として国民主権(3条),法律の支配(6条),武力(12条),租税(13,14条),行政報告(15条)について規定した」ものです。つまり、フランス人権宣言は、国民の基本的人権と民主的政治原則について規定したものなのです。

 つまり、「友愛」(=fraternity)という言葉は政治概念ではなく、一種の倫理概念であって、それはフランス革命を推進したメンバー間には、当然のこととして共有されていたので、この宣言文では、特にこの理念を謳い上げることをしなかったのだと思います。とすると、鳩山首相が国際社会で「友愛」を強調することは、西欧諸国のリーダーたちにとっては、言わずもがなのことであり、問題は、現実問題をどう処理するかだよ、ということになるのではないでしょうか。

 そこで結論ですが、鳩山首相の「友愛」政治は、先に紹介したような亀井大臣の暴走の処理を通して、その実相が見極められることになると思います。繰り返しになりますが、折角の政権交代ですから、鳩山首相には、ここぞという局面では、(小泉首相のように)情を断ち切る非情さを見せて欲しいですね。