”アレ”呼ばわりされた戦後民主主義の人望なきリーダー

2011年8月27日 (土)

izaブログで阿比留瑠比さんが、氏が菅首相を「アレ」よばわりしたことについて「メディアと報道の限界と個人的徒労感と」というエントリーで次のように抗弁しています。

 このところ、菅首相を人間扱いすることに強い抵抗を覚えたので「アレ」と書いてきたことにも、たくさんの批判や抗議を受けました。ここのコメント欄だけでなく、産経に届いたはがきその他でも、新聞記者の品位を落とすとか、記事の劣化が甚だしいであるとか、いろいろ言われました。

 でも、所詮は瓦版屋の末裔、「羽織ゴロ」ごときの品性を問題にするそういう人たちに限って、どうしてもっと大事で本質的な菅首相の品性は問題には目をつむるのか、納得はいきません。それは紙面では、一応の体裁も品性も必要でしょうが、本音を語るブログでまで自己規制させてどうしたいのか。常識や良識の範疇では語れない異様な存在を、常識的で良識的な言葉でどう表現しろというのでしょうか。

 政治評論ブログランキングでトップを行くブロガーに賛否硬軟・玉石混淆の意見が寄せられるのは当然だと思いますが、それにしても自国の首相を「アレ」よばわりした心境・・・貴方はどう思いますかと問われれば、私も同じ気持ちになりました、と答えます。

 このことは、昨日の菅首相の辞任の弁を聞いて再認識された方も多かったのではないかと思いますが、要するに”自分のことばっかり”で、自分の「怨・欲」だけが見えて、他人(政治家の場合は国民)はひたすら「克・伐」の対象でしかない、という異様です。

 おそらく、戦後民主主義が生んだ奇形的人格の一つでしょうが、では、何が氏をしてそのような”異様”を感じさせるのかと言えば、私は、「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラ」ざるべきリーダーとしての人望が欠如していることにあると思います。

 このことについては、私は本年の6月1日に、「人望の研究――菅首相の場合」という記事をエントリーしました。今回の菅首相の辞任の弁を聞いて、ますますこの感を深くしましたので、あえて本記事を再掲させていただきます。

 政治家の皆様方には、是非、以下のような山本七平氏の指摘を肝に銘じていただきたい。民主主義社会で平等意識が強まれば強まるほど、政治的リーダーには人望が求められる。

 菅首相はなぜ”アレ”となったか。「人望を得てはじめて人は人となる」のであって、これがなければ「人とは見なされない」と言うことです。まして、政治家においてをや、首相においてをや・・・。 

(以下「人望の研究――菅首相の場合」再掲)

 原子炉への海水注入をめぐるドタバタ騒ぎで、「いら菅」と評されてきた感情激発型人間菅首相の「人望のなさ」がいよいよ明らかとなり、早晩、辞任を余儀なくされることになるのではないか、と予測されます。

山本七平の『人望の研究』には、この「人望」とは何か、ということが大変興味深く論じられていて、この人望を身につけるためには、まず、「克・伐・怨・欲」を抑え、「己に克ちて礼に復る」こと。つまり、他人を押しのけ、オレがオレがと自己主張し、それが叶わないと人を恨み、私欲をたくましくする、そんな自己中心的な心を抑えて、礼節をもって人に接する事ができるようになること、これを、その第一条件としています。

次に、そうした自己中心的な心を抑えたとしても、人間には「感情」がある。つまり、喜・怒(いかり)・哀(悲しみ)・懼(おそれ)・愛(執着)・悪(にくしみ)・欲の「七情」がある。そこで、これらの感情を抑制しないで野放しにすると、自分の本来持っている人間性が損なわれるだけでなく、周囲の者も、その感情に振り回されどうしたらいいのか判らなくなる(そのため、首相の意向を忖度し「海水の注水を止める」といった今回のような行動が生まれる)。従って、この「七情」の激発を抑えることが極めて大切だ、というのです。

つまり、このような努力を積み重ねることによって、人は少しずつ「人望」を身につけていくわけですが、実は、この「人望」というのは、その人の職業や思想信条、あるいは時代や国の違いを超えて、リーダーに対して共通に求められる普遍的な「能力」となっている。

さらに、こうした「人望」は、平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力となってきていて、従って、リーダーたるべき人は、学問知識を身につけることと同時に、こうした「人望」を身につける努力=「自己修養」を怠らないようにしなければいけない、というのです。

では、その「人望」というのは、具体的には、どのような「徳」を身につけることをいうのか、というと、『近思録』では、これを「九徳」と言い、次のような九つの徳目を身につけることを、その具体的な到達目標としている。

(一)寬にして栗(寛大だがしまりがある)
(二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(六)直にして温(正直・率直だが、温和)
(七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(九)彊にして義(強勇だが、義しい)

何となく、判ったような判らないような感じで、まあ、なんと細かな人間観察をしたものか、と感心しますが、いずれにしろ、こうした「九徳」を身につけることが、リーダーたるべき条件であると、儒教は教えてきたわけです。

現代の日本人は、儒教といえば、封建的な人間道徳を教えるもので、個人の自由を基本とする現代社会には合わないと考える人も多いと思いますが、こうした儒教におけるリーダー条件を見れば、その人間観察が決して半端なものではないことが判ります。

といっても、これらの徳目には、それぞれ相反する要素が含まれていて、どちらが欠けても不徳になる、全部がそうなれば「九不徳」となり、両方が欠ければ「十八不徳」になる。では、その理想的な状態とはどういう状態を指すのかというと、これらの徳の相反する要素をバランスさせることであり、つまり、これが「中庸を得る」ということなのではないかと思われます。

そこで、この「九徳」をよりわかりやすくするために、あえて、その逆の「十八不徳」になるとどうなるか書き出してみると、

(一)こせこせうるさいくせに、しまりがない。
(二)とげとげしいくせに、事が処理できない。
(三)不まじめなくせに、尊大で、つっけんどんである。
(四)事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である。
(五)粗暴なくせに、気が弱い。
(六)率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である。
(七)何もかも干渉するくせに、全体がつかめない。
(八)見たところ弱々しくて、内もからっぽ。
(九)気が小さいくせに、こそこそ悪事を働く。

となります。

以上、山本七平による「人望」の条件について記して来ましたが、「克・伐・怨・欲」を抑えられず、「七情」をところ構わず発散し、と言ったところで、なんだか”オレは聞いてない!と怒鳴り散らす・・・らしい菅首相の姿が自然と脳裏に浮かんできました。

さらに、これを前記の「十八不徳」に照らしてみると、不思議にピタッと当てはまる項目が、菅首相の場合にはいくつもあるように思われ、ああ、これでは、この危機的状況の中で、日本のリーダーを務めることはできないだろうな、と思われました。

なにしろ、リーダーにこうした「人望」を欠いた場合は、旧日本軍においてすら、部下が面従腹背となり、組織が全く動かなくなったと言いますから。

平等社会になればなるほど、リーダーには、こうした「人望」を身につけることが求められる・・・。日本の政治家の皆さんも、以上の「九徳」を自らを写し出す鏡として、真に「人望」あるリーダーを目指していただきたいと思います。