人望の研究――菅首相の場合
原子炉への海水注入をめぐるドタバタ騒ぎで、「いら菅」と評されてきた感情激発型人間菅首相の「人望のなさ」がいよいよ明らかとなり、早晩、辞任を余儀なくされることになるのではないか、と予測されます。 山本七平の『人望の研究』には、この「人望」とは何か、ということが大変興味深く論じられていて、この人望を身につけるためには、まず、「克・伐・怨・欲」を抑え、「己に克ちて礼に復る」こと。つまり、他人を押しのけ、オレがオレがと自己主張し、それが叶わないと人を恨み、私欲をたくましくする、そんな自己中心的な心を抑えて、礼節をもって人に接する事ができるようになること、これを、その第一条件としています。 次に、そうした自己中心的な心を抑えたとしても、人間には「感情」がある。つまり、喜・怒(いかり)・哀(悲しみ)・懼(おそれ)・愛(執着)・悪(にくしみ)・欲の「七情」がある。そこで、これらの感情を抑制しないで野放しにすると、自分の本来持っている人間性が損なわれるだけでなく、周囲の者も、その感情に振り回されどうしたらいいのか判らなくなる(そのため、首相の意向を忖度し「海水の注水を止める」といった今回のような行動が生まれる)。従って、この「七情」の激発を抑えることが極めて大切だ、というのです。 つまり、このような努力を積み重ねることによって、人は少しずつ「人望」を身につけていくわけですが、実は、この「人望」というのは、その人の職業や思想信条、あるいは時代や国の違いを超えて、リーダーに対して共通に求められる普遍的な「能力」となっている。 さらに、こうした「人望」は、平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力となってきていて、従って、リーダーたるべき人は、学問知識を身につけることと同時に、こうした「人望」を身につける努力=「自己修養」を怠らないようにしなければいけない、というのです。 では、その「人望」というのは、具体的には、どのような「徳」を身につけることをいうのか、というと、『近思録』では、これを「九徳」と言い、次のような九つの徳目を身につけることを、その具体的な到達目標としている。 (一)寬にして栗(寛大だがしまりがある) 現代の日本人は、儒教といえば、封建的な人間道徳を教えるもので、個人の自由を基本とする現代社会には合わないと考える人も多いと思いますが、こうした儒教におけるリーダー条件を見れば、その人間観察が決して半端なものではないことが判ります。 といっても、これらの徳目には、それぞれ相反する要素が含まれていて、どちらが欠けても不徳になる、全部がそうなれば「九不徳」となり、両方が欠ければ「十八不徳」になる。では、その理想的な状態とはどういう状態を指すのかというと、これらの徳の相反する要素をバランスさせることであり、つまり、これが「中庸を得る」ということなのではないかと思われます。 そこで、この「九徳」をよりわかりやすくするために、あえて、その逆の「十八不徳」になるとどうなるか書き出してみると、 (一)こせこせうるさいくせに、しまりがない。 となります。 以上、山本七平による「人望」の条件について記して来ましたが、「克・伐・怨・欲」を抑えられず、「七情」をところ構わず発散し、と言ったところで、なんだか”オレは聞いてない!と怒鳴り散らす・・・らしい菅首相の姿が自然と脳裏に浮かんできました。 さらに、これを前記の「十八不徳」に照らしてみると、不思議にピタッと当てはまる項目が、菅首相の場合にはいくつもあるように思われ、ああ、これでは、この危機的状況の中で、日本のリーダーを務めることはできないだろうな、と思われました。 なにしろ、リーダーにこうした「人望」を欠いた場合は、旧日本軍においてすら、部下が面従腹背となり、組織が全く動かなくなったと言いますから。 平等社会になればなるほど、リーダーには、こうした「人望」を身につけることが求められる・・・。日本の政治家の皆さんも、以上の「九徳」を自らを写し出す鏡として、真に「人望」あるリーダーを目指していただきたいと思います。 |