菅首相の正体不明はどこから来るか2――民主政治を支える「市民的人間型」には民族も国家も関係ない?

2010年8月 5日 (木)

私は、エントリー「菅首相の正体不明はどこからくるか――日本の伝統文化を無視した市民政治理論の帰結」で、菅首相の信奉する松下圭一氏の市民政治理論における「近代的市民型」について、次のような問題点を指摘しました。

 「松下圭一氏のいう『自律性と自由』をもった『市民的人間型』とは、(ロックにおいては)「何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務」を負うという宗教(キリスト教)的人間像を措定していたのです。つまり、ロックが前提とした人間像は、こうした西欧社会の宗教的文化的伝統の上に措定されたものであって、そうした伝統を持たない日本に、そのような信仰に支えられた人間像を措定することは無理があるのではないか。」

 欧米の近代政治思想は、ホッブズの「万人の万人に対する戦い」にある自然状態から社会契約によって国家状態に移る、という社会契約説に始まります。ロックは、このホッブズの自然法思想を継承発展させ、当時の王権神授説を批判し、社会契約による人民主権を主張しました。モンテスキューは、ロックの権力制限の思想を受け継ぎ、三権分立の憲法理論を確立しました。ルソーは、社会契約上の「一般意志」を唯一最高とし、人民主権に基づく共和制国家の樹立を主張しました。

 こうした近代政治思想は、産業革命の時代を迎えて、ベンサムやミルなどによる「最大多数の最大幸福」をめざす功利主義倫理思想によって補強されることになりました。これによって、各種の法典整備や、刑罰規定の改正、救貧法の改正、地方自治法制定、教育制度改正など、中世の古い秩序の大胆な変革が精力的に取り組まれました。さらに、こうした考え方は、経済学的にはアダム・スミスの自由放任主義、社会学的にはスペンサーの社会進化論に発展していきました。

 こうした社会の近代化の流れの中で、特に重要なのが、近代民主主義の政治原理を確立したとされるロックです。彼は、人民主権の基本的な考え方のもとに、政治権力の正統性を人民との信託契約に求めました。また、権力の暴走を防ぐための権力分立の考え方や、政府が人民との信託契約に反した場合人民に抵抗権を認めること。また、宗教的には知性に基礎を置いた寛容論を説き、政治的な意味における信教の自由の確立に向けて、理論的な基礎づけを行いました。

 もう一人の重要人物が、今日の自由主義経済学の基礎づけをしたアダム・スミスです。彼は、「その経済学と道徳哲学との結合によって,不可侵の自己保存権(自然権)をもつ近代的個人の私益追求のエネルギーが、結果的に社会全体の利益増進に役立つ」ことを示しました。従って、「経済的には自由主義を主張し、国家は、有害な独占政策は行わないで、国防、司法、公共施設、教育という非営利的活動に自己を限定すべき」としました。

 このアダム・スミスの自由主義の考え方は、あくまで、「潜在する自由競争のエネルギーが、現実の市場において解放されうるような条件を整えよ」という意味でした。しかし、「それが19世紀前半のイギリス,同後半のアメリカなどでは,民間市場において自然発生した強力な独占体が強者の自由をほしいままにすることまでも含めて、勝手にやらせるべきだという主張であるかのように曲解され」ました。

 これが、自由放任主義と命名され、各人の利己主義を自由に発揮させても「神の見えざる手」の働きで、自ずから秩序と調和が生まれるとする考え方になりました。しかし、彼自身の道徳的な考え方は、「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉が良心に従った道徳的判断を選ばせること」が大切で、「このような心理過程を〈同感〉という概念で特徴づけ、それが安定的な社会集団の生成と維持にとって不可欠だ」と論じていたのです。

 このように、近代民主政治のあり方を論じたロックも、近代自由主義経済のあり方を論じたアダム・スミスも、それを支えるべき人間類型としては、「合理的かつ勤勉」であるとともに、宗教的・良心的な道徳観念を持つことを不可欠の条件としていたのです。しかし、その後の近代化の歩みは、社会進化論の優勝劣敗の考え方や、進歩主義的な啓蒙思想の影響もあって、植民地主義的な利益追求や帝国主義的な領土分割がなされるようになりました。

 そして日本も、こうした近代化の流れの中で自国の独立を確保するため、殖産興業、富国強兵策を採り、二つの大戦の勝利を経て、帝国列強の仲間入りをすることになりました。その時、最大の問題となったのが、この植民地主義的・帝国主義的な覇権争いにどう対処するか、という問題でした。日本は第一次世界大戦からこれに参加したわけですが、その後の世界的な軍縮の流れと、中国のナショナリズムへの対応に誤りを犯すことになりました。

 その原因は、確かに、殖産興業や富国強兵、そして近代的な法整備という点では成功を収めましたが、立憲君主制、複数政党による議会政治、民主政治の導入という面においては、必ずしもうまくいかなかった、ということです。というのは、日本における立憲君主政治は「天皇機関説問題」を契機として「天皇親政」が唱えられるようになり、議会政治は政党の自主解散による一国一党的な大政翼賛議会になって、日本の民主政治は実質的に機能しなくなってしまいました。

 戦後は、こうした反省をふまえて、新憲法の下に、象徴天皇制、複数政党による議会政治、普通選挙(男女)による民主政治が行われるようになりました。しかし、象徴天皇制の意義は必ずしも国民に十分理解されたわけではなく、今なお、「君が代・日の丸」反対運動も続けられています。また議会政治も、55年体制以降、政権交代なき自民党一党支配が続き、官僚政治や派閥政治が批判の対象となり、民主政治もポピュリズムの批判を受けるようになりました。

 これらは一体、どこに原因があるのでしょうか。冒頭に述べた菅首相の「市民政治理論」からすれば、日本の国民が民主政治を有効に運営するだけの「市民的人間型」に成長していないから、ということになります。ではどうしたらいいか。そのためにはまず、そうした「人間型」への成長を阻害している日本人の伝統的な「政治的人間型」から脱却しなければならない。

 例えば、水戸黄門や大岡越前守さもなければ忠臣蔵。「ここでは農民や町人はこの政治的賢者にひれふす貧乏で無知な『田吾作』であり、武士は『忠臣』である。彼らを「自立性と自由」をもって主体的に政治に参加する『市民』へと生まれ変わらせなければならない」ということになります。おそらく菅首相も、そうした観点に立って、今日まで市民運動を続けてきたのだと思いますが・・・。

 だが、これはどのようにして可能か。いや、果たしてこれは可能なことなのか。まさか、ロックの「何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務」を負うという宗教的人間像を措定するわけにもいかない。また、アダム・スミスの、「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉が良心に従った道徳的判断を選ぶ」も、その「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉」とは、「神の代理人」というイメージです。

 そうすると、日本において、その伝統的な政治的人間型を「市民的人間型」に造りかえるなど到底できないということになります。こうなると、貧乏で無知な『田吾作』や忠臣蔵の『忠臣』しか生まなかった日本の伝統的政治文化が恨めしくなります。だが、翻って考えて見れば、それでは明治以降の日本の近代化とは一体何だったのかということになります。まさか、それは「近代化」ではなかったというわけにもいかない・・・。

 そんな折、月刊誌『正論』9月号の日下公人氏の「今こそ国家の根本を立て直せ」を読んでいたら、次のような一節に出会いました。

 「日本が保有する文明・文化の上に急いで増築した西欧的近代化の部分を、当時の日本人は『富国強兵』と表現した。中身は経済力の発展と軍事力の増強でそれ以外の近代化はほぼ一千年も前に完了していた。今日的表現を用いれば、民主主義的集団合議制、男女を通じた基本的人権、支配・被支配を超えた人間の尊厳と福祉社会、宗教と政治の分離、教育の普及、言論思想の自由、営利の自由、商業選択の自由、階級移動の容易等々は、すでに考えとしては存在し、ある程度は行われていた。近代化を完成したと自認している西欧との比較は分野ごとの程度問題でしかなく、日本は西欧に比べて遅れていたとか、封建時代のままだったとかは一概にいえない。」

 要するに、日本は、西欧の近代化の波を受ける前に、経済力の発展と軍事力の増強以外の近代化に必要な諸価値はほぼ身につけていた。確かにその軍事力の行使については失敗したが、それ以外の価値については、行き過ぎない程度にほどほどに実行してきた。だから、資本主義経済で成功しても、強欲資本主義や投機資本主義にも陥らず、平和で安全な文化的な国造りをすることができた、というのです。

 私としては、このような日本に伝統的に積み上げられてきた価値観の積極的な評価に心がけつつ、また、西欧的な一神教文化の育んだ知恵にも学びつつ、日本の近現代史の問題を考えていこうと思っています。そこで次回は、先の日下氏の論中に紹介された、日本の近代化を可能にした諸価値について、それがどのように準備されていたかを、山本七平の論によって、具体的に検証してみたいと思います。(この「つづき」については別途論じることにしました)