菅首相の正体不明はどこからくるか――日本の伝統文化を無視した市民政治理論の帰結

2010年7月12日 (月)

「伝統的な社会構造は、一つの政治文化を生み出す。どこの国でもそうであって、政治文化に対応しているのが政治である。この前イスラエルに行ったとき、政治学の人からいろいろ質問されたが、最後に、日本ではなぜ与野党の交代がないのかと聞かれた。戦後の自由世界において、世界が大きな転換期を迎えているのに、与党と野党の交代がない民主主義国家が存在するのはおかしい、いったいなぜか、と聞かれたのである。

 そこで、日本の自民党は日本の伝統的な政治文化や社会構造に乗っかっている。野党が存在するとすれば、同じように伝統的な政治文化に乗りながら、これへの対応が違うという形でしか存在しえない。これはどこの国でもそうであって、政党というのは、伝統的政治文化に対応する形の違い方で生じていくわけである。日本では、伝統文化に対応する形の野党は存在していない。存在しないから政権交代はない、といちおう説明したのである。」(『日本人の可能性』「日本人の可能性を考える」山本七平P198)

 この『日本人の可能性』という本は1981年に出版されたものですが、その約30年後、日本においても政権交代が実現し、民主党という「野党」政権が誕生しました。問題は、この間、「野党」政権つまり民主党が、日本の伝統文化に対応する政党になり得たかどうか、ということですが、実は、これが”はっきりしない”。というのは、菅首相の政治思想は松下圭一氏の市民政治理論に依拠しており、その松下氏の政治思想は、ロックの人民主権論に基づく社会契約説の一種であって、次のような問題点を持っているからです。

 まず、政治学者の福田勧一氏は、ロックの政治思想について次のように述べています。

 「ロックはまず相互契約によって社会を構成した諸個人が,多数決によって選んだ立法機関に統治を委託(=信託)すると説き,その目的を私有財産を含む個人の自由権の保障に求めることによって,権力に制限を加えた(《統治二論》1689)。(『世界大百科事典』「社会契約説」)

 松下氏はこのジョン・ロックの統治権の信託説に依拠しながら、「市民」が社会契約によって三つの政府を創設すると主張します。その三つの政府とは、自治体政府と国家(中央政府)と国際機構(国連)で、これら相互の関係は、まず、市民が市町村という基礎自治体を作り、基礎自治体が担えない事務事業は都道府県レベルの広域自治体が担う。更に広域自治体が担えない事務事業は国が担う、という具合に、基礎自治体である市町村における市民自治を重視するのです。

 つまり、従来は国家主権、国家統治権を前提として地方自治権があると考えられてきたが、日本国憲法の基本形は、国民主権による「政府信託」に基づくものである。従って、この「政府信託」説にたてば、その信託の対象は、まず自治体、それから国、次いで間接的だが国際機構となる。つまり、これらの三政府に、市民がこれらの政府にその処理を任せた事務事業に応じて、それぞれに必要な権限と財源を信託する、という理論構成になるというのです。

 この場合、問題となるのは、こうした市民自治を主体的に担う市民像(松下氏の言う「市民的人間型」)をアプリオリに日本の民主的政治の担い手として措定することがはたして妥当かどうか、ということです。これについては、ロック研究者である加藤節氏は、次のようにロックの思想について解説しています。(『世界大百科事典』「ロック」)

 「ロックが前提とした人間像は〈合理的で勤勉な〉主体,自己判断に従ってみずからを規律する自律的な個人であった。ロックの思想にみられる一連の特徴,すなわち,認識論における生具観念の否定と経験の重視,政治学における労働・自然権・政治社会を作為する人間のイニシアティブ・抵抗権の強調,寛容論における宗教的個人主義への傾斜は,すべて主体的な人間のあり方を前提にしたものにほかならない。

 その点で,例えば,ロックの認識論が自律的な人間の能力を内観し批判した近代認識論の出発点とされ,またその政治学が,〈人間の哲学〉を政治認識に貫いた近代政治原理の典型とされるのは決して不当ではない。

 しかし,同時に注意すべき点は,ロックにおいて,人間の自律性,人間の自由が,つねに神に対する人間の義務と結びついていたことである。ロックにとって,人間は,〈神の栄光〉を実現すべき目的を帯びて創造された〈神の作品〉であり,したがってその人間は,何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務を免れることはできないからである。

 その意味で,世界を支配する神の意志と人間の自律性とが矛盾せず,むしろ両者の協働の中で,思考し,政治生活を営み,信仰をもつ人間の生の意味を規範的に問い続けた点に,ロックの思想の基本的な特質があったといえるであろう。」

 つまり、ここでは、松下圭一氏のいう「自律性と自由」をもった「市民的人間型」とは、「何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務」を負うという宗教(キリスト教)的人間像を想定していたのです。つまり、ロックが前提とした人間像は、こうした西欧社会の宗教的文化的伝統の上に措定されたものであって、そうした伝統を持たない日本に、そのような信仰に支えられた人間像を措定することには無理がある、ということなのです。

 こうした松下氏の考え方――それぞれの民族の歴史や伝統文化とは関係なしに、一定の経済的条件を整備しさえすれば、そうした自律した近代的市民像を定立できると考える啓蒙主義的な考え方――は、必然的に、松下氏の「国家観念の終焉」という考え方につながっています。ところが、日本においては国家=民族ですので、この考え方は必然的に、民族の否定、つまり民族の伝統文化の否定に帰結することになります。

 では、こうした考え方は、民主党内ではどのように取り扱われているか。以下の会話は、鳩山首相の演説の振り付けを担当した劇作家の平田オリザ氏と鳩山首相のスピーチライター松井孝治前内閣官房副長官の間でなされたものです。(『正論』8月号「菅政権に潜む日本解体の思想」八木秀次より)。これらを、鳩山首相の”日本という国は日本人だけのものではない”というような言葉と考え合わせてみると、その思想的根拠がよく判ります。

 平田 ずっと10月まで関わってきて、鳩山さんとも話をしているのは(略)、やはり21世紀っていうのは、近代国家をどういう風に解体していくかっていう100年になる(略)。しかし、政治家は国家を扱っているわけですから、国家を解体するなんてことは、公にはなかなかいえないわけで、(それを)選挙に負けない範囲で、そういう風に表現していくかっていうこと(が)、僕の立場。

 松井 要はいま、平田さんがおっしゃったように、主権国家が、国際社会とか、地域の政府連合に、自分たちの権限を委託するって流れ。流れとしてはそういう姿になっているし、そうしないと、問題は解決しない問題が広がっている・・・。

 ここでは、「国家の解体」ということと民族の伝統文化との関係についての議論がまるで等閑視されています。実は、こうした「国家の解体」という考え方は、人類の発展には一種の普遍的な原理があり、人類は全部そのとおりにやればいいという啓蒙主義思想をその背景としています。マルクス主義もその一つで、資本主義から必然的に社会主義に発展すると考えます。これが歴史的必然(=神の意志)で、人間は、それをできるだけ早く、巧く実現する義務を負うと考えます。そして、こうした考え方が、日本の戦後政治の民主化という課題にも適用されてきたのです。

 つまり、日本の野党による戦後の民主化運動は、このような啓蒙主義的な普遍主義思想に基づいて進められてきたのです。松下圭一氏はその中心的な理論的指導者であり、菅首相はそれを現実政治に生かすべく、政権奪取を図ってきたのです。しかし、これは、欧米の普遍主義的政治思想をその伝統から切り離して、戦後の日本社会に、いわば外科的に移植しようという試みであって、その結果、日本の野党は、まるで生体拒否反応にあうように日本の現実政治から疎外され続けてきたのです。

 そこで、やむを得ず民主党の取った戦術が、日本の伝統的政治文化に習熟しそれを自在に操ることのできる小沢一郎氏と手を結ぶことでした。また、小沢一郎氏も、自民党内の権力闘争に敗れて自民党を飛び出していましたので、再び権力の座につくためには野党との共闘を必要としていました。そこで、氏は、裏では自らが熟知する伝統的政治手法を駆使して自らの権力の維持を図りつつ、表では、日本の伝統的政治文化の欠陥の暴露とその改善策を、先述した野党の政治改革理論と結びつけることによって、政権奪取を図ろうとしたのです。

 一方、自民党においては、小泉首相による”自民党をぶっ壊す”と称する、日本の伝統的政治文化の構造改革が始まっていました。その一つが、いわゆる自民党内の最大派閥である「経世会」の構築した、「鉄のトライアングル」といわれた政・官・財癒着の権力支配構造の解体でした。それは、経済財政諮問会議を中心とする内閣主導の政治体制の構築によって、道路公団の民営化や郵政民営化など、いわゆる特殊法人の民営化という形で押し進められました。

 こうした改革は、自民党にしてみれば自らの選挙地盤を掘り崩すようなもので、当然激しい抵抗が繰り返されましたが、小泉首相の強力な政治的リーダーシップにより、ついに郵政民営化法案が国会で承認されるまでになりました。本来なら、野党もこうした小泉首相による政治改革や特殊法人改革に賛同すべきでしたが、偽メール問題で前原氏が民主党代表を辞任した後に民主党代表となった小沢氏は、小泉構造改革を”格差”を生み出すものとして激しく攻撃し、郵政民営化に対しても、”かんぽの宿売却問題”をテコに倒閣運動を繰り広げました。

 それが功を奏して、首尾よく民主党の政権奪取となったわけですが、ここに民主党は政策的に二つの大きな矛盾を抱え込むことになりました。それは、小沢氏を実質的リーダーとすることによって、必然的に日本の伝統的政治形態である派閥政治的利権構造を温存することになったこと。もう一つは、西欧的な、神の意志と人間の自由意志を協働関係に置くことではじめて成立する自律的人間像を、日本の民主政治を担う「市民的人間型」として措定した誤りに気づかないまま、現実政治を担うことになったことです。

 その結果、民主党の政策はバラマキから事業仕分け、郵政再国有化など、まさに支離滅裂なものとなりました。それに沖縄の普天間基地移設問題の処理の不手際が重なって、小鳩政治はもろくも崩壊することになったのです。ただ、その際、鳩山首相が「政治とかね」の問題を理由に小沢幹事長を抱き合わせ辞任に追い込んだことが国民に支持され、次の菅内閣の支持率のV次回復をもたらしました。しかし、残念ながら、菅首相の信奉する市民政治理論は上述した通りのものであるため、小鳩内閣の政治的負債を清算することができず、その結果、菅内閣の政策は再び一貫性を欠くものとなりました。

 それが、今回の参議院選挙の結果明らかになったような、政府与党の過半数割れ、小泉構造改革の徹底を標榜する「みんなの党」の躍進につながったのだと思います。では、次どうなるか。おそらく、みんなの党も公明党も自民党も、民主党との連立や大連合を選択することはせず、政策ごとの各政党との個別協議に応じることになると思います。しかし、その間、各政党の政治理念や政治思想の違いも明らかとなり、それに与党内の主導権争いも加わって、政界再編の動きが活発化することになるのではないでしょうか。

 その際最も大切なこと。それは、冒頭に紹介した山本七平の言葉にあるように、与党、野党を問わず、日本の伝統的な政治文化の実相を正確に把握し、その上で、それへの対応の違いを政策に反映するということです。この点、菅首相の信奉する市民政治理論が、上述したような、日本の伝統的な政治文化から切り離された正体不明のものに終始することになれば、それは鳩山首相の二の舞になることは必定です。

 そこで次回は、その日本の伝統的な政治文化の実相の理解についての山本七平の説を紹介しながら、その問題点の解決策について考えて見たいと思います。