菅首相が永井陽之助『平和の代償』と松下圭一「市民自治の思想」を紹介したことで判ること(1)
菅首相が6月11日に行った所信表明演説で、驚いたことが二つあります。それは、氏が「私の基本的な政治理念は、国民が政治に参加する真の国民主権の実現です。その原点は、政治学者である松下圭一先生に学んだ『市民自治の思想』です」と述べたこと。もう一つは、「私は若いころ、イデオロギーではなく、現実主義をベースに国際政治を論じ、『平和の代償』という名著を著された永井陽之助先生を中心に、勉強会を重ねました」と述べたことです。 最初の松下圭一氏は、私の学生時代のゼミの先生でしたので、久しぶりにその名を聞いて驚きました。また、この機会に改めて先生の著書を読んで、その「市民政治理論」は今日の「地域主権論」の”はしり”だったと気づかされました。ただ、当時の私は、氏の市民政治理論でその主体とされた「市民的人間型」はいささか観念的過ぎると思っていました。それは地方政府に対する「シビルミニマム」の権利主体としての位置づけるだけで、一方の市民的義務観念を欠いているように思えたからです。(西欧の市民社会が利益社会と共同社会の二元論に支えられていることを軽視している?) 氏の著作『都市政策を考える』の中には次のような記述があります。 確かに今日も水戸黄門や大岡越前守がテレビなどマスコミに英雄でもある。農民や町人は問題に突きあたったとき、政治的賢者に訴えればたちどころに解決され正義は実現する。さもなければ組織忠誠を貫徹する忠臣蔵である。ここでは農民や町人はこの政治的賢者にひれふす貧乏で無知な『田吾作』であり、武士は『忠臣』である。これがつい最近までの日本人の政治的人間型であった。しかし、今日この『田吾作』や『忠臣』が『市民』へと生まれ変わりつつあるという画期的事態が進行しはじめた。政治イメージが忍従型から共和型へと転化しつつあるともいえよう。」(上掲書P68) つまり、戦後の経済構造の工業化によって国民の生活水準が向上すると、教養と余暇の増大をもたらす。また、それは社会形態の都市化をもたらし、その中では多様な教養、情報、思想の交流・討論を生まれ、そこが政治活動の自由な空間となる。ここから現代都市問題を解決するための都市政策の形成、ついで都市改革・自治体改革が展望されるようになる。こうして、都市の中から市民的自発性を持った「市民的人間型」が育ってくる、というのです。 このあたり、なにやら経済の下部構造がその上部構造である人間の意識を決定するといったような史的唯物論的な発想がうかがえ、私は、なんとなくしっくりしないものを感じていました。といっても、理想型としての民主政治の有り様や、それを実現するための具体的方法論について論ずるならば、確かにそういうことになるだろうとは思っていたのですが・・・。 そこで、改めてこのことについて考えて見たのですが、こうした市民的自発性を持った人間類型は必ずしも”戦前は皆無”とはいえず、例えば明治維新期の福沢諭吉などは、その「独立自尊」の思想によって日本の近代を開いた人と言えると思います。また、水戸黄門的政治イメージについて言えば、戦前においては、幕末水戸学の一君万民的尊皇思想を反映していたとされ、戦後は、その尊皇思想部分が払拭されて、一君万民的「徳治主義」的政治イメージが人口に膾炙しました。つまり、これらは歴史的産物なのですね。 では、この福沢諭吉の「独立自尊」の思想は一体どこから生まれたのか。私は、この思想は、江戸時代末期の上記の水戸黄門思想以前の、日本の武士により形成された自立主義・能力主義の伝統を引き継ぐものではないかと思います。武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとで、従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていました。彼等はその所領を自力で守るため一種の集団安全保障契約である「一揆」を組織することで、集団主義的伝統を育んできたのです。 残念ながら、こうした日本における自治的組織の伝統は、明治以降は「藩閥」や「財閥」となり、昭和期には「軍閥」となって、日本の政治的統合を裏から支配するものとなりました。また、戦後は、「官僚閥」や「政治派閥」となり、経済界においては「談合閥」となって生き残りました。問題は、これらの組織が「ヤミ組織」として存在したことです。つまり、こうした自治組織の伝統をより高次の法的枠組みの中に置いて、その合理的運営を図ることに失敗してきたのです。 近年、ようやくこうした問題を法制度的に解決することができるようになりました。政界においては、政・官・財三者間の派閥政治を介した利権構造解消の動き。「官僚閥」の弊害を排して内閣による政治的統合を図ろうとする、いわゆる「政治主導」の動き。また、企業間の談合を排して企業活動のコンプライアンスを高める動きなどです。これによって、「一揆」組織の平等主義・集団主義を本源的に支えていた、自立主義・能力主義の精神を復活することができるかもしれません。 ところで、日本の平等主義・集団主義といえば、今日ではそれは、以上に述べたような自立主義・能力主義とは対立する概念のように扱われています。しかし、以上述べた通り、鎌倉時代の「一揆」組織においては、その加入は個人の自由意志に任されていたのです。つまり、それは自立した武士の自由意志に基づいて組織され、各メンバーは基本的に平等の資格を有し、組織の意志決定にあたっては、各人が族縁を排し理非に基づいて判断することを基本としていたのです。 つまり、鎌倉時代においては、「一揆」は武家社会における表組織だったのです。それが室町時代になり幕府の政治的支配力が弱まると、一揆組織は、各地の武士団が自らの所領を守るための自己防衛組織となり、中央に対する抵抗組織へと発展しました。これが国人一揆で、これが戦国時代になると相互に覇権を争うようになりました。そこで、こうした下剋上的無秩序に終止符を打つため、全国的統一政権の樹立による「一揆」の封じ込めが模索されるようになったのです。 こうして、織田信長、豊臣秀吉を経て、徳川家康による全国統一が完成しました。家康は生き残った守護大名による分国統治を凍結し、それを中央の統制的監視の下に置き「地方主権」的統治を行いました。また、秩序の学として朱子学を導入し、五常・五倫の道徳に基づく名分論的な秩序の回復を図りました。これが、先の「一揆」組織の自立主義・能力主義に基づく平等主義・集団主義を、能力に基づかない身分秩序への忠誠、さらには一君万民的平等主義や滅私奉公的集団主義へと変化させていったのです。 こうした儒教思想に基づく身分秩序の閉鎖性を打破し、個人の自主・自立の確保と能力発揮による主体的な国づくりを訴えたのが福沢諭吉でした。その「独立自尊」の思想は、明治維新期に新たに生まれたものというより、先述したような、開発領主でもあった武士の自立主義・能力主義の伝統に根ざしているのではないでしょうか。確かに、明治維新は、尊皇思想がその錦の御旗になっていますが、それを支えた下級武士の体制変革のエネルギーは、案外、幕藩体制によって封印された、武士の自立主義・能力主義の精神だったのかも知れません。 以上のように考えると、松下圭一氏の、市民的自発性も持つ「市民的人間型」の育成は、必ずしも「経済構造の工業化による国民の生活水準が向上」によって必然的にもたらされるもの、とは言えないような気がします。おそらくそれは、歴史的・文化的・精神的伝統の上に形成されるものなのではないでしょうか。確かに、物的条件はその必要条件の一つでしょう。だがもし、日本に先に述べたような自立主義や能力主義の思想的伝統がなかったとしたら、明治維新も起こらなかったし、それ以降の日本の近代化もなかったのではないでしょうか。 wikiの「松下圭一」を見ると、その理論を下敷きに政策論を展開する政治家として、菅直人、江田五月などの名が挙げられています。菅首相のこれまでの政治経歴及び政治行動や言動に、日本の歴史的伝統文化を重視する姿勢が伺われないのは、あるいは以上紹介したような松下圭一氏の思想の影響なのかも知れません。松下氏は日本人の伝統的政治イメージとして水戸黄門や大岡越前守を引き合いに出すだけです。また、日本の伝統的な政治形態を、「アジア的専制」というマルクスの言葉で総括しています。 こうした松下圭一氏の国家あるいは民族の歴史的文化的伝統軽視の思想傾向は、氏の国家論に如実に表れていて、例えば、従来国の専権事項とされてきた軍事や外交についても、それは政府の専権を意味するものではないと述べられています。「軍事は国民レベルにおける個人の自衛権の自衛権として設定さるべき」ものであるとか、外交は「市民外交、民間外交という形で内閣による独占は実質的に崩壊している」など・・・。(『市民自治の憲法理論』p172~174) こうした見解は、国家や民族の成り立ちを、その歴史的伝統的な文化と切り離して、抽象的に考えるところから生まれてくるのではないでしょうか。それは、自治の主体となるべき市民的自発性を持った「市民的人間型」の誕生は、経済の発展段階によって一義的に規定される、といったような史的唯物論的な発想に支えられているのではないかと思います。いわば、無国籍的世界市民像を、その民主政治を担う理想型として位置づけているのですね。 恐らくこの点が、松下圭一氏の市民政治理論の最大の問題点ではないかと思います。多分、こうした問題点は、国内政治のみを扱っている場合には、それほど問題にはならないと思います。しかし、今日のグローバル社会において、民族の存亡に関わるような問題を扱う場合には、自ずと自国あるいは自民族の国際社会における、その歴史的・文化的「立ち位置」が問題になると思います。菅首相のアキレス腱も、あるいはこんなところに隠されているのかも知れません。 |