「日の丸・君が代」論争について3――キンピーさんとの論争、私なりの総括

2010年8月19日 (木)

 saizwongさん、コメント有り難うございます。一応、私なりに、今回の「やりとり」を総括しておきます。長いので本文掲載とさせていただきます。

 キンピーさんのほんとに言いたいことは次のことでしょう。

>マルクス主義としては国旗国歌などいう抽象的なものに立脚せず、歴史文化に立脚し、新たな規範を構築しようとするのは当然です。

 しかし、本エントリーのコメントでキンピーさんと議論になったことは、基本的には「日の丸・君が代問題」を裁判(=法)に訴えることで解決しようとしてきた人たちに対する異議申し立てであって、公立学校における入学式、卒業式における国旗・国家の掲揚・斉唱において、教育委員会が教職員に「起立」(という外面的行為)を求めることが憲法19条の「思想及び良心の自由」を犯すことになるかどうか、という問題です。

 これに対してキンピー氏は、氏独自の「14世紀に天皇(制の)寿命はなくなった」という歴史観に基づいて「日の丸・君が代」(=天皇)=(日本国の)象徴という図式は成り立たないから、つまり、憲法上は、個人の「思想・良心の自由」の方が優先されるから、教育委員会がそのような歴史観をもつ教職員に「起立」を求めることは許されない、といったのです。

 この考え方は、「法」規範の確立によって、人間の外面的行為を規制し、それによって社会の秩序を保つと同時に、個人の内面における思想信条の自由をも保障しようとした、近代社会における法治主義の考え方を否定するものです。というより、キンピー氏は、その近代社会をマルクス主義に依って「ブルジョア社会」として否定しているのですから当然そうなるわけです。(従って、そこにおける公教育も否定することになりますから、議論しても無駄でなわけですが)

要するに氏は、自分自身を、フッサールやハイデガーなどの現象学的認識論を加味してマルクス主義を創造的・発展的に継承している「最先端のマルクス主義者」と自負しているのです。

 で、そうした「マルクス主義」理解に立って、日本の歴史文化を分析して得た「氏独自の天皇制論」を展開し、その否定の上に立って「新たな規範」を構築しようと言うわけです。その際、「平泉氏が根無し草を日本の歴史の中にもう一度根付かせようと信念をもって行動された」ことについて、「私としては平泉史観に同意しないものの、その手法の正しさにおいて敬意を持っている」と言っているのです。つまり、平泉氏の行動哲学の上に「新たな規範」を打ち立てようとしているのです。

 ここで平泉史観とは、「皇国史観」のことで、この史観についてキンピー氏は「戦前戦後とその呪縛のせいで日本の中世史や文学が非常に薄っぺらいものになっている」「特に室町時代は近世・近代へ続く大切な準備期間なのですが、子供に日本史を教えるにあたり非常にマイナスに作用しております。」と批判しています。

 にもかからわず、「平泉先生の世界観は『日本=天皇の居る国』ですので、天皇制の崩壊後も『ありがたいことに天皇として居てくれる』まがい物系の天皇も崇拝しておりますが、これは単純に平泉先生の思想であって史実ではありません。ま、これがホントの独りよがりですが、平泉先生は覚悟をもって行動していらっしゃったので、そのあたりは共感しております。」とおっしゃる。

 ここでは、キンピーさん流の「思想」と「史実」の区別がなされています。要するに、皇国史観は平泉氏の「思想」であって「史実」ではなく、これは平泉氏の「独りよがり」だが、「平泉先生は覚悟をもって行動していらっしゃったので、そのあたりは共感しております」といっているわけです。しかし、通常人間は自らの思想に基づいて行動するもので、これでは、平泉氏をその思想とは関係のない「行動力」のみで評価していることになります。なにやら、「純粋であれば何をしても許される」という、皇道派青年将校の行動規範に心酔しているかのようですね。

 この”おかしな”平泉理解もさることながら、

>南朝正統は学者の一致したこと。
これは思想ではなく史実。
よって北朝を認めるか認めないかが思想の問題。
相変わらずズレてるね(苦笑

 などと平然というのですから困ったものです。南北朝正閨論は、そうした議論があったことは「史実」ですが、その中の「南朝正統」論はあくまでもそれを正統とする思想によるのであって、この思想=皇国史観によらずに「南朝正統」論が唱えられたわけではありません。では、この皇国史観はなぜ「南朝正統」としたか。それは第一に、孟子の易姓革命=湯武放伐論否定の論理によるのです。(山崎闇斎による。これを評価したのが平泉澄『歴史に観る日本の行く末』小室直樹p123以下参照)

 要するに、君主が暗愚であろうと不徳であろうと君臣の上下の身分秩序は絶対であって、臣下がそれを理由に叛逆して政権を奪うことは絶対に許されない、とする考え方です。「君、君たらずとも、臣は臣たり」ですね。これは中国の朱子学に発した正統論をさらに「純化」して日本の歴史に当てはめ、日本の神話をそのまま「史実」とし、その神々の系譜に連続している天皇による統治を「万世一系」として正統化し、その主宰者である天皇に対する、殉教をも辞さぬ絶対忠誠を求めたものが、平泉澄の皇国史観だったのです。

 そして、これが「南朝正統論」の思想的根拠になったのです。で、キンピーさん、これを「史実」とおっしゃる。そして、「北朝を認めるか認めないかが」思想とおっしゃる。これ、どちらも思想です。ただ、前者の思想(小室氏にいわせれば、これこそ日本教におけるファンダメンタリズム)が明治維新を可能にし(ということは明治維新は尊皇思想イデオロギー革命と言うこと)、また、それが昭和の悲劇をも生むことにもなったのです。

 このパラドックスをどう理解するか、ここに日本近現代史の「なぞ」が隠されていると思います。私自身は両者に違いについて、明治の指導者は(実質的に)尊皇思想における個人倫理と政治思想を区別し、後者については後期天皇制(=象徴天皇制)の知恵を継承して「立憲君主制」を採用した。しかし、昭和の軍部は、皇国史観に基づく「天皇親政」(=忠孝一体の家族的国家観)を利用して、天皇直属の「統帥権の独立」を盾に軍部独裁体制をしいた、という風に理解しています。

 キンピーさんは、この「なぞ」を、平泉澄のファンダメンタリズム→「純粋な動機に基づく殉教をも恐れない忠臣の絶対的行動規範」によって解こうとしているかに見えます。ただ、氏が殉じようとしている思想は「皇国史観」ではなく、氏の、「現象学的理解に基づく創造的・発展的マルクス主義?」というわけです。これは日本共産党にも異端視されたようですが、私には、「異端」の名に値しない、スジの通らぬ「独りよがり」の主張のように見えますね。

 このように、氏のマルクス主義理解は怪しいものですが、このことは、今までも縷々指摘してきたように、氏の天皇制理解が、「『大日本史』は、14世紀に天皇の寿命(南朝の?)がなくなったことを論証したもの」とか、さらに、平泉澄の純粋な「信念に満ちた行動力」を称揚するなど、訳の分からないものであったために、その思想的一貫性や論理・論証性が疑われるようになりました。

 にもかかわらず、なお、
>ネット右翼というカテゴリーに当てはまる人には、まず戦前の保守・右翼思想家達の文献を読むことを薦めているのですが、たとえば西洋と和の融合させた田邊元・西田幾太郎・和辻などから、皇国史観の平泉澄まで。また八紘一宇の概念。

 などと、自分は左翼思想だけでなく日本の保守・右翼思想にも通じていると、自慢げに人に吹聴するのです。まあ、間違った理解を勧められるのも迷惑な話ですが、それに惑わされた人は、これについてコメントされた方の中にはほとんどいなかったようですね。いずれにしろ、キンピーさんは「新」左翼的・陽明学的行動主義の持ち主のようですが、それなら、もう少し、武士道的「礼節・誠実・名誉」の観念を身につけられたら如何でしょうか。言い逃れしたり、人を笑殺したりすることは、武士道的には不名誉なことです。

>その中で平泉先生のことを何度も書いたのは、平泉氏が根無し草を日本の歴史の中にもう一度根付かせようと信念をもって行動されたからであり、私としては平泉史観に同意しないものの、その手法の正しさにおいて敬意を持っているからです。

 ここで平泉澄の「手法の正しさ」とは、繰り返しになりますが、要するに平泉氏のファンダメンタルな行動力を評価してのことでしょう。しかし、その同じ行動力において、それが武士道的道義心(=勇・仁・礼・誠・名誉・忠義)を欠くものであったこと、それ故に自己絶対化に陥ってしまったことが、昭和の軍部の最大の失敗の要因になったのです。キンピーさんには、是非、これと同じ轍を踏むことのないようご注意願いたいものです。

 なお、「日の丸・君が代」を義務教育においてどう教えるか、ということについては、キンピーさんが拠りどころとしている東京地裁判決でも、「原告ら教職員は,「教育をつかさどる者」として,生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うものと解されるから、入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは,上記義務に照らして許されないものといわなければならない。」」としています。

 それは、教育基本法によって(教育の目的)が、その第一条において「 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」と規定されていること、つまり、「人格の完成」と「国民の育成」という二つの柱を、公教育の目的としていることによります。

 その上で、国旗・国家をどのように子どもたちに教えるか、については、学習指導要領では、第1学年における共通教材として 「日の丸」を取り扱うこととしており、第3学年から「我が国や外国には国旗があることを理解させ、それを尊重する態度を育てるよう配慮すること。」とされ、各学年の音楽では「国歌『君が代』は、いずれの学年においても指導すること」。特別活動では「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」としています。先の判決文は、これらをふまえて、教職員が「国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負う」としているのです。

 では、これらを児童・生徒に指導するとき、その指導法はいかにあるべきか、ということですが、ここで留意すべきは、キンピーさんが尊敬される平泉澄氏の指導法――平泉氏は吉田松陰の指導法を理想としており、吉田松陰は玉木文之進の「スーパー厳格教育」法によって育てられた。そしてその吉田の教育法は、「幼児であるからといって少しも容赦しない」教育法だった――は、「教える者と教えられる者との同一化」をはかる教育法だったのです。(上掲書参照)

 残念ながら、今日の公教育(基本的には世俗教育)においては、教育基本法の中立条項や「中立法」等によって、「教化教育」は大変困難になっています。それは口先だけでない「行動」を要求しますし、そうなると特定の政治勢力の伸張または減退に手を貸すことになるからです。教育ではなく政治になってしまう。だから、公教育は「知識教育・技術教育」に止まるべきだとする福田恆存の論(『教育・その本質』)も出てくるのです。キンピーさんは、一見リベラルの風を粧っていますが、実は、ファンダメンタルな「イデオロギー教化」論者で、それは他者をあえて小馬鹿にし笑殺しようとする態度にも現れていると思います。

(特定の政党を支持させる等の教育の教唆及びせん動の禁止)
第三条  何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体(以下「特定の政党等」という。)の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて、学校教育法 に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む。)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。

>平泉先生ならば・・・、日の丸君が代の強制には反対するでしょうね。
ま、そういうこともネット右翼には分からないでしょう。

 以上説明しましたように、「新」左翼らしいキンピーさんの「日の丸・君が代の強制」反対の論理は、平泉のファンダメンタリズムで支えられているという、なんとも異様なものであることが明らかとなりました。もし、氏が、その論理を福田恆存あたりを引用して行っていれば、もう少しおもしろくなったと思うのですが・・・。しかし、”そういうことはキンピーさんには分からないでしょう。”よって、キンピーさんとの議論はこれで打ち止めとしたいと思います。

(最終校正8/21)