「日の丸・君が代」論争について2――キンピーさんの本当の思想を推測すると・・・
キンピーさんの、一知半解さんのブログエントリー「『日の丸・君が代』強制問題は、決して思想信条の自由の問題ではない」での主張は、公立学校の儀典における国旗掲揚・国歌斉唱について、教育委員会が教職員に「起立斉唱を求めた」ことについて、それは憲法に保障された個人の思想信条自由を犯すものであり、憲法違反だとするものでした。 私の主張は、もともとこの問題は、”「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法的根拠はないから、その掲揚・斉唱を教職員に強制できない”とする、特定のイデオロギーに基づく政治的行動に対する対抗策としてとられたものであって、それ以上のものではない。従って、国旗国歌法の制定によってこの問題は一応の終熄を見た。といっても、この法制化によって可能になったことは、件の儀式において教職員に「起立」という外面的行為を求める程度(斉唱の事実は証明不能)であって、それ以上のものではない、というものでした。 これに対してキンピーさんは、”「日の丸」に向かって起立を求めることは、個人の外面的行為の規制に止まるものではなく、その思想信条の自由を侵すもので憲法違反だ”と主張しました。しかし、日本は法治国家であって、公立学校の教職員は公務員になった段階で、「国民全体に奉仕する」者として、法令の遵守を義務づけられているのですから、入学式や卒業式などの儀典において、その主宰者側にある教職員が国旗・国歌を起立(斉唱)をする程度のことは、本人の思想信条にかかわらず求められて当然でしょう。おそらく裁判もその方向で確定すると思います。 ところが、キンピーさんは、先の自説を補強するために、「日の丸・君が代(天皇)≠象徴」という論理を持ち出しました。そしてその論拠として、”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”と主張しました。これで、キンピーさんの「日の丸・君が代」強制反対の論理の中心はここにあることが判りました。つまり、上述した彼の憲法の思想信条の自由を絶対視する主張は、彼にとっては必ずしも本筋ではないのです。 そこで、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という認識が妥当かどうかが問題となります。これに対して私は、『大日本史』は、確かに南朝を正統とはしているが、南北朝合一によって北朝との葛藤関係は解消した(その正統の連続性を証する根拠として「神器論」や「君徳論」が論じられた)としており、その編纂者である徳川光圀も、その後の天皇について「本紀」に加えるよう命令を下していた、と指摘しました。 また、キンピーさんは、平泉澄の研究でも”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった”ことが証明されていると言っています。確かに氏は、南朝の正統性を主張しましたが、しかし、天皇制の終焉を告げたわけではありません。その証拠に、彼が戦後に書いた『少年日本史』にも孝明天皇や明治天皇の事績が記されています。要するに、彼が求めた天皇制とは、尊皇史観に基づく「天皇親政」であり、平泉澄はそれを昭和において復活させようとしたのです。 以上で、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という主張がいかに独りよがりで勝手な解釈であるかがわかります。 さらに氏は、”皇国史観には賛同しない”といいつつ、”平泉先生は凛とした日本人というものが先にあって、そのイデオロギーとして天皇制を必要とした”などといっています。一体、「皇国史観なき平泉澄」って何?といった感じですが、”平泉先生”への私淑を隠していないところからすると、氏の本音の思想は、平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」なのでしょう。彼はその「ある思想」に依って、天皇制は14世紀に”終わっている”。従って、それを「象徴」とするのは”嘘”である。よって「日の丸君が代=国旗国歌=象徴」という図式は成り立たない、としているのです。 そこで、キンピーさんの平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」とは、一体どのようなものか、ということが問題になりますが、それを、キンピーさんの次の言葉から探ってみたいと思います。 >しかし天皇の居ない日本なんて日本じゃない!という皇国史観の人々の我侭を満足させるために、あるいは國体護持で飯を食っているシロアリどものために、南北朝時代をタブーにし、「万世一系」「天壌無窮」などという嘘を戦前は教えてきたわけでしょうに。その系統にある「君が代」というものを、またぞろ教育現場で強制すれば反発があって当然だと思いますよ。 これもまたとんでもない話で、”南北朝時代をタブーにし(後醍醐天皇の天皇親政の支離滅裂の指摘を避けていること?)、「万世一系」「天壌無窮」などという嘘を”戦前も戦後もつき続けたのは平泉澄その人でした。一体、キンピーさん、平泉澄のどこを見て、「平泉先生ほどの知性と礼節があり、日本人たることを自覚されている方であれば、日の丸君が代の強制などという反日的な考えには私とは別の文脈で反対されたでしょう」などという評価をされているのでしょう?。 そんなわけで、キンピーさんの本当の思想は、”(平泉先生の)その姿勢は真に立派なものであると思っています。特に戦後の活動姿勢は、いわゆる「民主主義者」たちよりも支持しますね”や、しかし”皇国史観は支持しない”等の言葉からから類推するしかありません。ここからは彼が平泉澄を師表としていることは判ります。しかし、平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」とは一体何なのかはよく判りません。あるいは”14世紀に終わった天皇”以外の「何か」に殉忠を求める思想なのか、と思ったりしますが・・・。 ちなみに、平泉澄は、確かに、2.26事件や終戦時の青年将校による軍事クーデターには反対しました。しかし彼は、戦局が絶望的になり、兵士たちには満足な武器も与えられず、食料補給も途絶えて餓死が相次ぐ中で、国民や兵士に対して玉砕・特攻精神を煽ったのです。その結果,「太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出」るという悲惨な結果を招くことになりました。 平泉澄は、こうした日本民族の玉砕・特攻精神を、皇国史観に基づく天皇への絶対的忠誠を求める中で説いたのです。その結果、「国体明徴訓令」以降、日本の国論はこの思想一色に染め上げられることになりました。一方、その「天皇親政」を理想とする政治思想は、現実的には軍部主導の独裁政治を招くことになりました。彼はその体制下にあって、天皇に対する殉忠の美学を国民や兵士に説き続けたのです。 ところで私は、この平泉澄の「天皇親政」を理想とする政治思想は、個人倫理と政治思想を一体化したところに最大の問題があったと考えています。つまり、そこでは、個人の思想信条の自由と、社会秩序を維持するための政治制度とが区別されていないのです。そのため両者は情緒的・心情的に一体化し、両者を媒介するはずの「法」が無視されることになりました。(実は、この問題を解決するための知恵が、後期(=象徴)天皇制に隠されているのです。) さて、こうした問題点をもつ平泉の思想に、キンピーさんはいたくシンパシーを感じておられるわけですが、この平泉の思想は、キンピーさんの先の主張、「個人の思想信条と、その外面的行為は不可分とする思想」と似ていると思いませんか。これは一見個人の思想信条の自由を最大限尊重している意見のように見えますが、一皮むくと、外面的行為より内面的思想の統制を重視する全体主義思想に転化する恐れがあります。 「平泉澄の言動については、多くの人びとの証言がある。昭和の初め学生だった中村吉治は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は『百姓に歴史がありますか』と反問したという。意表を突かれた中村が沈黙していると、平泉はさらに『豚に歴史がありますか』といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。 また昭和18年、学生の研究発表の場で、『豊臣秀吉の税制』を発表した斉藤正一は、『君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する叛逆である』と決められ、大目玉を食らった。」という。(『天皇と東大(下)』p208) また当時平泉の国史科の隣の西洋史研究室にいた林健太郎は、 色川大吉はまた、『ある昭和史』(中央公論社)で、こんなエピソードを書いています。 とにかく、平泉が自分と異なる意見に対して寛容だったとてもいえませんね。思想信条の自由の絶対性を主張するキンピーさんなど、もし彼が氏の弟子だったら、よい点をもらうどころか、斬られていたかもしれませんね。 |