「14世紀に寿命がなくなった」天皇制とは後醍醐天皇が目指した祭政一致の天皇制のこと?

2010年7月25日 (日)

キンピー様へ
>憲法の天皇条項は14世紀に既に寿命が無くなっている条文である。
>天皇家滅亡の出典は学術的に高い評価を得ている大日本史である。

 キンピー様は、ここで、『大日本史』を、14世紀に(南朝の消滅とともに)その寿命がなくなった後醍醐天皇による親政的天皇制のことを記述した歴史書だと言っているのでしょうか。キンピー様の言は誠に”ハッタリ”が多くて、上記のことばもその類だと思いますが、ここに氏の国旗国歌反対の思想的根拠が置かれているようですので、蛇足ながらその間違いを指摘しておきます。

 徳川幕府が朱子学を採用した目的は「官学としての朱子学」の採用によって徳川幕府の統治権の正統性を証明しようとしたのです。ではなぜそんなことをする必要があったか。それは徳川幕府が軍事政権であり武力で天下を取ったものなので、いつ、徳川幕府以上の武力を持った大名が現れて政権を奪取されるかわからない。そこで、中国の朱子学の正統論を援用して天皇の正統性を証明し、その天皇から将軍職を宣下された徳川家の統治は正当という論理で、その統治権の正統化を図ったのです。(下線部「大日本史」の目的となっていたのを訂正しました。7/29)

 そうした流れの中で、『大日本史』(徳川光圀編纂)は「神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382‐1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体で記述したわけですが、何しろ中国の歴史と日本の歴史は違う。中国の歴史には武家の歴史はない。さらに鎌倉幕府以降統治権は実質的に武家の手に渡っている。特に、承久の乱で三上皇が流され(後鳥羽、土御門、順徳)、後堀河天皇が北条泰時により立てられて以降、統治権は実質的に幕府が握り、天皇家は「文化的象徴」に棚上げされてしまっていた。こうした状態を糺そうと、武家政権の内紛を利用して幕府からの権力奪取を図ったのが後醍醐天皇でした。

 この時、足利高氏は、北条高時の命によって上洛し、後醍醐天皇の起こした倒幕クーデター(元弘の変1331年)を平定しました(天皇は隠岐の島に流された)。しかし、その後高氏は北条高時に不満を持ち、隠岐の島を脱出した天皇方に寝返って京都に侵攻し六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉に侵攻して幕府を滅亡させました。高氏はこの戦功によって後醍醐天皇より、その諱(尊治)の「尊」の一字を与えられ尊氏となったのです。こうして後醍醐天皇による建武親政が始まりました。

 ところが、その後醍醐天皇による建武親政は、その統治において公私の区別もなく、朝令暮改で、賞罰はでたらめ。そのためこの親政樹立に味方した武家の支持も次第に離れて行き、ついに足利尊氏の反意を招くことになりました。後醍醐天皇は、新田義貞と北畠顕家らに尊氏誅伐を命じましたが、尊氏は義貞軍を破って入京、しかし、北畠顕家軍に敗れて九州に敗走、その後再び勢力を盛り返して湊川で楠木正成軍を破って入京し、光明天皇(北朝第2代、第1代は北条高時が擁立した光厳天皇)を擁立しました。

 一方、後醍醐天皇は、神器を携えて京都を脱出して正統を主張し、吉野に南朝を立てました(1336年)。以後、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇に至るまで、足利氏の推戴する寺明院統に対立し、この間、足利氏側の内紛に助けられ、また、南朝側についた諸武将の奮戦によって勢力を維持しました。しかし、その後次第に劣勢となり、足利義満の時代(1992年)に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が渡されて、南北朝合一となり、南朝は北朝に吸収されました。

 問題は、この間の事情を『大日本史』がどのように記述したかということですが、『大日本史』は、中国の『資治通鑑』などの歴史書の紀伝体をまねたため、特に天皇の正閨問題を論じようとしたとき、北朝を偽朝として足利氏を叛臣に入れれば、現に存在する天皇家の正統性を否定することになる。また、幕府の統治権の根拠も否定してしまう、という矛盾を抱え込むことになったのです。このため『大日本史』の編集方針は二転三転し、ついに史実に対する論評である「論賛」は本文から削除されてしまいました。

 しかし、この『大日本史』が提起した南北朝正閨問題は、その論賛において、確かに後醍醐天皇に対する栗山潜鋒や三宅観覧による強烈な批判はされていますが、それが幕府の合法性を論証することにはなっておらず、結局、「君、君たらずとも、臣は臣たり」ということで、天皇に対する忠誠心を思想的に純化する方向に向かいました。こうして、そうした臣の鑑として、楠木正成が賛美されることになったのです。また、こうした現実の天皇制とは別に、「真の天皇制」が日本の歴史の中に求められるようになりました。

 こうした「真の天皇制」を求める動きの一つとして、萬世一系で欠けることのない皇統の連続性が、国学思想によって新たな光を当てられることになりました。ここから、幕府を、その皇統の連続性を断ち、天皇の統治権を簒奪した賊と見なす考え方が生まれたのです。さらに、幕末に異国船が日本沿岸に姿を現すようになると、全国至るところに「尊皇攘夷を叫ぶ志士」が登場し、それが公武合体から尊皇倒幕運動、そして大政奉還さらには明治維新へと発展していったのです。

 以上、少々長くなりましたが、『大日本史』は、14世紀に天皇の寿命(南朝の?)がなくなったことを論証したものではないこと。それどころか、それは、後醍醐天皇の失政によって崩壊した天皇親政イメージを、幕末において尊皇思想イデオロギーとして復活させる「バイブル」になったということです。このため幕府の統治が非合法化され、徳川慶喜は大政奉還をすることになったのですから、この本は、幕府にとってまさに厄災をもたらした本だったということができます。

 なお、現行憲法に規定する天皇条項は、鎌倉時代に武家政権が打ち立てた「文化的象徴」としての天皇制の伝統を引き継ぐものといえます。山本七平は、特に建武の中興以降に確立した象徴天皇制を「後期天皇制」と名付けていますが、そのあり方は、前記天皇制の祭政一致型天皇ではなく、政策・政略等に超然とした、いわば日本の伝統文化における「則天去私」の天皇像を示すものだった、と言っています。

 こうした新しい日本の天皇のイメージは、建武の中興という後醍醐天皇による天皇親政の失敗の経験を経て生まれたものでした。この後期天皇制が、幕末期に尊皇思想に基づくイデオロギ命を経て、明治期の絶対主義天皇制に変身したわけですが、それは、法制上はイギリスの立憲君主制をまねたものでしたので、「君臨すれども統治せず」になっていました。しかし、その内実は、後期天皇制における象徴天皇の伝統を引き継ぐものだったのです。

 しかし、これはあくまでも法制上の「天皇機関説」的位置づけであって、これとは別に、教育勅語に謳われた天皇制は、尊皇思想に基づく一君万民平等の天皇親政を建前としていました。そして明治が、この天皇制の思想的矛盾を解かないままに放置したために、昭和になって、中途半端に終わった明治維新をやり直すという昭和維新――天皇機関説を排撃して国体明徴し、天皇親政の政治体制を確立しようとする運動に発展していったのです。

 もちろん、この運動の推進力となったのが軍部だったわけですが、政党政治家を含めて国民全体がこの運動に巻き込まれ、これが現実の天皇を「玉」として担ぐ軍部によって、一党独裁の翼賛政治体制が布かれることになりました。こう見てくると、実は、戦後の天皇制を巡る国民間のアンビバレントな感情も、この明治期の尊皇思想に基づく絶対主義天皇制のイメージを払拭できないことから起こっている問題なのかも知れませんね。

 キンピーさんの持っておられる天皇制のイメージもおそらくこれで、そのため、14世紀に南朝が崩壊した時をもって、天皇制がその寿命を終えたと理解しているのだと思います。しかし、上述した通り、これは間違いで、こうした南朝による天皇親政の統治イメージは、『大日本史』の働きもあって幕末に至って不死鳥のように復活し、これが尊皇攘夷運動を契機として明治維新という中央集権的絶対主義革命をもたらすことになったのです。

 なにやら「人間万事塞翁が馬」といった感じですが、ここで重要なことは、歴史というものは、このように、その民族の歴史伝統文化の延長上に組み立てられるものだ、ということです。明治以降の歴史を見れば、確かに明治維新はすばらしかった、しかし、昭和の歴史は”一体何だ”ということになりますが、こうした歴史上の難問を解くためにも、そこに至った歴史をより正確に読み解き、その新たな発展の方向を見定めることが大切なのです。

 キンピーさんの”独りよがりの論理”を見ていると、憲法の思想信条の自由を、自分の思想信条の絶対性を擁護するためだけに使っているように見えます。要するに、この自由を「自分勝手」に行使しているわけですが、民主主義政治制度下における自由とは、ロックにおいては「つねに神に対する人間の義務と結びついていた」こと。つまり人間の自由意志は人間の義務の観念とセットではじめて行使できるものなのです。

 先ほど紹介した後期天皇制における基本的な倫理観は、そうした人間の独善性を排した慈悲にもとづく共同体を理想としていたわけで、特定のイデオロギーに基づく自己絶対化とは無縁のものです。その意味で、日本国憲法における天皇条項は、そうした天皇像を日本国の象徴として置いたものだということができます。キンピーさんには、以上のような歴史をふまえた上で、日本国の象徴としての国旗国歌の問題を考えていただきたいと思います。

参考図書 山本七平著『現人神の創作者たち』『日本的革命の哲学』『山本七平の日本の歴史(上・下)』