大阪市における「君が代」起立斉唱問題を契機に法律の規制が及ぶ範囲について考える

2012年3月19日 (月)

 アゴラ言論プラットフォームで北村隆司氏が、「君が代」斉唱問題に関わって興味深い三つの記事を書いています。

 まず最初の記事は、大阪市長の橋下氏が、職員の「入れ墨」についてそれを「消させよ」としたことについて、職員の「入れ墨」を禁止することは、憲法第11-14条の規定(基本的人権、その公共の福祉のための利用、個人としての尊重、法の下の平等)に抵触するのではないか、とする意見です。これは公務員の「入れ墨」が、「公共の福祉のための自由の利用」という範囲を逸脱した「権利の乱用」となるかどうか、日本では議論が分かれると思いますが、こうした一種の個人の趣味の問題を、法律で規制できるかどうかを問う問題提起としては、大変おもしろいと思いました。

それはないよ、橋下さん! ―「入れ墨は首、それが駄目なら消させよ」発言 北村 隆司
http://agora-web.jp/archives/1437985.html#more

「現行法では「入れ墨」は法的に何ら問題ありません。「入れ墨」を理由に職員を懲罰に課したいなら、先ず「入れ墨」を非合法化すべきです。ぶれない事が強みの橋下市長でしたが、「法律に触れない物は何をやっても良い」と言う年来の主張は、一体どこへ行ったのでしょうか?

「公務員に入れ墨を許す国がどこにある」とも言われたそうですが、欧米では「入れ墨」をした警官や消防夫、軍人などはざらです。

余談になりますが、米国で連邦予算局長、労働長官、財務長官、国務長官を歴任したジョージ・シュルツ氏は、母校プリンストン大学のシンボルである「虎」の入れ墨をお尻にしている事は有名な話です。

法律に疎い私ですが、この問題に関する限り、市長の言動は憲法が保障した国民の基本的人権への公権力による侵害としか思えません。又、条例で職員の「入れ墨」を禁止する事も、憲法第11-14条の障碍を乗り切れるかどうか、甚だ疑問です。」

 次の記事は、イスラエルにおいて、最高裁判事に選ばれたアラブ人ジョブラン判事が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったことが問題視されていることについて、それを日本の公立学校の儀式における「君が代不起立不斉唱」の問題と対比したものです。
その主張するところは、

 「イスラエル最古の日刊紙とは言え7万部弱の発行部数しかない弱小紙である「Haaretz」紙が「少数派の人達をフェアに扱う事が真の民主主義で、その実行が如何に難しいかを我々ユダヤ人に教えてくれたジョブラン判事に、深甚の感謝を表さなければならない」と言う勇気ある社説を掲げ、更に続けて「敵意に囲まれた同僚を片目に、ジョブラン判事を冷静な立場で擁護する最高栽判事が一人も居なかった事には苛立ちを覚える」と批判したことについての論評です。

 氏は、「袋叩きに合う事は間違いないと知りながら、この様なコメントを出す新聞が残っていた事を知り、ジャーナリストの威厳と誇りがまだ健在だと勇気づけられました。」といい、続けて、「民族間、宗教間で戦争の続くイスラエルならいざ知らず、9割以上の国民が同じ民族で、同じ言語を持ちながら、「国歌」すら一緒に唱和出来ない「日本」。キリスト教徒、ユダヤ教徒、回教徒、ヒンズー教徒、黒人、白人、黄色人が揃って「God save the Queen」を歌える「英国」。

 この違いは何か?

 国民の成熟度の違いなのか? 対話の不足なのか? 埋める事の出来ない「違い」がどこかにあるのか?本来なら条例などなしに国旗掲揚、国歌斉唱が出来るのが当たり前なのに、日本では何故こうも揉めるのか?」

 と問いかけたものです。そこで、私の考えを次のようにコメントしました。

「イスラエル版『君が代』騒動に考える」北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html

(私コメント) 民主主義という政治制度を採る限り「思想・信条・良心の自由」は当然です。しかし、国家が政治的に保障するこの基本的人権と、歴史的伝統文化に由来する国民の統合原​理とは一見矛盾するように思われますが、基本的には両者は別の原理であって二者択一を迫るべきものではありません​。とはいえ、後者を国民統合の原理とする国家では、前者によって後者が毀損されるようなことは認めないと思います。

 この記事の場合、最高裁判事に選ばれたアラブ人が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったこ​とが問題視されたわけです。この場合、最高裁判事に選ばれる条件がどのようなものであったか知りませんが、イスラエルが民主主義国家である限り、「思想・信条・良心の自由」が制限されるはずはないので、氏はあえてこうした行動に出たのではないかと思われます。

 それが物議を醸したわけですが、民主主義政治制度を採る限り、「少数派の人達をフェアに扱う」べきで、「その実行が如何に難し」いことであっても、その自由は保障されるべきである、というのがこの新聞社の主張だと思います。

 そこで、我が国の「君が代」問題ですが、これを否定する人たちの問題点は、政治的な「思想・信条・良心」の自由を主張するに止まらず、日本の伝統的文化的統合原理と​しての「天皇制」を否定している点にあります。つまり、冒頭の論で言えば、前者の自由の名を以て後者を否定しているわけです。

 では、なぜ日本でこのような問題が生じるかというと、日本国の統合原理とは何か、ということについて、また、その伝統的文化的統合原理としての「天皇制」に理解につ​いて、国民間でコンセンサスが得られていないためです。​これが日本の場合の問題で、イスラエルの場合とは決定的​に異なる点です。

 とはいえ、イスラエルのような国でも、以上のような論議がなされるのですから、伝統文化を異にする人びとを政治的に統合しようとする場合、民主主義政治制度を採る限​り、「いかにその実行が難し」くても、「少数派の人たち​をフェアーに扱う」ことが必要になります。

 このアラブ人判事の場合、起立をすることでイスラエル​の伝統文化に対する敬意を表し、謳わないことで自らの伝統文化への忠誠を示したわけですが、日本の公立学校で職​員に儀式での「君が代」の起立斉唱を求める場合も、これと同様の解決法を考慮すべきではないでしょうか。

 要は、自らの伝統文化に対する自信と誇りの問題で、それを維持発展させることについての覚悟の問題であって、​それくらいの余裕は持ちたいと思うのです。大阪の橋下氏​にもこうした余裕を持ってもらいたいと願っています。

 次の記事は、同じ「君が代」斉唱問題について、北村氏は、朝日新聞が「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は職務命令で起立斉唱を強制することに慎重な考慮を求めた」と1月16日の最高裁判決を紹介したことに対して、これは真っ赤な嘘で、判決文は「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」と言っているだけであり、この朝日の社説は「判決文を書き換えた」悪質な詐欺的記事だと批判しています。

 さらに判決は、「学校の規律や秩序の保持等の見地から重きに失しない範囲で懲戒処分をすることは,基本的に懲戒権者の裁量権の範囲内に属する」と学校当局の「懲戒権」を認めた上で「懲戒は重きに失しない範囲」と懲罰の重さに慎重である事を求めたに過ぎない。従って、公共の利益の為には強制力を持つ公務員は、一般人以上の法的義務の厳守(コンプライアンス)や上司の命令に対する厳しい忠誠義務が求められているのであって、卒業式で、生徒や父兄が「君が代」に対し、起立斉唱を拒否する事は市民の権利に属するが、教員は公務員である限りそうは行かない、と言っています。

 確かに、日の丸君が代が国旗国歌として法制化され、儀式におけるその掲揚・起立斉唱が教育委員会規則で定められた以上、公務員たる教師がそれを守ることは当然です。しかし、「君が代」を歌っているかどうか口元の動きをチェックするなどといった監視行為が「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」という最高裁の判決の範囲に止まるものかどうか、いささか疑問なしとしません。

 そこで、私は次のようにコメントしました。

朝日新聞のインチキ社説「大阪の卒業式―口元寒し斉唱監視」を読んで!北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html

(私コメント) 「法が規制できるのは人の外面的行為のみです。確かに国​旗国歌法が制定され教育委員会が儀式における国旗掲揚と​国歌の斉唱を職員に義務づけたなら、その法や規則に従う​のが正しいが、その場合も外面的行為の規制に止まるので​あって、だから私は口パクでもいいと言ってきました。だ​がその確認は実際には困難だから起立をもって斉唱と見な​すべきです。

 もともと、こんな法律や規則ができたのは、公立学校の一部の職員が、日の丸君が代を国旗国歌と認めず、それを儀式において掲揚・起立斉唱することを妨害あるいは不起​立不斉唱することで、自らの思想をアピールしようとしたためです。だから、例え日の丸君が代に反対でも、自らの思想をこんな形で表明しなければ、これらの法律や規則は生まれなかった。

 しかし、それらが法律や規則として制定された以上、これを公立学校の職員が遵守するのは当然です。しかし、その場合も、その効力はあくまで外面的行為の規制に止まる​のであって、歌い方を詮索する必要はありません。歌は心で歌うものであって嫌々歌うものではありません。そんな歌い方をするなら、はじめから歌ってほしくないと考えればいいことです。

 問題は、なぜ戦後日の丸君が代に対するこうした反対運​動が生まれたかです。それは敗戦の結果、国民の間に戦前​の日本の国家体制に対する不信感が生まれたためです。従​ってこれを克服するためには、自らの民族や国家に対する​自信と誇りを取り戻すことが必要です。そこで問題となる​のが、いわゆる自虐的歴史観をいかに克服するかというこ​とです。

 これは、政治の課題ではありません。日教組の最大の誤りは、実はこれを政治的に解決しようとしたことにあった​のです。」

 実は、私も長年教職員団体に所属していて役員もやったのですが、こうした日教組の政治団体化の問題については一貫して批判してきました。しかし、今日までそうした体質は変わらず、今大阪で提起されているような問題を惹起しているわけですが、おそらく、この問題は、日本における労働組合組織が企業別組合であって、それが公務員に適用された場合、倒産のおそれがないだけに、その組織が「ムラ共同体」になってしまい、組織の法的合理性が失われてしまうということだと思います。

 といっても、こうした被使用者の利益を協同して守る組織が必要な事は言うまでもなく、もしこれがなくなると、それこそ「権力を三日握ればバカになる」の言葉の通り、まさに”やりたい放題”恣意的な権力行使を免れないのです。ここに「法による支配」「国民主権に基づく政治家の選挙」「権力の分立とその相互牽制」「基本的人権の保障」などの民主主義政治原理の重要性が出てくるのです。

 橋本市長の「維新八策」は、公務員組織に限らずとかく「ムラ」化しやすい日本社会に風穴を開け、国民の自主独立を基調とした新たな国作りを目指す斬新なアイデアに満ちていると思います。それだけに、その実現を目指す政治手法において、上記の民主主義政治原理を十分踏まえて、落ち着いて事を進めることを切に願いたいと思います。

(参照)日本国憲法
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。