橋下徹大阪市長への提言――府教育基本条例案は早急に撤回し教育委員会制度の改革を目指すべき

2012年1月10日 (火)

*アゴラ言論プラットフォーム掲載論文

 大阪府教育基本条例案を読んでみました。率直に言って、この条例制定の動機は政治的過ぎるし、また適法性にも欠ける(『大阪維新の会「教育基本条例」何が問題か』市川昭午著参照)ので、これは早急に撤回した方がいいと思いました。これにこだわっていると、民主党が「ばらまきマニフェスト」にこだわったために、政治改革の本筋を見失ったように、折角の「維新」が元の木阿弥になるおそれがあります。それよりも、諸悪の根源は教育委員会制度にあるのですから、これを、地方自治体が責任を持って学校経営できるものに変えるよう全力を尽くすべきです。そうしない限り、地方教育行政組織の機能不全は今後も続きます。

 実は、日本における教育委員会制度の機能不全という問題は今に始まったことではなく、それが立法趣旨通りに機能したことは、昭和23年に教育委員会法が制定されて以来一度もないのです。言うまでもなくこの制度は、アメリカが占領政策の一環として日本に持ち込んだもので、戦前の教育行政を内務行政から切り離し、アメリカ生まれの教育委員会制度を日本に移植しようとしたものでした。しかし、アメリカと日本の歴史は全く違いますから、教育委員会を日本全国の市町村(当時二万以上あった)に設置することには無理があり、そのため、その義務設置を昭和27年まで延期したのです。

 しかし、昭和27年になっても、その設置単位や権限をどうすべきか等の話がまとまらなかったので、さらにその義務設置を1年延期することになり、そのための法案が政府文部省より国会に提出されました。ところが、この法案は衆院文教委員会において、突如、与党自由党によって否決され、同年八月、国会において審議未了となり、その結果、教育委員会は全国の市町村に義務設置されることになったのです。

 もともとこの法案は、文部省が大蔵自治庁とも協議し、社会党や日教組もこれに同調していたものでしたので、この法案の不成立は「文部省にとってはまさに晴天の霹靂と称すべきもの」であり、同省は「この意想外の事実に遭遇して、『周章狼狽、なすところを知らない』有様であった」といいます。

 では、なぜ与党自由党は、こうした大方の意志に反してこれを強行したのでしょうか。それは、当時、「日教組は官僚制を廃し教育の自由と教師の自由を保障することを掲げて、(都道府県)教育委員選挙に積極的に取り組み、組織力を使って組合員や推薦者を多数当選させたため、保守勢力は市町村にまで教育委員会を設置して委員に地域の有力者を送りこみ、日教組の監視を図った」ためであるとされます。

 当時、文部省にあって、その衝に当たっていた相良惟一文部省総務課長は、次のように述懐しています。「いわずとしれた、それは日教組対策に外ならなかった。日教組の進出に、強い反感と恐怖を持っていた自由党が、日教組勢力の分断を策するために、地教委をいっせいに設け、任命権をそこに移し、日教組の監視役たらしめようという意図をもったのである。」(山本敏夫、伊藤和衛共編・『新しい教育委員会制度』所収「教育委員会制のためになげく」)

 こうして全国の市町村に教育委員会が義務設置されることになったのです。つまり、日本の教育委員会制度は、もともとはアメリカが占領政策の一環として持ち込んだものですが、その占領が終わった後に、全国の市町村にそれを義務設置したのは、時の政権党自由党だったのです。その目的は、市町村に教育委員会を設置し、そこに教職員の任命権を移すことで、地域の有力者の力で、日教組の勢力伸長を掣肘することにありました。

 しかし、こうして発足した教育委員会制度は「必要な諸要件の未整備という客観的に不利な条件のほかに、創置後年月の浅いこの制度の運営に、委員たちが十分習熟しないというやむを得ない事情もあって」、市町村教育委員会は、教員人事や財政活動など実際の運営面において、種々の混乱を引き起こすことになりました。このため、特に、行財政面で教育委員会と密接な関連を有する地方自治体側から地教委(=市町村教育委員会)廃止の激しい運動が湧き起こりました。

 しかし、政府はこれらの廃止論に対して、当初は日教組対策の思惑もあってその「育成策」を主張して譲りませんでした。ところが、地方財政の窮迫や教員人事の停滞等により批判的世論が高まったため、この根本的改正を企図するようになりました。その手はじめが「地財再建法」(s30.2.29公布)及び「地方自治法一部改正法」(s31.6.12公布)で、これにより、教育委員会の財政権が大きく制限されることになりました。もちろんこれは、地方自治体側の要求に沿ったものでした。

 そして、その総仕上げとして提出されたものが、現行の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」(s31.6.30)でした。その改正要点は第一に、教育委員の公選制を長の任命制とすること。第二に、教育委員会の予算送付権を廃し、支出命令権を長に移すこと。第三に、教職員の人事権を都道府県教委に移すこと。また、文部省から地教委までの一貫した中央教育行政の管理体制を確立すること等でした。これによって、地方自治体の不満を一部解消すると共に、日教組監視役としての教育委員会の機能維持を図ろうとしたのです。

 これが、わが国の教育委員会制度が歴史的に抱える基本的な問題構造です。橋下氏は大阪府知事就任以来、この教育委員会の学校経営機関としての機能不全を激しく攻撃する言動を繰り返しています。そして、この機能を回復するための方策として、大阪府教育基本条例案を提案しているわけです。しかし、この条例案は現行地方教育行政制度の下においては「自爆装置」となる可能性があります。そうなってしまっては、教育委員会制度の抜本改革という本丸に切り込むことは到底できません。

 橋下氏は、この教育委員会制度の学校経営機関としての機能不全という問題に直面し、それを解決しようとしているのですから、本筋の地方分権型統治機構改革と軌を一にして、実現可能な教育委員会制度改革案を策定して欲しいと思います。そのための材料はいくらでもある。例えば、民主党の2009年の政策集には、「②現行の教育委員会制度は抜本的に見直し、自治体の長が責任をもって教育行政を行います。③学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会制度により、主体的・自律的な運営を行います。」とあります。

 また、「中央教育委員会の設置」と題して、

 「教育行政における国(中央教育委員会)の役割は、①学習指導要領など全国基準を設定し、教育の機会均等に責任を持つ。②教育に対する財政支出の基準を定め、国の予算の確保に責任を持つ。③教職員の確保や法整備など、教育行政の枠組みを決定する――などに限定し、その他の権限は、最終的に地方公共団体が行使できるものとします。」

 また、「保護者や地域住民等による『学校理事会』の設置」と題して、

 「地方公共団体が設置する学校においては、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する「学校理事会」が主な権限を持って運営します。学校現場に近い地域住民と保護者などが協力して学校運営を進めることによって、学校との信頼関係・絆を深め、いじめや不登校問題などにも迅速に対応できるようにしていきます。こうした学校との有機的連携・協力が生まれることは、地域コミュニティの再生・強化にもつながります。」と提言しています。

 私は、この学校理事会の下に教育長をおいて学校経営にあたらせるべきだと考えていますが、この民主党の考え方にはおおむね賛成です。しかし、これを大阪府教育基本条例案に規定する地方教育行政組織に見てみると、そもそも府教委の教育委員は現行法では知事が任命し議会の同意を受けているのに、その教育委員に対する不信が露骨に現れています。その結果、知事が学校教育目標を設定したり、任期途中で教育委員を罷免したり、議会を通じて知事が府教育委員会に是正要請をすることができるなどの規定が見られます。

 また、教職員の人事任用制度のあり方については、現行の県費負担教職員制度は、教職員の任命権・給与負担と服務監督権が都道府県と市町村に分離しているために、学校経営の責任主体が都道府県教委にあるのか市町村教委にあるのか分からなくなっていることが問題なのです。従って、これを是正するためには、教職員の任命権を市町村教委に一本化する必要がありますが、従来、小規模市町村の学校管理能力に限界があるため、現在は政令指定都市のみに任命権が委譲されているのです。

 また、教育委員会制度そのものも、行政委員会として長部局に対する相対的自律性が法制上保障されていますが、現実的には、予算編成権や予算執行権は長にあり、また、市町村教育委員会事務局の人事権は、指導主事等専門的教職員を除いて長が握っています。都道府県教育委員会の場合は、事務局の人事権を巡って教職と行政職の間で綱引きが行われますが、これは、都道府県教職員組合の組織状況によって大きく左右される。つまり教育委員会の自律性はこうした事情によっても左右されるのです。

 おそらく、大阪府の教職員団体の組織率は高いので、橋下氏にとってはそれが白河法皇における「山法師」のようなものに見えたのでしょう。ただ、その団体交渉の様子をYOUTUBEで見ると、職員団体の分が悪いようですが・・・。いずれにしても、これらの問題は、学校経営の管理主体がどこにあるのか。学校か、教育委員会か、あるいは自治体の長かが判らなくなっていることが原因なのです。従って、この問題さえ解決できれば、教職員の職務モラルは高いですから、自ずと専門的リーダーシップを発揮する方向で問題解決が可能になると思います。

*以下2パラグラフでは区市長としていましたが、大阪都構想では市は廃して区のみにするとなっていましたので、市を省きました。(1/11)

 では、以上述べたような問題点を持つ現行教育委員会制度をどのように改革すべきかということですが、これを橋下氏が構想している大阪都構想に即して言えば、まず、学校管理の最終責任は区長が負う。区長は区内の学校の経営にあたる教育長を任命する。また、その教育長による区学校経営の監督機関として保護者、地域住民、学校評議会委員、教育専門家等よりなる学校理事会(=教育委員会)を置く。区長は、この学校理事会の意見を踏まえて教育長の任命・解職を行う。また、学校には校長の他、当該校の学校経営を評価する学校評議会を置く。

 では、このように区長を区市の学校経営の最終的な責任主体とした場合、大阪都はどういう役割を果たすか、ということですが、都は都全体の広義教育行政機能(給料表の作成や勤務条件の基準の設定等)を担う事になると思います。それは、知事部局の部課で処理すればよく、合議制の教育委員会を置く必要はないと思います。また、採用試験は都が行うとしても、実際の採用・転任、昇任・昇格等は区教育長が行う。教科書採択は折角教科書検定制度があるのですから、できるだけ学校の裁量権を拡大すべきです。(下線部修正1/11)

 なお、国には、民主党の政策集にあるような「中央教育委員会」を設置する必要があります。ここでは、全国的な教育基準の設定や、教育研究・教職員研修、教育内容研究や指導技術の開発、各種教育資料の提供、教育の機会均等を保障するための教育予算の確保、教員免許の授与(教員免許を国家試験とする)、教職員定数標準の設定等の、国の教育行政の全体的枠組みを設定します。

 以上、大阪都構想に即して、あるべき地方教育行制度改革のあり方を述べてきましたが、このためには、現行教育委員会制度の抜本的改革がどうしても必要です。実は、このような教育委員会制度の改革の必要性については、過去、教育改革論議がなされるたびに繰り返し指摘されてきたのですが、その都度換骨奪胎されてしまいました。なぜか。その最大の理由は、この地方教育行政組織を巡る関係者の利害が、同床異夢で不思議に一致しているからです。

 というのは、教職員にとっては管理機関は弱体の方がいい。市町村長には予算権がある。市町村教委は人事的に長部局と一体であり、曲がりなりにも学校管理権がある。都道府県教委は知事部局に対する相対的自律性が保障されていて教職員閥が構成できる。教職員団体は組織率さえ高ければ、地公労組織を通じて教育委員会や知事部局に対するヘゲモニーを握れる。文科省は教育委員会を地方出先機関として地方教育行政に対する指導力を発揮できる、というわけです。だから、この制度が学校経営上の機能不全を起こしていても、それは関係者にとって深刻な問題とはならないのです。

 橋下氏が大阪府知事となってこれを問題としたのは、おそらく大阪府の小中学校の学力向上のため、学力テスト結果を公表しようとして、府市教育委員会に反対されたためではないかと思われます。これ加えて、府知事選で、職員団体が組織的に現職知事を支持し、公務員には禁止されている選挙活動を公然と行い、しかもこれが常態化しているということもあって、冒頭言及したような、拙速かつ感情的で適法性を欠く府教育基本条例の提案となったのではないかと思われます。

 だが、地方教育行政組織における学校経営組織の機能不全という問題は、教育委員会制度を抜本的に改革しない限り、決して解決できません。これを、府教育基本条例案に見るようなやり方――知事の教育管理権を強化したり、教職員の処分権を強化したりするようなやり方で解決できると考えることは、現行法に抵触するというだけでなく、民主政治下における権力行使の作法という点でも、余りに感情的かつ独善的であるとの批判を免れないと思います。

 といっても、大方の世評は、既得権にしがみつく現状維持勢力に対する、氏の切れの良い、長時間の応答にも耐える、明快かつ攻撃的言説に拍手喝采しているようです。確かに、決定できる民主主義、責任をとる民主主義を目指すことは正しい。また、強烈な権力意志を持つことは政治家としての必要条件です。また、氏の演説は人々の関心を的確に捉えてよどみがない。しかし、府教育基本条例案は、そうした評価を台なしにしてしまう程拙速かつ不用意なものです。

 この事実に橋下氏が一日も早く気付き、この条例案を撤回し、「克・伐・怨・欲」の悪しき感情を四絶することによって、真の、決定できる民主的リーダー、責任をとる民主的リーダーに成長されることを切に希望します。