福田恆存が「滅び行く日本」で問うたこと――橋下徹氏は成功せる平成維新の騎手たり得るか?

2012年1月 4日 (水)

*前エントリーへの健介さんのコメントに対する応答です。長文ですので本文掲載としました。

健介さんへ

その後、福田恆存の書いたものをいくつか読んで見ました。以前より山本七平と同じ視点だと思っていましたが、福田はかって『日本人とユダヤ人』について「ベンダサンの赤い舌」(これは全集にはない!)というエッセイを書いていました。一見、それは日本教を褒めているようで、その実、裏で赤い舌を出しているのでは、という意味ですが、『日本教について』では、日本教の宗教社会学的な構造分析がなされましたので、その後、氏が山本七平を論評することはなかったように思います。

福田も山本も、「もののあわれ」に根ざす美意識に支えられた日本人の伝統的な規範意識を、ユダヤ・キリスト教の絶対神信仰に根ざす欧米人の生き方と比較する中で対象化し、それを改めて自覚的に捉え直すことの大切さを説いていたと思います。この場合、山本は福田が論争的啓発に終始したのに対して、日本人の伝統的な考え方を日本教という概念を用いてユダヤ・キリスト教的な考え方と対比的に論じたのです。

山本は、さらに、日本人の神概念、特に昭和の超国家主義の思想史的系譜を明らかにしました。また、北条泰時の制定した貞永式目による日本的法治主義の伝統、それが皇室を中心とする律令的秩序と併存し一種の二権分立になったこと。幕府政治は治安維持をその主たる任務としていて宗教が政治に関与することは排除したが、政治が宗教に関与することには無関心であったことなど、幕府政治の基本的性格を明らかにしました。

福田は「滅びゆく日本」というエッセイで、日本民族の連帯感を希薄にするような危険な事態がどこから生じたか、その原因について次のように述べています。

「一言で言えば、それは私たち日本人が敗戦によって私たち自身の歴史、伝統を自ら否定し、意識的にそれとの断絶を計ったことにあります。国家や民族ばかりでなく、個人の場合でも同じですが、一人の人間を他の人間区別し得るもの、詰り、その人をその人たらしめているもの、それはその人の過去以外の何物でもありません・・・過去を失えば、現在をも含めて今後どうして生きていったら良いか、何をすべきか、その方途も根拠も全く失ってしまうのです。人が未来に向かって行動を起こす出発点はその人の過去であって、現在そのものでは決してない。なぜなら、現在とは過去の集積そのものだからです。」

だから、私たちが、自分及び自国の歴史を見る時、健介さんが紹介されたような、
<それを書いた場所と書かれたときが一番の問題である>まずそれを見ることである。
<今日、昨日のことを昨日かかれたものを。今日、昨日の目で見ることである>
<その多くは、今日の目で昨日を見ることになる。この落差こそが核心で、その差を絶えず意識する事だ>
などが大切になってくるのです。

>日露戦争は、たぶん回避が正解でしたでしょう。

tiku 伊藤博文の満韓交換論(日本は満州における東支鉄道沿線のロシアの特殊権益を承認し、ロシアは韓国における日本の優越的地位を承認し、共に清韓両国の領土保全と機会均等を約束すること)をロシアが容れなかったことで、日露戦争は不可避だったというのが岡崎久彦氏の見解です。その後のロシアのマヌーバーを見ればそう言えるのではないでしょうか。(以下引用『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦)

日露戦争の戦後処理の問題点としては、ポーツマス条約成立直後に日本に対してなされたアメリカの鉄道王ハリマンによる南満州鉄道共同経営の提案を、当時の政府首脳(桂、伊藤、井上ら)は賛成したのに、小村がこれを阻止したことが上げられます。

この協定を支持した政府元老は、日露戦争による財政窮迫、満州鉄道の経営負担に自信がなく、また、ロシアの報復や、支那の裏面の外交工作によって、繰り出される列強の圧力から、日本を守り切る自信はありませんでした。そこで、満州を米国、支那を巻き込んだ国際的地域にしておいた方が安全だと考えたのでした。

それは、「ペリー来航以来の弱小日本の苦難の経験を知っている元老としては、日本がいつまでも欧米列強と張り合えるとは思っていず、早く安全策を講じたかった。」しかし、日清、日露戦争を経て帝国主義的情熱に燃えていた新しい世代はそうは考えなかったのです。高橋是清は、1906年「今から十年の内に日本は、米国と共同で満州鉄道を経営しなかったことを悔いる時が来るであろう」と言ったそうです。

その後、満州では、戦争中に日本の満州軍司令部によって行われていた軍政が、講和成立後も関東総督府という名の下に続けられていました。他方、法的日本にとって外国である満州内の主要都市は外務省の領事館がおかれ清との外交関係が維持されていました。この関東総督府による軍政と、外務省の領事館を通した清との外交関係に摩擦が生じることになるのは当然でした。

こうした状況を危惧した伊藤は1906年5月22日、意見書を首相官邸で開いた「満州問題に関する協議会」(統監:伊藤博文、枢密院議長:山縣有朋、元帥:大山巌、内閣総理大臣:西園寺公望、枢密院顧問官:松方正義、井上馨、陸軍大臣:寺内正毅、海軍大臣:斉藤実、大蔵大臣:坂谷芳郎、外務大臣:林薫、陸軍大将:桂太郎、海軍大将:山本権兵衛、参謀総長:兒玉源太郎)に提出し、それを全会一致で決定しています。(『日本外交年表 竝 外交文書(上)』)

次は、その意見書の岡崎久彦氏による要旨とその解説です。(『小村寿太郎とその時代』p288~230)


「現在の軍政の状況を続ければ、英米は、日本が多年の主張と累次の声明に反して満洲の利益を独占し、門戸を閉ざすとの印象をもつに至るであろう。かの親日的な英国のマクドナルド新駐日大使も、これは、日本に同情した国々を疎遠にする自殺的行為であり、将来ロシアと再戦の場合に日本は大きな打撃を受けるであろうと内々警告してきている。 

こういうことをしていると、ロシアの武断派の術中に陥って、ロシアはこれを口実として極東の軍事力を強化し、ポーツマス条約は一時の休戦条約と同じことになってしまう。

また、日本が多大の犠牲を払った清国に対する好意は無になり、日本は清国の怨恨の的となり、このまま放置すれば、満洲のみならず、二十一省の人心はついに日本に反抗するようになるだろう。

この判断のうえに立って伊藤は、軍政廃止の実行案を具体的に提示し、会議は討議に入った。 伊藤は本来柔軟な頭脳をもった政治家である。超然主義の憲法を主張しながら、最後には政友会という政党の総裁にまでなった。日露協商に固執しながら最後には日英同盟に賛成した。しかし、この問題では伊藤は妥協の余地を認めなかった。この会議における伊藤の一歩も譲らない信念の強さは天晴れというほかはない。おそらくは、国民世論、軍の意向の滔々たる流れを感知して、自分以外にこれを押し止める人間はいないと知っていたのであろう。

いちばん矢面に立った児玉が種々弁明するのを、伊藤はいちいち呵責なく論破している。外国の例からみても日本のしていることはすべて不当だというわけではない、という児玉の抗弁に対しては、「自分が心配なのは米国の世論が強大なことだ。政府当局がいかに日本に同情的でも、いったん世論が動けばやむをえず世論に合った政策をとる」といっている。まさに、二十世紀のすべての指導者が直面する最大の問題を、真正面から指摘している。つまり、問題は理屈ではない、米国の世論に与える印象なのだといって、ああだこうだと日本の行動を正当化しようとする小理屈を粉砕している。

そして、寺内正毅陸相が、伊藤の提案を全部議論する時間はないが、その趣旨は賛成だ、とそ場をおさめに入ると、「大体において異存がないというのではダメだ、異存がないなら、これを実行する手段を論じてほしい」と決めつけている。

結局は、伊藤と考え方を同じくする西園寺首相のまとめで、列席者全会一致で、伊藤の提案にまったく異議がないこととなり、その決定は実施されることとなった。

元老というのは法律に規定のある身分でもなく、官職でもない。あえて定義すれば、天皇から個人の名指しの勅を賜わって、天皇を輔佐する役である。伊藤は名実ともにその元老であり、日本という国家の舵取りの役を立派に果したわけである。

しかし、元老といっても、伊藤と並び立っていた山県は終始、軍、藩閥を代表して民主主義の 足を引っぱったし、最後の元老西園寺は、その場その場の判断は正しかったが、伊藤のように国民世論の大きな流れに抵抗してそれをねじ伏せるだけの行動力、破壊力はもっていなかった。

畢竟政治は人であろう。伊藤の見識をもってはじめて、日本は議会制民主主義という世界の政治思想の中道を歩き、英米協調という世界政治の主流の路線を歩むことができたのである。伊藤が逝ってからの元老の役割は、やがて、政変後の後任の首相推薦による政局の操作だけに矮小化されてくる。」

「畢竟政治は人であろう」という言葉は、ほんとに重いですね。その資質を持っていたと思われる戦前の政治家、伊藤も原も濱口も犬養も暗殺されましたし・・・。 

>まるで今は大正時代を過ぎ、昭和のはじめのような時代状況になりました。

tiku今は戦後60年代にあたります。明治維新後の60年代は昭和元年にはじまります。大正デモクラシーに対する反動が昭和維新であったとすれば、戦後デモクラシーに対する反動が平成維新ならぬ大阪維新と言うことになるのでしょうか。現在、橋下大阪市長が飛ぶ鳥を落とす勢いですが、氏とガチンコで議論し論破できるような人が沢山出てこないといけませんね。

氏は確かに「維新」の空気を捕らえていると思います。しかし、それが昭和維新のような結末を迎えるようなことになっては大変です。では、昭和維新の失敗の原因は何だったかというと、一言で言えば国内だけでなく国際的な「法的秩序」を無視したということ。その結果、独りよがりの超国家主義的全体主義思想に陥ってしまったのです。

そこで、その橋下氏の主張を最近のツイッターに見てみたいと思います。(1月3,4日分から抜粋)

(中央集権体制を道州制に)
明治から続いている中央集権体制、国と地方の融合型の統治機構はもう腐っています。つぎはぎだらけの改善ではもう無理です。リセットして一から統治機構を作り直さないといけない。それは道州制と言う大号令をかけるしかない。しかし道州制など、口で言うだけでは何も進まない。

(行政機構・公務員制度・教育委員会制度の改革)
行政機構、公務員制度、教育委員会制度、ありとあらゆる統治機構を一から作り直さないといけない。日本全体でいきなりやるのは難しい。それだったらまずは大阪から作り直していく。府市統合本部ができて府市に横たわっていた長年の課題が解決・動き出した。市長と市民の距離の遠さは、区長改革で埋める

(キーワードは決定できる民主主義)
統治機構を作り直すのは、課題解決のため。課題を一つ一つ解決することによってしか地域や国は良くならない。魔法の政策等ないし超人の政治家などいない。解決するためのキーワードは、決定できる民主主義。日本の統治機構は決定できない民主主義に陥っている。

(平成の世に合わせた統治機構)
平成の世に合わせた統治機構、すなわち今の世において物事を決定できる仕組みを作らないといけない。決定する以上は責任も負う。決定できる民主主義、責任をとる民主主義を具現化する統治機構を作らなければならない。大阪都構想は、大阪における決定できる・責任をとる統治機構

(大阪都構想は道州制へのきっかけ作り)
もうね、国政がやっているようなチマチマしたつぎはぎだらけの制度改善では国は持ちません。グレートリセットです。一から作り直すしかない。そのためにも道州制を目標にして、何から何まで一から作り直しましょう。次の総選挙の争点は道州制しかありません。そのきっかけ作りが大阪都構想です。

(首相公選制の導入・税制の抜本改革)
皆さん、次の衆議院総選挙は国の一からの作り直し、道州制、そして首相を国民が直接選ぶ首相公選制を争点としましょう。消費税が争点なんてちっちゃいちっちゃい。5%上げたところで日本が持ち直すわけがない。やるなら税制を一から作り直す。

(現状維持では乗り切れない)
政治なんて言うのは、常に光と影が付きまとう。何かをやれば必ず光と影がある。大きなことをやればやるほど、光も影も大きくなる。しかし何もやらなければ現状維持。現状維持で乗り切れるほど現実は甘くない。だから光を求めてやり続けなければならない。影の部分は少しでも影がなくなるように努める。

(批判するなら具体的な代案を)
この繰り返しが政治だ。影が少しでも生じるから何もやらないなんて言うのは、文系・無責任大学教授にしか許されない。批判するなら、具体的な代替案を提案しなさい。そのために大学には税が投入され、大学教授を国民が養っているんだ。

要するに、「決定できる民主主義、責任をとる民主主義を具現化する統治機構」を作ると言うことで、そのためには憲法改正して首相公選制を導入するべきだ、ということだと思います。大阪都構想はそのミニモデルだというわけですが、当然複数政党制による議会政治が機能しなければなりませんし、そこにおける武器は言論ですから、公開の徹底的な論戦がなされなければなりません。

で、その首相公選制によって何を実現するかというと、今の「行政機構、公務員制度、教育委員会制度、ありとあらゆる統治機構」を一から作り直すというのです。つまり、これらの統治機構が明治以降の中央集権体制の下で腐りきっていて、日本の民主主義を何も決定できない無責任体制に陥っている。だからこれを首相公選制にして橋下氏のような強力リーダーを選び、決定できる民主主義、責任をとる民主主義を実現しよう、というのです。

ここで行政機構改革とは、道州制の導入によって基本自治体、道州、国の役割分担と権限関係を明確にし、それぞれの組織の責任体制を確立すること。公務員制度改革とは、終身雇用制や年功賃金制を基本にしている現在の公務員の任用制度を徹底した業績主義に切り替えると共に、職員の懲戒・分限条例をより厳しく適用しようとするもの。教育委員会制度改革とは、独立行政委員会としての教育委員会制度を、知事が教育基本条例を制定する事で実質的に知事の管理下に置こうとするものです。

いずれも国政レベルの制度改革を前提とするもので、それを大阪という地方で、そうした制度改革に向けたきっかけを作ろうとしているわけですが、大阪府と大阪市の二重行政の問題や職員団体との確執というローカルな問題の解消という点では十分理解できますが、それを上述したような国政レベルの制度改革に結びつけようとするには、いささか無理があるように思われます。

とりわけ、大阪府教育基本条例案は、その必要性、適法性、有効性、効率性、公平性、協同性という評価基準に照らして多くの問題点があることが指摘されています(『大阪維新の会「教育基本条例案」何が問題か』市川昭午)。

確かに、現在の日本の「行政機構、公務員制度、教育委員会制度」が問題を抱えていることは事実であり、民主党や自民党などのマニフェストにも関連する制度改革案が提示されています。従って、折角こうした問題点を地方からその解決策を提示しようとするなら、目先の問題だけでなく、福田恆存が指摘したような日本の歴史や伝統を踏まえた、法的にも十分説明できる制度設計をすべきです。

その点、大阪府教育基本条例案は、ローカルな職員団体との感情的な敵対意識が前面に出ているように思われます。そのため、「国内の法秩序」を無視したような拙速な教育基本条例案となっているわけで、これでは折角の改革意志も台なしになる可能性があります。(この件については、今後より具体的に論じていきたいと思っています。)

>実を言うと小林秀雄を読んだとき、<あれこれは「福田恒存のまねではなかいか>と思い、読みませんでした、その後読もうとしましたが妙に読めず、本居宣長補記のみ読めました。順序が逆で福田恒存が小林秀雄を師匠にした。
その福田恆存が小林英雄を尊敬していることをしり、馬鹿な読み方をしたがしかし私にとっては福田恆存が一番です。

tiku福田恆存は、小林秀雄が自分(福田)の書いたものを一度も批評してくれなかったと言って嘆いていたのをどこかで読んだ記憶があります。

>イマから思うと「私の国語教室」に一種の問題が提出してあり、ソレヲとくに10年ほどかかりました。そのとき手紙でもなんででも書いて、送ればよかったなとおもいました。

tiku「私の国語教室」は、戦後の漢字制限、ローマ字教育(表音文字化)の推進を批判すると共に、現代かなづかいの不合理を指摘し歴史的かなづかいをすすめるものでしたね。漢字制限が間違っていたことはその通りだったと思いますし、日本語をローマ字表記するなどというばかげたことは幸い起こりませんでした。だが、カタカナ表記する外来語は今はあふれかえっているし、歴史的かなづかいはほとんどなくなりました。私自身は、それを問題視するだけのものを持ちませんが、福田氏の言うのももっともなような気もするし、今後の問題とされることがあるかも知れませんね。