「全面撤退」問題に対する菅氏の対応の評価及び山本七平の「純粋人間」「空気」概念の理解の仕方を廻るKH氏との論争3

2012年8月15日 (水)

 次のKH様のコメントhttp://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3079.html#comment-91648040に対する私の意見です。長文のため本文掲載としました。

KH様へ
>>ベンダサン名の著作はユダヤ人ホーレンスキーと山本七平の合作で、ただし著述の視点は後者のものですが、理論構成上は山本七平がその中心的役割を果たしていたのではないかと私は見ています。従って、『日本教について』において、5.15事件の青年将校等を「純粋人間」と規定した時、その思想的文脈として想定されていたものは、当然『現人神の創作者たち』で開陳された思想的系譜があったものと思われます。

>これは非常に興味深い分析ですね。私もベンダサン名の著作は山本氏と完全にイコールではないような気がしていましたので。というのは「日本人とユダヤ人」及び「日本教について」に限ると、日本人の発想では及ばないような視点があるような気がしていました。ところが同じベンダサン名でも「日本教徒・・・」についていうと、これは明らかに後期の山本氏の著作(「現人神・・・」など)と非常に近く、前二作とは質的に違っているような気がしています。だとすると、「日本教について」の天秤の世界や純粋人間という概念は果たして山本氏の独創といえるのであろうかという疑念が生じます。

tiku 『日本人とユダヤ人』はローラー博士、ホーレンスキーと山本七平の対話をホーレンスキーの奥様が日本語訳し、山本七平が「編集者以上の仕事をして」それを一冊の本に仕上げた。その編集の基本的視点は「ユダヤ人から見た日本人」。ただし、山本自身にも「ユダヤ教」から見たキリスト教に対する懐疑あるいは批判があったのでそれが反映された。

 『日本教について』はホーレンスキーと山本七平の合作だが、ユダヤ人ホーレンスキーの視角で書かれた。その後の著作は、ホーレンスキーの意見を参考にしつつ次第に山本七平に著述の比重が移って行った。というのも、ローラーもホーレンスキーも日本語の古典は読めなかったから。といっても日本史特に昭和史に関する専門的知見は両者とも相当に持っていたものと考えられる。

 問題は、これらの書物の著作権の設定がどうなっていたかということで、山本は『日本人とユダヤ人』については自分にはないと繰り返し言明していたが、どうやら、ベンダサン名の著作は、原始キリスト教に関心を寄せていた山本の「分身」の著作と考えられる。なお、「てんびんの論理」や「純粋人間」等の概念が山本の独創によるものか、との疑念ですが、『日本教の社会学』では、山本は小室との対話で、それが自分のものであることを否定していません。

>私は貴殿のように山本氏の全貌を深く知る者ではありませんが、いままでに読んだ書物の中では「日本教について」がもっとも面白く、ユニークかつ洞察力があふれた傑作であると感じております。それに対して、貴殿が評価する「現人神の創作者」は、むしろ私にはやや平凡であり、既存の学者が書いたものとあまり変わらないような印象があります(学術的に高く評価されるのは分かりますが)。

tiku 既存の学者とは丸山真男の他に思い浮かびませんが、丸山は朱子学の正統論を革命のエトスに転換し、それへの忠誠を個人倫理にまで高めた、浅見絅斎の思想系譜の流れの重要性を十分認識できなかった。しかし、その思想的系譜がなければ、国学が後期水戸学に発展し、それが倒幕の論理に発展するという奇想天外なパラドックスが生じたことの説明ができない。

 山本は、『現人神の創作者たち』でこの事実を指摘したのです。丸山はこの部分を見過ごしたために、この思想的系譜の流れが生むことになったファナティシズムの正体を掴み損ねた。そしてそれを国学的思想的伝統に求めた。それが氏の戦後の天皇制批判につながったのです。

 山本は、丸山のその間違いを『現人神の創作者』によって指摘し、その思想が、その後の「現人神の育成者」や「完成者」たちによって完成され、昭和の「現人神思想」を生んだ、としたのです。従って、こうした思想的系譜を知れば、それを克服することは可能なこと。同時に、その「現人神思想」を担った主犯は「国学」の思想系統には認められないことを指摘したのです。ここに山本の、丸山とは異なる天皇制理解があるのです。

>>ただ、この「私心のない人間」と言う言葉を「自己を他人のために犠牲にする人々」という風に言い換えると、キリスト教の「愛」の観念と変わらないことになり、意味が拡散してしまいます。

>私は必ずしも拡散するとは思いません。日本教が宗教であるゆえんはまさにそこにあるといえるからです。明治の内村鑑三や新渡戸稲造はクラーク博士の感化により、クリスチャンになりましたが、クリスチャンの本場であるはずの米国へ行って逆に失望しています。彼らは日本の伝統の方がはるかにキリスト教の教えに近いと感じたようです。

tiku 「自己を他人のために犠牲にする人々」の精神がどういう思想あるいは宗教的信条によって支えられているのかを問題にしているのです。その意味で、武士道的個人規範に、本場のキリスト教の説く「自己犠牲的精神」より遥かに純粋な「自己犠牲の精神」を見た新渡戸稲造のような人も明治には居たわけで、吉田氏等の示した「自己犠牲の精神」も、本人たちは無意識であっても、そうした伝統から生まれたものかもしれません。

>・・・それ以外にも「純粋人間」はいくらでも出現可能であり、天皇と同様に現人神のような「侵すべからぬ神聖な存在」になりうるのです。その一人がたとえば吉田所長です。吉田所長は命をかけて日本の破滅を救った英雄として評価されていますから、彼はまさしく「侵すべからぬ存在」になっているのです。これは実は怖いことです。彼がもし嘘を言っていたとしても、誰もその嘘を見抜けなくなるからです(もちろん、私は彼が嘘を言っていると思っているのではありません)。

tiku このあたりの純粋人間と天皇制の関わりは前便で説明しましたので参考にして下さい。英雄視された人間の嘘は見抜きにくくなる、と言う一般的傾向はあるでしょう。でも、吉田氏の言葉に嘘があるとすれば、それはどの部分でしょうか。”実は逃げようと思っていたが菅氏の叱責を受けて逃げるのを諦めた”ということになるのでしょうか。このあたりは文章読解力の問題で、私は吉田氏の発言からそういった嘘の臭いをかぎ取ることはできませんでした。

>橋下氏の人気の秘密について言いますと、彼は大阪府知事になって以来、寝食を忘れてその仕事に没頭している姿が多くの人の共感を誘っています。たとえば彼のブレーンの一人である大前研一氏によると、夜中の3時ぐらいにもどんどん質問のメールが届いて驚かされたと書いています。

tiku 最近は随分大人になって冷静な議論ができるようになっているようですね。

>それとあと貴殿がいうように、日本教においては「純粋人間」の資格は、より上位にある「純粋人間」である天皇に対して忠誠心をもつということも不可欠なのかもしれませんね。その意味では学生運動家や美濃部亮吉らは疑似「純粋人間」ではありえても、日本教徒が本当に認める真の「純粋人間」ではないと考えられます。そのあたりは、むしろベンダサンの見解は自家撞着に陥っているのではないかとみることもできます。

tiku この「純粋」と言う概念は繰り返しになりますが、理想と目されるある先進思想への忠誠と献身の度合いを意味する言葉なのです。問題は、その先進思想の中身がどういうものか、と言うことですが、その厳密な検討がなされているわけではなく、ただその思想が漠然と尊皇思想の唱える一君万民平等の家族主義的国家観らしきものであることが疑われるのです。だから、それが一君であるスターリンや毛沢東の神格化となって現れたのです。

 なお、天皇が日本人の純粋信仰を体現するというのは、象徴天皇制の思想的根拠を明らかにするものと言えますが、しかし、その純粋性=無私の精神を支える具体的な思想が明治されているわけではありません。ただ、国家統合の象徴とされているだけです。その曖昧さが問題となるわけですが、このあたり、日本人の文化的伝統の再把握の問題で、もし、現段階が「創世記」の段階にあるとすれば、この仕事の完成には数世紀を要することになりますね。

>補足ですが、菅氏についていうと、彼が総理時代に果たした業績やその「私心のなさ」(貴殿は否定されるでしょうが)をみれば、彼もまた十分に「純粋人間」の資格があると考えられますが、ところがなぜ多くの日本人は彼を評価しないのかというと、彼が進歩派的人間であり、天皇を中心とする日本教に忠実であるとは到底思われないという点にあるのではないかと、私は感じます。貴殿がそれほどまでに菅氏を否定する理由もそれ以外に私には考えられません。

tiku 5.15事件で純粋人間と目され世論の圧倒的支持を受けた青年将校等は、尊皇思想の絶対的信奉者で、その思想に基づいて現体制を憂い、自らをその被害者と規定し、体制派と目される犬養首相宅に軍服を着たまま多数で土足のまま乗り込み、話を聞こうとする老首相を問答無用で射殺しました。

 そうしたファナティックな思想的行動は、ベンダサンによると、「第一なぜこの老首相が殺されたかのか、その理由が分からない。さらにこの殺害は暗殺とはいえず、さりとて決闘とはもちろんいえず、強いていえば謀殺であり、また小反乱もしくは小型クーデターの一面もあります(そう考えるには全く無計画)が、なんとも理解に苦しむ事件です。しかしいずれにしても、人類史上、最も卑劣な事件の一つであるとはいえます」ということになります。

 しかし、これを卑劣と非難する声は当時ほとんど聞かれず、逆に、彼らの行動が「純粋」であるとして、全国からその減刑嘆願書が裁判長の許に届けられたのです。さらに驚くべきことには、この事件の主犯が、戦後堂々と参議院議員に立候補した。

 ベンダサンは、暗殺犯人が上院議員に立候補した例を知らないといい、これも人類史上特筆大書すべき「無知の典型」かも知れないといっています。といいながら、それは西欧的論理に基づく判断であって、日本的条理によれば、日本人は、法の適用の前にその人物の「純粋度」の審査があり、これによって判決の多寡が左右されるといっています。

 ベンダサンは、このような、「人物の純度」を物差しとした人物判定の不可解さを、「てんびんの論理」という日本教の論理構造を示すことで説明したわけですが、この論理構造の思想史的系譜を明らかにしたのが『ベンダサンの日本の歴史』(後に『山本七平の日本の歴史』に改題)と『現人神の創作者たち』でした。この段階で、『日本教について』で指摘された日本的思考の欠陥は、それを対象化することによって克服可能であることが明らかにされたのです。

 つまり、日本教における「純粋度」の評価は、実は江戸時代の朱子学の正統論への忠誠の度合いと言う意味での「純度」評価であったと言う事。それは朱子学の正統論が絶対的権威と見なされた時代の日本の知識人の心的態度だった(マルクス主義に対する戦後知識人の態度と同じ)。さらに、そうした朱子学の正統論が国学と結びついて天皇の正統論へと転化し天皇の「現人神」化が用意され、さらにそれが、天皇を中心とする「一君万民平等の家族主義的国家観」に発展したことによって、明治維新期の尊皇思想が完成したのです。

 だが、こうした尊皇思想に基づく国家観は、実はそれほど根の深いものではなく、むしろ山本七平のいう「後期天皇制」に基づく「象徴天皇制」、その権威下により機能的な政治権力の執行体制を組むという、いわば二権分立的な日本の政治体制の方がより伝統的ということができるのです。そうした政治体制下で育まれた武士のエートス、主君に対する忠誠から自らの職務に対する忠誠、それが日本人の天命に対する忠誠となって、日本人の個人主義的規範意識となって、今日の日本人にも受け継がれている。

 そういう意味では、日本人の純粋信仰は、その信仰対象が何であるかを検証することで、容易にその真否を検証することができます。私が菅首相に対して批判的なのは、氏の本当の思想が何であるか一向に分からないこと。いつも勝者の位置に立とうとすること。独りよがりで他に対する思いやりがないこと。何より、その言葉が冷酷であるためです。もちろん、氏の本当の思想を知り、その思想への”純度”でもって氏を評価する人もいるわけですが、私は、”純粋”ではなく言葉でもって人を評価したいと思います。

>私自身も日本人であるかぎり日本教徒であることを免れないのかもしれませんが、しかし日本教の危うさをわれわれはその真実を知りえた人間として訴えていかなければならないのではないでしょうか?その危うさというのは人間を神とすることであり、そして論理ではなく日本教の条理でしか考えられないという異常性です。何が正しいかという判断を迫られる時に、論理的に考えずに無意識のうちに日本教の教義によって考えてしまう。その結果、重大な判断ミスを犯してしまうという危険が常にあるのだと思います。

tiku この点は全く同意見です。ただし、日本人の「現人神」観念は、日本神話に基づく皇統の連続性を表現しただけで、唯一絶対神を意味するものではありません。しかし、天皇を神格化しその威光によって自らの権力を絶対化しようとした人々がいたことも事実です。また、戦後も地上の絶対者に自らの心を託した多くの人々もいました。百人斬り競争や慰安婦問題で虚報や誤報を垂れ流し、それを未だに訂正しない大新聞もいれば、それを放置し続ける政治家もいる。

 山本七平が繰り返し述べたように、”言葉によって未来を構築する”論理的な力を、日本人は身につける必要がある、ということですね。