原爆と原発を一緒くたにしない――「自然の力」は科学で解明する。人間がそれをどう使うかが問題

2011年8月11日 (木)

8月9日の「長崎原爆の日」平和記念式典における田上長崎市長の長崎平和宣言を聞いてびっくりしました。ここで田上長崎市長は、宣言の冒頭、東日本大震災に伴って発生した東京電力福島第一原子力発電所事故に言及し、次のように述べました。

 「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。
自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか・・・、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。」

あれ、この日は「長崎原爆の日」の平和記念式典であって、世界に向けて核兵器廃絶を訴えるべきであるのに、なぜ、原爆と原子力発電事故を一緒くたにするのだろう。それでは、原爆保有と原子力発電を同列に論じることになり、原爆の非人間性・非人道性を訴える効果が減殺されてしまうではないか・・・と思ったのです。 

 このことについては、長崎では、この平和宣言文をめぐって、市長と起草委員会との間で、次のようなやりとりが交わされたと報道されています。

 「田上富久市長は9日、平和宣言で『原子力に代わる再生可能なエネルギー開発の必要性』を訴えるが、宣言文に『脱原発』の文言を盛り込むべきだとする起草委員との間で激しい綱引きがあった。田上市長は会見で『個人的な思いは、行き着く先は原発のない社会』とまで述べながら、脱原発の文言を避けた。」

 その結果、冒頭のような宣言文になったわけですが、「脱原発という文言」こそありませんが、この宣言文では、日本の今後のエネルギー政策と、原爆の廃絶という被爆国としての課題とが混同されてしまっている。そのため、原爆廃絶を訴えるべき「平和宣言」の意味が曖昧になってしまった。まるで原爆は人間の意思の問題ではなく、原子力という「自然力」に還元されてしまったかのようです。

 このことについて、「被爆地・長崎の市長を4期務めた本島さんは『我々は核兵器を止めることができても、科学の進歩を止めることはできない。原発はいらないと言うのは簡単だが、市長が学問の自由を奪うことにもなりかねない。そう簡単に脱原発とは発言できない』と田上市長を擁護」したそうです。

 当然ですね。だって、原爆は人間の意思で廃絶すべきことだが、原子力エネルギーの平和利用の問題は、あくまで科学技術の可能性の問題だからです。現在のところ、その平和利用は、原子力発電が主流となっているわけですが、福島の事故で、その可能性が科学的に完全に否定されたわけではない。

 また、核燃料サイクルが破綻している、との議論についても、はたして、それは科学的に証明されたことなのか。立花隆氏は『宇宙の核融合・地上の核融合』と言う本で、「宇宙、銀河、太陽、地球そして生命、ヒトも。この世界はすべて核融合から生まれた。そして今、核融合は人類のサバイバル技術に!!核融合に日本の国運がかかっている」と述べています。

 もちろん、こうした核技術の研究開発と、再生可能エネルギーの開発とは矛盾するものではなく、同時並行的に研究開発を進めて行くべきものです。太陽光発電にしても風力発電にしても、地熱発電にしても、かなりの可能性があるとのことですし、私などは、関門海峡や鳴門海峡の潮力は使えないか、などと思ったりします。

 ただし、核技術の研究開発は、日本が原子力発電を完全に放棄してしまえば不可能になるわけで、従って、それを避けるためには、今回の福島の事故から目をそらすべきではない。今回の事故の原因としては、自然的な側面と人為的な側面があるので、これら双方から得られる教訓を、今後の原発の安全性向上のために生かすべきである。

 それと同時に、こうした教訓から得られる新たな技術やノウハウを、世界の原発の安全性向上のために役立てなければならない。それが、今回このような事故を起こした日本の義務ではないかと思います。今後、小規模の原子力発電にすべきとか、可搬性の小型原子炉の有用性など、いろいろな可能性が探究されることになると思いますが、ぜひとも、信頼に値する新たな原子力の平和利用技術の開発に努めていただきたいと思います。

 こんなことは、特別の専門的知識がなくても判ることだと思うのですが、菅首相にはこんな常識的なことにも考えが及ばないようです。このことについて、広島県の湯崎英彦知事は、9日の定例記者会見で、菅首相が6日の平和記念式典のあいさつで「原発に依存しない社会」を目指す考えを改めて表明したことについて、次のように批判しています。

 「式典は被爆者や核兵器廃絶について考える場。注目を集める場での発言は、支持率上昇につなげるためと疑われても仕方がなく、適切ではない。」さらに「平和祈念よりも脱原発が注目されるのは、いかがなものか」とし、「発言が政治的利用と言われても仕方ない。」

 どうやら、非常識なのは菅首相など一部の人々のようで安心しましたが、それにしても、菅首相の定見のなさ、変わり身の早さにはあきれますね。今回の退陣三条件にしても、特に再生可能エネルギーの買い取り法案など、今直ぐに決着を迫られている問題ではなく、当面は、放射能漏れ対策や被災地救済・復旧に全力を挙げるべきです。

 また、原発によるエネルギー50%調達やCO225%削減は、民主党の主要政策だったわけで、それが福島の原発事故で破綻したのなら、まず、その誤りを認め謝罪すべきです。その上で、その誤りよって引き起こされた被害の救済に全力を挙げるべきで、今後のエネルギー政策のあり方は次期政権に委ねる。それが政治家としての正しい責任の取り方ではないでしょうか。

 私は、日本の戦前の昭和史を勉強していて、日本人が克服すべき課題として、次の二点が最も重要だと考えています。まず第一に「空気支配」に陥らないこと(合理的思考法を身につけること)。第二に、言論による議会政治を完成させること。そのためには、政治家は自分の言葉=政策について国民に対して責任を持つこと。そして政権を取ったら、その結果について責任を負うこと。

 簡単なようですが、鳩山前首相や菅首相などは、あれだけ長く野党をやっていて、自民党の失敗から多くを学んだはずなのに、これら日本政治の克服すべき課題が何も判っていないようです。おそらく、その言葉が「空体語」だったために、日本の思想の問題点にまるで気づかなかったのでしょう。その結果、”名を残す”をいう私欲だけが露呈してしまった。

 また、小沢氏については、今も首相候補としてノミネートされていますが、これは、先のお二人の「空体語」政治の反動と見るべきであって、氏の「実体語」政治の「辣腕」に甘い期待が寄せられているのです。しかし、氏はあのお二人が消えれば同時に消える。なにしろ、民主党が政権奪取した際の「大嘘」(「実体語」のみの男が「空体語」を使うとこうなる)の最大責任は小沢氏にあるのですから。

 で、まもなく菅首相が辞任するそうで、民主党政治も終わりに近づいているようですから、最後に、民主党政治から学ぶべき点をいくつか指摘しておきたいと思います。

 まず、一、マニフェストによって政策の責任を明確にするのはよし。二、政治主導は自民党時代の官僚内閣制から内閣官僚制へと転換することであり、首相独裁ではない。まず、小泉内閣における経済財政諮問会議に学ぶべき。三、首相は4年の任期を全うできる人物を選びたい。そのためには首相公選制の導入を検討すべき、等々です。

 最後の提案について、これを現行法で可能にするためには、内閣総辞職後または解散総選挙後多数を得た政党が、候補者を複数ノミネートし、その候補者について、公開政策討論を国民の前で行い、その後、首相候補者を国民が選挙する。そして、その首相候補者を議会で選出し天皇がこれを任命する。

 8月10日の読売新聞ではこのようなやり方が提案されていますが、なんとかして、私たちも、信頼に値する首相を選べるようになりたいものですね。そのためには、私は、その選挙を行う前に、数ヶ月間の候補者どうしのガチンコの政策討論を義務づけるべきべきだと思います。しかし、それを可能とするためには、首相を任期制にする必要があり、となると憲法を改正する必要が出てきますが・・・。